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Page34-B
 桜の首筋から、一筋の血が伝った。鋭い痛みが首筋に走り、それでも桜の感覚はその痛みに追いつかない。ただただ、目の前に立つクルスのうすら笑った顔から目が離せず、桜はその場から一歩も動くことができなかった。
 恐怖とは違う何かが、桜を縛っていた。桜の記憶に眠る、幼い頃の記憶。まだあどけなさの残る勝が、他人を踏みにじり、狂気に走ったあの時の形相が、目の前のクルスと重なり、あの時と同じように、桜はなす術もなく立ち尽くしていることしかできなかった。
 やがて、思い出したように、桜は痛みの走る首筋に左手を当てた。掌に溢れる血の感触も、痛みも、まるで現実感を伴わない。過去の拭いきれない記憶に囚われたまま、桜は弱弱しく言葉を漏らした。
「……嘘でしょ? 勝……」
 あの時と同じ言葉を呟いて、桜は弱弱しく揺れる瞳をクルスに向けた。が、クルスはそんな桜の前で、愉快そうに笑い声をあげた。
「ぶははははははははははは!」
 ――何がそこまで面白いのかは、不明だった。
「ま、さる……」
 普段の天真爛漫てんしんらんまんな桜からは伺い知れないその表情は、悲しみに歪んでいた。しかし、クルスはそんな桜に構うことなく、握った刀を肩に担いで爆笑する。狂気を孕んだ笑い声は空気を盛大に振動させ、やがて、その狂気の標的は目の前の桜に向けられた。
 振り向けられた刀の刃が、唸りを上げて桜を飲み込む。が、反射的に我に返った桜は、体を捻ってその一撃をかわした。
 獲物を捕らえ損ねた刃は、地面にめり込み、土埃を巻き上げる。その土埃から逃れるように、桜はクルスから距離を取った。
(だが、そうしていることは他ならぬお前の意思だろう。それに、その時、そいつはお前の言葉に救われたはずだ。だから自分を変えようとした)
「……」
(そういうのはな。責任とは言わん)
 あの時、馬車の中で言ってくれたクルスの言葉が、桜の脳裏をよぎった。今はその言葉さえ霞んでしまいそうな現実の中で、それでも、桜の目を覚まさせたのは、クルスのぶっきらぼうながらも言ってくれたその言葉だった。
「……そうよね」
 そう呟いて、桜は自分の両頬を両手でパン、と叩いた。この現状に納得のいく理由など見つけられない。でも、一つだけ確かなことは、目の前にいるのは勝ではなくクルスだということだった。そして、今の桜は、あの時何もできなかった頃とは違う。武術を身に付けたのは、あの時、理不尽な暴力を前に何もできなかった自分が許せなかったから。そして、何より、勝を止めることのできなかった自分が許せなかったからなのだ。
 すべては、制止のために身につけた力だった。理不尽な暴力から……もう一人の勝から、勝を救うために。もう二度と、あんな思いを自分にも、勝にもさせないために。
 ――しかし、制止という割には、度の過ぎた力だった。
 迷いを捨てた桜の瞳に、いつもの強い意志が蘇る。そして、桜はスカートのポケットから髪留めゴムを取り出し(大男のドールを倒した後、桜は髪留めゴムを取っていた)、後ろで髪を一つに縛った。
「状況はよく分かんないけど、いいわ。そっちがその気ならね」
 そう言って、桜は臨戦態勢を整えた。
「あんたの目、私が覚まさせてあげるわ」
 ――しかし、桜と手を合わせた人間は全員白目をむく目に遭っていた。
「くっく、くくく……」
 刀を地面に引きずりながら、ゆっくりと桜に歩み寄るクルス。一方、桜は強がりながらも隠しきれない動揺を胸の中で抑え込むため、そっと目をつぶり、静かに息を吐き出した。
 過去の悪夢が、フラッシュバックする。それを振り払うため、桜はまぶたをあげ、現実と向き合った。瞬間、巨体が宙を舞った。
 三メートルは優に超える跳躍とともに、一気に桜の間合いに侵入したクルスが、容赦なく桜の頭上に狂気を振り下ろした。しかし、一瞬クルスの姿を見失いながらも、桜は冷静にクルスの殺気を感じ取り、すぐに空中にクルスの姿を捉えていた。
 唸りを上げる一撃を最小限の動きでかわし、桜はクルスの背後を取った。クルスの刀が地面にめり込む時には、すでに桜は拳に気功を集約させていた。
「目ぇ覚ませ、この馬鹿!」
 がら空きの背中に、容赦なく桜は崩拳(中段突き)を叩きこんだ。衝突の瞬間、まばゆい光が破裂し、巨体を難なく吹き飛ばす。気功拳を入れられたクルスは、十メートル以上吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
 ――しかし、目覚ましにはきつい一発だった。
「く……くくくく……」
「――!」
 地面にうつ伏せに倒れたクルスだったが、何事もなかったように立ち上がり、桜を振り返った。クルスを取り巻く狂気は覚めることなく、再びクルスは刀を引きずりながら、桜にゆっくりと歩み寄った。
「……馬鹿」
 呟いて、桜は唇を噛んだ。
 今のクルスと対峙した時から、一筋縄ではいかないことを感じ取っていた桜。少なくとも、さっき闘った大男のドールなどよりもクルスが強いことは分かっていた。この程度でクルスを止めることができないことも。
 ――しかし、この程度と言い切られた攻撃に、数えきれない人間が餌食となっていた。
 ――ついでに、大男のドールは「など」呼ばわりだった。
 本気の攻撃を仕掛けなければ、クルスを止めることはできない。そして、桜は気功拳より更に強力な凶器を隠し持っている。それが、あの時大男のドールを倒した一撃だった。
 だが、それをくらえばクルスがただでは済まない事は分かっていた。クルスの身を案じるがゆえに、桜は苦渋に顔を歪めた。
 ――しかし、先ほどの一撃を見た後では、身を案じているといっても説得力がなかった。
「ちょっと……いい加減にしなさいよ」
 薄ら笑いを浮かべ、刀を引きずるクルスに桜は声を漏らした。
「あんた、サラって子救うんでしょ! どうしちゃったのよ!」
 桜の悲痛な叫びにも、クルスの前進は止まらない。
「クルス!」
「びゃはははははははは!」
 深紅に染まった刀身が、桜の声を分断する。虚空を斬った刃は、逃した獲物を執拗に追い詰める。
 間合いに入り様、クルスは桜に斬りかかった。背後にのけ反り様、そのままバク転をしてその一撃をかわした桜。が、着地と同時に、第二撃が桜に襲いかかった。
「う……!」
 超人的な反応速度で、地面に身を沈め、真横から振り切られる攻撃をかわす桜。が、同時に繰り出された蹴りが桜の脇腹をえぐった。
「う゛ぁ゛!」
 衝撃が桜を貫き、桜は力なく前のめりに崩れ落ちた。痛みと呼吸困難に、額を地面に押し付け喘ぐ桜の頭上から、容赦なく刀が振り下ろされる。背筋の凍る殺気を感じ取り、桜は歯を食いしばって地面を転がった。
 すんでのところで止めの一撃から逃れた桜は、すぐに態勢を立て直すため、身を起こし、逃げるようにクルスから距離を取った。一方、クルスはまるで愉しむかのように、追撃せずにその様子をうすら笑いながら見送った。
 ――しかし、不謹慎だが、桜がやられる場面はある意味貴重だった。
「がはっ……はっ……はぁ……」
 蹴られた左脇腹を左手で押えながら、桜は苦痛に顔を歪めた。一瞬、意識が飛びかけるほどの衝撃は、痛みに変わり、桜の体をじわじわとむしばんでいく。額に浮かんだ脂汗は、こびり付いた土と混じり、土色の雫が地面に零れる。
 やらなければ、やられる。
 痛みに歪む視界の中で、愉快そうに薄ら笑いを浮かべるクルスを見て、桜は強く拳を握った。
 これ以上は、命に関わる。それでも、自分の命とクルスの命を天秤てんびんにかけることなどできない。ただ、自分の身さえ守れないで、誰かを守ることなどできるはずもない。
 ――あくまで、桜の力は守る力とか制止のためとされた。
 絶対に、止める。
 桜は自分に言い聞かせ、痛む脇腹から手を離した。
 直後、桜はクルスの姿を見失った。
「え……?」
 十メートル以上先にいたはずのクルスが、唐突に桜の視界から消え失せた。その直後、桜の背筋に悪寒が走った。
「くくく……」
 耳元で踊るクルスの声に、桜の全身の毛穴から汗が噴き出した。とっさに振り返った桜の眼前に、巨大な影がそびえたつ。
 狂気は喜びながら、桜の命運を鷲掴わしづかみにした。
「あ……ぅ……」
 桜の喉を掴んだクルスは、左手一本で、桜の体を悠々と持ち上げた。喉を掴まれながらも、桜は幾度もクルスの体を蹴りつけたが、巨体はビクともせず、更に桜の喉を締め上げた。
 やがて、桜の体は力を失い、だらりと宙に垂れ下った。それを見て、クルスはにやりと笑い、右手に握った刀を桜の胸に向けた。
「くはははは……!」
「ま……さ、る……」
 その呟きを最後に、桜の意識は遠のいた。

 
 
 

 

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