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それは異質な光景だった。
自らの手首にメスを食いこませる、自傷行為。しかし、それが自傷以上の意味を持っていることを知るのはエハースただ一人だけだった。
手首から零れる血が、ポタポタとメスの刃に伝い落ちる。刃の上で消滅する血液の行方は、深紅に染まるメスの刃が物語っていた。血が滴る度に、目には見えない臭気が異常な速度で空間を蹂躙していき、まるでそれは、メス自体が意志を持ち、呼吸をしているようでもあった。その異常に追従するように、エハースの目から生気が失せる。光を失ったエハースの瞳は、焦点を失い虚空を泳ぐ。
溢れ零れる血液。充満する臭気。絶え間なく加速する異質は、やがてエハースの瞳にくすんだ光を満たし、狂気へとその姿を変えていく――。
桜は、その異変を黙って見ていることしかできなかった。徐々に空気を侵食して肥大する不吉な予感は、確信めいた不安を桜の胸に残す。胸騒ぎが的中する予感。その時、桜がクルスの方へ目を移したのは、迫る危険に対する防衛本能のようなものだった。しかし、そのせいで桜は気付くこととなる。もう一つの小さな異変がすでに加速しようとしていたことに。
「――!」
地面に突き立った刀にもたれかかるクルスの姿を一目見て感じた違和感。その違和感が狂気へと姿を変えようとする様を前に、桜は息を呑むことしかできなかった。
刀の柄に額を乗せ、俯きがちにピクリとも動かないクルスの表情を見て取ることはできなかった。ただ、クルスの腕から伝い落ちる鮮血は、刀身まで滴り、徐々に深紅へと染まっていく。
その様は、まるで餌を食らう捕食者の如く、支配的なものだった。それが、マテリアの意思だというのなら、喰われているのはクルスの意思に他ならない。考えたくもないその答えを否定するために、桜は唇を噛みクルスを見守った。
やがて、刀は深紅にその姿を変え、狂気に酔った臭気がおびただしく空間を支配した。
……静寂が辺りを包みこむ。
すり減った神経の疲労が、汗となって桜の皮膚を伝い落ちる。張りつめた空気の中で、息をすることさえ咎められそうな緊張の中で、止まっていた時間を動かしたのは――。
――悪夢の再現に他ならなかった。
「くっく……くくく……はっはは……!」
脈動する意思は血色に染まり、その体は狂気に踊る。
「ははは……! っぷ……くくくっ……びゃははははははははは!」
空気を裂くクルスの笑い声が、辺り一面にこだまする。言葉を失う桜をよそに、まるで檻から解き放たれた猛獣の如く、歓喜に酔った「意思」は獲物を求めていた。
「はははっはは……ははっ!」
ぎょろりと見開かれた両眼が、迷うことなく桜を捉えたことに特別な意味などなかった。ただ、一番身近にいた獲物に牙を向けることに、疑問も躊躇も入る余地はない。
物怖じする前に、桜は自分に向けて放たれた殺気に身構えていた。話を聞かされていた時から、この最悪の場面がいつかまた襲ってくることを桜は覚悟していた。そのいつかが、これほど早く訪れたことに戸惑う暇も、今のクルスは与えてはくれない。
刀を地面から引き抜いた瞬間、クルスの姿は桜の視界から消え失せた。桜の動体視力をもってしても捉えきれない常人離れしたその動きに、瞬間、死が桜の脳裏をよぎった。が、何かが桜の頬を撫で、とっさに桜は我に返った。
コンマ数秒後、引き寄せられるように顔を上げた桜の目に映ったのは、狂気を容赦なく振り下ろすクルスの姿だった。傷口から零れる血が、桜にクルスが跳躍していたことを告げ、しかし、それを理解する暇さえもどかしく、桜は回避行動を起こす。その結果、獲物を逃した凶刃は、桜の死線を掠め、地面にめり込んだ。
息つく暇もなく、第二撃が桜を襲う。薙ぎ払われる刃を身をよじりなんとかしのいだ桜だったが、痛めた脇腹が悲鳴を上げ、意思とは関係なく桜は仰向けに倒れこんだ。
「あぅ……!」
「くくく……」
とっさに起き上がろうとする桜の腹を踏みつけ、クルスは刀を逆手に握り直す。軋む脇腹の痛みに、脂汗が額から流れ落ちる。呼吸もできない苦痛に喘ぐ桜の視界は、衝き下ろされた刀の血色に塞がれ――直後、景色が一変した。
唐突に横から割り込んできた華奢な手が、クルスの手首を掴み、桜の視界に割り込んできた。刀を握る手に突如加えられた力のせいで目標を見失った刃は、ただ地面のみを突き刺し、結果、その行動は桜の命を救うこととなる。だが、その行為は決して命を気遣うものではなかった。
クルスと桜の間に介入してきたエハースは、クルスの刀を塞ぐと同時に、手にしたメスを容赦なくがら空きの喉へ走らせた。体勢を崩したクルスの喉元に、よだれを垂らして狂気が襲いかかる。が、力任せにエハースの手を振りほどいたクルスは、紙一重でエハースの致命の一撃をかわし、すぐさま、背後へ飛びのいた。
「くっく……くはは……」
すぐさま体制を立て直したクルスは、捕食に失敗しながらも愉快そうに笑う。新たな獲物を前に、興味はすでにもう片方の狂気にのみ向けられていた。
刀を肩に担ぎ、くつくつと笑うクルス。一方、エハースは足元で悶える桜を気にも留めず、深紅に染まったメスの刃を舐め、それをクルスに傾けた。
「っぷっくっく……ひゃ、ひゃ……っぐ……びゃははははははは!」
勝負と呼ぶには生ぬるい殺し合いを餌に、相反する狂気は、踊り、狂う――。
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