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最後じゃない、夏
作:鈴村弥生





最後じゃない、夏



 こんなに賑やかで、人がいっぱいいるのに、祭というものをいつも少し寂しく感じるのはなぜだろう。
「そりゃ、横にいるのがあんただからだよ」
 めずらしく綾香がしみじみ感傷的になっていたというのに、隣の友人ひかるはにべもなくそう返してきた。
「あのねぇ……」
 綾香はがっくりして、わたあめを持った手を下ろした。
「せっかく人が情緒に浸ってたのに」
「ふふん。似合わないことするからだよーだ。情緒よりほら、焼きそば食べよう焼きそば!」
 ひかるは徹底的に、色気より食い気らしい。菅原綾香は溜息をついて、紺地にひまわり柄の浴衣を着たふわふわ頭のひかるが、一生懸命に焼きそばを値切っている様子を遠くから見守っていた。綾香は、白地に朝顔の模様の浴衣だ。袖を通すのは初めてで、少しわくわくした。髪の毛もいつもはそのままだが、今日は母に頼んで結い上げてもらった。
 中学二年の夏休みだけが事実上の夏休み! とひかるに言われ、綾香も何となく焦ってしまったのだ。夏休み前半はとにかく何としても遊び倒す、を目標に、二人は終業式の日の午後から飛び回っていた。と言っても、小さな街の上に軍資金も乏しい中学生なので、遊ぶと言ってもどちらかの家に行ったり、隣町に買い物に行ったりするくらいだ。
 そういうわけで、今夜の夏祭りは二人にとって夏休み最大のイベントだった。両親に頼み込んで、バーゲンの既製品とはいえ新しい浴衣も買ってもらったのだ。
(はぁ。ひかるいつまで値切ってるんだろう。遅いなぁ)
 今日のおこづかいは五千円。今日までにけっこう使い込んでしまったのだが、地元の祭ならこれだけあれば十分すぎるくらい遊べる。親にはかつあげや食べ過ぎの心配をされたが、そもそも食べるためだけに使うつもりはないし、盗まれたりとられたりする前に使い切ってやろうと綾香は思っている。
 適度に自衛のために警戒して、綾香は周囲に気を配っていた。
「あれ〜? 綾香じゃん」
 ものすごくなれなれしく自分の名前を呼ぶ声を、綾香はとてもよく知っていた。だが何となく積極的には振り返りたくなくて、彼女はそのままでいた。
「おい、綾香ってば。返事くらいしろよ」
「甲児、あんまりなれなれしく呼ぶのはどうかと思うよ」
 柔らかく、たしなめる別の声。それを聞き留めて綾香は振り返った。
「やっぱ聞こえてんじゃんか。俺を無視しようなんて五百年早いぜ〜」
「うきゃー!」
 背後から頭をげんこつでぐりぐりとやられ、綾香はじたばたもがいた。
 師綿甲児しめん こうじは、綾香と同じ図書委員をしている先輩なのだが、委員になってからというもの何かと綾香にちょっかいをかけてくるのだ。短く刈ったせいでつんとたってしまっている癖っ毛が、つり上がった目と相まって彼をやんちゃに見せている。そして、中身もその外見を裏切らない。
「先輩やめてくださいってあきゃー!!」
「さっき俺のことしかとしやがった罰〜。やめてほしけりゃ俺にホッドドッグおごれ」
「脅迫っ!? しかもスケール小さっ!!」
「何ぃ? 俺のプロレス技くらいたいってか?」
「いやいらないです! 貴重な夏休みは五体満足で暮らしたいと希望!」
 と、綾香が必死で甲児の手から逃れようとしていると。
「やめなって、甲児。菅原さん、大丈夫だから」
 甲児から綾香を庇ってくれたのは、先ほど綾香を振り向かせた優しい少年の声だった。
 水視彩斗みずみ あやと。甲児のクラスメートで文化委員長。少女のように綺麗な顔立ちで、しかも誰にでも親切なので、学校ではやたら人気がある。綾香も甲児つながりで親しくしてもらっているが、そうでなければ近づくことすらできなかっただろう。
(甲児先輩と友達なんて、信じられないくらい上品な人よね!)
 彩斗の背中に隠れながら、綾香はふんと盛大に鼻を鳴らした。甲児は唇を尖らせているが、それ以上のちょっかいはあきらめたようだ。
「彩斗先輩、ありがとうございます」
「気にしないで」
 彩斗は、にっこりと微笑み。
「あとでラムネ奢ってくれればいいから」
 綾香は、前言を速攻で撤回した。
 やはり、この人は甲児先輩の友達だ。
(あ、そう言えば……)
 二人の先輩に気取られぬよう、綾香はそっと周囲を探した。
 甲児、彩斗は幼馴染みで、ずっと昔から仲がいいそうだ。しかし、もう一人彼らには幼馴染みがいるのだ。さっき綾香が振り向いたのも、彩斗の声からその人も一緒である可能性を思い浮かべたからだった。
 そして。
「ここにいたのか」
 ――雑踏とざわめきを貫いて響くような、芯の通った声。
 綾香の頬は、一瞬で熱くなった。
「あ、泰仁」
「お前何はぐれてんだよ」
 赤くなった顔を見られるのは恥ずかしいから、視線は向けない。けれど、綾香にはわかる。背後から近づいてくる、その人の存在。
(鶴来先輩……)
「言っておくが、はぐれたのはお前達だぞ」
 彼が甲児達の長年の友人であり綾香には先輩である、鶴来泰仁つるく やすひと。さらに言うならば、綾香の憧れの人でもあった。
 剣道部員らしく短く切った髪、切れ長の目は、中学三年生という年齢より彼を大人っぽく見せている。実際に言動も同い年の男子に比べると(具体例:甲児)落ち着いていて、一年生の時から綾香はこっそり彼を見つめ続けていたのだった。
 まあ、今時はこういうのは「忍ぶ恋」でも「初々しい」でもなく、「ストーカー」の一言で片づけられるので少し綾香は後ろめたい。
「あーやかー!」
 いろいろな気持ちがごちゃ混ぜになったどきどきに胸が潰されそうで、だからひかるが元気よく両手いっぱいの焼きそばとたこ焼きを抱えて走ってきたのを見つけたときは、ほっとした。
「遅いと思ったら、たこ焼きまで買ってたの?」
「なにさー。綾香が食べたいかと思って値切り倒して買ってきたのに」
 ぶうとふくれてから、ひかるは悲鳴を上げた。
「ぎゃー! 何でお兄ちゃんここにいるのーーーー!?」
 気づくのが遅い。綾香は大騒ぎするひかるから、焼きそばとたこ焼きを確保した。そのうち、暴れ出して二つとも放り出しそうな気がしたのだ。
 ちなみに、ひかるの兄とは泰仁である。
「俺もこいつらと祭りに行くと、前から言ってただろう?」
「だからってはちあわなくてもさー。あっ、甲児先輩と彩斗先輩こんばんは」
「おう」
「こんばんは、ひかるちゃん」
 ひかるが、甲児と彩斗に挨拶しているのを綾香はぼうっと見ていた。
(どうでもいいけど、焼きそばとたこ焼き重いんだけど)
 甲児達と話してはしゃいでいるひかるは、どう見てもすでにこれら食物のことを忘れてしまっているようだった。
(ま、焼きそばは私のだから、いいっちゃいいんだけど)
 こっそり溜息をついて、視線を泳がせた綾香だったが。
 その手から、ひょいと重さが消えた。
「え?」
 目を戻して、さらに綾香は驚いて戸惑った。
「あっ、せ、先輩……」
「ひかるが買ったものだ。俺が持つ」
 泰仁が、皿を二つとも手に持っていた。
「いえあの、焼きそばは私のだし……大丈夫です」
「そうか?」
 だが、泰仁はどちらも綾香に返そうとはせず、まだ話し込んでいたひかるを呼んだ。
「なにー? お兄ちゃん」
「何じゃない。自分の分は自分で持っていろ」
「あ、忘れてた。ごめんごめん」
 泰仁とひかるは、顔は似ていない。この年齢の兄妹にしてはそれなりに仲はいいので、恋人同士かと疑われることもしばしばらしい。綾香は、いつもそれをこっそり羨んでいた。
 自分も、あんな風に屈託なく彼と話せたら。
(何で、泰仁先輩と話したら、こんなに緊張するんだろうなぁ)
 いつも、次こそはがんばろうと思うのに。いざ彼を前にすると顔は熱くなるし声はからからに干上がって出てこなくなる。
 そんな弱い自分がいやなのに。
 せめてもう少し、自分が可愛い顔立ちをしていたら。たとえばひかるのように、明るい性格だったら。そんな風にうじうじと考えてしまう癖がなくならない。
「なあ、こんなとこ突っ立ってないで早く回ろうぜ。遅くなるぞ」
 マイペースな甲児が、大声で全員を促した。
「まだ小遣い半分も使ってねぇ」
「別に使い切る必要はないと思うけど」
「だってよぉ、最後の夏休みだぜ? 豪遊した思い出くらいつくっとかねぇと」
「……!」
 お祭りの出店で豪遊っていうのももの悲しいよ、と甲児は彩斗に突っ込まれていたが、綾香はうつむいて奥歯を噛みしめた。
 最後。来年の夏には、もう彼らは遠くに行ってしまうのだ。
 甲児は隣町の高校、彩斗と泰仁の受験する高校は電車で三つ先の駅まで行かなければならない。
(離ればなれ……)
 綾香は、顔を上げて全員の顔を見回した。
『ねえ、一緒に帰ろうよ!』
 一番最初は、ひかるだった。中学一年生で同じクラスになって、ある日彼女がそう声をかけてきた。親しくなっていって、兄の泰仁にも紹介された。そのあとは甲児、彩斗とも知り合って、仲良くなっていった。
 ふと振り返ってみて、気づけばこの五人で一緒に遊んだりすることが本当に多かった。一緒にいるのが当たり前だった。
 でもそれは、こんなに些細なことで消えてしまうような儚いつながりだったのだ。
(そうだよね。大人になったら、もっともっとみんな遠くに行っちゃうんだ。ひかるだって)
 泰仁を意識してしまう最近の自分も、消えてしまう。
「……っ!」
 息を吸い込んだ鼻の奥が、痛いと感じた。その痛みが、涙腺までも刺激した。唇を引き結んで、綾香はそれを何とか呑み込もうとする。
(泰仁先輩とも、会えなくなる)
 そう考えてしまった途端、視界が濡れたように歪んだ。
「綾香?」
「おい、どうした?」
 ぱたぱたと、涙が落ちた。あわてて持ち上げた腕の、浴衣の生地が濡れる。
「ちょっと綾香、大丈夫!?」
 駆け寄ってきたひかるに、何でもないと答えたくても声が出てくれない。首を横に振るので精一杯だ。
「お前がラムネおごれとか言うからだろ」
「その前に甲児だって菅原さんいじめてたじゃないか」
 甲児と彩斗が責任転嫁を始めている。それにますます心を焦らされ、なんとか泣きやもうとするのに涙は言うことを聞いてくれない。
「……っ、ごめ……。……ったし……」
 どうしていいか、わからなくなった。綾香は混乱したまま走り出した。
「綾香!」
 ひかるが自分を呼んだのは聞こえていたが、綾香は雑踏をかきわけて走り続けた。慣れない草履と浴衣のせいで動きにくい。加えて人が多くて、綾香はふと方向を見失った。
「どこだろう、ここ……」
 足を止めて気づけば、出店の列は綾香の目の前で終わっている。その先は、真っ暗だ。
 戻ろうと振り返っても、ざわざわとした人混みはあまりに陽気で、頬を濡らしている自分が今すぐに戻ることは躊躇われた。
 気分を落ち着けよう。綾香は持っていた巾着からハンカチを取り出して、目元や頬をぬぐった。
「恥ずかしいなぁ」
 急に泣きたくなるなんて。でも本当に、切なかったのだ。
 この夏は最後。もう二度と来ない。それを知ってしまった瞬間、後悔のような気持ちに襲われたのだ。
 取り返しがつかない失敗をしてしまったような気持ちだった。とてもとてもかけがえのない大切な、楽しい時間を無駄に浪費してしまった。あのときなぜか、そう感じた。
「菅原」
 ざっ――と。
 何もかもを貫いたような、凛とした声が彼女を呼んだ。
「……泰仁先輩……?」
 まず、幻だと思った。彼が自分を追いかけてくるはずがない。
 なのに、彼は近づいてきて、綾香は目の前にきた彼を見上げる形になる。
「大丈夫か? みんな心配していた」
「はい。……ごめんなさい」
 謝ってから、ちらりと脳裏をよぎる言葉。
 ――先輩は、心配してくれましたか?
「戻るか? 落ち合う場所は決めてきた」
「……」
 答えられずにいると、泰仁は一呼吸分を置いてから再び口を開いた。
「もう少しここにいるか?」
 綾香は、やはり黙ったままでうなずいた。
 祭りの続く背後は明るい。だが綾香と泰仁はどちらからともなく、その明るさから遠ざかるように歩いた。綾香は泰仁の背中について。泰仁がどこを見ているのか、何を考えているのかはわからない。
 それでも、綾香にとってこの瞬間は幸せで嬉しいものだった。
「寒くないか?」
 しばらくあるいてから、唐突に彼は振り向いて尋ねてきた。綾香は首を横に振ったが、泰仁は自分の上着を脱いで、差し出した。
「あの、私平気です」
「いいから、着てろ。たぶん思ってるより身体は冷えてるぞ」
 あまり頑なに断るのも悪い気がして、綾香は躊躇いつつ上着に手を伸ばした。
 受け取る瞬間、微かに指に触れた。どきりとしたが、何とか上着は落とさずにすむ。
(先輩)
 また、泣きたくなった。こんなにこの人の近くにいられたことはない。今まで一緒に過ごしてきた時間は多いはずなのに、二人きりになったことは一度もなかった。
(泰仁先輩)
 この人が好きだ。
 綾香は、心の中で叫んでいた。初めて、彼への想いに確かな名前を付けた。
 ずっと、彼のことが好きだったのだ。
 上着を抱き締めて、綾香は立ちつくした。先に歩き出していた泰仁は、数歩先で彼女がついてこないことに気づいて、半身で振り返った。
 暗闇だったのに。
 彼と視線が合ったと、綾香にはわかった。
「――先輩」
 背が高くて、凛々しい先輩。無口だけれど優しくて、部活に打ち込む姿はとてもかっこよくて。
 いつが始まりだったのか、今となってはもうわからない。
 確かなのは、この気持ちが綾香の中に存在していることだけだ。
(先輩が好き)
 終わらせたくない、急に強くそう思った。
 大好きな今が、ふつりと途切れてしまうのはいやだ。
 やっと気づいた気持ちが、明日へ続かないのは……いやだ。
「もしよかったら、来年も」
 声が震えそうになった。つばを飲み込んで、綾香は腹に力を込めた。
 勇気を出して、言わなければ。
 綾香は、息を吸い込んで、言葉と一緒に外へ出した。
「来年も一緒にお祭り回ってくれますか?」
「……」
 泰仁の顔は、見えない。けれど、綾香は闇をありがたいと思った。
 自分の顔がみっともないくらい赤いのも、彼からは見えないはずだ。
 こんなことを言うだけで、どうしようもなく心臓は騒いでいるし、立っているのもやっとだ。まだ告白なんてできない。そこまでの度胸も勇気も、今はまだない。
 でも、だから。
(今年で最後になんて、したくない)
 今は無理でも、いつかはちゃんと告白したい。
 そのために、努力しよう。今の自分より、もっとずっと綺麗に明るくなろう。勇気のある人になって、きっと伝えるのだ。
 ――あなたが好きです、と。
 泰仁が、地面を踏む音がした。
 綾香は背筋を伸ばして、腕の中の上着をますます強く抱き締めた。
「俺は」
 頭の上から、彼の答えが降ってきた。
「俺は来年も、その次もずっと、帰ってくるぞ」
 彼の言葉は優しくて、はっきりと響く。
「だから、たぶん来年も今年と同じように、あいつらと――菅原とも会える」
 胸がいっぱいになった。けれど、涙は出ない。変わりに溢れてきたのは、笑顔だった。
「はい」
 屈託も、こだわりもなく。
 綾香は彼に微笑みかけていた。
 最後ではないのだ。まだ。
 そのことが嬉しくて、幸せだった。














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