辺境の小さな村にカナという名の少女がいた。
父無し子の彼女は、忌むべき者として村から隔離され幽閉されていた。
母親は彼女が10の時に病によりこの世を去った。
4m四方の小さな牢屋。
数日に一度、侮蔑の言葉と共に投げ込まれる固くかびたパン。
鉄格子の窓越しに見える森の景色。
それが彼女の全てだった。
でも。
この中だけは静かだ。
この中だけはカナを傷つけはしない。
だって。
外の世界は腐った臭いがしたし。
外の世界が奇麗だとは思えなかった。
時間の流れは関係なく。
全てが無意味な物だった。
それは世界の腐敗する臭いが強くなったある日。
彼女自自身は知らなかったが、彼女が15になった日に牢を出る事を許された。
おぼつかない足取りで牢から出る。
いつも鉄格子隙間から眺めていた世界。
その世界に初めて足を踏み入れた。
そこは草木が枯れ、道端に牛や馬が倒れ死んでいる。そんな世界だった。
カナの手を強引にねじりあげ、引きずっていこうとする男。
その顔は暗く、窪んだ目がカナを睨みつける。
乱れた髪や痩せ細った体からすごく嫌な匂いがする。
その悪臭から逃れらるようにカナはなるべく息をしないように努めた。
男はもとより声を発する事は無い。
ただ無言で歩き続ける。
風景は何処もさほど変わりはしない。
悪臭は世界を取り巻いている。
この男だけではなく、世界中からこの嫌な匂いは満ちている。
カナは嫌な音を立てて腐臭を撒き散らす、腐れ落ちた果実を思い出していた。
世界はそんな腐臭にまみれていた。
やがて大きな屋敷で彼女に手渡されたのは、すっぽりと頭からかぶる白いワンピースと、1枚の書状だった。
「流行り病を鎮めるために、森の奥に住む領主に手紙を渡して欲しい。」
カナはぼんやりと領主の事を考える。
子供の頃に聞いた話を思い出す。
森の奥には大きな城があり、吸血鬼のルクルト様が領主としてこの一帯を治めてらっしゃる、と。
要するに、カナは生贄にされるのだ。
しかし、今のカナには下らない事だし、大した意味を持ちはしない。
(ここで死ぬか、ルクルト様の下で死ぬかの違いだけ。)
カナは親書を無造作にポケットにしまう。何の発言も許されないだろう。他にどうにも出来ないのだ。人々の言葉も耳に入らない。
カナは窓の外を見つめる。
まるで色あせたような世界。ずっと昔、外の世界はもっと奇麗だと思っていた。そう、お母さんがまだいてくれた頃までは。でも、今は…。くすんだ色の村。暗い瞳の行列。そして、嫌な匂い。
(世界は腐れゆく果実…。)
ぼんやりと、そんな事を思った。
城内に何者かが入ってきたのを、城主ルクルト・トゥールビヨンは知覚した。
何者も訪れない場所への他者の訪問。それ自体が異常事態なのだ。
溜め息を吐きながら玄関ホールを目指し立ち上がる。
勇敢とゆう言葉を履き違えた若者でも訪れたのだろうか?
また、この城に生と死の間際が訪れてしまうのだろうか。
憂鬱が扉にかけた手を止めてしまう。
(…またあの時のような…)
大きく息を吐きながら胸のうちを静めてゆく。
ルクルトの心には悲壮な決意しか浮かんでこない。
そして。
決断するように扉を開いた。
扉から見下ろすように大階段が続く。
そして無意味に広いホールは真紅の絨毯が広がっている。
この城の歴史を象徴するような、血に染まったような広間。
ルクルトは見慣れたはずの光景に息を止める。
天井近くから差し込むステンドグラスの光が、ホールの中央を狂ったような輝きで紅に燃え上がらせている。
見下ろした赤く染まった絨毯のその中央で、真っ白な花が咲いている。
ルクルトが目を凝らしてみるとそれは1人の少女だった。
近隣の村娘だろうか。
みそぼらしく、やせっぽっちの少女が立ちすくしている。
階段をゆっくりと降りてゆくと、少女の様子が見て取れた。
手入れのされていない長いだけの黒髪。
裾が泥にまみれた白い服。
簡易なサンダルすら履いていない。
ルクルトの近づく気配に少女は何かを差し出し、ひれ伏すように崩れ落ちる。
少女の震える手から書状を受け取る。
書状には形式ばった書き方で、生贄を差し出す代わりに疫病を静めて欲しい、との程が書き連ねてあった。
(なんと愚かな事を…)
「私は」
少女の身が強張る。
「お前を必要とはしていない。そして疫病の事もまた然り。」
少女の手を掴み立ち上がらせる。
「お前のあるべき所へ帰るが良い。」
と、少女が顔を上げる。
その瞳には涙が溢れている。
そして小さな唇から呻き声が漏れた。
「…」
そっと耳を寄せる。
「…帰る場所など…ないのです…。」
「私には…行くべき場所などありません…。」
ルクルトはハッと胸を鷲掴みにされる。
(帰る場所などない)
(行くべき場所すらない)
(まるで…)
(まるで私と同じではないか…)
数十年ぶりに訪れた奇妙な感覚。
戸惑いながらも、ルクルトは密かに思う。
(暫くの間でも…)
(この少女を…ここに置いてやっても良いのではないだろうか…)
(だが、しかし…)
それが2人の邂逅の瞬間だった。
そして、幾時かが過ぎ…。
行くあてのない少女-カナ-の身の上を不憫に感じ、追い返す事もせず城に置く事に決めた。
ルクルトはまずは部屋と着る物を与えた.
意図を読み取れないのか、怯えているのか。
カナは数日部屋から出る事は無かったが、やがて環境に慣れたのだろうか1歩ずつ新しい世界を確かめるように城内を出歩くようになってくれた。
カナは驚くほど教養が無かった。
服もきちんと直してやらねばならないほどで、食事のマナーも、学門も、何一つ知りはしなかったのだ。
そこでルクルトはカナに教育を与え始めた。
学問、哲学、テーブルマナー。
事細かに教えてゆく作業は、またルクルト自身が身に付けたことを反復し新たに学習する事になり、密かな喜びを見出していた。
(人は砂のようだ)
そう思う。
物事を吸収し、形を変え、崩れ、変化してゆける。
目の前の少女が砂の城を作るが如く成長してゆく様は、いつしかルクルトの胸に、平穏と喜びを沸きあがらせていた。
やがて、時間を掛けて少女がレディーへと成長してゆく姿を、いつまでも、微笑ましく、見つめていたいと思うようになっていた。
(何故、ルクルト様はこんなにも良くして下さるのだろう?)
カナは午後のお茶の用意をしながら考える。
いつも、何となく、聞きたくても聞けない質問だった。
その質問が、ルクルトの機嫌を損ねるような気がしてたまらないのだ。
(見るからに、貧乏で、みそぼらしい私の事を憐れだと思っているのかもしれない…)
そう思ってみるものの、ルクルトがカナに向ける眼差しには憐憫の欠片など見当たりもしない。
それどころか、優しさをたたえた瞳で微笑んでくれるのだ。
それは唯一カナに優しかった母親の記憶を呼び覚まし、小さな胸を高鳴らせる。
覚えた歌を嬉しそうに聴いてくれた母親。
文字を書けるようになった事を喜んでくれるルクルト。
他の誰も与えてくれなかった、この胸の感情。
一つだけ母親と違っていたのは、ルクルトはカナに決して触れようとはしなかった。
母親のように頭を撫でてくれる事などなかったのだ。
1度だけ、この城に来た時に手首を掴まれた。
それだけがルクルトとの接触の記憶だった。
その冷たい肌触りを反芻すると、吸血鬼という事を思い出され身震いがする。
(でも…)
吸血鬼といってもルクルトは日の光にも動じないし、カナの血を求める事も無かった。
それも不思議に思ったものの、聞けず終いでいる。
やはり、そんな事など関係なかった。
カナにとってのルクルトは、優しく語り掛け、微笑み、やわらかな眼差しで見つめてくれる。
それがルクルトの全てだと思っているから。
なんとなくカナには、その冷たい手を温めてあげる事が出来るような気がしてた。
何故かは分からないが、そんな気がしていた。
(あんなに、暖かな眼差しをされる方だもの)
(…いつか、きっと…)
(あの方の手を私が温めて差し上げられたら…)
ルクルトを思うと、不思議とそんな気がしてくる。
(…もっと、頑張ろう…)
(ルクルト様が喜んでくれるなら)
(その為頑張ろう…)
(ルクルト様の為に…)
香り立つ紅茶の湯気の中、そんな事を考えた。
2人の間には幾つかの取り決めが行われていた。
「白い薔薇の咲く場所へは決して近づかない事。」
ルクルトはそう断言したきり、その事に触れようとはしなかった。
カナは少し興味を惹かれたが、その言葉に逆らうような事はしなかった。
それを破る事でルクルトの間にあるものが壊れてしまうような気がしていたからだ。
またルクルトもカナが約束を違えるような不実な少女ではないと信じていた。
「黒い服は着ないで欲しい。」
そんな事をルクルトが言い出した。
しかしその言葉とは裏腹にルクルトが着ているのは常に黒い服だった。
カナは疑問を口に出す。
「…あの、ルクルトさまはいつも黒い物を御召しになっていらっしゃいますが…。」
「黒は死者と、それを慈しむ者が着るべき服だ。カナは若いし、何にだってなれる。つまりは…まだ早すぎる、という事だ。」
カナは母親の事を切り出そうかと思ったが、ルクルトの視線がそれを遮った。
「私は、大事な…、大事な人を亡くしてしまったのだよ…。」
その悲しそうな顔はカナの心に影を落としていった。
(どうか…)
(そのお心が…)
(いつか、癒されますように…)
ただ、そう願うしかなかったから。
「もっと勉強してルクルト様のお役に立てるよう頑張ります。だから…。
だから私を御傍に置いて下さい。」
その言葉はルクルトの心に苦い感情を呼び起こす。
(帰る場所も無い)
(行くべき場所も無い)
(ここ以外には…)
擦り切れそうなカナの声に湧き上がる感情を押し殺す。
ルクルトは心を静めながら平静を装い答えた。
(しかし)
(それこそ私の望んでいることかもしれない…)
「カナが良いと思うまで、ここにいても良いのだよ。」
泣き出しそうな笑顔で少女は微笑んだ。
それは一つの楽園の形だったのかもしれない。
でも終わり無き物は無い。
平穏は一時に過ぎず、安穏は打ち破られるのが世の常なのだろうか。
1人の若者が森を越え城を目指していた。
邪悪なる吸血鬼に奪われた少女を取り戻す為に…。
吸血鬼の城を目の前にクロノは森に身を潜めていた。
時を誤れば返り討ちにあってしまうかもしれない。
少女の身の上が案じられたがじっと堪える事にした。
(それにしても…)
生贄などと、なんて馬鹿な大人たちだろう。
その苛立ちが沸々と湧き上がる。
陽光の中、まるで消えてしまいそうな細い身の少女。
保身の為に、あの幼い身を差し出すなど馬鹿げた事としか思えない。
その苛立ちがクロノを突き動かしていた。
でも、多分それだけではない。
(…あの子…)
(きっと、笑ったら可愛いのだろうな…)
少女が村を出立する時に見たあの横顔。
それを見てそんな事を考えた。
そんなささやかな願いの為に人間は行動できる。
そんな自分に驚いてもいた。
それが何なのかは理解できなかったけど。
(でも、助けたい)
決意を固め城へ目を凝らす。
(あの子がまだ無事でいてくれれば良いのだけれど…)
息を潜め、夜が来るのを待ち続けた。
蝋燭の光が城内を移動してゆく。
燭台を持ったカナはルクルトの部屋の前で立ち止まると控えめにノックした。
まだ床についていなかったのか、間を置かず普段着のルクルトが顔を覗かせ、穏やかな微笑みを見せてくれる。
「…まだ起きていたのかい、カナ。」
「あの…すみません。昼間に頂いた刺繍に夢中になってしまいました。それで、遅くなりましたがお休みの挨拶をしようと…。」
「そうか…。夢中になるのも良いが程ほどにしなさい。」
「…はい…ごめんなさい。」
怒られたのかと身を縮み込ませると、ルクルトは軽く笑って言う。
「明日、出来たところまでで良いから見せてもらえるかい。」
「あ…はい。まだ上手く出来ないのですけど…。」
「それで良いのだよ。楽しみにしているよ。さぁ、もうお休み。」
「はい、お休みなさい。」
閉められた扉の前でカナは嬉しそうに微笑む。
(あぁ、どうしよう)
(ルクルト様に見て頂くのに、あまりみっともなくては恥ずかしい)
(喜んで下さると良いのだけれど…)
仕上げをいつやろうか考えながら廊下を歩き出す。
と、暗闇がユラリと蠢いた。
カナは声をあげる閑も無かった。
何者かに口を押えられてしまったのだ。
目の前の影が囁いた。
「静かに!君を助けに来た。」
少女が無事だったのは幸いだった。
クロノは気配を消しながら少女を廊下の角まで連れてゆく。
「頼む、信じて欲しい。僕は君を助けに来た。静かにしてくれるね。」
闇で光る剣に目をやり、少女は引きつった顔で頷く。
クロノは握り締めていた剣を腰に収める。
怯えた少女の姿は胸に怒りと決意を新たにさせる。
「君は逃げたほうが良い。吸血鬼は僕が」
「ル…ルクルト様を…どうするつもりなんですか。」
「刺し違えてでも退治する。」
「そんな…。」
「大丈夫、君が逃げる時間くらいは」
その刹那。
少女はスルリとクロノの手を逃れる。
脱兎の如く走り始めた少女は廊下の奥へと叫ぶ。
「逃げて!逃げて下さい!ルクルト様!ルクルト様!!」
(しまった、彼女は吸血鬼の魔術で操られていたのか)
少女を助けるためにクロノも走り出す。
先に吸血鬼を退治しなければならない。
廊下を先走る少女は気狂いのように叫び続ける。
扉が開き影が現れた。少女はその影へ真っ直ぐに走ってゆく。
(このままでは…)
(でも、しかし)
クロノは剣を手に取り影へと走りこむ。
吸血鬼と思しき影に抱かれる少女。
(しまった!)
剣の重みに狙いが狂い、切先は二人を貫く形で伸びてゆく。
その時。
吸血鬼は少女を庇う形でその身を剣先へ捧げた。
背中から胸を貫く剣。
「っ…いやぁぁぁぁぁ!!!!!」
少女の叫び声に剣を引き抜く。
その傷口からは真っ赤な血が溢れ出た。
(吸血鬼じゃ…ない?)
(何かが…)
何もかもが、狂っていった。
「ルクルト様!ルクルト様ぁ!」
朧げな意識の中、カナの泣き声が聞こえる。
重い瞼を開くと泣き叫ぶカナが顔を覗き込んでいた。
(私は…どうしたというのだ?)
(胸が…熱い…)
(そうか、私は)
(この城は、そう簡単に死なせてはくれないのだな)
「ダメです、ルクルト様!しっかりして下さい。」
(優しいカナ)
(可愛いカナ)
(そんなに泣いてはだめだよ…)
手を握り大粒の涙を零すカナの横に男が立っているのが見えた。
(嗚呼、そうか)
(彼が…)
「カナ…。」
「…ルクルト…さま…。」
「それから、そちらの君も、聞いて欲しい。」
男は体を強張らせるが、真っ直ぐな瞳で見つめ返す。
「…喋ってはだめです、どうか、どうか…。」
すがりつくカナを言葉優しく咎める。
「いいのだ。最後まで聞いて欲しい。どうか。」
「昔にも村から生贄を、との話があった。選ばれたのは1人の美しい女性だった。彼女には恋人がおり、その名をグラフと言った。グラフは理不尽な生贄に反対し女性を救い出す為に城へ向かい、そして帰ってこなかった。」
「それから暫くして城へ向かう者がいた。彼はグラフの親友で、彼の身を案じていた。吸血鬼を殺しグラフを救おうと思い上がった若者だった。城に着いた彼は暗闇の中に身を潜め吸血鬼を殺そうと思った。そしてそれは成功した。彼は吸血鬼を退治したのだ。」
「だが、松明に照らされた吸血鬼は他ならぬグラフ本人だったのだよ。若者は親友を殺した自分に悲観し死んでしまおうと思った。でも死ぬ事は出来なかった。何故なら、城に呪いがかかっていたのだ。」
「城の呪いは3つ。
誰かの手で殺されない限り死ねない事。
城の敷地から出る事が出来ない事。
そして、城主を殺した者が次に呪いを受けてしまう事。
吸血鬼などと言うのは嘘だったのだよ。」
「若者は死ぬ事も出来ず、ただ。毎日を悲観して生きてゆくしかなかった。白薔薇の下に友人を埋葬し、その後悔を繰り返し、永遠の孤独に絶望しながら、だ。」
「そんなある日、1人の少女が城を訪れた。どうしようもない孤独を抱えた少女を助けてあげたいと思った。でも、それは間違いだったのかもしれない。私はまた誰かを不幸にしてしまったようだ。」
「それでも、私は…。」
2人が懸命に握り締める指先に熱が篭る。
それは、カナの想い。
そして、ルクルトの願い。
「ルクルト様…。いやです!置いて行かないで下さい!!」
「…君に会えて…」
ルクルトの口から血が溢れる。
その瞳は一心にカナを見つめる。
あの優しい瞳で。
「嗚呼、白薔薇の所で…グラフが…待っている…」
最後の優しい、瞳の輝き。
「…幸せに…おなり…カナ」
「いやです!ルクルト様!ルクルト様!!
私を…御傍に、ずっと御傍に置いて下さい!!
ルクルト様!!!!」
暗闇にカナの絶叫が木霊した。
森の奥に誰にも忘れられた吸血鬼の城がある。
そこには2つの孤独が住んでいる。
死ぬ事の出来ない若い城主。
白薔薇に祈りを捧げる美しき黒衣の女性。
でも。
もう、誰も知る事のない話。
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