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この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。

短編 恋愛

師匠失格

作者:守野 伊音


 天界と人間界の間に蟠りができて幾百年過ぎただろう。
 天人が傲慢だったのか、人間が欲深だったのか。今ではもう分からない。いや、あの頃から誰も分かっていなかった。始まりが何だったのかすら、誰も知らない。
 ただ、天人が人間を下等な生物と見下したあの時から、人間が天人を捕えて見世物にしたあの時から、既に始まっていたのだろう。

 嘗て神は、天界においてただ一人の絶対神だった。しかし、いつしか人間は独自に神を持ち、信仰した。数では圧倒的に勝る人間においての神は徐々に力を増していき、やがては天界を脅かす存在となっていった。
 天と地では幾度も戦端が開かれた。
 幾度も、幾度も、何百年も。
 しかし、矢尽き、剣折れるまで突き進むのはいつも人間で、天人はそこに理由を見出さなかった。羽虫が群がって目障りだから散らす。その程度の気持ちでしかなかった。だから、先制攻撃を仕掛けることは稀で、戦端を開くは人間で、天人はそれを容赦なく殲滅した。
 人間は天人を憎んだけれど、天人はそうではない。憎む程の相手として人間を見てはいなかったのだ。害虫として疎みはしても、憎悪を抱くほどの相手とは思わない。それほどに、人間と天人の力の差は大きかった。そして、その傲慢さを人間は許せず、天人はその傲慢さ故に人間に己と同じ心があると思わなかった。


 そしていつしか天人は、その長い生の中で人間との戦に飽いた。ただの害虫駆除として羽虫払う作業を黙々とこなすだけとなる。
 幾年も幾年も飽きもせず、同じように攻めてくる人間相手に欠伸をしながら、天界は今日も平和だった。



 かくいう私もその一人だ。戦場に参加していたのは、もう優に百年以上前の話だ。天人は寿命が長い。神に近しい者達は千も二千も生きている。私はまだ三百歳ほどだけど。
 見目は好きな時期を選べるので、私は一番身体が動きやすい若者の身体を使っていた。幼すぎると小さく不便で、老いすぎると動作が緩慢になってじれったいからだ。そう考えるものは私だけではない。他の多くの天人も、成体との境目か、成体の身体を使っていた。

 のんびり天上の街を歩く。今日もいい風が吹く。
 朝焼け色の髪を風に流して、私はほくほくと懐に入れた箱を服の上から触った。ああ、長かった。ようやく手に入れた。ずっと、もう十年以上、節約して節制して、貯めに貯めて購入した懐中時計。
「ルタ、喜んでくれるかなぁ」
 ちょっと表情に乏しい赤い瞳を思い浮かべて、私はふふっと笑いを零した。
 ルタは私の弟子だ。戦場を離れて、もう後はのんびり生きようと思っていた頃、道を歩いていたらいきなり弟子入りしたいと言ってきた幼体がいた。黒髪に赤い瞳が印象的な大層美しい少年だった。
 彼はルタと名乗り、是が非でも私に弟子入りしたいと言い募った。最初は断っていたけれど一向に帰ろうとせず、いつの間にか私の家に住みついてしまった彼に根負けして弟子にしてしまった。何故か酷く常識知らずで、羽の仕舞い方すら知らなかった彼に絆されたというのもあるにはある。
 この子どもを一人で放り出すのも気が引けるし、生活習慣を覚えるまでは、または彼が飽きるまでと弟子にしてみた。どうせ後はのんびり余生を過ごすだけのつもりだったから、それまでの暇潰しになればいいと思っていたのだ。
 しかし、ルタはとても優秀だった。とてもどころではない。恐ろしいほどに優秀だった。
 あっという間に私の手には負えないほどの力を発揮してしまった。この間三年ほどだ。
 私は慌てた。その頃にはすっかり情が移ってしまった弟子の将来を考えると、これではいけない。もっとちゃんとした機関で、ちゃんとした人に弟子入りさせるべきだ。私で面倒を見られる基礎はとっくに覚え、天立図書館で上級術の本を借りてきて一人で練習する彼の小さな背中を見て、私はそう決めた。
 その日から、私の節約と彼の師匠探しが始まった。
 彼の力より上となると、上位天人となる。上位天人は長い時を生きている者ばかりで、少し性格に難がある事が多い。その中で、比較的心優しく穏やかで、横暴ではなく、手が早くない者を探した。勿論、彼の力をちゃんと制御できて、導いてくれる者。尚且つ彼を家族のように慈しんでくれる者。
 探した探した。それはもう探した。他の人に託そうと決め、ルタにそう伝えるまで出会って三年。探し始めて十年。この探しっぷりを分かってほしい。
 ある程度絞られる選択肢の中で、返事が来るまでこれまた気が長い天人ばかりで、五年前に送った返事がようやく十日前に届いた。その日にルタと話をして、彼の元に弟子入りすることに決まった。
 だから、今日でルタとはお別れだ。
 寂しいけれど、これがルタの為だと思うから、笑ってお別れできる。あんな優秀な弟子を持てただけで幸せだ。
 私は、それでもやっぱり寂しいなと苦笑しながら、もう一度箱を撫でた。
 これは、表情に乏しいルタが、初めて目を輝かせて見つめていた懐中時計だ。真夏の雲より真白い蓋を開けると、時計の中には空が広がっている。時計の針と共に色を変えていく空と雲に、ルタは珍しく子どもみたいに見惚れていた。買ってほしいとは言わなかったけれど、私が用事を済ませるまでずっとその時計を見ていたし、帰り際にも視線を向けていたのを知っている。買ってあげたかったけれど、これがまたお高い。ちょっとした家を買えるくらいのお値段だった。確かにそれだけの美しさがある。だが高い。
 私は、ルタへの餞別にこれを買うことに決めた。店主に事情を話して取り置いてもらって十年。気が長い天人で助かった。
 おかげで貯金はすっからかんだけど、まあ、なんとかなるだろう。私の貯金額まで知っているルタが受け取らないかもしれないことだけが心配だけど、これが師匠としてしてあげられる最後のことだ。絶対に受け取ってもらおう。




 小さな庭と小さな家。両親が遺してくれた唯一の物。
 ああ、ここにただいまと声をかけて帰るのは今日が最後なんだと噛み締めて、私は声を出した。
「ルタ、ただいまー。ごめんね、遅くなっちゃった」
 狭い家だから、玄関を入ると奥にリビングが見える。テーブルの上には、昨日から用意を始めていたごちそうが所狭しと。
「あれ?」
 並んでいる、はずだった。


 テーブルが倒れている。勿論、その上に乗っていた食事も全て床にぶちまけられて、到底食べられるものではなくなっていた。見た目にもこだわって、色取り取りにした料理だったのに、全て混ざってしまえばただ床を汚す汚い色だ。
 でも、私の眼はもうそれを見てはいなかった。
「ル、タ……?」
 狭い家だった。狭い、はずの、家の中に、数万を超える人間がいるなんてこと、あり得ないのだ。
 いつの間にか背後の扉が消えていた。目の前には武装した人間がずらりと列を成している。その向こう、はるか遠くにまでその列は繋がっていた。
 そして、私の胸を貫くその剣は、成長に合わせて大きくしていったルタの。
「ル、タ」
 ごぼりと口から血が噴き出す。せめて剣の持ち主がルタじゃなければいいなと思ったのに、そこにいたのは、すっかり成長して成体となったルタだった。
 剣を伝って流れ落ちる血は、鍔で遮られて床に滴り落ちていく。
 ルタは、いつものように感情に乏しい瞳で私を見下ろしている。なかなか背が伸びなかったルタも、六年ほど前からぐんぐん背が伸びてあっという間に私を追い越した。
「汚らわしい天人が、我らが王の名を呼ぶな!」
 いつの間にか後ろにいた男が私の身体を蹴り飛ばした。胸に突き刺さっていた剣が抜け、床に叩きつけられる。痛みは思ったよりなかった。ただ、ずるりと抜ける感触が不快で思わず顔をしかめる。
「王……?」
 この人間は酷く不思議な事を言う。天人である彼が、人間の王であるはずがない。そもそも、人間界の王はその血を絶やしたと聞いた。
 だって、私が王と王妃を殺したのだ。
 その子供もいつしか死んだと。だから私は戦場から身を引いたのだから。


 何故人間が天界にという疑問は、もうどこかへ飛んでいっていた。血が止まらない。床がどす黒く染まっていく。ルタと一緒に選んだ敷布。あなたの眼によく似た可愛い花が咲いた、お気に入りの。
 ルタ、ああ、ルタ。私の可愛いルタ。
「我らが神が道をお与えくださったのだ。王を天人として生まれ変わらせ、天の門内と地上を繋ぐ道を!」
 もう、男の言葉も理解できない。

 ルタ。私の、ルタ。
 一人ぼっちだった、私の弟子。

 ルタは血が滴り落ちる剣をだらりと身体の横に下げたまま、私を見下ろしている。
「…………何故、両親を殺したのですか」
 両親、両親。言葉がぐるぐる回る。男の言葉はもう理解できなかったけれど、ルタの言葉は必死に拾う。両親、両親。私の、両親。
「私の、両親、は」
「お前のではない! 先代国王陛下と王妃様だ!」
 男の声が、うるさい。
「あなた、たち、が、見世物と、し、て、城、で、殺した、でしょう?」
 天界にはない草花が好きでよく地上に降りていた母。危ないからと私は連れていってもらえなかったけれど、父はいつも一緒にいて。父さんと母さんは私を置いてデートしてるんだと頬を膨らませて待っていた。いつも待っていた。
 そうして、いつまでも、待っていた。
「だか、ら、ごめんね、ルタ……会わせて、あげられ、ないの」
 ごめんね、ルタ。私、師匠なのに、ルタのお願い聞いてあげられない。
 ルタ、どうしよう。私、駄目な師匠だけど、あなたの為に何がしてあげられるのかな。何ができるかな。できること、後、何が残ってるかな。
「ルタ……ルタ……まってて……ちゃんと、凄い、人、さがして、くる、から。ルタが、りっぱに、成長、できるよう、に、ちゃんと、見てくれる、優しい、人、さがして……ルタ……だから…………」

 羽の仕舞い方を知らなかったルタ。一緒にお風呂に入って一枚一枚洗って綺麗にしてあげている間、身体をがちがちに強張らせていたルタ。温かい風で一枚一枚乾かしてあげている内に、いつの間にか眠ってしまったルタ。一緒のベッドで眠り、目を覚ました時には床に額をつけて無礼を謝罪したルタ。
「ルタ」
 滅多に笑わないルタ。真面目なルタ。頑固なルタ。口数少ないルタ。
「ルタ」
 料理も洗濯も手を抜かないルタ。出会った記念日にと毎年私が作るへたくそなケーキを残さず食べてくれるルタ。背が伸びてつんつるてんになった服に頓着しないルタ。無理やり連れていった衣服店で、師匠の懐事情に考慮しまくった服しか選ばないルタ。
「ルタ」
 我儘一つ言わないルタ。突然の豪雨で雨宿りした身体が酷く冷え、かちかちと歯を鳴らすほど寒がっていたのに弱音一つ吐かないルタ。熱を出しても一言も言ってこないルタ。
「ルタ」
 寝ずに看病した晩、私の手を握って、ありがとうと小さく泣いたルタ。

 ルタ
 ルタ
 ルタ


 一人ぼっちだった、私の弟子。


「しあわせに、なって」


 一人ぼっちだった私の、ルタ。









「そうして、人間王は天界を滅ぼしました。これでもう、天から気紛れに落とされる落雷で命を落としたり、美しい人間が連れ去られたりすることはありません。彼のおかげで、地上に平和が訪れた」
 めでたし、めでたし。
 柔らかい老婆の声でしめられた物語に、子ども達はわぁっと声を上げた。
「王様ってすごいんだなぁ!」
「おれ、大きくなったら王さまになるんだ!」
 きゃあきゃあと、男の子でも子ども特有の甲高いを声を上げて目を輝かせる子ども達は、本を読んでくれた院長先生の周りを飛び跳ねた。院長である老婆もまた、穏やな声音と同じほど柔らかな瞳で子ども達に微笑んでいる。
 そんな老婆の裾を引いた少女は、舌っ足らずな声で聞いた。
「ねえ、ねえ、いんちょーせんせ! おうさまは、そのあとどうしたの?」
「王様はね、最後の王族であり、最後の天人であるが故に、その後は国政に関わらず、ずっと神殿で過ごされているのですよ」
 子ども達は飛び上がって驚く。
「え! 王さま生きているの!?」
「ええ、千年前からずっとご存命ですよ。何故なら、天人は寿命がとても長い上に、今では神の領域に達していらっしゃる方ですから。でも……世界でたった一人の天人ですから、あまり周囲と関わり合いになられないそうです。きっとお寂しいでしょうね」
 王様可哀相……そんなしんみりした空気の中、盛大に鼻を啜った子どもがいた。私だ。
「ぞんなにょあんまりだ、ぞんなにょあんまりだぁ!」
「まあ、まあ。アセビ? どうしたの? あらあら、そんなに泣くと、また倒れてしまいますよ」
 優しい院長先生のふくよかな身体に抱きしめられても、号泣した私は泣きやまなかった。
 だって、あんまりだ。そんなのあんまりじゃないか。
 一人ぼっちのルタが一人じゃなくなればいいと思っていたのに、千年も一人ぼっちだなんてあんまりじゃないか。
「あんまりだぁ!」
 ぎゃあぎゃあ泣き喚く私のせいで、読み聞かせ会は終了した。
 孤児院の皆には本当に申し訳なかったけれど、今の私はそれどころではない。
 彼に殺されたのは仕方がない。私が彼の両親を殺したのだから。その上、人としての彼を捨てさせてしまったのも私だ。私が憎悪の連鎖を自分で止められず、彼に続けてしまった。復讐を果たした私は、自分の中の憎悪に折り合いをつけてしまった。私が始めてしまったものに気付きもしないで、もう終わったのだと思ってしまったのだ。
 天界が堕ちたのも、まあ、分かるは分かる。だって天人は長く生きている間に短命の者を命として見なくなっていた。気に入ったものは相手の意思関係なく天上に浚ってくるし、適当に天気を荒らして作物を散らして、落雷で命を奪う。まあ、人間だって天人を見世物にして羽を剥いで飼ったりするから、どっちもどっちだ。
 問題はどっちが悪いとか何を憎むかという話ではない。
 私の可愛いルタが、いま、一人ぼっちで千年も生きているということだ。
 私は、小さく丸い手を握り締めて、心を決めた。


「わたし、おおきくなったら、おうさまのいるちんでんではたらく! それで、おうさまがさびしきゅないように、おともらちいっぱいつくるおてつだいするの!」


 私が人間として生まれて三年。
 人生の指針を決めて十秒。
 孤児院を卒業して神殿で働くまで、後十二年。











「では、各々方、今日も恙なく参りましょう」
 室長の声を締めとして全員一礼し、今日の朝礼が終わった。
 静かに列を成して部屋を出て、各々持ち場に散っていく。



「アセビ! 一緒にいこ」
「うん!」
 同室のローリヤと並んで、今日の掃除場所に向かう。
 私は神殿の掃除人として配属されることに成功した。こうして気の合う同世代の女の子と同室になって、友達にもなれたし、凄く最高の気分だ。
 広い神殿は、土地をぜいたくに使った作りで、二階が全くない。広大な土地に延々と平屋が続いているので、用事がある部屋に行こうとして迷う人間が続出する。住み込みで働いている者や、もう長く神殿で暮らしている神官達も、普段使っていない道を歩くと迷うくらいだ。
 そんな中、つい先日配属されたばかりの私とローリヤは、悠々と道を進んでいく。擦れ違った神官に頭を下げて道を譲り、私達は顔を見合わせた。
「うふふ……迷ったわ」
「……迷ったね」
 当然、迷っている。二人で肩を落として溜息をつく。バケツに入れた掃除道具ががしゃんと文句を言うけれど、迷ったものは仕方がない。

「まあいいわ。迷っても叱られないのがこの神殿のいいところだもの。せっかくだから探検しながら行きましょう! それで、誰か見つけたら道を聞けばいいわ。神官以外よ!」
「うん」
 中庭に沿って作られた通路は、屋根があるだけですぐに外に出ていけるので、向こう側に見つけた人でもいい。知り合いがいたら走って渡ってしまおう。
 ぐっと握り拳を作ったローリヤは、先日若い神官に道を聞いて、同じくらいの日に配属されたのに覚えてないのかと笑われて憤慨して以来、神官嫌いになっていた。別に全ての神官がああいう性格ではないと思うけれど、まあ、その内落ち着くだろうと思って何も言わないでいる。
「ねえねえ、アセビはどうして神殿で働こうと思ったの? 私はね、お給料がいいから! お給料いっぱい家に送ってあげられたら、弟達に絵本いっぱい買ってあげられるんだ!」
 ローリヤは、二つに編んだ三つ編みを一つに纏めた髪をぴょこんと跳ねさせて振り向いた。快活な笑顔が好ましい。そして可愛い。こんな屈託ない笑顔を、見てみたかった子どもがいた。自分がその笑顔を奪っただなんて考えもつかなかった馬鹿な私は、いつかそんな顔で笑ってくれる日がくればいいと呑気に思っていたのだ。
「私ね、とっても大事な男の子がいるの」
「好きな子!?」
 すわ恋バナかと目を輝かせて食いついてきたローリヤに苦笑を返す。
「ううん、弟みたいな子。私、その子に何もしてあげられなかった。それどころか、凄く、嫌われてたんだ」
 一際大きな風が吹いて、目を細める。その先にいた人を見た瞬間、一度止まった心臓がどくんと泣いた。
「あ、うそ、王様よ! 王様がいらっしゃるわ!」
 首を傾げて私の視線の先を追ったローリヤが、私の肩を揺さぶって興奮した声を上げた。


 長く伸びた黒い髪を先程の突風で靡かせ、空を見上げているその瞳はまるで宝石のように紅い。神の恩恵を一身に受けたこの世の美の集大成だと唄われたその人は、今日も一人で世界に立つ。
「ああ……なんて綺麗なの…………でも、不思議ね。この世に一人の尊い御方なのに、お見かけした際に話しかけても良いだなんて、室長達も不思議な指示を出すのねと思ったわ」
 ローリヤは、うっとりと見惚れながらも首を傾げた。室長は、そんな恐れ多いと慄く新人達に、長らくの慣習だから構わない、けれど答えを頂けない場合が多いことを肝に銘じるようにと言った。
 私は未だ空を見上げるルタの横顔見ながら、胸を押さえる。じわりと滲みだすそれを抑え込み、握り込む。
「……たぶん、ずっと昔、誰か、彼に寄り添う人がいてほしいと願ってくれた人が、いたんじゃないかなって、思ってる」
 今でもその思いが続いていて、どんな人との出会いも阻害しないようにされているんじゃないかな。私の願望が詰まった予想に、ローリヤは、だったら素敵ねと言ってくれた。
 彼の姿が見える位置にたくさんの人の姿が見える。皆一様に見惚れるように彼に視線を向けているのに、話しかけている人の姿はない。室長も、返事はないものだと思えと言っていた。
「ローリヤ、私ね」
「ん?」
「私は傍にいてあげられないし、あの子もそれを望まない。でも、私、何かあの子の為に出来ることがあればと思って、ここにいるの」
 すぅっと息を吸う。やめろやめろと掃除道具達はがしゃがしゃ鳴って私を止める。決して、私の震えじゃない!
「王様――!」
「アセビ!?」
 ぎょっとしたローリヤが私の手を握って止めてきたけど、私はもう一度大きく息を吸った。
 酷くゆっくりとした動作で黒髪が揺れて、紅い瞳が私を見つけて止まる。

 ねえ、ルタ。笑うかな。私、今でもあなたが大好きだって知ったら、あなたは笑うかな。それとも、気持ちが悪いと顔を顰めるのだろうか。
 ああ、でも、ごめん。ごめんね、ルタ。私、あなたが本当に大好きだったの。あなたが現れたあの日からずっと、寂しくなかったの。
 私だなんて名乗らない。また私と一緒にいてだなんて願わない。

「いい天気ですね――!」

 だけど、師としてあなたの為に出来ることを探すくらいは、許してはもらえないだろうか。





 窓を拭いていたら、中庭に彼の姿を見つけてさっきまで拭いていた窓に指紋が付くことも忘れてすぱぁんと開け放つ。
「王様! こんにちは――!」
 振り向いてくれたのは最初だけで、後は完全に無視してくる背中を気にせず話しかける。ちなみに、通りすがりの人達は、皆一様にぎょっと振り向いてくれた。
「今日の夕食なんでしょうね! 私、ゴルマの種が好きなんで、あれを塗したお肉をかりっと揚げたのが出ると凄く嬉しいんですよ! あ、王様は何が好きですか――!?」
 長い足を駆使してあっという間にルタが消えていく。
「王様―! また今度――!」
 遠いので声を張り上げなければいけないのは難点だ。近くてもあっという間に遠くなるから更に大変なのである。
 一日一会話を目指しているけれど、未だ会話になった試しがない。
「今日も駄目だったかぁ」
「アセビったら凄いわ……私だったら、恐れ多くてとても」
 きらきらとした感嘆の瞳で雑巾を絞り千切ったローリヤだったら、きっとルタも興味を持って視線をくれるだろう。ローリヤ? 洗濯物は私に任せてね。
「えへ、力入れすぎちゃた」
 てへっと笑う様子が可愛らしくて、思わず顔が綻ぶ。愛らしい笑顔を浮かべるローリヤならまだしも、やせっぽっちで枯草みたいな髪の私では箒にしか見えていないかもしれない。
 私はうーんと唸った。最初にルタに話しかけてからもう一か月。掃除場所は慣れるにつれてどんどん奥の部屋になっていったから、ルタに会える機会は増えたけど、未だに一日七声止まりだ。せめて一会話! そして、目指せ私以外の誰かと会話!
「誰かが懲りずに話しかけてたら、皆も話しかけやすいかなって思ったんだけど、誰も話しかけないね」
 気をつけて新しい雑巾をそっと絞っているローリヤは、そうねぇと苦笑した。
「みんな、どちらかというとアセビばかり見てしまっているわね。その細い体でよくもまあそんな大声出せるもんだって、警備の人感心してたわよ?」
「え!? それ困る! 私じゃなくて王様を見て、あ、親しみやすいなとか、話しかけてみようかなって思ってくれないと!」
「えー、それ無理――」
 無理かなぁ。何度もローリヤや同僚にも声をかけてみようよと誘っているけれど、未だに叶っていない。今度室長も誘ってみよう。なんだったら、警備の人も神官も誘ってみよう。赤旗機、皆で渡れば怖くないの精神だ。でも、皆で渡っても無視されるものは無視されるだろうけど、皆でいっせぇので「王様――!」と叫んだら、さしものルタも目を丸くするだろうか。
 自分の想像に楽しくなってきた私に、後ろから声をかけてくる人がいた。知らない神官だ。
「おい、あっちから王様がいらっしゃるぞ! もう一回チャンスだ!」
「ありがとうございます!」
 慌ててもう一回窓を開けると、確かに向こうからルタが歩いてくる。用事が終わったのだろう。最近はこうやって見知らぬ人がルタ情報をくれて応援してくれるけど、出来れば彼ら自身にも話しかけてほしいものだ。でも、一歩前進だと思えば焦ってはいけない。
「王様――! またお会いしましたね――! って、ああ――!」
 まだ私が此処にいることに気付いたルタは、明らかに今まで向かっていた進路を変えて通路の向こうに消えていった。




 そうして神殿で働き始めて二か月目の今日、私は、ちゅんちゅんと鳴く小鳥の声を聞きながら朝を感じていた。
 ルタの寝室で。
「……何故、ここにいる」
 私が五人くらいは平気で寝転べそうな広いベッドの上では、不機嫌を隠そうともしないルタが私を半眼で睨み付けていた。知ってる。朝に弱いよね。でも、私の弟子だった時は師匠より後に起きないようにと頑張っていたのも知ってる。ちょっとした悪戯心でどんどん起きるのを早くしていたある日、連日の疲れで結局昼まで眠ったルタの寝顔をにやにや眺めていたら、開眼一番拳を喰らったものだ。懐かしい。寝ぼけていたらしいけど、綺麗に顔面の中央にめり込んだので、私の弟子は術だけじゃなくて体術の才能もあると感激したものである。そうして私が作ったへたくそな朝食兼昼食を食べながら褒めちぎっていると、もうやめてくださいと消え入りそうな声で言ったルタが可愛くて、私は幸せだった。
 今考えると、自分の寝顔をにやにやした笑いを浮かべた親の仇が眺めていたら、そりゃあぶん殴りたくもなるだろう。さぞかし気持ち悪かったことだろう。本当に申し訳なかった。
 と、過去に逃避するのは置いておいて、いまは現在のルタの相手が先決だ。
 だから、私は胸を張って答えた。
「私にもとんと」
「…………何だと?」
「早朝、就寝中の私の部屋に室長が訪れ、本日付で王様付のメイドと、なりました、と」
 私、いま、ルタと会話をしている。私、いま、ルタと!
 喜びが湧き上がるけど、それと同時に、いまルタの頭に浮かんでいるであろう言葉と同じものが私の中に渦を巻く。
 どうしてこうなったんだろう。
 私は、出来れば遠くからルタと関わっていたかった。だって、私が傍にいるなんて知ったらルタは酷く嫌がるだろう。もう一回殺しに来るかもしれない。まあ、それはいいとしても、ルタに嫌がられたら傷つく。ルタに嫌悪の眼差しを向けられたら、それこそ殺してくれと叫びそうになるのだ。
 だから、出来れば遠くから、ルタの為に出来ることを探したかった。最近では、どれだけうるさく声をかけても怒らないルタに、話しかけてみようかなとぼそっと呟く人が出てきてくれた。話しかけるといっても、おはようございますの挨拶かららしい。それでも、そう思う人が増えてきたのは、凄くいい傾向だと思う。まあ、私は未だに返事一つもらったことがありませんが!
 そのルタの声を聞けたのは嬉しい。嬉しいは嬉しいけど、想像していた状況とだいぶ違う。
 ルタは寝起きで頭が回らないのか、顔面を押さえて俯いた後、小さく呻いた。
「俺が昨夜、名前を聞いたからか……」
「俺!?」
「は?」
 ルタが、ルタが俺って言ってる!
 私の胸を衝撃が貫いた。だって、ルタはいつも私と同じで私と言っていた。小さな小さなルタが、私と言って背筋を伸ばしている姿は、それは可愛らしかったものだ。
 そのルタが、俺と。
 何だか感激してしまっていたけれど、そのルタの言葉を思い出して動きを止める。
「……名前? 私の? 名前?」
 いま、じわぁと胸に広がっていくのは血じゃない。喜びだ。
「聞いてくれたの!? 私の名前!? 嬉しい!」
 私の名前を誰かに聞いてくれたのか。私を、知ろうとしてくれたのか。
 ああ、どうしよう。嬉しい。嬉しすぎて…………礼節を忘れていた。
「………………聞いて頂けたのですか、私の名前を。有難き幸せでございます」
 今更敬語に戻して取り繕った私を、冷たい瞳が射抜いた。





「王様、王様」
 王様付に就任した私は、遠くからルタを見守りたい初心を大事に、一日目から仕掛けた。つまり、クビになろうと思ったのだ。この任はクビになって、また掃除人に戻りたい。そして遠くから、ルタに声をかける人が増えていく姿をにまにま見守ろう。
「王様はどんな人が好みですか?」
 うるさくしてクビになろうと決めたけど、ついでに情報収集はしておきたい。誰か、ルタにお似合いの女性を! 
 歴代の神官達も同じ願いで色々してきたらしいとは風の噂で聞いた。美人ばかりを側仕えにしてみたり、今度は可愛らしい子、素朴な子、小さな子ども、男。色々頑張ったらしいけれど、いまルタが一人なのを見るとすべて失敗に終わったらしい。
 寿命の差を心配する必要はない。天人の羽を相手の体内に埋め込めば、その人間は持ち主の天人が死ぬまで生き続ける。
 私はお世話おばさんになろうと決めた。

 本を読んでいるルタは、ずっと私に背を向けている。けれど、二か月間ずっと背を向けられ続けた私に隙はない。
「美人さん?」
 返事はない。
「可愛らしい人? 背は高いほうがいいですか、小さいほうがいいですか? セクシーな人がいいですか、スレンダーな人がいいですか? 髪の色は? 目の色は? あ、これだけは嫌っていう条件があればそれもお願いします」
「うるさい」
 返事があった! 会話を、私いま、ルタと会話をしている!
 じいんと感動していると、すっごい鬱陶しいものを見るかのような紅い瞳があった。
「クビですか!? じゃあ、また掃除人に戻して頂けると幸せです。あ、でも、せめてもの情けに好みを一つでも!」
「年上」
 なん、だと……?
 会話に感動する暇もなく、私は衝撃を受けた。ついでにいうと、耳をたてていたらしい側近の人達もよろめいている。古くからいる老臣なんて、そのままぽっくり逝ってしまいそうだ。
 齢千年を超えるルタより、年上。
 私は、男女の仲介をする難しさをひしひしと感じた。


 何故かクビにならなかった私は、次の日の朝もルタの寝室に駆け込んだ。礼儀も何もかも忘れて扉を叩き開ける。
 そして、一睡もせずに探し出した結果を意気揚々と寝ぼけ眼のルタの前に掲げた。
「見てください! 樹齢二千年の木を見つけました! きっと王様が祈れば精霊の一匹や二匹できますよ! 年上ですよ王様! 念願の年上!」
 広げた分厚い本を得て尚、めり込んできた拳は痛かった。





「王様――、私をクビにしてくださいよぉ」
 情けない声を無視されつつ、ルタが読み終わった本を棚に戻す。そして、ルタが好きそうな本を選んで積み重ねて持っていく。ルタ、読むの早いな。さすが出来のいい子! 可愛い!
「王様、ずっと一人で寂しくないですか?」
 ルタの座っている向かいに椅子を引きずってきて座る。
 クビを覚悟していると、怖いものは何もない。いや、掃除人までクビになって神殿から叩き出されると、ルタと会えなくなるので怖いけど。後、住む場所がない。
 昔は、出来の良い弟子に恥ずかしくない師であろうといろいろ取り繕っていたけれど、今はそんな努力する必要がないので、勢いだけで生きていける。こういう形でルタと関わるのは、これはこれで凄く楽しい。
「ねえ、王様、伴侶と二人で悠久の時を生きるのって素敵だと思いません? 二人でなら、寂しくっても平気だってなりません?」
「うるさい」
 今日もルタが私と会話をしてくれた。幸せだ。
「やっぱり王様くらい美人さんじゃないと駄目ですかねぇ。それとも、その量の本をぺろりと平らげてしまうくらいの才女さんですか?」
「じゃあ、お前」
「私ですか? 嫌ですよ!」
 ばんばん机を叩いて抗議する。ルタはようやく本から視線を外して私を見た。
「自分が嫌なものを他者に押し付けようとするな」
「だって、王様みたいな美人さんの横にこんな枯れ箒を立て掛けるなんて、それこそ冒涜ですよ! 王様を掃除道具箱扱いですよ! 許されませんよ!」
 私の渾身の抗議を聞いたルタは、ぽかんと口を開けた。
 ぽかんと。
 ルタがぽかんとしてる。可愛い。ルタ、可愛い、嬉しい。
 あの頃見られなかったルタの感情が零れるのがとても嬉しいと同時に、ちょっと寂しい。やっぱりルタは、私に気を許していてはくれなかったのだと再確認してしまう。それはそうだろう。だって、憎まれていたのだから。
 私はちらりと後ろに視線を向けて声を潜めた。
「それに、冗談でもそんなこと言ったらまずいですよ。私以外にも王様に伴侶をと切望している人は大量にいるんですから。ほら、みんな何か書きとめ出したじゃないですか! 私みたいなのが好みだと思われて、困るのは王様ですよ!」
 ねえ、ルタ。私みたいなのがずらりと並べられたお見合い会場を思い浮かべてみなさい。最悪でしょう!?
 思わず涙ぐんでしまった私に、ルタは変なものを見るような瞳を向けた。
「お前、変な奴だな……」
 変なものを見るような瞳じゃなくて、変なものを見ていたようだ。

 ルタが私をお前と呼んでいるのに、未だに慣れない。昔はずっと「師匠」だったからだ。でも、他の人に弟子入りすると私は元師匠になるから、名前で呼んでと言い続けて十年。それが叶ったことは終ぞなかった。そりゃあ、呼びたくもないだろう。親の仇の名なんて。
 だから、お前呼びが実は楽しい。なんだか対等になれた気分だ。師弟ではなく、ただのルタと私。こんな出会い方もあったんだなと、ちょっと面白い。
 ずっと遠巻きにされていたルタは、実はこんなに喋りやすいんだと、みんな早く気が付かないかな。そうして、皆の中で楽しそうに笑っているルタを見られる日が来るといいな。
 私は、まるで昔食卓で向かい合っていたような気分になって、肘をついた手に顎を乗せてうっとりとルタを眺めた。

 ちなみに、ルタってとっても会話上手で喋りやすいですよね、みんな気軽に話しかけるといいですよねと老臣にうきうき自慢したら、目を逸らされた。何故。




 困った。クビにならない。
 かなりうるさくしている自覚があるだけに、クビにならずに首を傾げる。あまりにクビにならないので、側近の一人を掴まえて聞いてみた。
「そりゃ、なりませんよ。あなたから辞めたいと言い出さない限り」
「言ってますよ?」
「だって許可していませんから」
「そこはしてくださいよ!?」
 何でも、今までルタの側付になって辞めていった美しい女性達は、ルタに恋をして、焦がれて、叶わぬ恋に自ら暇を頂きたいと申し出てきたらしい。つまり、ルタからクビを言い渡したことは一度もないのだそうだ。
「何故ですか?」
「王はとてもお優しい方ですから。ご自分が暇を出したと知られれば、その女性達が後々生きづらくなると」
 ルタって優しい。人間には、とても優しい。
 こんなに優しいルタだ。そりゃあ、女性達の胸を貫いてきたことだろう。
 私の胸も貫いた。私はきゅんとした胸を押さえてよろめく。そういえば、ルタがあまりに素晴らしいからしょっちゅう胸を貫かれているけど、物理的にも貫かれたことがある女は私だけだろう。
 私は胸の布がずれてないか確認して拳を握った。
「よし、この手でいこう」
「どの手ですか。やめときましょうよ。どうせ無駄ですから」
「やる前から諦める姿勢はよくありません! 王様に悪影響を及ぼすといけませんから改めてください!」
 モンスター師匠と呼ばれても、弟子の精神に悪影響を及ぼす事態は見過ごせない。
 私は側近を叱り飛ばし、そのままくるりと振り向いた。
「王様!」
「いらっしゃったのですか!?」
 廊下の角からゆっくりと出てきたルタに、側近の青年は飛び上がって跪く。側近を飛び越えてルタの前に走り寄ると、私は両拳を握って力説した。
「王様! あなたに惚れました! あなたの傍にいると胸を貫かれてよろめきます! このまま叶わぬ恋に身を焦がすと、私は灰になってしまいます! 早くちりとりで掃かないと、もしも水を含んでしまうとこびりつくわ重くなるわで大変なので、暇をください!」
「……………………うるさい」

 そうして今日もクビにしてもらえなかった。どうやら、私の渾身の告白は見破られてしまったようだ。
 その慧眼、さすがルタ!





 神殿で働き始めてもう半年。
 そろそろ次の段階に進みたいと思う。
「王様、王様。いい天気なんで、どこか出掛けませんか? 今日は街のほうでお祭りがあるそうですよ!」
「うるさい」
 今日もルタが会話をしてくれた。大変幸せだ。九割くらい同じ言葉だけど、返してくれる回数が増えてきて凄く幸せである。
 じぃんと幸せを噛み締めていると、向こうの通路から若い女の子が四人固まって声を張り上げた。
「王様――! おはようございます――!」
「ああ、おはよう」
 穏やかな声に、きゃああ! と黄色い悲鳴が上がって両手がぶんぶん振られている。
 最近、若い者を筆頭に、勢いで挨拶をしてくれる人が増えてきた。何より凄いのは、ルタがそれに返事を返すことだ。流石に全員に返すのは大変だから、視線を向けるだけだったり軽く片手を上げるだけだったりするけれど、ちゃんと反応している。
 ルタがご近所付き合いを身につけた! 師匠嬉しい!
 あれ? でも待って?
「王様、おはようございます!」
「うるさい」
「本日も美しいですね!」
「うるさい」
 私への九割は揺るがないようだ。つまり、私は特別ですか? ルタ、師匠嬉しい!
 でも、私以外の誰か特別な人を作ってね!


 私は、両手に積み上げて山積みになった本で遮られた視界から、首をひねってルタを見る。ルタ、今日も読書家ですね。
 ルタは、いつもいつも本を読んでいる。本は次から次へと補充されるから、読む物には事欠かないだろうけど、やっぱりお出かけもしたらいいと思うのだ。天気のいい日は外で読むから、今日もこうやって外に運んでいるけれど、やっぱりお出かけもいいものだと思うのだ。

「別に出入り禁止って訳じゃないのに、どうして出掛けないんですか?」
「うるさい」
「一年に一回のお祭りですよ――? あ、それとも行き飽きちゃいました? あれ、でも、行ったことないってお爺ちゃんが言ってましたよ?」
 老臣から教えてもらった情報を思いだした私に、ルタは舌打ちした。
「余計なことを……」
 ルタが舌打ち。やだ、不良! 可愛い!
 聞き分けも出来も良い弟子から、反抗期どころか憎悪が飛んできた身としては、新鮮すぎてときめく。
 もう一回舌打ちしないかなとうきうき見つめていたら、心底嫌そうな視線を向けられた。あの感情の見えない瞳で貫いてきた時に比べたら、ルタの気持ちが分かって嬉しい。
「やだぁ、王様ったら、そんな嫌そうな顔してもお美しいですね!」
「……凄いな、お前」
「え!? 何がですか!?」
「俺は、長く生きてきて、今ほどいらついたことはない」
「王様の初めてありがとうございます! 大変光栄です!」
 生まれ変わってくるまでに千年かかってスタートダッシュに出遅れまくったけど、誰も頂いたことのないルタの初めてを頂いてしまった。こんな光栄はなことはない。
 思わぬ名誉を頂いた嬉しさに飛び跳ねてしまった私から本を奪ったルタは、なんともいえない瞳で見下ろしてくる。
「…………もう、やめろ」
「何がですか?」
「俺は、お前に気にかけてもらえるような存在じゃない」
 不自然な風が吹いて、ルタの長い髪がふわりと舞う。黒なのに光を弾いて色を放つ様があまりに美しくて、思わず見惚れそうになるのを慌てて戒める。だって、ルタが私と話しているのに、余所事を気にするのは駄目だ。
「俺は、幸福を感じてはいけない」
「何故ですか?」
「天界を、滅ぼした」
 思いもよらない言葉が出てきて、反応が遅れる。それをどう受け取ったのか、ルタは赤い瞳を少しだけ伏せた。どうしたの、ルタ。悲しいの? 寂しいの? ルタ?
 私、駄目な師匠だったけど、話を聞くくらいなら出来るよ?
「それが願いだったのでは、ないのですか?」
 人間は、天界を滅ぼしたかった。上空から落とされる気紛れな雷を、理不尽に奪われる愛しい人を無くすために戦った。
 そしてルタは、両親を殺した仇、私を殺すために、一度死んでまで復讐を果たしにきたのだ。
「王様の願いは、叶ったのではないのですか?」
 だからそんな悲しい顔をするの? 何が叶わなかったの?
 私は思わず伸ばしかけた手を必死に押さえる。駄目だ。今の私には、その頬に触れる権利はない。いや、きっと、昔にだってなかった。一度だって、私は、この子に触れる権利はなかったのだ。
 ルタは、悲しい瞳を更に伏せた。
「天界は、俺達と同じだった」
「え?」
「ただ滅ぼすべき悪だと断じるほどの何かだったとは思えない。人間と同じように、働き、子を育み、明日の約束をして眠る。同じだったんだ。だが、俺はそれを滅ぼした。最早人間は止まらぬと、それを言い訳にして、乳飲み子まで全てを殺し尽くした。その罪が何故許される。誰かに愛されるを許されるはずもない。だから俺は、この身が朽ちるまで誰かと温度を交わし合うつもりはない」
「誰がそんな馬鹿野郎なことを!」
「…………は?」
 私は思わずルタに掴みかかっていた。ルタが抱えていた本がばらばらと床に落ちる。
 胸倉を掴み上げて、自分よりかなり背の高いルタに大きくなったなぁと感動する余裕もなくてがくがく揺さぶった。
「一体全体、誰がそんな大馬鹿野郎なことをあなたに言ったのですか! 私に教えなさい! 今すぐぶん殴ってきますから!」
「何を……やめろ! 俺が、自分でそう思ったんだ!」
「あなたですか! 分かりました! ぶん殴ります!」
 ぐわっと拳を振り上げて、はたと気づく。え? ルタ?
 危うく可愛いルタをぶん殴りかけた拳を解く。勢いを殺しきれずにルタの胸に突っ込んだけれど、殴らなくてよかったとほっとした。しかし、慌てて胸倉を掴み直す。
「いいですか!? 基本的に、滅ぼされたほうはあなたが何したって恨みますよ! あなたが誰かと愛し合って幸せに暮らせば『きぃい! 何よ! 私達を滅ぼした癖に!』って恨みます。逆に、あなたが一人孤独に生きて死んでも『きぃい! 何よ! 私達を滅ぼした癖に人生投げ出したわ!』って恨みますよ! だったら幸せでいいじゃないですか! どうせあのままいったら、いつか戦争がめんどくさくなった天人に人間が滅ぼされていましたよ! いいですか、王様。天人は生存競争に負けたんです。ただ、それだけのことです」
 人型をした生き物の同士の生存競争で負けた。食物連鎖のようなものの結果を、ルタが一人で背負うのはそれこそ傲慢というものだ。
「それに、もう千年です。天界が滅びて、千年です。千年間を天人への贖いに使ったのなら、今度は人間の願いを叶えてあげたらいいんじゃないですか? ほら、みんな王様が好きな人と幸せになる未来を願ってますよ!」
 私は胸倉を握ったまま、さっき女の子達がいた場所を向く。
「手始めに、さっきいた女の子の中では誰が好みですか! さあさあ、私と恋バナしちゃいましょう! 何でしたら、休憩所をちょっと覗いてみて、好みの子がいれば私に耳打ちなんてしてくれちゃいましたら、私張り切ってあなたとその子の縁を繋いでいったぁ!」
 脳天に落とされた手刀は、足の先まで衝撃を放ってきた。涙目で見上げると、鬱陶しい物を見る紅い瞳と、未だ掲げられたままの手刀がある。
 ぴしりと揃えられた指先まで美しいなんて、さすがルタ!
「大丈夫です、王様! 王様ならどんな子も一瞬で好きになります! あっという間に両想いです! だからフラれるとか心配しないで、どんどんいきましょいったぁあああ!」
 繰り出された二発目も、それはそれは大層美しい手刀でした。






 神殿に来て一年、私はすごく悩んでいた。
「うーん、どうしようかなぁ」
 私は、今朝もルタのベッドの上に腰掛けて足を揺らした。朝に弱いルタは、最近本気で寝起きが悪い。というより、最初は私が入ってきただけで一応起きてはいたのに、最近ではどうでもいいと言わんばかりに寝倒すのだ。がんがん耳元で叫んでも、掛布を剥ぎ取っても寝続ける。ルタの寝顔可愛いと眺めてしまうから、早く起きてほしい。
「困ったなぁ」
 昨日なんて、ルタの上に乗って揺さぶってみたのにどうしよう。クビにならない。
 会話ができるのは嬉しいし、ルタが通る度、あちこちから挨拶が飛んでくるのを見るのは幸せだ。この前なんて、世間話をしている姿を見たのだ! 何でも本好きの神官を見つけたらしく、二人で新刊について語っていた。その神官は、見かける度にローリヤと大喧嘩をしているわけなんだけど、どうも、この前の休日二人で遊びに行ったらしい。
 いつも、あいつがどうだこうだとぷりぷり怒っていたローリヤだけど、その日の服選びは凄かった。勿論、私の手持ちの服や髪飾りも全部並べて協力したものだ。涙目で部屋に飛び帰ってきた時は焦ったけれど、耳まで真っ赤で、熱まで出していたから、まあ、深くは聞かずにおいてあげた。同室の情けだ。でも同室の私だけじゃなくて、同僚みんな大体の事情は察してしまったわけだけど、本人は隠せているつもりのようだから黙っていてあげよう。


 そんなこんなで毎日幸せだ。幸せなんだけど、これはまずい。クビにならないのは、非常に、まずい。
「私、あんまり時間がないんだけどなぁ」
「…………時間?」
 いつもはまだぐっすり眠っているはずのルタから返事が返ってきて、慌てて口を押える。油断して独り言を拾われた。
 のそりと起き上がってきたルタは、寝起きだというのに美しい。流石に髪は少し乱れているけれど、それでもぼさりとなっていないのはどういうことだ。その特権は、乙女とルタにだけ許されたものだ! だったら問題ないね!
 どうでもいいことを真剣に納得した私は、慌てて立ち上がって一礼した。
「おはようございます、王様。すぐに朝食を召し上がられますか?」
「そんなことはどうでもいい。お前、時間とはなんだ?」
 ルタの手が私の肘を掴む。私の肘をぐるりと一周してしまう大きくて綺麗な手は、寝起きで恐ろしいほど温かい。このまま抱きついてしまいそうになるほどに。
「時間って何のことですか? あっらぁ? 王様、寝ぼけたんですか? 寝ぼけちゃったんですかぁ? ぷっぷぅ! 王様の、ね、ぼ、す、け、さん!」
 その滑らかな頬っぺたをつんつん突っついて笑ったら手刀が降った。脳天かち割れたかと思うほど痛かった。





 ローリヤの朝は早い。女の子の支度は時間がかかる。だから、私の朝はもっと早い。
 すぅすぅ規則正しく聞こえるローリヤが起きないよう、そっとベッドを抜け出してクローゼットを開ける。かけていたメイド服と、小物入れから厚手のガーゼとさらしを取り出す。朝方は眠りが浅くなっているローリヤが起きていないかもう一度確認して、着替えを始める。
 寝間着を脱いで眼前に掲げ持つ。汚れていないか確認してベッド上に投げ捨て、さらしを解いていく。何回か解いた辺りから色が見え始めてきて、眉を顰めた。やっぱり、かなり増えている。
 さらしを解き切ったそこには、厚手のガーゼを何枚も重ねて尚さらしを汚すほどの血が流れる傷口があった。
 生まれた時からあるその傷は、いつも血を流していた。私が孤児院の前に捨てられたのは、恐らくは親にこの傷を気味悪がられたのだろうと予想をつけている。
 昔、私がまだ愚かにもルタの良き師匠になろうとしていた最後の日、ルタがつけた傷だ。
 ルタは私を許してはくれないのだろう。
 許せるはずもないだろうし、許す必要もない。
 私が憎悪を繋げなければ、ルタは人間として生き、人間として死ねたのだ。長い長い時を、罪に苛まれながら生きなくてよかったのだ。
 全ての元凶である私を、ルタは生涯許してはくれないだろう。
 年を取るごとに傷口は生々しくなり、流す血も多くなった。昔は蚯蚓腫れのように膨らんだ傷から滲むだけだったのに、今では、つい先日刺されたかのように傷口が開いている。
 これは予想だけれど、私が死んだあのくらいの年齢になったら死ぬのだろうと思う。そして、それはもう目の前だ。
 だから、その前にルタの前から消えるつもりだった。なのに、クビにはならないし、ルタは会話してくれるし、友達は出来るし、毎日楽しいし。
「ルタ、どうしてくれるのよ。私、幸せじゃない」
 あなたが過ごした千年の孤独に贖う術はちっとも見つけられないのに、私はこの十六年の人生さえ幸せになってしまった。
 あなたのおかげで、私は寂しくなかった。だから、今度こそ、あなたもそうであればいい。そうであるのなら、私はもう、何も思い残すことなんてないのだ。
 今こうしているのは、私の未練か、あなたの憎悪か。それとも、最早失くした私の神の采配か。
 記憶を持って生まれ直したところで、時が戻らぬ以上、何一つやり直すことは叶わない。
 両親が殺されるのを止めることも、私がルタの両親を殺さない選択も、あの子の憎悪に気付くことも、何も叶わない。戻るものは何もない。あの子の千年がなかったことにはならない。
 それなのに、本来なら可愛い子どもを得るはずだった親に気味の悪い思いをさせて産まれてきてしまった私は、それでも。嗚呼、それでも、ルタ。
 私は本当に、今の時間に感謝してるの。
 そして、本当にごめんなさい。
 あれだけあなたが誰かを愛する瞬間を見たいと願ったのに、今は、その瞬間を見たくて見たくて、死ぬほど見たくないと思う私を、どうか許さないでください。






 かしゃんと薄硝子のコップが割れる。音に気付いて振り向いたルタは、険しい顔をしてこっちに戻ってきてしまった。
「手が滑ってしまいました。申し訳ありません。すぐに片づけて、新しいコップを持ってきますね。だから、王様はそのまま本を選んでいてください」
 ぱたぱたと手を振って追い返すのに、ルタは私の手首を掴んだ。
「……お前、最近どうしたんだ」
「何がですか?」
「その、死人のような顔色だ」
「やだなぁ、王様。私はいつでも墓から這い出てきた死人のような顔ですよ!」
 胸を張って答え、次の瞬間飛んでくるであろう手刀に身構えたのに、ルタは動かない。それどころか、まるで自分が手刀をくらったかのような顔をしている。
 その顔に、ああ、もう時間切れだと気づいた。本当はとっくに気づいていたけれど、神の膜に包まれた天界の日差しのように温かい時間に、もう少しだけまどろんでいたくて、気づかないふりをしていた。
 私は明日、十七歳になる。
 思ったより保ったのは、それだけ、私がこの時間に執着したからだろう。ねえ、ルタ。私の根性、褒めてくれてもいいんだよ!

 私は手首を握るルタの掌に反対の手を重ねた。骨が浮き出たみっともない手。綺麗なルタの手に触るにはみすぼらしくて恥ずかしくなる。それなのにルタは、振り払ったり、嫌な顔一つしない。なんて優しい、いい子なんだろう。
「王様、ごめんなさい。私、持病があって、あまり長く生きられないんです」
 息を飲んでも美しいルタ。優しいルタ。可愛いルタ。
 私のルタはもういない。いや、きっと最初からいなかった。
 ここにいるのは、美しい青年だ。ずっと見ないふりをしていた。ずっと、あの頃から、手放す決意をしてから見る見る成長していく彼を愛しただなんて、本当に、師匠失格にも程がある。
「だから、王様、私をクビにしてください。故郷に帰って、静かに余生を過ごします」
「…………孤児院に戻るのか?」
「あら、ご存知でしたか」
「調べた」
 あっさりと白状したルタに苦笑する。今生では両親に縁がなかったけれど、私は既に両親の温かさを知っているから悲しみはない。
「孤児院は十五歳までですから。今まで弾んで頂いたお給料で、景色のいい場所に家でも借りて、ゆっくりします」
 空が見える場所がいい。かつてはあの空の中で生きた。孤児院はみんな優しく穏やかだったけれど、やはり故郷はあの空だと思ってしまう。美しい場所だった。時間によって染まりゆく雲の中で生きた記憶は、寂しさの中でもやっぱり美しかった。
「……行くなと言ったら、どうする」
「行きます」
「お前を愛していると言ったら、どうする」
 今度息を飲んだのはルタではない。重ねていた手を引き抜こうとしたのに、絡め取られてしまう。美しいルタ。綺麗なルタ。そのルタの指の間に、私の骨のような指が重なっている。昔、嫌がるルタの手を取って歩いた頃は、私が彼の手を包んでいたのに、今ではそんなこと考えもつかないくらい大きな手。
「私、以外で、お願いしますって、言います」
 震える声はもう誤魔化しようがない。でも、もういい。もう終わりだ。
「……嫌だ」
「お願いします」
「お前がいい」
「王様」
「お前が俺の前に世界を開いた。だったら、最後まで見届けろ!」
 息を吸ってルタの胸に額をつける。どうせすぐに突き飛ばされるのだ。少しだけだと甘えて、頬を擦り付けた。
 終わりだ。
 終わりだよ。


「ルタ」


 ぴたりと、時が止まった。






 耳をつけた胸から、大きく跳ねる鼓動が聞こえてくる。
 最後の王族。最古の王族。最後の天人。いろんな呼び方がある彼の名は、長い時の中で失われた。だって、呼ぶ人間がいなかったのだから。
 だからどの本にも載っていない。語り継がれてもいない。
 この世で知っているのは、当人であるルタと、あの時代を知る誰かだけだ。
「…………アセビ、お前は、誰だ?」
 震える声が私を呼ぶ。
「あら、私の名前をご存知でしたか。お前ばかりだったので、てっきりお忘れかと」
「アセビ!」
 肩を掴まれて引き剥がされた。俯きたくなる顔を、渾身の力で持ち上げる。ただのアセビはもう終わる。ここにいるのは、弟子の気持ち一つ見つけられなかった愚かな師匠だけだ。でも、どんなに愚かでも、師匠として弟子の前にある以上、みっともない姿はさらせない。

「あなたの師だと言ったら、もう一度殺すのかしら?」

 紅い瞳が絶望に染まる。震える手が私から離れ、均衡を失ってよろめいたルタの背が壁を打つ。
「…………師匠?」
「そんなに脅えなくても、取って食ったりしないわよ」
 苦笑して傍の本棚に背をつける。ちょっと、眩暈がして立っていられない。
「だから、私以外を愛しなさいと、何度も言ったでしょう?」
 胸元を握り締めて荒くなる息を何とか抑える。何も今、今来なくたっていいじゃない。最期くらい、今度こそ、血の臭いをさせずに終わらせたかったのに。


「俺を、殺しに、きたのですか?」
「何故?」
 ああ、言葉遣いが戻ってしまった。胸を打つ寂しさを苦笑で振り払う。それでも、俺が残った。それだけで幸せを感じる私はもう、どうしようもない。もっとあなたが見たかった。もっとあなたを知りたかった。でも、もう、終わりにしなければ。
 じわりじわりと滲みだす血は、いつの間にかどくどくと溢れだしていた。
 待って、もう少しだけ、待って。この子の、この人の前から消えるまで、もう少しだけ保って。
「俺は、貴女の仇です」
「私があなたの仇よ。あなたが私の仇だと言うのなら、それは私の所為だもの。私があなたに憎悪を植え付けた。私の責よ。ふふ……私の仇は、私になってしまうわね」
 込み上げてくる笑いを隠そうともせず、くすくす笑う私に、ルタは紅い瞳をきつく絞った。
「何がおかしいのですか!」
 どんっと壁を殴ったルタの懐から、真白い物が零れ落ちる。
 かしゃんと床に落ちて開いた丸い物の中に、空があった。



 時間と一緒の、青く澄み渡る青空が、懐中時計の中で時を刻んでいる。
「俺は貴女からもらった恩を踏みにじり、貴女を裏切った! 裏切り、殺し、貴女の故郷を奪い、今尚裁かれもせずにのうのうと生きている!」
 ルタが激情のままに叫ぶのに、私は彼が落とした空から目が離せない。
 かち、かち、と時が刻まれていく。私が彼にあげたかった時計が、彼と共に、千年間時を刻んでいた。彼と共に、同じ空を生きていた。
 その空に吸い込まれそうだ。瞳の奥が熱い。
「私、あなたに、憎まれているのだと、思っていたわ」
「……憎んでいました。生を捨て、人であることを捨て、貴女を殺す瞬間だけを夢見て天人となりました。けれど、天界は俺が思っていたような世界ではなかった。そして、貴女もまた、俺がそうであってほしいと願ったような人では、なかった。貴女が殺戮を快楽とし、残虐を日常としているのなら、俺は、何も躊躇わずいられた……貴女を慕わずにいられた」
 ルタは倒れるように膝をつき、私の手を握って額をつけた。
「愛しています」
 かち、かちと、時計が時を刻む。私とルタの時間を刻む。
「俺の初恋は貴女です。千年を得て、二度目の恋をしたと思っていました。けれど、これは初恋の続きです」
 残りわずかな時間を、刻んでいく。
「愛しています、師匠。貴女を愛しています。愛していますっ……!」
 悲鳴のように紡がれる愛の悲しみを受けているのに、私の心を満たすのは喜びだけだった。嗚呼、本当に私は師匠失格だ。
 応えては駄目だと頭では分かっている。彼に悲しみを遺したかったわけじゃない。気持ちなんておいていっては駄目だ。彼の背中にこれ以上、どんな些細なものでも背負わせたくはなかったのに、私の手は彼の頬に触れてしまった。

「私はきっと、どこか壊れているのでしょう。親よりも親の仇の子を愛おしく思うなど、正気の沙汰ではない。でも、もう、それでもいいのです。私はあなたと出会って寂しくなくなった。……ルタ、私ね、幸せだったの」
 零れ落ちた一筋の涙が、ルタの頬を流れていった。
「本当に、幸せだったの」
 その頬に赤い滴が混ざっていく。胸元を押さえていた掌から溢れだした血より、もっと美しい命の色をした瞳が見開かれる。
「私も、あなたが大好きよ、ルタ。あなたを愛してる。だから」

 私以外と幸せになって――…………。

 掠れた声と一緒に赤を撒き散らし、視界までもが染まっていく。
 最後に聞こえたのはルタの絶叫で、ああ、私はどうしたって彼を笑わせることはできないのだと悲しくて悲しくて。
 最後に見えた羽の美しさに心を奪われながら、二度目の生涯を終えた。











 私は本当に至らない師だ。他の人に託す前に、私に教えられることは全て教えたつもりだったけれど、とても大切なことを教え忘れていた。
「ルタ……あのね」
「はい、師匠」
 顔を覆っていた骨のような両手を外すと、色の変わった朝焼け色の髪が見える。その向こうに、殊勝な顔をした可愛いルタがいた。こんな事態なのにきゅんきゅんする。
「確かに、天人の羽は人間を持ち主と同じ生の中に包み込むことが可能よ?」
「はい、師匠」
「だけど、それはね?」
「はい、師匠」
 殊勝に頷くルタに、にこりと微笑む。
「相手と同意の上に成り立つものなのよ!」
 私は、広く大きなベッドに寝かされながら、ベッドの持ち主であるルタの頬っぺたを抓りあげた。


 無理矢理ルタの生の中に組み込まれた私は、死んだほうがましだと思う痛みを味わった。二度目の生涯を終えたと思うほどの激痛だった。最後に聞こえたのがルタの絶叫だったのは、私は激痛のあまり声すら出せなかったからである。
「誰か伴侶を得て、悠久の時を共に生きろと仰ったのは師匠ではありませんか」
「誰がこんなややこしい関係の相手を選びなさいと言ったの!」
 ルタの羽を得た私は、魂の作用かルタの中の記憶か、髪が昔に戻っていた。どうせなら身体も戻ればいいのに、そこはやせっぽっちのままだ。
 がりがりに痩せて骨と皮だけになった指で、傷口があったはずの場所に触れる。
「大体あなた、こんな傷を今生に残すほど私を恨んでいたんじゃなかったの!?」
「申し訳ありません。あの傷は、恐らく俺の執着が形になったのだと……この千年、世界のどこかに師匠の魂が生まれ変わっているのかもしれないと考えることがありました。その度、俺のことも何もかもを忘れて、幸せに生きてほしいと思いました。それと同時に、俺の知らない男の傍で笑っているのかと思うと、死にたくなりました」
「死にかけたのは私ですけど!? 致命傷を執着の形にする子がありますか!」
 私は片手で顔を覆って、がっくりと項垂れた。疲れた。死にかけただけじゃなくて、それ以外の理由でとても疲れた。
「命を救ってくれたことには感謝します。が、いいからあなたは誰か素敵な伴侶を見つけなさい。この羽のおかげで、私は遠く離れてもあなたが生きていることが分かりますし、あなたもそうでしょう。色々と予想外のことが重なりましたが、私はこれで、生きてあなたの幸せを祈ることができます。だから」
「師匠、一つ質問しても宜しいでしょうか」
「礼儀正しく師匠の言葉を遮らないでもらえると嬉しいのだけど、何かしら」
「今までの師匠と今の師匠、どうやって切り替えておられるのですか?」
「うぐっ」
 それ聞く? 聞いちゃう?
「どちらが本当の師匠ですか? どちらもですか?」
 それ追及する? 追求しちゃう?

 どっちも私だけど、アセビは素で、師匠はちょっといいとこ見せたくて虚勢が入っている。言うならば、内面と外面。外ではきりっとした人で通っていた人が、家族の前でごろにゃんと甘えている所を見られたような気恥しさがある。
 どう答えたものか、もうしれっと誤魔化してしまうのがいいかもしれない。
「俺はどちらも好きですが」
「うぐっ」
 誤魔化そうとしたところにこれである。もういいから、ルタは黙ってくれないだろうか。あれほど会話したいと願っていたのに、今はとにかく黙ってほしい。欲望とは果てがなく、また、女とは我儘なものなのだ。


「師匠は、まさか神殿を出ていくおつもりですか?」
「私が傍にいるとやりづらいでしょう? 大丈夫、あなたのおかげで身体も健康になったし、寿命は転々としながらならばれやしないもの」
「俺は、貴女を愛していると言いました」
「私も愛しているわ、ルタ。だから、幸せになってね」
 あの時は死ぬと思っていたからつい白状してしまったけれど、さすがにそこまで師匠失格になりたくない。まだ師弟愛、家族愛と誤魔化せる範囲内だったはずだ。おそらく、願望を多大に含んでいる予想では。
 それに、ルタは私を憎んでいなかった。私を師匠と呼んでくれる。私を、師と、認めてくれているのだ。その期待に応えられなくて、何が師匠だ。
 だから私は、師匠らしくにこりと笑顔を浮かべた。
「私はあなたの幸せを祈っているわ」
 祈る神はもうないけれど、私達がいた空に祈っている。なんだったら、あなたが千年間大切に持ち続けてくれた懐中時計の空に祈ってもいい。空が繋がり、あなたと同じ時を生きていく幸せを感じられる。あの終わりだけでは得られなかった答えをもらったいま、怖いものは何もない。
 ルタには、私よりその隣が似合う子が必ずいる。幾ら和解できたとしても、ここまでこじれきった魂の相手じゃなくて、お互いの欠けた部分をかちりと合わせ、互いを温め合えるような関係の人がきっと。私はきっと今なら、その二人が寄り添う姿を穏やかな気持ちで見送れる。
「だから、ルタも私との関係を他の人に言ってはいけませんよ? 特に老身には衝撃が強すぎて、昇天してしまうかもしれませんからね!」
 今までの分も含めて師匠らしさを発揮する私の手を握り、ルタは悲しげに目を伏せた。
「せめて、もう少しだけ、いては頂けませんか? 俺は、貴女に話したいことがたくさんあるのです。あの頃言えなかったことを、聞いては頂けませんか?」
「ルタ……」
 ルタが悲しそうだと私も悲しい。ルタが苦しそうだと私も苦しい。
「俺は、貴女に手を引いてもらえて嬉しかったのです。ただ一人の王の子として厳格に育てられていた俺にとって、初めて子ども扱いしてくださった貴女に、どんな顔をすればいいのか分からず失礼な態度ばかりでした……こんな俺の傍には、一秒だっていたくないのも当然ですが」
 私は、慌ててその手に自分の手を重ねた。
「そんなことはないわ! 私はあなたとこうやって話せる日を夢見ていましたからね。分かりました、ルタ。出発はもう少し後にします。でも、他の皆には内緒ですよ? 後、私を掃除の仕事に戻しなさい」
「はい、分かりました。師匠」
 そう言って顔を上げたルタが浮かべていた微笑みに私は、神に、世界に、運命に、命の全てに感謝した。





 昨日と何も変わらない世界は、それでも何もかもが違って見える。
 青空は輝いているし、通り抜ける風すらもきらめいていた。ああ、生きているって素晴らしい!
 私は、タイルを擦りながら満面の笑顔を浮かべた。そんな私に、引き攣った笑顔を返してくれるローリヤ。
「……アセビ」
「今日もいい天気ね! ローリヤ!」
「……アセビ」
「あ、ローリヤ、そこのブラシ取ってもらっていい?」
 目の前に所望したブラシが現れる。
「はい、師匠」
「ローリヤ、ブラシ取ってもらっていい?」
「師匠、このブラシではありませんか?」
「ローリヤさ――ん?」
 無理やり視線をずらして見つめたローリヤは、次の瞬間には私に詰め寄っていた。
「王様の手からブラシを奪い取って渡せって言うの!?」
「アハハハ、オウサマナンテドコニ――」
「いやぁあああ! アセビが壊れたぁ!」
 駄目だ、現実逃避したって目の前の弟子は消えない。いや、ルタが消えたら泣く。号泣する。今は亡き神の胸倉を掴みに特攻するくらい泣き叫ぶ。
 大好きなルタが、目の前でにこっと笑ってくれる幸せの為ならば、円滑な職場関係が崩れ去るくらいなんだ。名残惜しいにも程があるけれど、弟子の幸せの為に師匠が犠牲になるくらい、なんだ!
 たとえ、約束通り周りへの説明一切なしに私を師匠と呼び、師匠と立て、師匠の仕事を手伝って一緒に掃除をしていても、それは真面目なルタの心からの行動ならば、受け入れるのが師匠の役目!
 涙を飲んで顔を上げた私の視界で、引き攣ったローリヤが目に入る。私は、ルタと同じようににこっと笑顔を返した。
「王様」
「どうぞ今までのようにルタとお呼びください、師匠」
「……王様」
「ルタ、と。別にルタ・ミソギハギとフルネームでお呼び頂いても結構ですが、師匠の良しなに」
「……ルタ」
「はい、師匠」
「………………ここは人手が足りていますから、他の場所をお願いします」
 ローリヤは絶叫した。
「アセビ、たぶんそれじゃない!」
「違う! そうじゃない!」
 遠巻きというには近い距離で近巻きにしていた人達も絶叫した。
 猛反対を食らった私も涙目だ。弟子の行動を受け入れたいけれど、友達の涙目もどうにかしたい。そう考えた末の渾身の策だったのに。
 どうすりゃよかったんだと頭を抱えていると、ルタは少し考えて頷いてくれた。
「分かりました。では、また後ほど」
 軽く礼をして去っていったルタに、慌てて随身達がついていく。

 そうして、私の仕事場にしばしの平穏が訪れた。いや、いつもの平穏だ。この平穏がしばしであって堪るか。
 室内なのになぜか吹き抜けていった木枯らしを受けながら、ローリヤがぽつりと言った。
「……アセビ?」
「……はい」
「……私、あなたに言っておかなきゃいけないことがあるの」
「……はい」
 私達は、ルタが去っていった方角を見つめながら立ち尽くしている。周りにいる人達も、今ばかりはサボるなとは言わなかった。
「昨日いきなりアセビの髪が伸びて色が変わったことも、王様の様子が激変したことも、アセビが師匠って呼ばれていて、王様の名前を知っていて呼び捨てにしていることも、一先ずおいておくとして」
「ん?」
 突っ込まれると思っていた箇所全部置いた上で伝えられること。私は、知らず緊張してきてごくりとつばを飲み込んだ。
「わ、私ね? その……あ、あいつと、その……け、結婚が、決まりました」
「ええ!? お、おめでとう! うわぁ! おめでとうローリヤ!」
「あ、ありがとう!」
 耳まで真っ赤になったローリヤの両手を握って飛び跳ねてしまう。なんて素敵でおめでたい!
 我がことのように、否、我がことより嬉しくなって祝福の言葉を連ねる私に、恥ずかしそうに身を捩っていたローリヤは、すぅっと真面目な顔になった。
「仕事は続けるけど、部屋は家族用の宿舎に移動になるの。だから、残念だけど、あなたとの同室が解消されてしまうのよ」
「あ、そうか……うん、残念だけど、おめでたいことだもんね!」
 仕方がないことだ。でも、それだったら、もう新しい人と同室になる前に神殿を出たほうがいいかもしれない。これからの予定を尋ねようとした私は、未だ真面目な顔をしているローリヤに首を傾げる。
「あのね、アセビ」
「うん?」
「私、それを昨日室長に報告に行ったの。そしたら……その……王様の寝室の隣が大改装されることになったんだけど…………何か聞いてる?」
 木枯らし再び。室内だというのに、木枯らし達は頑張り屋さんだ。


 両手で顔を覆って項垂れた私の肩に、ローリヤが恐る恐る触れた。
「老臣様方がアセビのこと、往生際が悪いわいって言ってたけど……その、なんで駄目なの?」
「……ローリヤ、私ね、ルタのこと愛してるの。もう、目が合うだけできゅんきゅんするくらい大好き」
 がたがたがたと周り中から音がした。誰かが走り出す前に慌てて続ける。
「でも、私、これ以上師匠失格になりたくないの!」
「え!? 師弟でも恋人になれるわよ!?」
「え!?」
「私の両親師弟よ!? 別に立場乱用して強要とかしないんであれば、師匠失格だなんてならないわよ!?」
「ええ!?」
 ちょ、待って、今の無し。いま正に走り去っていた人待って! どこに何しに行っているか教えて! それ伝えるのはほんと待って!
 慌てて追いかけようとしたけれど、はっと気づく。いま走り去っていった人が向かった方向は私達の宿舎がある方角だ。なんであっち行った?
 そして、その方向からローリヤの婚約者ガラムが走ってくる。廊下を走るなんて彼らしくない気がするし、髪を振り乱して走るほど慌てる何があったのだろう。ローリヤも首を傾げた。
「ローリヤ、アセビ! 王様が師匠の寝室を整えるのは弟子の務めと仰って君達の寝室に特攻かけていらっしゃるんだけど、どうしたらいい!?」
「ルタ――!」
 最後まで聞かずに猛然と走り出した私の後ろで、老臣達の感涙に咽び泣く声が聞こえてくる。
「歴代側近の方々の墓前に報告だ! 王様の孤独をお救いするという長年の悲願が、ついに、ついに果たされた!? と!」
「疑問形ありがとうございます――!」
 走り去りながら、心からの感謝の気持ちを込めて叫んだ私に、早く感嘆符だけにさせろという怒号が老臣以外からも飛んできた。彼らの願いを叶えようと、思いっきり息を吸い込む。
「!!!!!!!!!!!!!!!!」
「ちょ、お前それどうやった!?」
 感嘆符だけを固形にして周囲に散らばらせて、今度こそ止まらずに走り去った。
 出来の良い弟子は、私に埋め込んだ羽の出来までいいらしい。
 私は、懐かしい感覚に包まれながら、自分の羽を開いて飛び上がり、一目散に宿舎へと急いだ。


 弟子より弱い。
 弟子の力で命を繋いで空を飛ぶ。
 弟子に惚れる。


 それのどれもが師匠失格だ。弟子に惚れるに関してはどうやら失格ではないようだけど、まあ保留にしておこう。
 そんな中で、師匠失格暫定一位は、私の力の波動に驚いて宙に飛び上がったルタの美しい顔向けて、久しぶりでうまく飛べないままに頭突きを食らわせたことだと思うのだ……。

 ここから先、どんな師匠失格をやらかすのかは自分でも分からない。これまで以上の失格はない気もするけれど、何があるかは分からないのが運命だ。
 それでも、ルタが私を師匠と呼んでくれる限り、私は彼の師で、彼は私の弟子なのである。
 仮令その関係に、別の関係が加わったとしても。




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