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哂い声
―――昨日、東京都○○区で、小学生の刺殺体が発見されました。以前から世間を騒がせている連続児童殺人事件と全く同様の手口から、以前の事件の同一犯である可能性が高いと見られています。尚、今回は犯人の顔が目撃されており―――
「全く、物騒な事件もあるものだな」
 僕は茶碗から顔をテレビに顔を向け、誰にともなく言った。
「そうですね。うちの直之は大丈夫でしょうか……」
 妻も、僕が無言で渡した茶碗に飯を足しながらぼそりと答えた。
 そうなのだ、一人息子の直之は今年で小学三年生である。
「まあ、大丈夫だろう」
 僕は、妻から確証の無い表情を隠すために茶碗から飯を掻き込みつつ言った。大体、心配した所でどうにもならないのだ。それでも妻は心配ばかりする、どうしようもない事に対しても。僕とは正反対の性格である。
 今日は日曜日である。直之は朝早くから近くの公園か何かに友達と行っている。僕は週に一度出来るか出来ないかのの長時間の睡眠を貪って起きてきたばかりであった。もう昼に近い。
「まあ、心配した所でどうにも……」
「あなたは、直之の事が、心配じゃないんですか?」
 お決まりの台詞を吐こうとしたら、はっきりとした口調で遮られた。
「だから、どうしようもないと言っているだろう。心配していないわけがないじゃないか」
「なら、いいんですけど……」
 冷めた表情で妻はテレビに目を戻した。
 どう考えても「いい」と思っているようには見えない。お互いいまいちにしっくり来ていない、ぎこちない沈黙が流れた。いつもの事である。
 僕もテレビに視線を戻した。
―――今回の事件では、犯行後と思われる犯人が目撃されています。これが、目撃証言による犯人の似顔絵です―――
 画面に男の顔が映し出された。
「お、おい! そ、そんな馬鹿な!」
 僕は己が目を疑った。
 妻も絶句していた。
―――目撃証言によると、犯人は灰色のスーツの上下に白いコート、赤いネクタイを締めた、三十代前半程、中肉中背のサラリーマン風の人物であるようです。警視庁はこの似顔絵と犯人の特徴を基に捜査に乗り出す方針を―――
「う、嘘だ……! 僕は、僕は人殺しなんかじゃない! どうして、僕があそこに映っているんだ!」
 僕は叫びだしていた。
 ……そう、紛れもなく、映っていたのは僕の顔だった。
 妻は、僕の服装を、固まった表情で見た。
 灰色のスーツの上下、白いコート、赤いネクタイを締めている。毎日この服装で僕は出勤している。
 でも。
「でも、こんな服装の連中はいくらでも居るぞ! そうだ、これは何かの間違いだ! そうに決まっている! だ、だろう!」
 僕は妻にすがりつくように視線を向けた。
「そ、そうですよね……あなたみたいな人が、人殺しなんて出来るはずが無いですよね……」
 妻の声は震えている。
 ま、まさか。
「き、君も僕が殺人を犯したと思っているのか!」
 妻は首が外れそうなほどに首を振った。
 まるで弁解をするようである。
「そ、そんなことは無いですよ」
「いいや、そう思っているだろう! 僕は、何がどうあろうと人殺しなんてしていないんだ! 今から近くの交番に行って誤解を晴らすんだ!」
「止めてください!」
 妻が、飛び出そうとする僕をすがりつくようにして止めた。
「ど、どうしてだ! やっぱり僕のことを信じていないのか!」
「違います! 違うんです!」
「な、何がだ!」
「あなたが出て行ったら、問答無用で捕まるでしょう。あの顔は、間違いなくあなたの物です」
「じゃあやっぱり……!」
 僕は、妻との十数年間の年月がガラガラと崩れていく音を聞いているような気分になった。
 その時、僕の頬に鋭い痛みが走った。
 しばらく呆然としてから、妻が僕の頬を張ったのだと分かった。
 初めてである。
 妻は大人しいほうであったから、この不意打ちは効いた。
「どうして、どうして私を信用しようとしないんです! これは誰かの間違いか、誰かがあなたを陥れようとしているに決まっています! あなたは、人殺しを出来る人間じゃない! それは私も知っています! だから、私が、その嫌疑を晴らします!」
 僕は、やっと我に帰った。そうだ、妻は僕のことを裏切ってはいなかった。僕が勝手に勘違いしていただけであった。
「す、すまなかった。僕は、何が何だか……」
「それは、私だって一緒です。でも、待っていてください。直ぐにあなたの冤罪の疑惑を晴らします」
 妻は毅然とした表情で言い放った。頼もしい。
「まず、直之を迎えに行って来ます。絶対に家から出ないで下さいよ。少しの間の辛抱ですから」
 今までの妻とは違った。根本的に。いや、僕が情けないから妻がいつもより頼もしく見えるだけかもしれない。
 妻が家を出た。

 僕は頭を抱えた。どうして……僕が。
 僕は小学生の頃から大層な臆病者で、ゴキブリの一匹も「かわいそう」といって殺せなかった。今でも同じである。
 なのに……この僕が殺人者、だと?
 可笑しい。絶対に僕は陥れられようとしている。このままでは僕は本当に捕まってしまう。
 かといって外出は出来ない。
 このままでは何も出来ず、妻に任せるままである。
 情けない、とてつもなく情けない。
 ……そして、悲しい。
 自分が人殺しの罪を掛けられているということが。
 僕は、自分がすすり泣いていることに気付いた。


 私は、苦悩していた。夫は、本当に人など殺せる人ではない。警察が騙されているのだ。絶対に。一刻も早く夫の嫌疑を晴らさなくては。
 ……でも、夫は、一瞬とはいえ、私を疑った。
 それに、警察がそう簡単に騙されるものだろうか?
 もしかして……夫は、本当に?
 夫にははっきりと啖呵を切ってしまったが、今では、本当に夫が殺してしまったのではないかという感情は抑え切れないほどに膨らんでいた。

 公園に着いていた。
 近いのだ。
 直之は、友達と携帯ゲーム機で遊んでいた。
「直之、帰るわよ」
「え、でも……まだお昼じゃないでしょ?」
 直之はゲーム機から顔を上げて目をぱちぱちさせた。
 何も知らないのだ、この子は。
 どうやって説明しよう……。
「お父さんがね……悪い事をしたかもしれないの……」
 思い描いた台詞は出てこなかった。
 直之は無邪気に笑った。
「何言ってんのママ、パパは悪い事なんてしないよ。パパはいい人だもん」
「そ、そうよね……パパは、そんな人じゃないわよね。でも、パパが疑われているの。一緒に、疑いを晴らして、パパを自由にしてあげましょうね?」
 直之はコクリと頷いた。
「うん、そうだね。パパを疑う奴は、僕、許さないよ」
「じゃあ、行きましょう」
 私は、自分が息子にすがっていることに気付き、自分に嫌悪を感じた。
 でも、そうだ。
 やっぱり夫が人を殺すわけが無い。
 どうして私は夫を信じられなかっただろう。
 帰ったら謝ろう……。
「あ、あれナオくんところのおじさんじゃない?」
 それまで意味がわからなそうにしていた直之の友達が私の後ろを指差した。
 振り向くと、確かに夫が居た。
「あ、あなた! 外出しないで、って言ったでしょう!」
 私は直之の手を取ったまま駆け寄った。
 夫は無言のままである。
 口元は笑っている。
 おかしい。
「パ、パパ……?」
 直之も不審そうに夫から離れた。
 夫の手元に光るものが在った。
 ほ、包丁……?
「あ、あなた!」
 私が叫んだ時には、夫の片手は直之の腹にめり込んでいた。
「うっ……」
 表情は全く変わっていない。
「パ、パパ……」
 夫は包丁を引き抜き、直之は力なく体を傾ける。
 私は慌てて直之を押さえた。
「あ、あなた、やっぱりあなただったの!」
 夫はニヤリと哂い、包丁を捨て、逃げて行った。
 直之の友達が大声を上げていた。
「うわー! ひ、人殺しだー!」
 私はその子を押さえた。
「ち、違うのよ! まだ、直之は生きてる! 生きてるのよっ!」
 だが、直之の出血は夥しく、顔も青ざめるばかりであった。
 救急車だ!
 直之を抱えたまま、携帯電話をポシェットから取り出した。
 通報を終え、ひとまず家に……。
 家になんか帰れるものか!
 夫が、連続児童殺人犯が居るのだ!
 私は、おろおろしながらも、公園で待つことにした。


 僕は家を出た。
 いくらなんでも遅すぎる!
 歩いて数分の距離に公園はあるはずだ!
 なにかあったのか?
 まさか、真犯人が……直之を……!
 僕は全速力で走った。
 公園にはニ、三分で着いた。
 妻が居た。
 そして、抱えているのは……直之だ!
 血だらけである。
「一体、誰がこんなことを!」
 僕は絶叫していた。
 妻がこちらを向く。
 そして、限りのない怒りを込めて叫んだ。
「何を言っているんですか! あなたが刺したんじゃないですか!」
 直之が僅かに目を開ける。
「パ、パパ……なん……で?」
 力なく直之は妻の腕の中で呟いた。
 僕は、何が何だか分からなかった。
 そして、信用できる者が一人も居なくなった事に呆然としていた。
 ……僕は、僕のことが信じられなくなっていることに気がついた。
 それ以上に、他人は僕のことなど信じはすまい。
 そして、容疑者の僕の証言は、冤罪を晴らしはするまい。
 僕は、連続児童殺人事件の犯人になった。
 何かがプツンと切れる音が、自分の中でした気がした。


「そうだ……本当に僕がやったのかもしれない……」
 夫は焦点の合わぬ目でぽつりと言った。
 私は唖然とした。
「やったかもしれない? あなたは、刺したのよ! この包丁で、直之を! 確かに! なにが『やったかもしれない』よ!」
 夫は視線を私に合わせた。
 そこに浮かぶのは……諦めの表情?
 そんなはずはない。
 そんなはずはないっ!
 今さっき目の前で、夫は直之を、一人息子の直之を刺したのだ!
 救急車が来た。
 私は直之を連れ、呆然としている夫を置いて救急車に乗った。
 車内で、私は警察に通報した。


 そうか……僕が直之を刺したんだな。
 どうしてかは分からない。
 でも、妻は確かにそう言った。
 僕は、もう自分の事が信用できない。
 そして、僕の無実を証明する者は居ない。
 目の前にある包丁は、確かにうちの物である。
 僕は連続児童殺人事件の犯人である。
 それでいいではないか……。
 公園のベンチに僕は座り込んでいた。
 と、視界の隅に人影が見えた。
 ゆるゆると視線を向ける。
 そこには……僕が居た。
 そいつは……僕を見て、ニヤリと哂った。
 その刹那、全ての感覚が元に戻った。
 そうだ……僕は……人殺しなんかじゃない!
 直之を刺せるわけが無い!
 落ちていた包丁を握った。
「貴様ぁ! 貴様が、直之を! 直之を刺したのか!」
 再度、そいつはニヤリと哂った。
 そして、背を向けて逃げ出した。
「待て! 待てええええぇっ!」
 僕は走り出した。
 血まみれの包丁を持ち。
 ここまで必死に走ったのは始めてであった。
「こ、殺してやるっ! 殺してやるっ! 殺してやるっ! 直之を……直之を……よくも!」
 あいつが曲がった向こうの角から、あいつの、僕の、哂い混じりの声が聞こえた。
「そうだ、俺が、お前が、殺したんだ! 俺はお前、お前は俺だ! 俺がやった事は、お前のやった事だ!」
 堪えようの無い怒りが浮かんできた。
 臆病な性質のせいで、初めて体験した激情である。
「き、貴様あぁぁっ!」
 そいつは、廃ビルの中に逃げ込んでいた。
 階段を登っていく音が聞こえる。
 僕もその廃ビルの飛び込んだ。
 階段を駆け上がっていく。
 五階から階段を登ると、屋上に出た。
 そいつはそのど真ん中に居た。
「貴様、殺して、殺してやるぞっ!」
 僕はそいつに突撃した。
 そいつは、スッと僕の攻撃を交わした。
 そして、叫んだ。
「た、助けてくれ! 人殺しだあぁぁー!」
 そして、ニヤリと哂った。
 な、なんていう事を言うんだ!
「貴様あぁっ! 人殺しはお前だあぁ!」
 僕は包丁を構えてそいつに踊りかかった。
 その時、後ろでバン、と一度閉めた屋上のドアが開く音がした。
「と、止まれ! 止まらないと撃つぞっ!」
 警察だ!
 僕は一旦攻撃を躊躇った。
「違う、違うんだ! 人殺しはこいつなんだ! こいつが僕の息子をっ!」
 僕はそいつを指差した。
「何を言っている! 指名手配の写真とも顔が一緒だし、何よりお前の奥さんから通報もあったんだ! お前が連続児童殺人事件の犯人だ!」
 僕は愕然とした。
 後ろのそいつも、僕と同じ顔のはずだ。
 そいつの方を振り向く。
 顔が……顔が、僕の顔では無くなっていた。
 服装は同じだったが、見も知らぬ人の顔だった。
 な、なんてことだ!
 これでは、これでは!
 まるで、僕が犯人に……。
 二人の警官は僕の顔と血だらけの包丁を見、それから、そいつの作り出した、怯えた中年の男の顔を見据えた。
 そして、拳銃を再度構えた。
「その包丁を放せっ! 撃つぞっ!」
 足元に何発か威嚇射撃がきた。
 そいつの方を振り向く。
 そいつはニヤリと、凄惨に哂った。
 だが、それは、僕の体が邪魔になって警官たちには見えなかったことだろう。
「貴様あぁっ!」
 僕は衝動を抑えきれず、包丁を持ってそいつに飛び掛った。
 が、そいつは目にも止まらぬ速さの手の動きで包丁を叩き落した。
 そして、その包丁を拾い、僕に向けた。
「や、止めてくれ、殺さないでくれ! く、来るなぁ!」
 そいつは悲鳴を作り出した。
 僕は、その包丁に突っ込んで行く形になった。
 急いで脚を踏ん張った。
 僕の動きが止まってくれた。
 危機一髪である。
 包丁の刃先は僕の胸の寸前にある。
 が、火薬の爆発音が聞こえた。
 右肩と、左足。
撃たれた?
 均衡を崩し、僕は包丁に倒れこんだ。
 ……だが、包丁は問答無用に僕に突き刺さった。
 僕はその場で倒れた。
 そんな……警察官は、こんなに猥らに拳銃を使うものなのか。
 出血が酷い。
 二人の警官が駆けつける。
「す、すみません、でも、この人が僕に突っ込んできたんです!」
 そいつの声が聞こえる。
「ああ、それは僕達も見ていた」
「大丈夫です、立派な正統防衛だ、なあ君」
「そうですね、先輩」
「これで犯人も捕まったな、一件落着だ……」
 三人は哂った。
 もしかして……この二人は警官じゃなかったのか?
 考えてみれば、僕、いや、そいつのような凶悪犯の居場所が分かったのに、警官は二人しか来なかったのは、可笑しい。
 僕の顔をそいつ、いや、そいつら、が覗き込んだ。
 凄惨な哂い顔を浮かべる。
 そいつは、顔を変えた。
 ヌルヌルという音がし、皮膚の色が変わり、髪形が変わり、目の色が変わり……。
 三人の僕になった。
 そして、三人は視界から消えた。
 霞んで行く視界に、しかし、あいつらの、僕の、哂い顔はいつまでもこびり付いていた。
 
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