ビニール製の兄嫁
兄には嫁が一人いる。
何年か前に近所のデパートで買った嫁だ。綺麗な顔をして、よく気が付いて、料理上手で夫を立てて、義弟であるおれに対しても、とてもよくしてくれる嫁の鏡のような人だが、ビニール製である。
お陰で、かなり安かったらしい。
「税抜き価格で九千九百八十円だったんだよ」とは兄の弁だ。その当時は消費税が五パーセントだったので、税込み価格は一万四百七十九円。嫁の価格としては、相当格安であったらしい。
「そうよ。でも、お買い得でしょ」とは兄嫁の弁だ。実際、弟のおれから見て、ビニールの義姉はお買い得品としか言いようがない。彼女の作る煮物は絶品であるし、繕い物も上手いし、やりくり上手で、贅沢をしない。服もそこらのしまむらで買った特価品に限られる。
兄は「もっといい物を着ても良いだろうに」というが、義姉は「自分の値段よりも高い服を着たって滑稽なだけですよ」と言う。彼女は本当によく出来たお嫁さんなのだ。特価品現品限りだったのが悔やまれる一品である。
「義姉さんがもう一つ売っていたら、おれも買ったんだがなあ」とはおれの弁である。実際、姉はビニール製である事を除けば、本当に理想的な嫁だった、おれが理想としている女その物だった。よく気が付く貞淑な妻という点もさることながら、外見が、カラダがおれの琴線に触れた。
義姉は、本当に素晴らしいカラダをしていたのだ。
手足はさほど長くないが細く白く、尻の肉付きはとてもいい。胸の膨らみ方や鎖骨の雰囲気がたまらない。手もぷっくりしていて、触ったときのキュッキュッという感触が、おれの官能をかき立てる。
もしも、兄嫁がビニール製でなかったら、おれは間違いなく間男になっていただろう。どうにかして、義姉に言い寄って、手込めにし……あるいは襲いかかって、無理矢理にでも犯して我が物にしていただろう。
だが、義姉はビニール製だった。しかも、シリコン型の嫁のように、中身が詰まっているわけではなく、浮き輪のように空気で膨らませるタイプだ。カラダの大半は空気であり、比重も外側だけであるから軽く、抱いた時の重さに欠ける。だから、おれは義姉を襲うことはなかった。いい女である事は認めるけれど、決定的な部分で受け入れがたいものがあるのだ。
だからこそ、おれと兄夫婦は良好な関係を維持し続ける事ができた。
「しかし、おれは兄さんが羨ましい。義姉さんみたいな素敵な奥さんを税込み一万四百七十九円で買えたんだから」
「そうかそうか、ハッハッハ」
「もう、口が上手いんですから」
だが、ある日、とんでもない事件が起こってしまった。
その事件は、おれと兄の関係を破壊した。おれは二度と兄と顔を合わせる事が出来なくなってしまった。また、おれと義姉との関係も取り返しの付かない事になってしまった。兄嫁自身は、この事件によって変わり果てた姿になってしまった。
事件はおれたち家族のあり方を徹底的に改ざんした。だが、そうした事件は突然起こったわけでもなかった。徐々に、しかし確実に、ごくありきたりな日常の中に事件の萌芽は芽生えていたのだ。
ある日、おれが自室で仕事をしていると、部屋に兄嫁が尋ねてきた。
「その、ちょっと相談したい事があるので、お時間を頂いて宜しいでしょうか?」
「ああ、いいですよ。ちょっと待っていてください」
おれは作業内容を保存して、PCをスリープさせ、彼女を招く。部屋へ入ってきたビニール製の兄嫁はなんとも陰鬱な顔をしていた。普段の気さくで明るい、夏の日差しのような雰囲気はどこかへ行ってしまったようで、冷たい風が吹きつける冬のような雰囲気をしていた。
その顔を見て、おれは怯んだ。兄嫁は絶対零度の凍てついた目で、おれを見てくるのだから、少し萎縮してしまった。
それでも、声を絞り出した。
「そ、相談とは、なんでしょう?」
「夫の事で」
それだけ、義姉は言った。その声は冷たいというどころではなかった。剥き出しの刃物のような剣呑さを持っていた。
兄貴はなにをしたのだろう。温厚な義姉さんをこんなにするなんて。そう思ったが、ハッキリと聞くことも憚れるので、曖昧に聞き返す事にした。
「あ、兄さんがどうしたんでしょう」
「浮気をしました」
「……そ、それはまた。けしから」
「郊外のマンションに嫁を買って囲っているようなのです。それは私の十倍の値段もする、ステンレス製の嫁だそうです」
兄嫁の声の温度は低かった。絶対零度の冷たさだ。聞くだけで凍って死んでしまうほど、ビニール製の義姉は凍り付いている。
おれはおれ自身が悪い事をしたわけでは無いけれど、自分が悪いことをした気分になってしまって頭を垂れていたのだが、そのままずっとというわけにもいかないので、なんとか顔を上げて兄嫁の顔を見上げてみたら、兄嫁は怖い感じになっていた。
彼女はビニール製だから、表情筋を持っていない。だから、その表情はいつもの笑顔だ。
けれど、その彼女の中にある感情がどうしようもないほどに凍てついていて、それがとてつもない恐ろしさを醸し出していた。
どうもビニール製の兄嫁は、心の底から兄に対して怒っているようだ。
「どうしたら、いいと思います?」
「そ、そうですねぇ」
だが、兄嫁は相談をしに来たのだ。おれを怖がらせる為でなく、建設的な意見を求めに来たのだ。おれは、答えなくてはいけない。
「え、ええとですね。ま、まず、こういう時は……」
恐怖に震えながら顔を上げ、兄嫁の顔を見る。
その瞬間、おれは兄嫁に見とれてしまった。
なぜなら、兄嫁は泣いていたからだ。
ビニールの顔に嵌まったプラスチックの眼球から、はらはらと涙を流していた。それはとても不可思議な、それでいて美しい光景だった。ビニール製の嫁如きが涙を流すなんて思ってもなかった。そうした高度な機能はもっと高額の、それこそ兄貴の浮気相手であるステンレス製の嫁とかに与えられる高級機能である筈だ。たかがビニールの嫁などにそんな機能がある筈もない。彼女の内側に満たされているのは、空気ポンプで送り込まれたただの空気で、涙などが介在する余地はない。
けれど、彼女は泣いている。
何らかの奇跡によって――ルルドで聖母マリアの像が涙を流したように、我が兄嫁もあり得ざる涙を流している。
「……義姉さんっ」
おれはそれまで兄嫁に感じていた恐怖を忘れて、彼女を強く抱き締めた。
嘆くビニール妻を見ていて、なんだかたまらなくなってしまった所為だ。するとなんとも言えないほど抱き心地がいい。おれは欲情した。だが、兄嫁はおれが欲情している事に気が付かず、素直におれの胸で泣いていた。単純に、おれが慰めようとしていると思っているのだろう。彼女の涙がおれの胸板を濡らした。その時、おれの中にあった兄嫁に対する忌諱は消え去っていた。ビニールだからという侮りも消えていた。代わりに、強い欲望があった。この女を犯したいという、獣染みた欲求だ。
しばらくして、おれは兄嫁が落ち着いたのを見計らって、彼女の身体をまさぐり始めた。兄嫁は「や、やだ」とか「待って」とか戸惑いの声を上げて、おれを突き放そうと抵抗するが、所詮はビニール製だ。
彼女の力の源は、表皮にして本体でもあるビニールそのものに由来し、たいした力を持ち合わせていない。おれを突き飛ばす力はなく、されるがままになっている。
「兄貴は義姉さんを裏切ったんですよ。だから、義姉さんも裏切ってやりましょうよ。それで、おあいこってヤツです。これは義姉さんの正当な復讐なんですよ」
身勝手な事を言いながら、獣欲に駆られたおれは、義姉を押し倒した。ここに至って兄嫁は悲痛な悲鳴を上げるものの、それが外に届く事はない。これがリビングとか台所なら、誰かに――例えば、隣の暇をしている老夫婦が聞きつけるなんて事もあったかも知れないが、兄嫁が相談をしに来たのはおれの部屋である。
おれは自称音楽家であり、自室は仕事場でもあった。壁も窓も防音処理がしてあって、兄嫁の悲鳴が外に漏れる事もない。
「や、やだっ。やめてください…… やめて!! わ、私は夫に対する復讐なんて考えていないんです!!」
「そうですか。けど、おれは貴方を慰めてあげたいと思ったんですよ。夫に裏切られ、涙を流す貴方は、とても綺麗だった」
割と真剣におれは口説いた。だが、兄嫁は聞きもしなかった、がむしゃらになって、おれから逃れようとする。
「危ないですよ。そんなに暴れたら、それよりも、早く一つになりましょうよ」そう言って、兄嫁に口づけをした。だが、それが悪かった。
「痛てぇっ!!」
口を思いっきり囓られた。おれは悲鳴を上げて飛び退いた。その隙に、兄嫁はおれの下から脱出する。
「この女!」
おれは怒鳴り声を上げながら、逃げるビニール女を追いかける。彼女は逃げる。当然だ。追いつけば、おれは彼女に乱暴をするのだから。それこそ、必死になって部屋を飛び出し――
「ああっ」
彼女は階段から転がり落ちてしまった。
おれの視界から兄嫁が消えた。さっきまで廊下を走っていた筈なのに、階段のところでパッと消えてしまった。続いてどたどたという無様な音と、ぶしゅーという気の抜けた音がする。その後、しんとした静寂が廊下に満ちた。
おれはとても怖くなった。
階段の下を見るのが怖かった。
けれども、見ないわけにはいかなかった。夜になれば兄貴が帰ってくる。そうなれば、おれよりも早く階段の下を見てしまう。それは、不味かった。
おれは階段の下を見た。
すると、そこには空気が抜けてぺしゃんこになった兄嫁の姿がある。声を掛けてみてみるが、兄嫁は返事をする事がない。
当たり前だ。ビニール製の生き物というものは、活動するためには中身が満たされている必要がある。生きる為には膨らんでいなければならず、萎んでいては死んでいるのと変わりがない。
「義姉さん、義姉さんしっかりしてくれよ」
殺す気はなかったのだ。ちょっとレイプしてやろうと思ってしまっただけだった。それがこんな事になるなんて……おれは必死にビニール製の兄嫁を引き起こした。兄嫁に空いた穴を塞いで、空気を入れ直してやろうと思ったのだ。
だが、よく調べてて絶望した。
兄嫁の身体は、背中のところから大きく裂けていたからだ。他にも間接などに小さな穴が空いていて、これは修理のしようがない。おれは時計を見た。気が付けば、随分と時間は過ぎていて、時計の短針は五時を指している。
「ま、不味いぞ。このままじゃ、兄貴が帰ってきて……」
兄嫁はどこだ、という事になるだろう。
他のマンションに女を囲っていたとしても、兄貴が兄嫁を愛しているのは一目瞭然の事実であって、それがいなくなったとなれば兄貴は兄嫁を探すだろう。そうなれば、おれの所行は明らかとなり、おれはビニール殺しの罪で刑務所に服役する事になる。
「い、いやだっ! おれはミュージシャンなんだ! け、刑務所なんて監獄ロックしか聞くものがないような場所に絶対に入るものか!!」
おれは叫んだ。だが、この叫びに答えるものはいなかった。兄嫁はぺしゃんこのまま、目を閉じて何も語らない。時計の秒針が進む音だけが、おれの破滅への道程に確かな道筋を付けていた。
「中身だ、この女に中身を入れる事ができれば……」
どうにかして、兄嫁を蘇らせなければ。
さもないと、おれの人生は破滅してしまう……っ。
その刹那、玄関から音がした。
「おーい、帰ったぞー」と場違いな程に暢気な声は兄貴の声に間違いなく、おれは心臓が飛び出る程に驚愕する。
時計を見た。まだ六時だ。明らかに今日は早すぎる。
「今日は原料不足で機械が動かず、早上がりになってなぁ。いやー、代わりに明日は忙しそうだ」
兄貴の言い訳のような愚痴を聞きながら、おれは辺りを見回した。
逃げなければ。
隠れなければ。
絶対に見つからない場所に。
「……ああ」
おれはぺしゃんこになった兄嫁を見る。
なんだ、こうすればよかったんじゃないか。
この方法なら兄嫁の中身は満たされるし、おれも兄貴を隠れてやり過ごす事ができる。
おれは兄嫁の中に潜り込む。
「お帰りなさい、貴方」
そして吃驚するほど甘い――兄嫁と寸分違わぬ声で兄貴を出迎えた……
兄には嫁が一人いる。
何年か前に近所のデパートで買った嫁だ。綺麗な顔をして、よく気が付いて、料理上手で夫を立てて、ビニール製であるけれど、肉感的で生々しい、魅惑的な嫁である。
「本当に最高の嫁なんだよ」とは兄の弁だ。あの日以来、兄は兄嫁に首ったけだ。それまでも随分と兄嫁を可愛がっていたが、今では下にも置かぬ扱いで、椅子に座るときなどは嫁を膝に乗せて、鼻の下を伸ばしている。最近では、新しく買った愛人の、ステンレスの嫁宅にも寄りついていない。こっそりと相談されたところによると、兄は愛人嫁を売却する計画を立てているそうだ。
「ありがとうございます。とっても嬉しいわ」とは兄嫁の弁である。そう語りながら兄嫁は、夫である兄に身体を押し付ける。肉感的となった兄嫁の身体は、とても柔らかく、温かく、扇情的だ。兄は鼻の下を伸ばす。
「そういや、今日もあいつは降りてこないのか」
「はい。なんでも仕事に追い込みがあるとかで……」
「追い込みねぇ。音楽家様はそんなに忙しいのかね」
「それは私も分かりませんが……」
「まあ、何でもいいが……。それよりもお前、あいつには気を付けろよ」
「は、はい?」
「お前は美人だからなぁ。しかも、最近はまた魅力的になってしまった。そんなお前を我が弟ながらも、男がいる場所に残していくのが心配で心配で……」
「まあ、それなら心配いりません。弟さんはとても紳士的な方ですし、私は貴方一筋ですから」
そう言って兄嫁は、より正確に表現するならば、兄嫁の皮を被ったおれは、兄貴に深い口づけをした。本来の姿なら男同士、吐き気を催す状況だが、嫌悪感はなかった。
それは、きっと兄嫁の皮を被っているからだろう。ビニールのぺちゃんこになった兄嫁の皮を――
あの日、おれは兄嫁と一つになった。空気の抜けた兄嫁を被り、彼女自身となった。ビニールの嫁は、おれの新しい皮膚となった。
皮を被ったおれは、おれとしての自我を持ちながらも兄嫁だった。彼女の記憶はそのまま受け継いだし、考え方や好み、それに嗜好もそちら側に染まった。その所為で、おれは兄貴を好ましく思ってしまっている。彼女が好きになったものは、おれが好きなものになってしまう所為だ。
「それじゃ、貴方。行ってらっしゃいのキスを……」
「おお、わかってるわかってる」
そうした方が自然であるから、おれは兄貴にキスをせがむ。するとなんだか嬉しくなる。おれの中の兄嫁が、その行為に喜んでいるからだ。
最初のうちは、そうした現象に混乱していた。だが、その時に内から沸き上がってくる衝動はとても強烈なものがあったので、次第におれは、それに身を任せるようになった。今では、もう――
兄を送り出してから、おれは溜め息を吐いた。
あの日から、おれはずっと兄貴の嫁をやっているが、気が休まるのは一人になった時だけだ。兄貴と一緒に居るときは、おれは兄嫁にならなくてはいけない。そうしないと、身の破滅だ。
だが、よくよく考えてみれば、おれの身は既に破滅しているような気がする。こうして兄嫁の中身をやり続ける事で、おれ自身の生活は破綻している。兄が家に居るときは、兄嫁の皮を被っていなくてはいけない。兄嫁の代わりに兄貴の世話をして、飯を食べさせ、一緒に風呂に入って、同衾しなくてはいけない。兄が家に居ないときも兄嫁がこなしていた仕事をしなくてはいけない。料理洗濯家の掃除、縫い物買い物家計のやりくり。自分の仕事をする暇などない。音楽の仕事もずっと、やれていない。
「……ああ、そうだ。洗濯しなきゃ」
それでも、もう途中で止めることなんて出来やしない。おれにできる事は兄嫁を演じきる事しかないのだ。
おれは洗濯をしに、洗面所に向かった。すると、そこには鏡があった。鏡にはおれの姿が、兄嫁の姿が映っていた。
ふと、鏡の中の兄嫁と視線があった。
鏡の中の彼女は、とても幸せそうに笑っていた――