掌編――春
風が吹いた。暗闇を桃色の破片が横切った。
今年も綺麗に咲いたね、と僕はつぶやいた。
ありがとう、と彼女は微笑んだ。
桜の下にしつらえられた陶器の円卓に腰掛け、酒を酌み交わす。
毎年、桜が咲いた最初の満月にと約束した行事だ。
今年は彼女は来ないのね、と彼女が言った。
家内は身罷った、と僕は答えた。
そう、とだけ彼女はつぶやいた。
しばらく黙った後、彼女は盃を干した。
あなたも行ってしまうの? と彼女はさびしそうな目をした。
いずれ行くよ、と僕は答えた。
人は儚いわね、と彼女はつぶやいた。
風が吹いた。
そのとき小さな足音がした。
低木の茂みをかき分けて現れたのは長男の末息子だった。
おじいたん、だぁれ、そのひと。そう、幼子は言っただ。
おや、私が見えるのかえ? と彼女はうれしそうに言った。
彼女に見とれながらうなずく幼子に、彼女は小さな盃を渡した。
酒はまだ早い、と言う僕に、彼女は笑った。
彼女の隣に座った幼子は、花びらの盃をうれしそうに飲み干した。
跡継ぎは決まったな、と僕も笑った。
そうね、と彼女は微笑んだ。
息子たちは誰一人彼女を見ることはできなかった。
この館も、この桜も、この円卓も、息子たちにとっては意味のないものでしかない。
この子に確実に渡るように、できることをしておこう。そう、僕は心に決めた。
この子が大人になるまで、この館に戻るまで、待ってくれるかい? と僕は聞いた。
私たちは長生きなのよ、と彼女は幼子の頭をなでた。
幼子は桜酒が気に入ったようで、すこし顔を赤らめてにこにこと彼女を見上げた。
彼女はつい、と立ち上がるといつものように舞を始めた。
風に揺られる枝垂桜のごとく、軽やかに舞い落ちる花びらのごとく、彼女は舞い続けた。
幼子は目を輝かせて見つめ続け、舞が終わると懸命に拍手を送った。
いつか今日のことを思い出すのかしら、と寝入ってしまった幼子を眺めながら彼女は笑った。
おそらく、次に君に会ったときにすべて思い出すんじゃないかな、僕のように、と僕も笑った。