掌編――マフラー
学校の裏庭には、夕べ降った雪がまだ解けずに積もっていた。
運動靴の底から冷たさが伝わってくる。
でも、そんなことはどうでもいい。手もかじかんできたけど、そんなことは問題じゃない。
僕にとって、僕の人生にとって、一番大事な、一番大切な瞬間が待っているのだから。
ポケットの中に手を入れて、そこにアレがあることを確認する。
僕の人生を変えたと言っても過言じゃない、アレが。
こぶしをぎゅっと握りしめて、深呼吸をした。吐いた息が白くなった。
その時。
さく、と、凍った雪を踏みしめる足音が背後から聞こえた。
心臓が咽から飛び出るっていうけど、ほんとに飛び出すかと思った。
足音がそばまで来たら、そばで止まったら、振り返ろう。それまでに、なんとか呼吸を調えなきゃ。
でも、どんどん近づいてくる足音に、僕の心臓ったら言うことをききやしない。
「誰? そこにいるのは」
予想しなかった声に、僕は慌てて振り向いた。
「冬月先生」
今年赴任してきた、音楽の先生だった。白いブラウスとタイトスカートにストールを羽織っただけの格好で、やけに寒そうだ。
先生は立ち止まると、黒縁の眼鏡の奥から鋭い目で見下ろした。
「もうとっくに下校時間は過ぎていますよ。テスト期間なんだから、早く帰りなさい」
「す、すみません」
張りつめていた風船がぱんと弾けた。乾いた舌をなんとか湿らせる。
「ほら、早く帰りなさい。じきに暗くなるし、また雪が降るって言ってたから」
「あの、でも、僕、ひ、人を待って」
ポケットの上からアレを握りしめる。
「もう学内には誰も残ってないわよ。キミが最後の一人。それでも待つ?」
「えっ……」
ああ、もしかして、今の僕みたいに先生にせき立てられて帰ってしまったんだろうか。それとも、具合が悪くなったんだろうか。今日は寒かったし、もしかしたら風邪でも引いてしまったのかもしれない。
「はーん、もしかして、呼び出された?」
「えっ」
ポケットを握りしめる手に力が入った。
先生はめがねをずりあげて、少しだけ口元を緩めた。
「あはは、まさかだわね。なんかねえ、先週からそういういたずらが増えてるみたいなのよ。寒い中ずっと待ってて肺炎起こして入院した子がいてね。職員の間でもちょっと問題になってて」
そこで先生の話は途切れた。
きっと、先生は僕の表情の変化に気がついたのだろう。
うつむいた僕には、先生のつま先が寄ってくるのがにじんで見えただけだった。
「今日はもう帰りなさい。ほら」
頭からすっぽりかぶせられたのは、水色のストール。先生のだ。
「寒いから、これ巻いて温かくして帰りなさい。マフラーじゃなくて悪いけど」
「せんせ」
ぐるぐるまきにされたストールからようやく顔を出した時、先生は背中を向けて校舎に戻っていくところだった。
「風邪引くんじゃないわよ。あ、それから、それ高かったんだから、汚さないでよ」
校舎の入り口でそう叫んだ先生のあったかさに、僕はもう一度ストールで顔を隠した。