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記念作品シリーズ

新人類(改編版)

作者: 尚文産商堂

壁一面に色とりどりの液体が勢いよく流れている管が、無数にへばりついていて、それらはある時は合流し、ある時は分離することを幾回も繰り返して、底が平らになっている三角フラスコへとつながっていた。

そのフラスコは、ブンゼンバーナーの上に置いてあり、その中には、黒色に変色している粘質系の液体が入っている。時折、ゴポッと沸騰をする直前のお湯のような感じの音を出していた。

「もう時間がない。今日はこれで最後にしよう」

「ああ、仕方ないな」

そう言い合っている俺と相方の研究者は、陸軍より依頼を受け、人造人間の開発に取り組んでいた。

軍の構想によれば、いくら攻撃を受けても立ち上がり、食事も睡眠も不要であり、さらに命令に従順であるという兵士を作ることを目的としていた。

その目的を達成するために、俺たちが日夜研究を続けているのだ。

今しているのは、人を作るという、神にのみ許された行為だ。

そして、その集大成であるのが、今日、俺たちの目の前にあるフラスコの中にたまっている粘質系の液体だ。

これこそ、新人類の礎になるものである。

今は、まだ液体のままではあるが、すぐに俺たちの目の前に、姿を現してくれるだろう。

そう考えていると、人が人を作るという行為にすら、興奮を覚える。


ひときわ大きく泡が立ったと思うと、急に紅色になった。

そして、液化ヘリウムのごとき緩やかな動きで、フラスコの壁面を登りだした。

「いよいよだ」

相方がそのことに気づき、中の様子を観察し始める。

「いよいよか」

これまでの研究の集大成が、ここでできる。

今か今かと待っている間にも、液体は一つの流れを形成し、すぐにでも外に出ようとしている。

「火を消したほうがいいんじゃないか」

「そうだな」

相方に言うと、すぐにバーナーの火を止める。

それを待っていたかのように、液体は外へとあふれ出てくる。

「さあ、こい」

神に祈る人のように、俺たちは、その液体を見ていた。

スライムをたたきつけるように、ベシャと机からも飛び出し、床へと散らばる。

しかし、すぐに一か所に磁石のように引き寄せられ、人の形を作り出した。

「おお…」

感嘆のあまり、自然に息が漏れる。

10ヶ月と10日という、妊娠期間を、10秒と少しという短期間で成長した。

その過程は、あまりに一瞬で俺たちは認識できなかった。

だが、それからは、ゆっくりとなった。

そして、10歳ぐらいの女の子が、そこに鳶座りでいた。

「女か」

「男じゃないのか…」

がっくりとしている相方に、俺は優しく声をかける。

「まあ、成功だよ。人は実際に作れた」

俺は、白衣を着させてやる。

素っ裸で、俺たちを興味深そうに見ている彼女だが、寒そうにわずかに震えているのが、わかったからだ。

「そう、俺たちは人を創ることに成功したんだ。やったぞ!」

「ああ、そうだな」

俺は、相方がそう言って喜んでいるところに、水を差す。

腰に入れていた銃を、相方へ向け、冷たい時間が流れる。

「…何をしているんだ」

「人が人を創る。大変結構。でも、おまえがその栄誉に与れることは、決してない」

さよならも告げず、俺は相方の眉間を打ち抜いた。

静かに、ストップモーションのごとくに倒れていく。

額から血が出たのは、倒れてからだった。

その間中、彼女はずっと、その光景を見ていた。

「ふぅ…」

きつい作業を終えた後のように、全身汗だくになっている俺に、彼女は寄り添ってきた。

「そうか、ありがとう」

その暖かさは、俺を一瞬にして癒してくれた。

「…愛情か」

その時、彼女の名前が決まった。

「愛情の愛だ、おまえの名前は、愛だよ」

「アイ?」

彼女は、ゆっくりと、何かを噛みしめるように返した。

「ああ、愛だよ」

俺は愛を抱きしめた。

確実に人としての温かみがあった。


それから、愛を少し遠ざけて、すでに用意していた油を撒いた。

「ナニシテルノ」

「ああ、気にしなくていい」

俺はそう言った。

同僚の体にはよく燃えるように、重点的に油を染み込ませる。

「えっとチャッカマン…ああ、あった」

点火するためにチャッカマンというピストル型の点火装置を使う。

ドアを開けて、周りに誰もいないことを確かめてから、油の筋を廊下までのばしてきて、愛がすぐそばにいることを確認してから火をつけた。

一瞬で燃え広がって行く研究室を見ながら、愛は何を思ったのだろうか。

生まれたてのはずだが、本能的に火が好きなようで、とても楽しそうだった。


廊下にある非常ベルを押したのは、しっかりと燃えるように10分ほど待ってからにした。

あらかじめ非常ベルのスイッチは、この階に関しては、切っておいたから、非常ベルを押さない限りは誰も来ない。

押すとすぐに自衛消防隊がやってきて、速やかに火を止めた。

「お怪我はありませんか」

「ああ、俺は大丈夫だが、中にいたはずの同僚が見当たらないんだ」

「この様子だと、もう死んでるでしょう」

消防隊はそう判断をしたが、まずは火を止めることを優先するようだ。

「よし、放水だ!」

隊長が水を出している間に、俺たちは逃げ出すことに成功した。


家に戻り、愛をこれからどうしようかと考えながら、着替えさせた。

家の固定電話には、後で所長室に来るようにという、所長が明らかに怒った声で留守番電話を残していた。

「やれやれだな」

愛の体を拭きながら、服を着させる。

「もうできるよ。さっき見てたから」

そういって、愛は俺が持っていた服を取って、自然に着た。

「そうか、なら大丈夫だな」

だが、大丈夫なのはこれまでのことで、これからのことは問題が山積している。

まずは、この子をどうするかだ。

市の方に届け出を出して、養子縁組をするということも可能だろうが、それをするにしても、この子の説明をする必要がある。

それに、Z機関のことだ。

軍からは、これで研究打ち切りとなることも十分に説明を受けていた。

そこにこの出火騒ぎ。

研究員一人が殉職したことから、打ち切りとなることは、ほぼ確定だろうと考えた。

とすると、愛との分の食費やその他もろもろを稼ぐ必要がある。

「…やれやれだ」

俺はそういうのが精いっぱいだった。


だが、翌日の所長室での接見において。

「昨日は、どうやら失火だったらしい。赤島遊水(あかじまゆうすい)が実験中に材料の一つであるエタノールをこぼし、それを拭こうとした時に、点けっぱなしであったバーナーに服の裾が引っ付き、引火。あわてて消そうとして脱いだところまではいいが、それが帰化したエタノールにさらに引火し、爆発的燃焼を引き起こした。その際に、栓として使用していた鉛が、内部の液体の圧力上昇に伴い、銃のように発射され、頭を打ち抜き、絶命した」

これが、公式見解として発表されることとなった。

だが、研究所は極秘扱いのために、実験内容等は伏されることになった。

「…そうですか」

俺はそういって、所長室でこれからの話を聞いた。

「これで、事件の究明は終了だ。警邏兵は引き揚げさせる。同時に研究室を再建するための工事にも取り掛かってもらう。これから君は重責を担うことになる」

「…どういうことですか」

「主任研究員に昇格だ。おめでとう、君のこれからの研究に期待しているよ」

ところで…と所長はつづけた。

「研究といえば、人造兵士の研究はどうなっているんだ」

「ええ、いいところまで行ってたんですが…」

「すでにハムスターやサルのクラスではできているんだ。後は人で行うかどうかだろ」

「倫理委員会が、許可を出さないので、それ以上の生物で実験が行えないのです」

「なら、委員会については私が何とかしておこう。すぐに取り掛かりなさい」

「わかりました」

愛のことは、伏せることにする。

愛が世界で最初の人造人間だということになるが、公式発表では、誰一人として成し遂げてはいない。


愛については、他の懸念もあった。

軍が愛のことをどう感じるかという問題だ。

俺の説明は、道端で倒れていた意識不明の少女である愛を、まずは警察へ迷子の届けをだし、それ以降は俺があずかっているということにした。

実際には警察へは届を出しておらず、調べられたら一発で終了なのだが、運がいいのか、軍がそういったことを調べたという話は、俺のところには聞こえなかった。


また、この失火について、警察がいろいろと調べているという話も聞いたが、所長が手をまわしてくれたようで、警察からも質問されることなく終わった。


それからというもの、どこまで学習ができるのかということに主眼を置いて、俺は実験を独自に続行することにした。

初めは読み書きからだ。

小学校低学年用のドリルなどを数冊買い、教えることにした。

だが、それを1日かからずに全て100点を採れるほどになった。

翌日には、さらにインターネットを使って3日ほどで小学校で習う一連のことはマスターした。

そして、1週間かけて中学校、さらに1週間で高校の普通科で習うようなことは全て覚えてしまった。

「すばらしい記憶能力だ」

俺は、シートを作成して、その学習の記録を付けていた。

それによれば、愛の学習能力や記憶力、判断能力等を総合評価すると、常人の数倍に上っていることが分かった。

またIQ値も130代から140ということが分かった。

それがだいたい4年ほど前のこと。

それから、軍のところにある軍医養成用の大学へと進学した。

こっそりと教えてもらったところでは、トップの成績で合格したそうだ。

そもそも年齢制限は存在していないから、愛の年齢でも問題はなかった。


「なあ愛」

「何、お父さん」

愛が産まれてから5年が経った。

Z機関は、あの失火事件から3年後に閉鎖された。

理由は、人造兵士計画自体の中止。

その後私は、軍の斡旋によって、医薬品の開発をしている研究所に、研究員として就職した。

そこでも、愛のことは養子という説明を通した。

そもそも愛の素性が判明したとたんに、軍が兵としての訓練を開始することは自明だったので、ここまで隠し通していた。

いつの間にか、実子のように、いや、DNA上は俺の遺伝子を継いでいるために、DNA上も実子ではあるが、それ以上に愛情を注いでいた。

「大学は楽しいのか」

「もちろん。私が入部した徒手拳法部はつまらなくて辞めちゃったけど」

「なんで」

「だってみんな弱いもの。私がその場を動かなくても、全員を倒すことができるんだから。で、つまんなくなっちゃって」

「それはすごいな。ゆくゆくはSPとかか」

「要人警護?たしかにできるかもね」

愛はそういって、冗談っぽく笑ったが、俺は実験がすでに成功したことを確信した。


翌日、愛が大学の教科書を俺に見せながら聞いた。

「ねえ、教えてほしいところがあるんだけど」

「どこだい」

「生物」

「生物のどこ」

「遺伝子工学について。DNAをウイルスなどを使って組み替えるっていうことは、まだ人為的に好きなようにDNAを組み立てることはできないっていうことなの?」

「その定義にもよるだろうけどね。ウイルスを使ってDNAを組み替えるのは、ターゲットマーカーというところに狙って組み替えることができるからなんだ。逆を言うと、そのマーカーがなければ、ウイルスを使っての組み替えはできない。今のところ、これがほぼ唯一の手法だね。他の手法は研究途上で、現在は主流ではないよ」

「そうなの。じゃあ、DNA一つ一つを選択して、入れ替えるっていうことは今はできないっていうこと?」

「そういうことになるね」

「そうなんだ…」

なぜか残念そうに、愛が言った。

「なんで残念そうなんだい」

「だって、それができたら、強化人間ができるんじゃないかなって思って」

「今はそこまで科学は発達してないから。残念だけどね」

しゅんと小さくなって愛は、俺の前からいなくなった。


それから数日後のこと。

夜になり、研究所から帰って家でゆっくりとしていた時に、誰かが家のインターホンを押した。

「誰だ…」

家の中にある受信機で受話器を取り上げて、誰が来たのかを聞いた。

「はい、交野(こうの)です」

「警察です。少し、いいですか」

警察手帳をカメラに向けて、俺に見せてきた。

「ちょっと待っててください」

俺は受話器を元に戻し、玄関へ向かう。

その途中に、2階から声が聞こえる。

愛だ。

「お父さん…?」

「ああ、心配しなくてもいいから。部屋にいなさい」

俺は愛にそう言って、戻ることを確認せずにドアを開けた。

「何のご用でしょうか」

「交野秀祐(ひでゆ)さん、ですね」

「ええ、そうですが…」

「5年前、軍の一機関であったZ機関に勤めていらした」

「そうです」

「あなたに逮捕状が出ています。当時在籍の研究員、赤島遊水氏殺害の容疑です」

「ちょっと待って、どういうことよ、それ」

愛が、5メートルほどの高さがある2階から、吹き抜けの玄関部分へ一気に飛び降りてきた。

着地も振動や風ひとつ感じさせない、素晴らしいものだ。

もしも愛が声を出さなければ、俺の横に来たことも気付かなかっただろう。

「娘さんですか」

「ええ、まあ」

俺は愛を下がらせようとした。

「愛、向こうに行ってなさい」

「嫌だ」

たった一言だけだが、警官はそれが気に食わなかったらしい。

「お嬢ちゃん、それぐらいにしておかないと、怒るよ」

そして警官は、愛を除けて俺に近寄ろうと、手を伸ばした。

「お父さんを、連れていくな!」

その叫びと同時に、警官の姿は消滅していた。

ゆっくりと、警官が着ていた服が、玄関の床へと落ちる。

「愛…?」

愛は、その瞬間、俺を守ろうとして、変化を遂げた。

跳躍力、破壊力、そして、俊敏性。

その全てが、人の力をはるかに凌駕していた。

兵士としては、その全てが兼ね備えられているというのは、戦場においては有効に機能するだろう。

だが、我が愛娘がそうなった。

人造兵士計画は、これで完成となるが、娘については、失敗してほしかった。


近くにパトカーが止まっているのを見つけ、どうしようかと考えていると、あることが思いついた。

「なあ、ちょっと協力してくれないか」

俺は愛にその隠ぺい工作に協力させた。


まず、家の中にある警察の制服を、きれいに燃やす。

バケツの中に油をよく染み込ませて、火をつける。

一瞬で燃え上がり、そして破片一つ残らないようにすべてを焼き尽くした。

次に、バッチなどの類は、ビニル袋につつみ、上からハンマーで砕いた。

それらをいくつかの袋に分けて、さらに細かく砕く。

そして、その袋を小分けにした状態で、あちこちに捨て歩いた。


翌日、パトカーがずっと止まっているということを警察へ連絡する。

警察は俺たちの家に来て、どんな感じでずっと止まっているのかということについて、事情聴取をした。

調書を整える必要があるということで、警察署に呼ばれて、その帰り。

電車に乗って、愛が俺に聞いた。

「ねえ、あの警官が話していたことって…」

「それは家に帰ってから、かな」

愛は、何も言わずに黙った。

俺は、とうとう全てを話す時が来たことを確信した。

その全てを話した時、愛はいつも通りに俺と接してくれるだろうか。

それは、してみないと分からない。


今日の晩御飯はカレーだ。

材料をそろえ、愛と一緒に料理を始める。

ここまでは、いつも通りだ。

「初めから説明しよう。まずはZ機関から。かれこれ10年も昔、陸軍付属研究所として創設された、人体実験に特化した研究機関のことだ。ここでいう人体実験というのは、最終目標として、兵士を作ることを目的とした人造人間だ。どんなに攻撃を受けても死ぬことはないし、けがをしても速やかに治癒する。そんな、最強の兵士だ」

愛は、俺の話を黙って聞きながら、ジャガイモを次々とピーラーで皮をむいていく。

「実験のきっかけになったのは、欧州に住んでいるとある研究者の論文だ。俺はその共同執筆人として参加したんだが、その内容は、とあるDNAを変異させると、治癒能力が飛躍的に高まるというものだったんだ。元々はプラナリアの研究からはじまったんだが、そのDNA部分が、すべての生物に備わっているということが分かってからは、当時の陸軍大臣からの秘密命令によって、兵士を作るようにということを最終目標に据えて、研究を行うことになったんだ。このDNAを導入することによって、銃で撃たれようが、剣で切られようが、槍で刺されようが関係なく、数秒で治癒することができるということがマウスの実験で分かったんだ」

愛は、俺の話を聞きながら、何も言わずに、直径15cmほどの鍋を取り出し、牛肉を炒めだした。

俺はそれを見ながら、やかんの火加減を強くする。

「マウスの実験でそのことが分かると、じゃあ、豚なら、牛なら、馬なら、猿ならと、次々と実験を繰り返したんだ。そして、技術的、科学的な確証が得られると、最後の実験として、人間を試すことになったんだ。この時に問題となったのが、現に生を受けた生物に対しては、DNAは定着しないという、最大の特性だった。異物として白血球によって排除されてしまうという問題だ。だから、DNA変異は卵子や精子の段階で行わなければならない。人間では、ES細胞やiPS細胞といった、全能性を有した幹細胞の未分化状態においてDNAを変化させることに、別グループが成功していた。俺たちはその研究を借用し、そして、さらに手を加え、発展させたもので実験を行うことになった。この時に、DNAを提供したのが、警察が言っていた同僚の研究員と、俺だ」

俺は、何か言いたそうにしている愛に、切った野菜を渡していく。

やかんが沸騰したことを知らせるようにピーッと鋭い音を鳴らし始めたので、火を止めておく。

愛は俺から受け取った野菜を、先ほどまで牛肉を炒めていた鍋に、火が通りにくい順にいれていった。

「だが、兵士を作るという研究は、最終的には打ち切られることになった。最後の日、俺たちは、これまで試していなかった手法を使った。そして、それは無事に成功した。この時に生まれた唯一の成功例が、愛、君自身なんだ」

「それが私なのね…」

やっとそれだけを、俺に言った。

それは、独り言にも似た、ささやきだった。

「ああ、そうだ。もともとの予定では、男が生まれるはずだった。軍に研究を認めてもらうためには、兵士を作る必要があった。だから男がほしかった。でも、生まれたのは愛だった。生まれた瞬間には、彼は大層喜んだ。だけど、俺は彼を撃ち殺した」

愛はわずかな時間手を止めて、それから野菜をいためている鍋に、水を8割強入れる。

「どうして…」

それから、愛は俺にそれだけ言った。

「彼はこの研究を続けたがっていた。全ての名誉と名声を、それに軍から支給される金も目当てだったな。俺も初めはそうだった。金も、名誉も、栄誉も、その全てを手に入れたかった。それも一人でだ。だから、俺は彼を撃ち殺した。だが、それから考えたんだよ。本当にそれが正しいのかって」

鍋の中にブイヨンを入れる愛。

「どういうこと」

「愛の幸せを考えていると、本当にこれで正しいのかって。軍に愛を引き渡すのは簡単だ。でも、その後は、感情もない、単なる殺人者として生きていくことになるだろう。それが果たして正しいことなのかって」

「…私は、今は幸せだよ」

「そう言ってくれると嬉しいよ。それから俺は、軍に虚偽の報告をして、愛を引き取った。それから、俺はずっと愛を育てると決めたんだ。ずっと、愛を軍から守るって」

「…そうだったんだね」

ぽつりと、愛は鍋にカレールーを入れながらつぶやいた。


それから1週間、あの話をしてからの愛は、なんとなく俺に冷たくなっているような気がした。

あんなことを言われたら、確かに信じられない話だし、もう仕方ないだろうと思うようにした。


それからさらに2日後、俺は仕事も早く終わったから、まだ日がでている間に帰ることができた。

「ただいまーっと」

「おかえりー」

玄関で靴を脱いでいると、横には愛の靴が、適当に脱ぎ散らかされていた。

どうやら、家の2階から声をかけてきているらしい。

俺は、上に向かって愛に声をかける。

「今日の晩御飯は?」

「カニグラタン。冷凍庫に眠ってたのを見つけたよ」

「そうか、うまそうだな」

そんな会話をしながら、俺は家へ入った。


その日の夜、晩御飯を食べ終わりテレビをのんびりとみていると、インターホンが押された。

「誰だろ…」

俺は立ちあがって、インターホンの受話器を上げて応対する。

「はい、交野です」

「警察です、少し来ていただけませんか」

警察手帳を見せながら、インターホンの向こう側で声を上げられる。

「…奴らが来たのね」

愛が、インターホンがある玄関近くの階段の上から声をかけてくる。

「ああ、愛は部屋に戻っていなさい。一人で行ったほうがよさそうだ」

「ダメ」

たった一言、愛は俺に告げた。

それは、俺が知っている愛の声ではなかった。

直後、俺のすぐ後ろに誰かが来たが、誰か分かる前に、俺は首に鋭い一撃を受けた。

「…なんで、だ」

運動神経を精確に叩いたようで、俺は意識がありながらその場に沈んだ。

「ごめんなさい。でも、私はお父さんを助けたいだけなの」

靴を履いている愛が、床に倒れている俺に言った。

「愛…!」

「兵士として作られた私でも、一人の娘として接してくれた。それにはとても感謝している。でも、だからこそ、私がここでお父さんを守りたい。兵士だとしても、一人の人間だから」

とんとんとつま先を床に叩いて、しっかりと靴をはいた。

「どんな兵士でも、守りたい人はいる。私はお母さんはいないけど、お父さんがいる。だから、お父さんだけでも助けてあげたいの」

愛は、俺の元へ近寄り、ほほにキスをした。

「きっとね、私はここにいるべきじゃなかった。だから、今はバイバイ。お父さん」

直後、俺は意識を失った。


翌日、俺が起きたのは病院のベッドの上だった。

俺の枕元には、いろいろな機器が置かれていて、心電図が規則正しい俺の鼓動を一つ残らず記録していた。

点滴用のチューブが俺の左腕に突き刺さっているが、体の中に何かが入っているという感覚はない。

「おや、起きましたか」

紺色の背広を着た中年の男性が、閉められていたカーテンを開けて、俺を覗き込んできた。

俺は口を開こうとしたが、男性に制止される。

「医者によれば、まだ声は出ないそうです。運動神経がやられているということなので」

たしかに、声とは言えないような掠れた音が出てきただけだった。

だが、意思の疎通はどうにかできそうな感じだ。

できる限り、声は使わない方がいいだろう。

「ここ、いいですか」

彼は俺がうなづく前に、近くにあった背もたれがない椅子をもってきて、枕元に座った。

「申し遅れました。私、沢渡健次郎(さわたりけんじろう)と言います。交野さん、いくつか質問があります。よろしいですか」

俺は沢渡にうなづく。

「この写真に写っている女性を知っていますか」

その写真は、駅で電車が来るのを待っている愛と俺だった。

俺は一回うなづく。

「この女性は、あなたの養子となっていますが、間違いないですか」

これも本当のことだ。

「では、この女性は、今はどこにいますか」

「分からん」

それだけ言えた。

「そうですか。ああ、それと伝え忘れておりましたが、5年前の研究所殺人放火事件につていは、あなたにかかっていた嫌疑は全て晴れました」

「ですか」

「ええ。それでは失礼します」

沢渡は聞くべきことが終わったようで、軽く一礼してから、俺の視界から消えた。

入れ替わりに看護師がやってきて、危機をじっと見てはカルテに書き込んでいた。


俺が病院から退院したのは、1週間後だった。

この時までに看護師から聞いた噂によれば、5年前の殺人事件とまったく同じ方法で殺人事件が起きたそうだ。

俺が入院している間に起きたため、俺が起こすことは不可能ということになり、無実とされたということらしい。

だが、愛がその話に出てくることは決してなかった。


退院して家に戻ってみると、黄色のテープで立ち入り規制がされていた上に、近所からの広告が大量に突っ込まれていた。

そのうちの一枚には、近所で強盗傷害事件があって、気をつけるようにと書かれていた。

どうも、世間の認知によれば、俺は強盗犯に襲われていることになっているらしい。

愛のことは、ここにもどこにも書かれていなかった。


退院してから、数日が経った。

そろそろ復職ができるという医師の診断が下ったため、仕事の準備もそろそろすることにした。

その日の夜、スーパーから買い物をした帰り、家に入ると、見慣れた靴があった。

「愛、帰ってきているのか」

俺は玄関にビニール袋を置いて、靴を脱ぎながら2階へ叫んだ。

「お父さん?」

ひょっこり顔を出す愛に、俺は言った。

「なあ、ずっといたって構わないんだぞ。なんたって、俺の娘なんだから」

「うん、それも考えたんだけど。やっぱり迷惑になるかなって。それに、今日は荷物を取りに来ただけだから」

よいしょっと言って、階段を使わずに、俺の目の前に静かに着地した。

「それに、私は人じゃない。DNAがつながっているっていうだけの、細い、蜘蛛の糸よりも細いつながりよ。でも、そのつながりのおかげで、私はここにいられる」

俺の目の前で靴を履いて、荷物を背負って、扉に手をかけながら俺に向かって、独り言のように呟いた。

「25年後、もしかしたら会えるかもね」

それから、俺を振り返ることなく、じゃあねとだけ言った。

俺は愛を止めようと手を伸ばしたが、止めた。

それが、俺が娘の愛を見た最後だ。


25年という期間は、殺人の時効になるらしい。

愛は、そのことを知っていて、そう言ったのだろう。


それからの俺は、結婚し、子供もできた。

でも愛とは一切連絡が取れていない。

25年という時間、俺は生きてられるかどうか確証はないし、愛もどうなるのか分からない。

でも、俺は愛が生きていると確信している。

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