掌編――春 その3
風が吹いた。満月の光を浴びた黄金の海がざわめきながらお辞儀をして通る。フェンスの上からその様子を眺めていたブレザー姿の少女は振り返った。
「今日もいい天気だね、花梨」
花梨、と呼ばれたセーラー服姿の少女は、フェンス越しに崖の下を見下ろした。
「そんな場所に座っていたら危ないよ、サトコ」
「はぁいはい」
ぽん、とフェンスを軽く蹴って、サトコはとんぼ返りで花梨の後ろに着地した。
「今日もセーラー服?」
「今日もブレザー?」
花梨の鸚鵡返しの答えにサトコは笑い出した。
「相変わらずよね、花梨。ねえ、こんな素敵な月夜なのに、誰も来ないなんてもったいないよね」
「いつものことじゃない。こんな時間に街の外れまで来る人なんてほかにいないよ」
見上げれば、満月はちょうど真南の高い場所から冴え冴えとした光を送ってくる。
「あなたは来るじゃない?」
「あなたもね、サトコ」
「あたしは、花梨が来るのを待ってるんだもの」
「あたしは、船を待ってるのよ……そう、ずっとずっと昔から」
花梨は金網に手をかけ、力いっぱい握り締めた。
「いつか話してくれた、夢の話よね。いつか金の海を越えて、月の使者が月の子を迎えに来るという……」
「ええ、夢の話」
崖の下に広がる暗闇の中、風に合わせて踊る金の波はまるで、夜の海に映えた月の光のように見えた。
「船なんて来ないよ」
サトコは月の光を頼りに腕時計を覗き込んだ。アナログの針は午前2時を示している。
「船なんて来ない」
振り返った花梨の目は釣りあがっていた。
「あたしの話、信じてくれてなかったんだ」
風が吹く。
「だから毎月、満月にはここに来ていたのね」
「そう、そう言ったでしょ」
「でもね、船は来ないの」
サトコはきっぱりと言い切った。花梨は、フェンスから手を離し、サトコに向き直った。
「なぜそんな意地悪を言うの?」
「だって、あなたは死んだんだもの。そう、今日のあたしみたいにフェンスの上で船を待っていて……風が吹いてあなたは落ちた」
「え……」
「その亡骸は十年以上経った今もそこにある。崖の下に……。あたしは、毎月満月の日にやってくるという幽霊の話を聞いてやってきたの。嘘だと思うなら、自分の足元を御覧なさい」
花梨はその視線を足元に落とした。自分の影があるはずの場所は、冷たく青い月の光に照らされて桜の花びらが舞っていた。
「そう……そうだったの」
「だから、あたしが船を出してあげる。風に乗り、金の波を渡れる船を。あなたのために」
揺らいでいく花梨の顔は、泣いているようにも微笑んでいるようにも見えた。
サトコはブレザーのポケットから何かを取り出した。月の光を受けて虹色に輝く透明のそれは、風を受けてフェンスの向こうへ流されていった。