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昼間は村の人たちの目があったから、夜にまるまで待つことにした。父さん、母さんが寝静まってから、俺はこっそり家を抜け出して、魔の森へ向かった。
エリシア村は人口千人ほどの、ここら辺りの村では比較的大きな村だった。広い土地の上に作られた村だから、端から端まで辿ろうとすればかなりの時間がかかる。もちろん、村から出たことのない俺が、村外れにあるその森を訪れたことは一度もなかった。
不気味なところだということは知っていた。でも、目の前にした森は、不気味という言葉以上のなにかに取り付かれてでもいるように、俺には感じられた。
薄闇の中、月明かりに照らされて浮かび上がる巨大な影。その入り口は、まるで森が大口を開けて今か今かと侵入者を待ちわびているような錯覚を覚え、背筋を冷たい汗が伝った。
違う。ここは、何かが違う。
その直感は、震えになって俺の体を駆け巡った。
正直、怖くなかったわけじゃない。家を抜け出すときも、慣れない夜道を歩いていたときも、怖くて怖くて仕方なかった。でも――。
「姉ちゃん……」
口にしても、それはもう姉ちゃんには届かない。でも、声に出さずにはいられなかった。
俺は何度も「姉ちゃん」を呟きながら、震える足を無理やり前へと踏み出した。
誰かに見られたらいけないと思って、今まで使わなかった懐中電灯のスイッチを入れる。森の中に入ると、空気がぐっと冷たくなって、視界も暗闇に閉ざされた。
心許ない小さな光が、森を押し包む暗闇をわずかに照らす。森の中を歩いていると、時折、深緑のつんとした匂いがした。ところどころに伸びた樹木が邪魔をして、なかなか思うように前に進めない。それでも、前に進むことしか出来なかった。
どれぐらい歩いただろう。振り返ってみると、もうそこに出口はなかった。前も、後ろも、右も、左も、三百六十度、俺の視界を暗闇が閉ざす。暗闇にわずかに慣れた瞳に映るものは、深いどこまでも続く不気味な森の標だった。
不安、焦燥、恐怖……すべてが織り交ざって、俺の心を締め付ける。前も後ろも右も左も、行く道すべてが俺をあざ笑うように奥へ奥へと誘っている気がした。
どうすればいいのか、分からなかった。俺はただ、姉ちゃんに会いたかっただけなのに。それとも、やっぱり、そんなことはもう叶わない願いなのだろうか。
「姉ちゃん……いるなら、出てきてよ……」
歩く気力もなくなってその場にうずくまる。そして、そんな時、ふと俺の視界に何かが映ったような気がした。
うつむきかけた顔をもう一度上げる。そして、その瞬間、思わず立ち上がっていた。
「姉ちゃん!」
その後姿を見た瞬間、心臓が跳ね上がりそうなほど高鳴った。間違いない。そう確信すると同時に、俺は森の中を走っていた。
「姉ちゃん! 俺だよ! 姉ちゃん!」
石に躓きながら、樹木にぶつかりながら、草に足をとられながら、何度も何度もこけながら、俺はがむしゃらに遠ざかる後姿を追いかけた。
長い黒髪に、真っ白な肌。折れるような華奢な体。間違いない。間違いなく、あれは姉ちゃんだった。
薄暗かった森の中はいつの間にか、差し込む月明かりに照らさて仄明るくなっていた。それでも、そんなことに疑問を抱く余裕なんて、ない。俺の目にはもう、姉ちゃんの後姿しか映ってはいなかった。
「はあ……! 待ってよ、姉ちゃん! 俺……姉ちゃんに会いに来たんだよ!」
俺の声が届いていないのか、姉ちゃんは立ち止まることなく、森の奥へと進んでいく。俺はその姿を見失わないように、必死で森の奥へ奥へと進んだ。
やがて、走り続けているうちに森の景色が変わった。道が開け、十数メートル先の景色が、まるでスポットライトを照らされたように、部分的に幻想的な輝きに照らされている。そして、その光の中心に姉ちゃんがいた。
立ち止まって、俺を待ってくれている。
「姉ちゃん……」
十数メートル先に、姉ちゃんがいた。そこにいるはずのない姉ちゃんが、確かにそこにいてくれている。
夢じゃなかった。いつも、夢にしか出てこない姉ちゃんが、現実に俺の前にいる。
そのとき、堪えていた感情が、せき止められていたモノが、洪水のように俺の内側から溢れ出してきた。
あの表情。あの声。あの匂い。あの仕草。優しい時間の中に確かにあった、俺が何よりも守りたいと思ったもの。何もしてあげられずに、俺を通り過ぎてしまったもの。
戻りたいなんて、贅沢は言わない。ただ――もう一度だけ、姉ちゃんを感じたかった。
足が勝手に、ふらふらと前に進む。手が、姉ちゃんを求めて虚空に伸びる。
幻想的な光が俺を照らす。虚空に伸ばした手が、もう少しで姉ちゃんに届く――そのときだった。
柔らかくて温かい何かが、不意に俺の背中を包み込んだ。そのせいで、俺の手はすぐそこにある姉ちゃんの背中には届かなかった。
俺の耳元で、かすかな息遣いが聞こえる。俺は気にせず、姉ちゃんを求める。でも、温かな何かは、背後から俺を強く抱きしめて、放そうとはしなかった。
「駄目だよ……」
小さくて、かすれるような声が、俺の耳元で響く。まるで、現実に俺を押しとどめようとするように、それはしっかりと俺をつかんで放さない。でも――。
「姉ちゃん……」
どうしようもなく、愛しかった。ああ、そうだ。俺はこんなにも、姉ちゃんを愛していたんだ。それなのに――。
涙が、ぼろぼろと零れ落ちた。失ってから、初めて流れ出たそれは、俺の思考を、意識を溺れさせる。分かっていた。もう、二度と姉ちゃんに会えないなんてこと、最初から分かっていたんだ。
「うあ……あ……いぎ……ねえちゃ……ああ……」
「分かってるんだよね。でも、どうしてもそうしなきゃいけなかったんだよね……」
言葉にならなかった。もどかしかった。泣くことしか出来ない自分が。どうしようもなく求めてしまう自分が。たまらなく、苦しかった。
「なんで……ぅああ……なん……でだよぅ……」
体全部が姉ちゃんを求めてさ迷いだす。でも、温かな何かはしっかりと俺を抱き止めてくれていた。
「なんで……なん……で……死んじゃったの……姉ちゃん……」
やがて、姉ちゃんの背中が光の中に溶け出した。ゆっくりと、光に吸収されるみたいに、姉ちゃんの姿が頼りなく透き通る。そして――。
消え行く間際に、姉ちゃんは初めて俺を振り返った。
いつか見た、どこか寂しそうな笑顔を残して――。
姉ちゃんは、消えた。
「あ……ぅあ……いや……だ……」
俺の心に空いた虚しさが消えていく。でも、その代わりに満たされたものは、例えようのない悲しみだった。
「ぅああ……ああ……」
涙が止まらない。嗚咽が止まない。振り返ったすぐそこには、幻想的なエメラルドグリーンの光に包まれた、姉ちゃんに似た女の人がいた。
涙で視界が滲んでよく分からない。でも、その人が今にも泣きそうな顔をしているのだけは分かった。これも、ただの幻だろうか。
「ここには……入っちゃ駄目って、言ったでしょ……?」
どうして……? 息が止まりそうだった。その人は姉ちゃんじゃないはずなのに――。
「困った子だね……でも、会いにきてくれて、嬉しかった。それと……ごめんね、ルーク――だって」
「――!」
「……お姉ちゃん。そう言ってたよ」
そう言うと、その人はそっと俺を抱きしめてくれた。
懐かしい匂い。懐かしい温もり。懐かしい心地。手を伸ばせば、そこにはやさしい時間があった。でも、それがもう二度とは戻ってこないことに俺は気がついてしまっていた。
この人は、姉ちゃんじゃない。でも、きっともう、それでもよかったんだ。
「大丈夫だよ……」
耳元で、優しい声が響く。俺は、その人にしがみついて、思いっきりむせび泣いた。
(大丈夫かしら。ルークは一度泣くと私が居ないと泣き止まないから)
「大丈夫……」
優しいその人の声は、まるで姉ちゃんみたいだった。
涙が枯れるまで、俺はその人の胸の中で泣き続けた――。
「そのとき、姉ちゃんは俺に言ってくれたんだ。今日から私が君のお姉さんになってあげようか……ってさ。――すごく、救われた気がしたんだ。あの時、俺が立ち直れたのは、アイリーン姉ちゃんがいてくれたからだ」
そう言って、遠くを見つめるルークの横顔を見ながら、勝は「そう……」とだけ相槌を打ってから黙り込んだ。
ルークの話を聞いて、アイリーンがどれだけルークにとって大切な人間であるかを知った勝は今、なんとも言えない心境だった。
アイリーンの家から追い出されかけたことも、寝袋に閉じ込められたことも、金属バットで殴り殺されそうになったことも、その話を聞いた後では、責めるに責められないというものだ。まあ、その話を考慮に入れたとしても、最後のひとつはやりすぎだったが。
「どうして……さ」
「――え?」
「どうして、あの時姉ちゃんが俺の名前を知ってたのかとか、どうしてこの森の中で姉ちゃんが一人で住んでるのかとか、俺、なんも知らないんだよね。言わなくても、姉ちゃんが自分のことあんまり話したくないみたいだってのは伝わってくるから、俺からは一度もそういう詮索は、したことねーんだ」
「……そっか」
「でも、姉ちゃんが何か不思議な力を持ってるってことは分かる。そのせいで、人から離れてこんなとこで暮らさなきゃいけないんだってことも――。でも、俺はそれを、悪いものや、不気味なものだとは思わないよ。あの時、姉ちゃんは俺を救ってくれたんだから」
――あの時。森の中でさ迷っている勝を救ったのはアイリーンだった。そのときのアイリーンは、エメラルドグリーンの不思議な光を発していた。
その時のことを思い返しながら、勝はルークから目を逸らした。一方、ルークはそんな勝をじっと見ながら「なんで」と声を出した。
「え?」
「なんで、俺があんたにこんな話をするか分かるかい?」
「な、なんでって――」
「分からないってのかよ?」
ギロリと、鋭い目つきでルークから睨まれ、慌てて声を返す勝。
――すっかり、立場はルークが上だった。
「そ、それは、もちろん、アイリーンさんが君にとっていかに大切であるかを僕に理解させて、手を出させな――」
「ちげえよ」
ぴしゃりと言い切られ、あえなく黙り込む勝。そして、ルークはそんな勝を見て、心底憂鬱そうにため息をついた。
「ル、ルーク君?」
「あんたには、知っててほしかったんだよ。姉ちゃんが、そういう人間なんだってこと」
「え……?」
「だって、この先も姉ちゃんは誰とも関わることなく、ここでひっそり一人で生きていくんだ……。でも、だから……姉ちゃんのこと憶る人間が、一人でも多くいてほしいんだよ……」
「ルーク君……」
つまらなそうに「け」と呟いて、そっぽを向くルーク。そんなルークを見て、勝は「そうだね」と優しく声を出した。
「きっと、忘れないよ」
「――つっても、手え出したら、ぶっ殺すかんな」
微笑みながら声を発する勝。一方、すかさず勝の耳元でそう囁くルーク。
一瞬にして、勝の笑顔は引きつった。
「――ま、そういうことで、今日は帰る。姉ちゃんのフォローは、あんたに任せたぜ」
「……う、うん」
そして、ルークは森を後にしたのだった。
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