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Hope in the room arrive at you.
作者:神谷隆仁
本文の事実誤認、誤字脱字等は極力訂正していますが、なにぶん元のファイルがクラッシュしたPCのほうにあるので、現在は修正できず、ご迷惑をおかけするかもしれません。
「序章」
そこは白に塗りつぶされて。
唯一存在を誇示するかの如く咲く一つの花だけが、まるで切り取られたかのように色とりどりで。
風を取り込む窓も、わずかしか開かなくて。
それでも、必死に闘う人がいて。
命の蝋燭を消すまいと必死な人がいて。
祈る人がいて。
それでも、祈りは届かなかったりして。
そんな時、人は『神様』という存在を信じ続けられるだろうか。
そこは、病室という名の、密室。

「第1章」
1/
今、僕は病棟にいる。
もう、何年入院しているのか数えるのに飽きてしまった。
家にある本は何度も読んでしまった。
何年か前、一度だけ医者が家に帰してくれた。
『十分に家の香りを嗅いでおいで』
そして、何処かぎこちない家族に迎えられ、過ごした正月。
いつも喧嘩ばかりだった、妹が塞いだようにいたのが、印象的だった。僕が入院する前までは、綺麗に笑っていたのに。
−そして、その夜。
意識が急激に遠のいて、病院に緊急で戻された。
視界が赤に染め上げられて。
何を考えているのか、両親が何を言っているのか、理解することはかなわなかった。
もうだめだ、と思ってから幾年か。
まだ、僕の心臓は拍動し続けている。
病名は、教えてもらえないだろう。絶望を与えないために、希望を持たせるために。
でも、薄々僕も気付いてしまった。
自分が現代医療で救うことのできない、不治の病に感染したってことぐらい。
たぶん、ガンなんだろう。白血病とか。
もう、僕は生きる意思をもてないのだろう。
だって、この病棟の名は。
『終末期医療病棟』なのだから。

2/
当直医師は、眠たそうに欠伸をしながら、患者カルテを閲覧していた。
その中で、中肉中背、特段特徴の見あたらない男性に彼は目を瞠った。
『佐藤真之』
血液型はB型のRH-、身長は170cm、体重は60kg。
患者情報識別票の色は、終末期を示す「白」
終末期医療病棟とは言え、最近はあまり終末期の白色の”腕輪”より、医療完遂可能期を示す青色の”腕輪”が多かったからだ。
そして、彼はその程度の情報を得て、次に進もうとした。
そのとき、突然、赤色灯とサイレンが容態の急変を示したのだった。
ナースセンターの看護師たちに家族を呼ぶよう指示し、自らたった一人の「終末期医療担当医師」として、病室に赴いた。
赴いた先は、彼が先程見ていたカルテの患者の隣。
三村京子がいる病室である。

3/
僕は、たった一つだけテレビがある休憩室へ行った。
普段人気が無く、静寂に刃向かうかの様なタレントたちの軽薄な笑い声が時より聞こえるだけの、寂しい空間だ。
僕は、普段あまりに人気のないこの場所が好きだった。
読書するのに最適で。
暇ならばあまり面白くないはないがテレビを見ればよし。
検温と、食事の時以外はずっとここにいる。
暇だからだ。
外出禁止令が出てもう何年か。
確か、第1種普通自動車免許を取ってすぐぐらいだったと記憶している。
教習所の帰り道で、突然意識を失い−病院に検査入院として、入院した。
そして、すぐに一般病棟に移された。
それからだから、もう10年以上か。
ほとんど誰も来ない。
たまにここの常連が来ているぐらいで。
…でも。今日は例外があったらしい。
腰まである、長い黒髪。
この病棟の患者の証のオレンジ色の衣服。
つまらなさげに、彼女はテレビを見つめていた。
”腕輪”の色は、青。
つまり、まだ医療は見放していない、ということだ。
僕とは違う、そんな彼女。
僕と共通な点は、…そう。
並んでつまらなさげにテレビを見ていることだろうか。
……どれほどそうしていただろうか。
突如彼女が立ち上がり、病棟へと消えていった。
僕もチラと時計を見て、検温の時間だと思った。
…休憩室には、『ナルキッソス』の花が咲いていた。
たしか、『Narcissus』は、『自己愛、狂気の象徴』だったと、ふと思った。

4/
僕は相変わらず昨日と同じ位置にいて。
彼女は定位置と言わんばかりに『水仙』の前に座っていた。
「面白いですか?」
彼女に視線を合わさず、尋ねる。
「別に、暇だから」
何ということのない、一般的な解答。
僕はそれを気にかけることも無かった。
…テレビには、『ナルキッソス』の花が、鮮やかに咲いていた。

ずっと、変わらない。
彼女との邂逅を果たしてもう1ヶ月になろうとしていた。
変わらないのは、僕と彼女と『水仙』だった。

夢を見た。
ナルキッソスは、ナルシストの語源だと、友人が言っていた。
あれは、雪の強い冬のの日だったか。
「ナルキッソスはラテン語の言葉で、英語では"narcissus",ナーシサス、って言うそうだよ」と。
隣の友人は、今の僕なんかよりずっと柔らかな笑顔で、そう。
僕の質問に答えてくれたのだった。
…最近よく夢を見るようになったと、我ながら思う。
今日も、『水仙』の話か。
彼女と出会ってから、ずっとこんな調子だ。
高校時代の校庭には、今思えば不思議として言いようがないが、『水仙』の花が咲いていた。
当時僕は半分ドロップアウトしていたせいもあったけれど、よく校庭を見に行っていた。
そこで、覚えてた単語の中で、もっとも難しいのが、『narucissus』だった。
彼は、たまに僕のそばに遣ってきた。
何故、俺に近づくのか、と問いただしたことがあった。
彼は、趣味だからだよ、と応えた。
そして、彼は、僕の目の前から、突如として消えた。
事故死だった。いや、もしかしたら事故に偽装した自殺だったのかもしれない。
あの日から、僕は、僕という人格は、生まれたのだろう。
彼の、人生観とかを受け継いだ、『僕』という人格。
僕は、未だ、彼の遺影を探し続けているのだろう。
”夢”という名の、記憶のアルバムの中から。

5/
どこの病棟にも、「仮退院」という制度がある。
あくまで、仮ではあるけど。
つかの間の休息を得ることができる。
本当のつかの間、とくにこの病棟では、気休めなんかにもなりはしない。
皆、知っている。
仮退院と入院を4回以上繰り返したものに永い命はないと−。
彼女、「三村京子」は、仮退院を間近に控えていた。
彼女の病名は、白血病。
血液のガン…。一応、処置法はある。ただ、かなり進行した状態だと効果が薄く、また、骨髄液を移植してもらわなければ、根本的な解決になりはしない。

稲生医師は悩んでいた。
三村京子にとって唯一の特効薬、髄液の型が合致した患者がいた。
普通ならば、そのまま移植すればよい。
問題は、その合致した患者だ。
同じ終末期医療病棟の、佐藤真之だった。
幸か不幸か。
倫理委員会は招集されている。
ただ、倫理委員会も決めかねているようなのだ。
その特殊な血液型に。その特殊な事情に。
この偶然を、喜べるものなど、いるはずがなく。
やはり、稲生医師は悩む。
こんなこと、あって良いのか。
骨髄バンクにも登録がない、珍しい型と合致した患者が、おなじ病棟にいるなんて。
しかも、その病気は…。

終末期医療病棟、病状管理担当医師、稲生政野は、倫理委員会に対し、同日午後5時23分、髄液移植許可申請をおこなった。

三村京子の仮退院の日、倫理委員会特殊審議会は、彼女に対する髄液の血液型照合の実施の上で、それらが正しく合致していることを認証できてから、許可すると回答した。

6/
私の人生は、いつでも白で塗りつぶされていた。
中学の入学式の日、突然の貧血で検査入院した。
当時、まさか白血病だなんて思いもしなかった医師は、そのまま、帰宅を許可し、授業を受けることに賛同した。
そして、その年の9月、もう一度検査入院した結果…自らが白血病に冒されていることを知った。
大学病院でも匙を投げられ、どうしようもない、そんな時に母親が見つけてきたのが、『城北大学医学部付属病院終末期医療科終末期医療病棟』だった。
通称、腕輪病棟。
全員が医療進行状況を示す”腕輪”をつけさせられる、そんな場所だった。
『最後に、優しさを』
初めて見た病棟の標語は、それだった。
そして、…その下に、ナルキッソスの花が咲いているのを、見つけた。
冬の、白い花。
初めて、美しいと思えた、唯一の花。
それが、狂気、自己愛の象徴だと知ったのは、後年の話だった。
それが、ここよりだいぶ離れた西に咲く花だということも。
…おそらく、自分が一生かかってもたどり着けない、遠い場所であることも。

7/
倫理委員会の許可証の条文に基づいて、血液型と髄液のの精密検査を実施した。
髄液は、直接血のつながった親類以外で、そうそう一致するものではない。
だが、この場合は、神様も見放さなかったらしい。
ちょうど、一致したのだ。
…髄液の型が。
ついでに言えば、これは奇蹟としか言いようがないのだが。
…血液型まで合致した。
つまり、彼女への髄液移植の行程は、1歩前進したことになる。
…あと、気がかりなのは。
彼の体がいつまで持つか。
臨床試験に合格しうる髄液であるかどうか。
その一点である。
ただ、その一点なのに…。

8/
私には、唯一人の姉がいた。
姉は、闊達な人で。
エセとかいいながら、よく教会に行く人で。
…もしかしたらだけど。
姉自身、自らの生の短さを悟った上の行動だったのかもしれない。
…翌月の、クマゼミがうるさく鳴く、朝。
姉は、入院し。
8ヶ月後。
永いようで、短かった彼女の闘病生活は、終わりを告げた。
私には、生死の感覚はあったけれど。
あまりにも近しい人の死を見て、自らを客観視していたような気がする。
何も思えない。
分からないのだ。
混乱しているのかもしれない。
両親は、呆然と立ち尽くす私に、「もういいから」と背中をさすり続けた。
きっと、姉の死で、何がなんだか分からなくなった、と思われたのだろう。

「第2章」
1/
ある日、私の部屋に叔父が来た。
初入院−もとい、もう死の直前である私に、見舞いなど意味がないと分かっているはずなのに。
中身は、フルーツだった。
色とりどりの。
オレンジとか、林檎とか。
よく分からないものまであったけれど。
ただ。
その中に、銀色の何かがあるのを、私は見逃さなかった。
それは、車のキーだった。
確か−叔父が、自らの命よりも愛した、その車の名は。
日産のセドリック。90年代の。
年代物なのか、単に叔父の趣味か。
どちらか分からないけれど−。
…私は、気付いたらそのキーを握って、彼の元にかけだした。
確か、普通免許を持っていて、私とよくテレビを見ていた、その彼の名は−。
904号室、佐藤真之。
それだけを確かめると、私はノックもせず、病室に押し入った。

2/
僕は、そのとき採血検査中だった。
詳細は教えてもらえなかったけれど、これさえ確かめられたら、君は人の命を救える、と言われれば、断ることもできなかった。
そして。
突然のことに、僕の担当医師も驚愕の表情を見せた。
『彼女』−ナルキッソスを夢見た、小さな腰まである、黒色の長い髪。
間違いなかった。
「君は…」
彼女は、無言で、医師の隣を擦り抜け、僕の腕を突然掴み、−そして。
僕は、彼女の言葉と、その手に握られた銀色の物体を見て、すべてを理解した。
『死ぬときは、ここでも、家でもなくて、別の何処かで。静かに逝きたいの』

理解した僕は、医師にすぐ戻りますから、などと適当な嘘をついた。
…戻ってこれるはずがない。
彼女は、今から死にに行くのだから。
でも、医師はそれで安心したように、「必ず、戻ってきなさい。待っています」と言った。
胸がちくりと痛んだけれど、仕方あるまい。
そう。
彼女の腕は、それほどまでに有無を言わさない強さがあった。
いままでの無気力な彼女とは随分違う。
その瞳には、最後の決意を抱いた、死相が浮かんでいた。

3/
駐車場に運良く、叔父の車があったとき、私はすこしだけ、安堵した。
まさか、初っ端から窃盗をするつもりなど、さらさら無い。
だから。
神様に、いるかどうかも分からない、神様に。
『セドリックがありますように』と、願った。
強く、天に届かなければ許さないと言わんばかりの力で。

4/
ここにキーを差し込んで、エンジンを始動させて。
エンジンが暖まり始める、ドドドドという音を病院の駐車場に響かせながら。
…黒のセドリックは走り出す。
緩やかに、鮮やかに。
別段、目をとめるはずの光景でもあるまいに。
何人かの通行人がこちらを見ていた。
その黒が、漆黒よりも黒かったからか。
その黒が、意外に鮮やかな黒だったからか。

…この車の所有者を尋ねると、彼女の叔父との回答だった。
よく手入れされている。本当に。
ダッシュボードの中は、今は使い捨てカメラと車検証、そして僕が持ってきた8000円。
たったこれだけだが、上手に整理しないと、とんでもないことが起きてしまうことを、僕は経験的に知っていた。
国道を上り、適当な道を適当に走り。
気付いたときには、もう夕闇がすぐそこまで迫っていた。
ここは。
埼玉県狭山市。
どこをどうやってここまでたどり着いたのかさえ、想い出せない。
たぶん、国道と県道とかを適当につないできたのだろうけど。
…とにかく、今の僕たちにたどり着く先はなく、本当に、気ままに、気持ちの赴くままに。

5/
途中で、食料の買い出しにいった。
とはいえ、僕たちは二人とも病衣のままだったから、仕方なく寂れた業務用クリーニングに忍び込んだ。
ドロップアウトしていたときは、よくこんな場所に来ていたなぁ、などと過去の記憶を手繰りながら、一つの洗濯機に目をつける。
そして、−彼女と僕の分の衣服を盗んできた。

6/
行き先なき僕らの旅は、ガス欠という名の困難にたたされていた。
僕が所持していた金額は、精々8000円ほど。
食い扶持をつなげるだけで精一杯。
ある人は、日本国内であればどこへ行くにも5万あれば十分、と言っていた。
5万ぐらい掴めた、いや、掠められたはずだ。
だが。
意外に弱っていた自らの体は、各所で悲鳴をあげている。
今は、目的を持たないけれど。
僕は、気付いたんだ。
彼女が、京子が、『水仙』を、『ナルキッソス』を探していることを。
彼女に尋ねてみると、兵庫県の淡路島以西に咲く花が、植物学的見地からすれば、彼女の求めているナルキッソスと厳密に一致するものらしい。
行ってやろうじゃないか。
「淡路島まで、ガイドできますか」
そう尋ねると、彼女は、ほんの僅かに驚愕した表情を見せ、「…できる」と答えた。
ならば、行こう。
今の僕には、目的がある。
死を恐れる気持ちがある。
ただ、この時ばかりは、その理由を尋ねられないことが不思議だった。
黒のセドリックは、淡路島に向けて、僕と彼女のナルキッソスに向けて、走り出した。

7/
病院は大騒ぎだった。
如何に終末期医療病棟とはいえ、病院外に脱走されたとあれば、重大な責任問題だし、まともな医療を彼女らが受けられるはずもなく。
ただ、今は。
彼女たちが、満足して、納得して、死ねる、そんな場所が見つかることを、闇夜に輝く星に願うばかりだ。

8/
『淡路島まで、ガイドできますか』
妙に敬語を使うやつは、距離を置きたがる人間だとばかり想っていた。
しかも、自分の驚愕した顔も見られた。
残念。
淡路島。
そこに咲く、白い花は、私が求める、ナルキッソス。
植物学的にも、同一のものだ。
ナルキッソス。
いつから、その花を追い続けたことだろう。
それは遠い昔のことのように。
どこまで手を伸ばしても届かない物だと想っていたのに。
けれど。
こんなに近くにいるのに、それに手を伸ばさないということは、本物の愚の骨頂だ。
ならば。こんなやつでも。
希望を託するに十分だと想える。
だから、私は。
「…できる」と答えたのだ。行ってみたいと想ったのだ。
十分な治療が受けられなくとも。
…自分がそこで死ぬであったとしても。
…いま、自分は死ぬことが怖い。
それは、あの、生きることに価値を見失った、あの冬の日の決断よりも、強い意味を持っているからだと、自信を持っていえる。

9/
黒のセドリックは、目的を持った、強い何かに突き動かされるかの如く、走り出す。
クラッチが投入され。
エンジンが始動し。
そして。
今、白い花、ナルキッソスを目指して走り出す。

「第3章」
1/
そうして僕たちは、淡路島へ向けて、異様なまでに的確な彼女のナビゲートのもと、出来る限り高速を使わず、走る。
よく考えれば、途中でガス欠にあった時点で金はもうなかった。覚悟していた。
だから。
淡路島へ行くことすら、諦めかけた。
けれど。
彼女の持っていた諭吉さんに助けられた。
なんで、彼女が数枚以上の1万円札を持っていたかは、問わないことにした。
聞かなくとも、分かるような気がした。
たぶん、最初から当て所などないにしろ、病院か、自宅で死ぬなどと言う平凡さを、彼女は持ち合わせていない。
だから。
たぶん。
地図を、ずっと眺めていた、あの彼女。
そう。
今、彼女の名を告げるなら。
今村美千代。
城北大学医学部附属病院終末期医療科終末期医療病棟・病棟嘱託経過治療担当看護師、つまり。
ホスピスのヘルパー。
思い返せば、彼女の元に、よく名の知らぬ女の子が遊びに来ていた。
その子の顔立ちが、妙に彼女に似ていると想ったのは、彼女の体を冷やすまいとして缶コーヒーを買ったときだった。
「…何かついてるの?」
突然、そんなことを尋ねられたので、面食らってしまった。
当たり前のことだったのに。
惚けているとしか想えないことが増えてきた。
やはり。
体は満足な治療を求めているらしい…。

2/
ある日、もうまもなく大阪府に入ろうかというところで、彼女が吐血した。
異様なまでに紅い液体が、彼女が口を押さえた手からこぼれていた。
「いつから、薬が切れていたのですか」
半分、問いつめるように。
「…一昨日」
明日、薬を買ってこようと思い立った僕は、
「処方箋あるかい?」
珍しく、素の自分が出てきた。
彼女はひどく驚愕した表情ながら、ある、と答え、処方箋を取り出した。

「処方箋薬局」の文字がある薬局の近くにセドリックを止め、待っていなさいと命じ、薬局の中へはいる。
「すみません。誰かいらっしゃいませんか」
早朝の寂しい薬局の奥から、ごま塩頭の、白衣を着た男性が現れた。
「こちらの薬を処方して頂きたいのですが」
そして、その白衣の男性は、
薬を出して、
「この病院はかなり遠いところにあるよね…、ま、関係ないけどね。ところで、君さ、薬箋ってある?医者にもらってるよね」
そんなことを尋ねられた。
しまった、と直感的に想った。
まさか、薬箋を忘れるなんて。
仕方なかった。
彼女のためだから、許してください。
そう想い、それを取り上げて走り出す。
「あ、待て!こら、待ちなさい!」
待てなかった。近くに止めた車に駆け寄り、エンジンを始動させた。
「はい、これ薬。」
彼女は、ありがとう、とだけ言って、飲んだ。
その顔が、少し、赤くなっていることに気付いたのは、たぶん僕だけだろう。

3/
明石海峡大橋を望む海の近くに、そのセドリックはあった。
すこし休もう。
そう想って、車を止めた。
彼女は、時たま静かに眠り、僕もそうしようかと想った。
満月の、まばゆいばかりの光が、僕たち二人を照らし出す。
彼女の求める『ナルキッソス』まで、あと少し…。

4/
明石海峡大橋に乗ったところで、男女二人組を見つけた。
僕たちも、やってみるか。
そう思い、彼女を半ば強制的に外へ連れ出す。
インスタントカメラの類がないか、ダッシュボードを捜索する。
トランクを開けてみると、何故か一個だけ、残り5枚だけ残したカメラがあった。
肩に手を回す。
彼女は、驚きながらも、抵抗はしなかった。
先程の二人が、写真を撮ってくれるらしい。
御願いした。
彼女のその、笑顔など、もう二度と見られはずがなく。
だから。
繋ぎ止めておきたかった。
その、僅かな表情の変化を。
その、眩しい季節に包まれた、記憶を。
彼女の残滓が、”腕輪”だけなんて、悲しすぎることはしたくない…。
たぶんだけど。
彼女も気付いていたのだと、想う。
僕自身の我が儘に。
あの、二人組に感謝しよう。
だって、彼らが居なければ、僕たちはその一歩を踏み出せるはずなど無いのだから…。

5/
淡路島島内に入ってもなお、彼女の正確なナビゲートは続いた。
そして、天頂に輝く、月の光に照らされた、ナルキッソス。
見えた。
僕たちの、ゴール。
求めてきた、何か。
たどり着いたときの、彼女の顔は。
達成感に満ち溢れ、見たことのない、満面の笑顔だった。
綺麗だった。
彼女も、ナルキッソスも。
白すぎる花は、狂気を指し。
その黄色い花弁は、自己愛を指すと言われる。
けれど、今だけは、せめて。
その美しさに、ただ感銘させてほしい。
…そうして、僕たちの脱走劇は終わりを迎えることになる。

6/
その数日後。
また、彼女が吐血した。
今度ばかりは諦めざるを得ないだろう。
だからか、何となくなのか。
海岸へ行ってみるとするか。

海岸で、大分昔に購入したような気がする彼女の服に、どこぞから頂戴してきた「服部工務店」のタオルを巻き、彼女は海岸に浸かっている。
その動きは、今もなお、病魔に蝕まれていることを感じさせない。
『ねぇ、このまま海に沈んだら、楽に死ねるかな』
横浜界隈の海岸で小休止したとき、そんなことを尋ねられた。
『もし、私がこのまま死のうとしたら、あなたは止める?』
分からない。
分からなかった。
今なら。
「止めてほしいから、君はまだここにいる」

7/
最後に、彼女は、ある物を望んだ。
そんなもの、今あるはずない。
仕方ないから、あのタオルを渡した。
それで、海に入った。
不思議と、彼女は笑ってくれた。
それを、僕はとり続ける。
最後の1枚が、なくなったあとも。
ファインダー越しに彼女の笑顔を眺め、嘘でも写真を撮り続けた。
もう最後だという意識と。
こんなにも鮮やかな笑顔が、という意識が。
どこかで境界を無くしたような。
「はい、笑って。…ほら、もっとこう、なんていうのかな?腰にでも手を当てて」
彼女は、時たま不満そうな顔をのぞかせるけれど、ファインダーで見られているという意識があるのか、綺麗に笑ってくれる。
いつもは無表情な彼女。
名は三村京子。
血液型はB型RH-。
病名白血病により、城北大学医学部附属病院終末期医療科終末期医療病棟に入院する。
こんな、無機質な情報ではなく。
僕は知っているのだ。
彼女の美しい笑顔を。
その儚い笑顔を。

8/
「それじゃあ」
「もう、そんな頃合いなのか。…ありがとう」
彼女は、静かに海に向かい、…止まった。
「…これ」
僕の、もう二度と役目のない、第1種普通自動車免許だった。
「いいよ、教習所終了、ってことで」
「じゃあ、これ、あげる」
彼女の”腕輪”をもらった。
「では、退院おめでとう記念で」
…本当は違うけれど。
「今、止めてほしいかい」
「…よく、分かんない」
だけれど、彼女の足取りは、海へと向かっている。
だから。
それが答えなのだろう。
そう想った。
だから、僕は、止めはしなかった。
不思議と、寂しさはわかなかった。たぶん、それは、彼女の決意の結果であるからだろう。

…2005年1月24日 午後1時30分 兵庫県淡路島で。
彼女は、推定自殺者数35000人の一人となった。

「終章」
1/
これで、僕たちの960kmの旅が終わった。
僕には、2週間の。
彼女には、24年の。
それぞれ、持つ意味は違うけれど。
…これで。
無意味な僕だけが取り残されてしまった。
仕方ない。
近くの警察官にでも、助けを求めるとしようか。
…有難う。
最後に、君の笑顔を見ることが出来て、本当に感謝してる。
だって、一時的とは言え、生きる意味を見いだせたから。
ありがとう。
何度でも、伝えるよ。
この、どこまでも、青く澄み渡った冬の空と。
この、どこまでも、美しく白いナルキッソスに。
そして、蒼い海の中の君に。

…いつか、そこへたどり着くから。
待っていて。
その静謐な瞳で。

それじゃあ、さようなら。

2/
あれから、気付けば1週間経っていた。
僕はその後付近の警官に保護され、半ば連行の如く帰還させられた。
誰も、怒ることは出来なかった、と稲生医師が言っていた。
君は帰ってきたからね。
約束は守ったのだから。


…彼女は、今どこにいるんだろう。
ふと思った素朴な疑問に稲生医師は、今日告別式があるのだ、と答えた。
行ってきなさい。
あのときの、柔らかな笑顔で、彼は僕を見送った。

彼女の叔父さんと出会った。
彼女の顔を、もう一度だけ、見せてくれるといってくれた。
あなたが、彼女の笑顔を知っている唯一の人ですから。

そして、僕は、彼女の顔の横に、ラッパスイセンを1輪だけ、並べた。
花言葉は、「報われぬ愛」。

…そして、出棺の時になって、涙があふれてしまった。
彼女に届け。
それが、最後の言葉だった。

…2005年2月4日、午後2時30分。
再度の懸命な治療も間に合わなかった。

でも、と稲生医師は思う。
彼女と、一緒になれたじゃないか。
それだけで、満足じゃないのか?

だから。
白い2輪の花は、今も7階に咲いているのだろう。
私が最初に書き上げたバージョンですので、多少のミス(NarcissusをNarucissusとするなど)は平にご容赦ください。

さて、これ以降小説を書くとどんどんシリアス方向へ走っていった人間ですが、本当の意味での"原点"はここにあると信じています。
某PCゲームに影響されながら長期にわたり執筆したため非常に似ていたりするシーンがあるかもしれません。
でも、どうでもいいことなんです、作者にとっては。

最後のシーンに彼女は何を望んだのでしょう。多分、答えは人それぞれでしょうが、作者の解答は水着です。
こういった自由な観念を持たせてはいけないと友人に言われても無視するのが作者です。

では、またいつかお会いできると幸いです。
2007年11月14日
神谷隆仁
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