挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマークする場合はログインしてください。

ちぐはぐルームメイト

ごめんねなんて言わないで

  きょうの夕ごはんの献立は、肉じゃがだ。肉じゃがと、たまごやきと、小松菜のおひたし。バイトが休みだから、講義を終えてサークルに顔を出したあと、そのままスーパーに寄った。朝冷蔵庫をチェックしたら、たまごが切れていたから。それに、玉ねぎも一個しかなかった。
 肉じゃがは、ルームメイトの陽乃さんのリクエストだ。おれのバイトが休みで、かつ陽乃さんの仕事が早く終わる日限定で、料理を教えている。
 サークル棟の部室で友だちとだらだらしてた時、メッセージをもらった。
「きょう、早くあがれそう。教えてもらっていいですか」
 と。いっきに心拍数がはねあがって、オッケーのスタンプをおくると、友だちからの「このあとメシ食いにいかね?」の誘いを断り、おれはスーパーまで走った。冷静に考えれば、まだ時間はある。秋の日はつるべ落としというが、十月もなかばを過ぎて急に空が赤く染まるのが早くなった。とはいえ、まだ六時前。いくら早く上がるといっても、陽乃さんがシェアハウスに帰ってくるのは七時をまわるだろう。
 買い物のさいごに、なんとなく、プリンをかごに入れた。デザート的な。一緒にまったり食べられたらいい、なんて。さりげなく、甘いのあるんですけど、なんて言って。こじゃれた店のちょっと贅沢なプリンだと、いかにもわざわざ用意しましたって感じだから、あえて、三個入り百八円のどこにでもある馴染みのやつを買った。陽乃さんは、何だっておいしいと言って喜んで食べてくれるし、きちんとおれの目を見て「ありがとう」と「ごちそうさま」を言ってくれる。

 シェアハウス「野の花」の住人のなかで、学生はおれひとり。バイトがない日は、当然ながら帰宅時間が一番早いのはおれになる。時々、フリーターの歌子さんが先に帰ってることもあるけど。
 ハウスの鍵はもちろん全員が持っているが、それぞれの個室にも(そして脱衣所にも)鍵がついていて、プライバシーはしっかり守れるようになっている。
 ルームメイト同士の事務連絡用に、玄関の下駄箱のうえに黒板が置かれている。伝言板というやつだ。今日は、野村さんの「帰宅が深夜になるから風呂はとばしてくれ」との書き込み、それと、沢木さんの「荷物が届くかもしれない。帰宅次第自分で連絡するからその旨伝えて」とのメッセージ。
 共用なのは一階にあるキッチン・ダイニング・六畳のリビング。風呂と脱衣所、トイレ。トイレは二階にもある。こまかいルールがたくさんあって、慣れるまで大変だった。高校生の妹が留学したいと言い出したから、おれはできるだけ親に負担をかけたくなくて、安い家賃で住めるところをさがしていた。ルームシェアなんてわけのわからないこと、とおふくろは反対したけど、親父は「ようするに寮生活みたいなもんだろ」とあっさり納得してくれた。実際に暮らしてみると、ほんとうに、寮生活ということばがしっくりくる。
 冷蔵庫にプリンを仕舞うまえに、マジックで名前を書いた。三個あるうちのふたつに「折原」と書いて、のこりの一つには「先着一名様にプレゼント」と書く。時々みんなこういうことをする。六缶パックのビールのうち、一本をプレゼントとか。菓子パンのキャンペーンシール、ほしいひとにあげるとか。そうそう、前、野村さんがそうやって提供していたヨーグルトが賞味期限を一か月もすぎていたとかで、食べた歌子さんがえらい目にあったと言って大ゲンカしたことがあった。捨てない方が悪い、確認しない方が悪い、って言って。といっても、このふたりのケンカは日常茶飯事なので、だれもまともにとりあわなかったけれど。

 陽乃さんは、料理が下手だ。
「そんなに水を入れたら、煮物じゃなくてスープになります」
 具を炒めた鍋にあふれんばかりに張られた水を捨てる。
「この半分、じゃがいもが浸かるか浸からないかぐらいでちょうどいいんです。あとで酒やしょうゆも入るし」
「でも、それじゃ火が通る前に煮汁がなくなっちゃわない?」
「火が強すぎるからそうなるんです。沸騰したら火を弱めて。基本です」
 まだちょっと納得いってないような顔して、陽乃さんはボウルにたまごを割り入れ、混ぜる。
 肉じゃがを煮込んでいるあいだに、たまごを焼く。おひたしはもうできあがっている。料理で大切なのは段取りだ。
「陽乃さん、鍋見て。湧いたから火を弱めて」
「う、うん」
「あくをすくってください。丁寧に」
「わかった」
「調味料は、ちゃんと入れる順番があるんです。この前教えたけど、覚えてますか?」
「えっと、さしすせそ」
「そう」
 陽乃さんからボウルを受け取って、かきまぜる。空いたほうのコンロで卵焼き器を熱し、うすく油をひく。
 くつくつと、鍋が音をたてる。ルームメイトたちはあまり料理をしない。忙しいのもあるんだろうけど、みんな、せいぜい目玉やきをつくるかインスタントラーメンをつくるかするぐらい。だから調理器具はほとんどおれの。炊飯器もトースターも各々のを使うことになっているけど、稼働しているのをほとんど見たことがない。
「どれぐらい熱くなったらたまごを流していいの?」
「もうちょっと、かな。じゅうぶんに熱さないと、こびりつきます」
「ねえ。たまごやきにいれる隠し味って、なに?」
 いきなり聞かれて。えっ、と。一瞬、固まってしまった。
「あるものをいれるのがおいしくつくるコツだって、言ってたよね?」
 そういえばそんなことを言った。陽乃さんが失恋して、雨に打たれて、泣きじゃくっていた日の夜のこと。あれからもう、一か月経つ。
「いやその……。えっと、マヨネーズです」
「マヨネーズ?」
「こびりつきにくくなるし、冷めてもふんわりやわらかく仕上がるんですよ!」
「なんでむきになってるの?」
 そろそろいいよねと、陽乃さんが、たまごを流しいれた。じゅわっと、音が広がる。きゃしゃな肩がたまご焼き器をゆするたびに小刻みにうごく。
「すぐ火を弱めて。もっと大きく、ふわっと、混ぜてください。さっと巻いて、硬くなるから。あとで整えるからかたちは気にしないで」
 胸のまんなかがほんわり熱い。陽乃さんは、まだ、その男のことを引きずっているんだろうか。知りたいけれど、聞けない。

 できあがった肉じゃがと、おひたしとたまごやき、それに、ごはん。ごはんは圧力鍋でいつも炊いている。朝は時間がないから冷凍しておいたものをあたためて食べる。
「いただきます」
 きらきらと目を輝かせて、陽乃さんが手を合わせた。その仕草を見ていると、なんだかしあわせな気分になる。陽乃さんはいつもそうだ。
 おれがここに入居して、皆が歓迎会を開いてくれて。後日、お礼にと、親父の見よう見まねでおぼえた料理をふるまった。こんなもので果たして皆喜んでくれるのだろうか。そう感じて不安になっていたおれに、まっさきに「おいしい」と言ってくれたのは陽乃さんで。その笑顔に、おれは自分のぜんぶを持っていかれてしまった。
 もちろんみんなおれに優しくて、「うまい」「ありがとう」と口々に言って喜んでくれたのだけど。陽乃さんは、じんわりと噛みしめるようにだいじに料理を食べて。まっすぐにおれの目を見て、「ごちそうさまでした」と、言ったのだ。
「おいしい。ちゃんと、ほっくり煮えてる」
「煮物は冷めるときに味が滲みるから、あしたはもっとおいしくなってると思いますよ」
「やったあ。おべんとうに入れて持ってってもいい?」
「いいですね。おれも、そうしようかな。ちゃんと汁けをとばしてから詰めなきゃですよ?」
「はーい」
 ゆったりと夕餉の時間は過ぎていく。食べ終えた陽乃さんは、おれの顔をのぞきこんでほほえんだ。
「あとでレシート出してね」
「いいって言ってるのに」
「だめだよ。節約のためにここに住んでるんでしょ? あたしがむだ使いさせるわけにはいかない。ていうか材料費ぜんぶ出すのに。授業料として」
「いらないです」
 ふいっと、横を向いた。そういう他人行儀なことを言われると、寂しくなってしまう。他人なんだから他人行儀なのはあたり前なんだけど。でも。陽乃さんに料理を教えることはおれのよろこびでもあるのに。
「今日ね、お礼にいいもの買ってきた」
 陽乃さんは笑顔のまま立ち上がった。ひとり拗ねてるおれがばかみたいだ。なんにも知らない陽乃さんは、白い小箱を掲げてみせた。
「じゃーん。プチ・アンジュの、限定モンブラン。さいごの二個だったんだよ? みんなが帰ってくる前に食べちゃおう」
 珈琲いれるねと、いそいそとコーヒーメーカーをセットしはじめた。
 こじゃれた店のちょっと贅沢なデザートだし。
 あー。三個百円のプリン買ってきたおれ、どうすりゃいいんだ。
 と。鍵を回す音と、ドアが閉まる音がして。どたどたと派手な足音が近づいてきた。
「あー。この音は歌ちゃん」
 のんびりと陽乃さんが言ったのと、歌子さんがダイニングをのぞきこんだのは同時だった。
「おかえり歌ちゃん」
「ただいまー。つーか何してんの? ふたりして」
「最近、料理教えてもらってるの。もう二十五だしね、それぐらいできるようにならなきゃかなって」
「ふーん」
「歌ちゃんも食べる? まだ肉じゃが残ってるよ」
「あたしはいい。賄い食べてきたから」
「じゃあ珈琲だけいれるね」
「サンキュっす。っつーか陽乃サン、いきなり料理とか。ひょっとしてあれ? 花嫁修業的なやつ? ついにプロポーズされたわけ?」
 うわ。歌子さん、まだ知らなかったんだ。思いっきり地雷だよそれ。
「別れたから」
 とだけ、陽乃さんは言った。抑揚のない声で、ぺたりと仮面みたいな笑顔を貼りつけて。
 歌子さんは陽乃さんのとなりの椅子をひいてどっかりと座った。
「そっか。ふーん。ま、男なんかろくなもんじゃないよね。あたしも別れるかも」
 ふーっと長いため息をつくと、歌子さんはケーキの小箱をちらちら見やった。
「歌子さん、これは駄目です。二個しかないらしいです」
「えー。ずっるーい」
「プリンあげるから我慢してください」
 陽乃さんにいやなことを思い出させたんだから、プリンがもらえるだけありがたいと思ってください。

 陽乃さんが彼氏と別れたと知ったとき。こころが跳ねた。だけど、ひどい裏切られ方をしたといって泣きじゃくる彼女を見ていたら、喜んでしまった自分のことが恥ずかしくなった。
 ごめん。
 あかるい日が射して、キャンパスの銀杏並木がきんいろにひかっている。はらはらと葉を落とすさまは、まるで黄色い蝶が舞っているみたいだ。
 一年生だから、まだ専門の授業ははじまっていない。共通講義棟からサークル棟へと歩きながら、おれは、卒業して自立するまであと三年もかかるのかと、ため息を吐いた。
 部室にはすでに同級生たちがいて、それぞれパンなど食べながらスマホをいじっている。
「おす」とたがいに軽い挨拶をかましてパイプ椅子にすわり、部屋の真ん中を陣取っているでかいスチール机に弁当をひろげた。
「おおーっ! 出た! 弁当男子!」
「うるせ」
「肉じゃがじゃん。うまそーっ。渉、俺の嫁にならね?」
「冗談じゃねーよ。っつーか勝手に食うなよ!」
 陽乃さんもいまごろ、会社で同じ肉じゃがを食べてる。
「…………」
「ちょ、どーした渉。具合わるいの?」
 べつに。ちょっと胸が苦しくなっただけだ。そんな乙女みたいなこと正直に言えるか。
 一度。出かけようとしたとき、玄関の外で、朝帰りしてきた陽乃さんと鉢合わせしたことがあった。俺と目があうと彼女は、へへ、と恥ずかしそうにほほえんだ。目のあらいヤスリみたいなやつで、胸のなかをごりごり削られるような感じが、した。
 だけど泣いてるのを見るのはもっとつらい。元気になってほしくてやさしくしても、「ごめんね」と彼女は言う。こんなことまでしてもらってごめんねと。
 ごめんねなんて言うなよ。
 陽乃さんのためだったら。なんだって。

 駆け足で秋の日々は過ぎていく。
 十一月も中旬。陽乃さんの料理のレパートリーも増えた。エプロンすがたもさまになってきたし、たまごも、ところどころ焦がしながらも最初のころよりうまく巻けるようになった。
 歌子さんは相変わらずぐだぐだと彼氏の愚痴をこぼしながらスナック菓子をぽりぽりかじっているし(ごはん代わりって言ってた。健康に悪いと思う)、野村さんは毎週のように飲んだくれて帰ってくる。沢木さんは仕事一筋で、とにかくクール。ペースを崩さないし、ルームメイトと必要以上に慣れ合わない。かっこいいけど少し近寄りがたい、大人の女性だ。六つ年上なのにどこか抜けてる陽乃さんとは対照的。
 ホワイトソースをつくりながら、陽乃さんにそんなことを言ったら、「あたしだって職場ではきっちりしてるんだからね」と怒られた。かわいいと思った。言えなかったけど。
 グラタンが焼けるのを待つ間にサラダをつくる。陽乃さんのエプロンは紺色のギンガムチェック。なで肩だから、ひもがずり落ちそうになっている。直してあげたくて思わず手をのばして……、そして、引っ込めた。
 陽乃さんはレタスをちぎるのに夢中で、そんなおれには気づかない。
「折原くんの大学、もうすぐ学祭だよね。サークルって、何してるの?」
「あ。えっと、B級グルメ研究会です」
 いきなり話しかけられてあわててしまった。
「なにそれっ」
 あははと陽乃さんはわらう。
「いいなあ学生さんは。楽しかったな、あの頃。何年前だっけなあ」
 陽乃さんは懐かしげに目を細めた。
「あたしね、短大生のころ、折原くんとこの大学のひととつき合ってたんだよ。銀杏並木あるじゃない、あそこを一緒に歩いたな」
「……へえ」
「元カノとふたまたかけられてて、別れたんだけど。泣いたことも懐かしい。ま、あたしもそれから進歩がないっていうか。いまだに男を見る目がないままってのも問題だよね」
 淡々と話しながら、きゅうりを切って、トマトをスライスする。
「ごめんね。こんな話されてもリアクションに困るよね」
 なんて言って、苦笑いする。
 困る。リアクションできない。おれは今、どんな顔してるんだろう。
 陽乃さんにとってもう過去になった場所を、おれは明日も歩く。
 焼き上がったグラタンと、サラダをいただく。陽乃さんは目を輝かせて、「焼き目の色も、チーズのとろけ具合も最高」なんて言って上機嫌だ。
 おれは。そんなに……。食べられない、かもしれない。でも、目の前の陽乃さんは、なんだか笑いをかみ殺すみたいな顔をしている。
 なんだ? と思った瞬間。「わっ」と耳元で大きな声がして。びびって振り返ると野村さんだった。ダイニングと隣り合った共用リビングのほうから、気配を消してこっそり近づいてたっぽい。
「辛気くさい顔してんなよ。せっかくかわいい女の子とメシ食ってんのにさあ」
 かははと笑う。会社帰りのはずなのにジャージ姿なところを見ると、ジムに寄ってきたんだろう。
「ふー。俺もビール飲んで寝るわ。あ、ジムでシャワー浴びてきたから、風呂はいいから。俺」
 そう言って冷蔵庫を開ける野村さんの、でかい背中を。じっと見ていた。

 次の日の夜。
 バイトしてるコンビニに野村さんが来た。きっかりスーツ着てるから会社帰りなんだろう。レジに缶コーヒーを差し出して、「何時にあがんの」と言った。
「九時半です」
 あと十分もない。
「ふーん。んじゃさ、そこの公園で待ってっから。飯でもおごるよ」
「いいんですか」
「たまにはな。今日、陽乃ちゃんと約束ないんだろ?」
 そう言って、にっかりわらった。
 連れて行かれたのは焼肉屋だった。肉を焼きはじめるまえに、野村さんのビールのジョッキは空いてしまった。明日は土曜だというのに、一緒に飲む相手が見つからなかったのかもしれない。野村さんは、酒が好きというよりむしろ、大人数ではしゃいでいること自体が好きな人だ。
 ふいー、とか言いながら片手でネクタイをゆるめるしぐさも。シゴトの電話がはいって「ちょっとごめん」と席をたつすがたも。戻ってきて速攻で追加のビールをあおって「ぷはー」なんて言ってる顔も。なんていうか。
「おっさんくさい? か? 俺」
 ずいっと身を乗り出して、野村さんは言った。ふつうのトーンで言ったつもりなんだろうけど、なんせ地声がでかい。肉の焼ける音をおしのけておれの鼓膜にダイレクトにひびいた。
「なんでいまさら」
「いや。歌子にさ、加齢臭するとか言われて。ひどくね? さすがにそれはないだろ、俺まだ二十八だし」
「するわけないじゃないですか。あるのはアルコール臭だけです」
 むはは、と野村さんはわらった。たしかに、共用リビングのソファにふんぞり返って上下スウェットでビール片手にナイター観るすがたはおれの親父とかぶる。だけど歌子さんは言いすぎだ。十九のおれから見たって野村さんのルックスはおっさんとは程遠い。「社会の歯車感」は、ばしばしするけど。
「歌子はまだ二十三だからなあ。あいつのまわりもバンド仲間ばっかで見た目も気持ちも若いっつーか、ちゃらいだろ?」
「バンドイコールちゃらいは偏見ですよ」
「ちゃらいわ。なんだあの野郎」
「だれすかあの野郎って」
「歌子のオトコ。偶然見かけた」
「肉焦げますって」
「若い奴が食え。がんがん食え」
 むっとした。ああ食ってやるよとばかりにばんばん肉を焼く。
 野村さんは、頬杖をついて、おれの顔を見て、ふんと笑った。何だよ。
「おまえがこの間からなに考えてるか当ててやろうか? ずばり『どーせおれはガキだし』」
「…………」
「気にしたってしょうがないだろ」
 黙秘。たれをつけた肉をごはんにのっけて、かっこむ。
「めんどくせーこと考えてないで押してけよ。陽乃ちゃんな、あれ、押しに弱いタイプだ。だれかにとられる前に押し倒せ」
 ぐほっ、とごはんつぶが気管にはいってむせた。あわててウーロン茶で流し込む。
「俺が押し倒してもいい?」
「だっ!」
 ばあんと、テーブルを叩く。
「だめです! ぜったい、だめです!」
 頭のなかが熱くて。ガラにもなくでかい声出してしまって。野村さんがそんなおれを見てにやあっと笑って、しまったはめられたと気づく。
「うまいことやれよ? ルームメイト同士でつき合うのは俺的には賛成だから。沢木はごちゃごちゃ言いそうだけどな。ま、そんときゃかばってやるから」
 でかい声で陽気に言い放って、うまそうにビールをあおった。

 帰りに酒屋に寄ってたんまり酒を買い込んだ野村さんとふたり、シェアハウスに戻る。なんだかんだでもうすぐ日付が変わりそうだ。今夜はみょうに冷える。
「あ」
「あ。今帰りですか?」
 陽乃さんがドアの鍵を開けるところだった。ほんのり、ほおが赤く染まっている。
「陽乃ちゃんも飲んできたの?」
「ちょっとだけ。先輩に誘われて」
「ふーん。オトコの先輩?」
「ううん、女のひと」
「ひょっとして合コン?」
「……なんでわかるの? ていうか。無理やり連れてかれて行ってみたら、そういう感じだっただけ」
「へー。いい感じの奴、いた? 電話番号ぐらい聞かれたでしょ?」
「いえ。でも、あの、先輩が勝手にあたしの番号教えちゃったみたいで」
「あー。いるいるそういうおせっかいな女。いつまでも泣いてちゃだめ! あたらしい恋しなさいよ! とか言ってくんのな」
 なんて言いながら、野村さんはおれの顔をちらちら見やる。
「でも陽乃ちゃんならすぐ次の彼氏できるよ」
 やたら絡んでくる野村さんに、陽乃さんはあきらかに戸惑ってる。おれだって、立ち入りすぎだと思う。
「寒いからはやく中入りましょう」
「あー。あのさあ。悪いんだけど、ふたりで、ミネラルウォーター買ってきてくんない? 二リットルの。電車通り沿いのコンビニのでいいから」
「は? なんでですか?」
「俺酔っちゃってふらふらなわけ。お水ほしいけど歩けないわけ」
「じゃあおれひとりで行ってきます」
「だーめ。酔った俺と陽乃ちゃんをリビングに放置したらまずいよ?」
 なにが「酔ってふらふら」だ。すごい芝居がかってるうえに、脚本も陳腐だ。
「しょうがない。行こうか折原くん」
 陽乃さんは、なかばあきれたような顔をして、おれのジャケットの袖をひいた。

 並んで歩く間中、陽乃さんはなにもしゃべらず、むっと顔をしかめている。野村さんの絡みかた、セクハラ一歩手前って感じだったしな。
「野村さん、ビール、がんがん飲んでたから。すみません」
「なんで折原くんが謝るの。それにあたし怒ってないよ。へんだなって思っただけ。野村くん、あたしや沢木さんにはあんまりああいうこと言わないから」
 歌ちゃんにはずけずけ言うけどね、と続ける。
「歌子さんも悪いから、あれは」
「そうだね。あのふたりは仲良しだからね」
 仲良し、か。そうかな。正直言うと、すこし歌子さんの気持ちはわかる。きちんと「社会の歯車」やってるひとを見るときの胸のくすぶり。
 律儀に野村さん指定のコンビニで水を買い、騒がしい週末の電車通りをあとにして、ふたたび住宅街へと戻る。
 陽乃さん。職場ではどんな顔しているんだろう。おれの知らない世界、陽乃さんがいるのは、おれが泳いでいるのよりもっと広い海。
 近道、と、角の児童公園をつっきっていく。街灯のひかりが藍色の闇ににじんで、常緑樹の葉を照らしている。
 合コンのメンバーって、どういうやつらが来るんだろう。野村さんみたいに、きっちりスーツ着て「押し倒せ」とかこともなげに言ってのける男しか思い浮かばない。
 電話番号。聞かれたんだ。
 陽乃さんはもともとふんわりおっとりしてるし。それにくわえて、彼氏と別れて以来、うっすらと物憂げな雰囲気をまとっているから。だからきっと、
「ちゃんと断ったほうがいいです」
「え?」
「合コンに無理やり連れてかれたとか。先輩に勝手に番号教えられたとか。いくらなんでもそれはないです。もっと毅然としてたほうがいいです」
「……あ。そう、だよね。たしかに、自分でもそう思う」
 陽乃ちゃん、あれは、押しに弱いタイプだ。野村さんのせりふがリフレインする。おれだってそう感じてた。野村さんにも見抜かれてる。
 顔のない、スーツの男たちの手が陽乃さんに伸びていく。
「だめだよね、あたし」
「自分でわかってるなら直してください。じゃないと」
 じゃないと。
「また、ひどい目にあいます」
 冴えた月が夜にくっきり浮かんでいる。植え込みががさりと音をたて、黒っぽい猫がしゃがれた声で鳴いて去って行った。
 陽乃さんは、ぼんやりとどこかうつろな目で、おれの顔を見上げている。
「そう、……だね」
 わらっている。わらっているけど、その声はふるえていて。さっとおれに背を向けて、
「はやく帰ろう。野村くんがひっくりかえってるかもしれない」
 と言った。
 陽乃さんの傷はまだ、癒えていない。
 それなのに、おれは。
 だれより彼女の笑顔を見たいと思っていたのに。おれだけは陽乃さんを絶対に傷つけないって。やわらかい布でくるむように、だいじに、だいじに、やさしくしようって決めてたのに。
 なのにあんなことを言った。裏切った男のほうが悪い、陽乃さんにはまったく非はない。できればその最低の元彼を殴り倒してやりたい。そう思っているのに。
「陽乃さん」
 陽乃さんはおれに背を向けたまま。
「……ごめん、おれ」
「あやまらないで。折原くんの言うとおりだもん。あたし、いつもいつも、流されてばっかりで、男のひとにとっては都合がいいだけの存在だったんだと思う」
 くるりと、振り向いて。
「あたし、変わらないとね」
 おれに笑顔を向けた。肩まである、ふんわり巻いた髪がゆれて。左耳のちいさなピアスが艶めいて。
「走って帰ろうよ」
 言うやいなや、陽乃さんは駆けだした。肩のうえで髪が跳ねる。
 ごめん陽乃さん。おれ、ガキだし。バカだから。だからもう、止まれない。
 追いかけて彼女の腕をとった。思いがけず強い力がこもってしまって、陽乃さんは、わっ、とちいさく叫んだ。
「ちょ、折原くん」
「陽乃さん、ごめん。おれ、やきもち焼いた」
「……え?」
 陽乃さんの腕を引く。勢いでよろめいた彼女の華奢な肩が、おれの胸に触れた。
 そのままでいて。触れたままでいて。
「陽乃さんが好きです」
 好きです。
 抱きしめたい。だけど、おれの手はかちこちに固まって動かない。
「好きです」
 ただ、想いを告げるだけ。こわれたロボットみたいに、繰りかえし告げるだけ。
「……あ」
 陽乃さんが戸惑っているのがわかる。
 十一月の夜はつめたく冴えて。抱きしめたいのにできないのは、陽乃さんのこたえが、おれにはもうわかっているから。
「ごめん、なさい」
 わかっているんだ。
「あたし、そんな気持ちになれない」
「おれは弟だもんな。もしくは、おかあさん?」
 いつか彼女に言われたせりふ。陽乃さんは、ふるふると首を横にふる。
「折原くんは素敵な男の子だと思う。気持ちを聞いて、びっくり、したけど……」
「ぜんぜん、気づかなかったんですか?」
「…………」
 どれだけにぶいんだろう。
「もう流されないって決めたし」
「おれは陽乃さんを裏切らないよ。本気だし」
 もどかしい。ことばがつるつるとすべっていく感覚があって、苦しい。伝わらない。
 陽乃さんは、ため息をひとつ、ついた。
「正直に言うとね。今はまだ、こわい。もう、だれのことも好きになれないような気がするの」
 ごめんね。
 つぶやいて、よわよわしくわらった。陽乃さんの笑顔にはいろんな色があるけど。いまの笑顔は、どうしようもなくさびしくて、はかなくて。
 やっぱりこのまま引き下がれない。
「ごめんねなんて言わないで。陽乃さん、おれ頑張るから」
「なにを……」
「まだ、って言った。陽乃さん、今はまだ好きになれないって言った。これから先はわからない」
「でも、」
 勇気を出して、陽乃さんの背中に、腕をひいてるほうと反対の手をまわす。そのまま、そのままそっと、抱き寄せた。おれの手は、なさけないことに、ふるえている。
 陽乃さんのからだも、かちかちに強張っているのがわかる。
 告げてしまった。告げてしまったんだ、おれは。
「お試しでいいです。だから、おれとつき合ってください。期間限定でいいです。それまでに、おれのこと信じられなかったら。好きに、なれなかったら。そしたら、またふつうに『弟』に戻ります」
 必死すぎる自分がいやになる。ぜんぜん余裕なんてなくて、とびきりかっこ悪い。だけどもう、止められない。大人になるまで我慢なんてしてられないんだ。
 永遠みたいに長い沈黙のあと。
 腕のなかの陽乃さんが。こくりと、ちいさく、うなずいた。


ふたりのお話は、まだ続きそうです。

※「恋のたまごをあたためる」前後編
 が、続きになります。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
― 感想を書く ―

1項目の入力から送信できます。
感想を書く場合の注意事項をご確認ください。

名前:

▼良い点
▼悪い点
▼一言
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ