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帰り道12/22

作者:汐利

 あいつと、もうどれくらい会っていないだろう。
 そんなことを思った。――そんなことを思ってしまった自分を認識して、認識してしまったことを後悔した。
 この約十か月ずっと考えないようにしてきたけれど、もう限界だった。
 中学からの帰り道。私は冷たい風に身を竦めながら歩いていた。日暮れ時には学校を出たのに、あたりはどんどん暗くなっていく。
 あと二日でクリスマスという今日は、冬休み前の登校最終日で、半日授業だった。それなのに帰宅部の私がなぜ日が暮れるまで学校に残っていたのかといえば、図書室で冬休みの宿題を終わらせていたからである。張り合う相手がいないと宿題を終わらせられない、というのは夏休みで実証済みである。
 今年はあいつがいないから。
 信号に引っ掛かって苛々する私の思考は再び、考えることをずっと避けていたあの人のことに戻っていた。
 ものごころついた頃からいつも一緒だった。数えてみると、もう十か月も会えていないことになる。ちょっと信じられない気もする。でも同時に、十三年の月日に比べて十か月という数字は少なすぎるようにも感じた。
 たった十か月のはずなのに。なんでこんなに無気力だ。
 家が近くて親同士が友達だったために、小さい頃からふたりで遊ばされていた私たち。人生で最初の友達であり、一番の親友だった。
 仲が良かった、と一言でいうのには少し語弊があるかもしれない。週に一度は小競り合いが起き、三月(みつき)に一度はそれが白熱して大喧嘩になる、そんな仲だった。でも、包み隠さず何でも話せるというのは仲の良さのひとつの表れだとも考えられるし、どれだけ言い争ったあとでも翌朝にはお互い反省して、また普通に喋ることができたというのは、やはり私たちは『仲が良かった』んだと思う。
 機械的に足を動かしながら、私は俯いて、通い慣れた通学路を辿っていった。
 親や、同性の友達にも話せないことも、あいつにだったら話せたな、と思い出す。多分だけど彼の方も同じことを思ってくれていた。
 例えば、とよみがえってきた記憶は、過去に一度だけ彼から持ちかけられた、恋愛に関する相談だった。
 私は、左肩に提げたスクールバッグのひもを、きゅっと握りしめた。
 あれは確か去年の三月、一見いつもと何も変わらない帰り道だった。あの日の彼は、いつにも増して考え込んでいる様子だった。普段からただでさえ短い言葉を選ぶ彼が輪をかけて無口なのを見かねて理由を訊くと、あいつは少し躊躇ってから、「お前だから、」と呟いた。
 この「お前だから」という言葉は、彼がたまに口にするお決まりの台詞で、「これはお前だから言うんであって、他の誰にも言ったことはないし今後も誰にも言うつもりはないことで、お前も他言無用だから」という意味が含まれている。これを聞く度に、私はちょっとした優越感に浸る。
 簡単に口外しない私だと信用してくれていること。他の誰にも言わないのに、私だったら漏らす価値があると認められたこと。誰かに相談しなければいけないとしたとき、その相手に私が選ばれたこと。
 だけど、その日だけは違った。浸る余裕もなくその傲った気持ちは粉砕された。
「告白されて」
 誰に、という私の渇いた声にも、あいつは歩き続けながらさらっと答えた。相手は学年で公認の『可愛い』女の子だった。
「どうやったら傷付けずに断れるかな、と思って」
と後に続いた言葉も、私はまともに聞いていなかった。
 彼とその女の子は、今まで全くと言っていいほど接点がなかった。なのに、彼は目を付けられた。
 彼のいいところを知っているのは、自分だけだと思い込んでいた。人見知りな彼は自分以外の女子とはほとんど関わらない人だったから、大丈夫だと高を括っていた。
 なのに、彼を好きだという子が現れた。それがショックだった。彼がそれについて真剣に悩んでいる、という事実もまた、私の心を乱した。
「へえ、あんたモテるんだ。良かったね可愛い子に好きになってもらえて」
 相談した相手を間違えたということに、気付けばいい。ほんのちょっとだけ心に刺さればいい。そう思って発した言葉は、自分の予想より遥かに皮肉っぽく――嫌な響きだった。
 しかしそこで引いていればまだましだった。彼のあの顔を見なくて済んだはずだった。それなのに引っ込みが付かなかった私は、やはり子供だったのだ。
 最初で最後のチャンスかもよ、返事ぐらい自分で考えれば。
 裏切られたような彼の顔に気付かない振りをして私は歩幅を広げて早足で歩いた。そうするしか、自分を守る術を知らなかった。彼より前を歩いていないと、この顔を見られてしまうから。
 そのまま逃げるように家の前まで来たとき、私の後ろを追っていた彼が口を開いた。
「断り方を、」
 相談したかったんだけど、分かってる、よね?
 は?――何言ってんのそれぐらい分かってるし。自分で言った癖に忘れたの。
 嘘。今言われて気付いた。でも、そのときの私はそう言えなかった。なんて馬鹿だったのだろう。
「そうか、そうだよな、ごめん。今の質問は忘れて。」
 彼は微妙な顔をして、そのまま家に帰っていった。そして次の日には、いつもの口喧嘩の翌朝のように普通に話し掛けてくれた。
 その後、彼の口から恋愛系の話題が出ることはなかった。
 小学生ぐらいの年齢だと、女の方が早くませて男はまだまだガキだというイメージもあるけれど、彼の場合にはそれは当てはまらなかった。兄妹かとからかわれていたくらいである。同い年なのにそんな風に見られるのは確かに悔しかったが、私が彼を尊敬していたのもまた事実だ。
 口数は少ないが自分の考えはしっかり持っていて、博識で。ただ単に学校の勉強ができるだけでなく、要領もよかった。周りの同級生と同じレベルでわいわいふざけることはできない人だったけれど、しかし綺麗にクラスに馴染んで溶け込んでいる。そんな立ち位置をキープしていた。背も高く、スポーツもそこそこにできた。女子からの人気が集中するのも当然だった。
 周りからも一目置かれていたあいつに、置いて行かれたくない。当時の私が真面目に机に向かっていた理由は、ほぼ百パーセントそれだった。彼と対等に口論がしたくて、七時のニュースも欠かさず見た。
 でも、彼と同じ高さでついていきたい、というのは生来無理な話だったのかもしれない。
 辺りは曇っていて暗いのか、日が暮れて暗いのか分からなくなってきた。私はマフラーに顔をうずめた。
 スタート地点が同じだったはずの幼馴染みが、いつの間にか先を歩いていた。それはつまり、彼の方が歩くスピードが速いということだ。
 今にも雨が降りそうな曇天。私は、その空と同じ色のアスファルトを見下ろして、再び溜め息を付いた。
 中学校までは義務教育だから、一緒に学校に行ける。高校にあがれば、それは流石に同じ学校っていうのは難しいだろうけど、家も近いしいつでも会える。勉強を教えてもらうとか、名目だっていくらでも。
 勝手にそんなことを決めて、束の間の幸せを蔑ろにしたのは、自分だ。
 平々凡々に生まれ育った私には、中学なんて小学校のみんなで一緒にあがるものだと思っていた。だから今からおよそ一年と半年前のあの日、小六の夏、彼から相談があるから来てほしいと言われた時も、そんな話が飛び出してくる予想もせずに彼の家までついていった。
 小学校も高学年になると、お互いの家にあがって遊ぶことはなくなっていたので、彼の部屋に入るのは、二年ぶりだった。部活で帰宅時間が遅くなったとか、親にからかわれる年齢になったとか、理由はいろいろだ。
 久々に足を踏み入れた彼の部屋は、私の記憶と様変わりしていた。
 部屋にひとつだけだった本棚はふたつに増え、それでも入り切らないたくさんの本が壁際や小さな折り畳みテーブルを侵食している。机の上の小さなノートパソコンの周りには、ノートが三冊ほども広げられたままにされていて、机の木目を見ることすらままならなかった。彼は散らかっててごめん、と言いながら部屋に入り、テーブルを挟んで向かいあって座るスペースを作った。
 そこで切り出された話が、それだった。
「実は俺、」
 そのときのあいつの目は今でも覚えている。
「東京に行きたくて」
 ちょっと行ってすぐ帰ってくる、とかいう話ではないことは、すぐに察しがついた。
 彼は、パソコンで東京にあるという私立中学のサイトを出して、いろいろと説明をしてくれた。彼が医師になりたいと言っているのは前から知っていたし、実は彼がそれを初めに打ち明けたのも私だった。その私立中学は医学専門の大学、その下部に位置する高校の近道になる教育が売りの学校だそうだ。そのとき必死で彼の話を聞いていた割には今ではほとんど忘れてしまったが、寮や奨学金についてまで調べ上げてあるあたり彼らしいなあと思ったことだけは覚えている。
 一通り説明を終えた彼が顔をあげた。そのときのあいつの目――気まずそうな彼の目で、私が何を求められているのかは悟ることができた。
「親に言えてないんでしょ」
 私の言葉に、彼はテーブルの向こうで不本意そうに頷いた。それだけで充分だった。
 親に言う前に明かせる唯一の相手が私であること。そして彼がそんな表情をするのも、私の前でだけなんだろうということが、嬉しかった。
 彼が珍しくわがままを言った。彼が彼であるが故に、他人の苦労も負担も見えてしまい、実の親に対してでさえ我慢してしまいがちなのは知っていた。そんな彼にとって、私学の中学に通いたい、まして遠方の、などと声に出すのはかなり勇気が要ることだったというのは、容易に想像がつく。
 そして表に出したということは、それだけ気持ちが強いということだ。だったら、私はそれを応援したい。
 彼がやりたいというのなら応援したい――それは、その時点では確かに本音だった。
 親にきちんと話した方がいいと説得する私に、彼は一緒に居てほしいと言った。ただ背中を押してほしがっているだけだというのは分かっていた。私は彼を半ば引っ張るように、彼の母親がいるダイニングに入った。
 その日の別れ際、彼は少し恥ずかしそうに、ありがとうと言った。若干俯いてはいたが、ここ最近では一番の笑顔だった。
 彼の家ではその日の夕食時に早速会議が開かれたらしく、数日後、私は彼にもう一度お礼を言われた。そしてその日から、彼の受験生活が始まった。その頃親の情報網で初めて知ったのは、彼の脳味噌の質の良さは類い稀なものであるらしいということだった。
 私は歩きながら、道端の小石を蹴った。小石は逃げるように転がって側溝に落ちた。学校指定の真っ白なスニーカーは、随分汚れてきた。今まで一度も思い出さなかったはずのその記憶は、自分でも驚くぐらい鮮明な映像として変わらず保存されていた。
 それから彼が塾に通い始めると、一緒に学校から帰ることはできなくなった。もともと頭は良いとはいえ、その学校にはその学校用の試験勉強をしなくてはいけない。私には、寂しいと言うことはできなかった。私は、彼の前では常に無邪気でいるように努めた。まるで彼の合格を願っていないみたいに思われるのは何があっても避けたかったし、実際彼にはサクラサいてほしかった。
 登校だけはまだ一緒にできていたので、そのときに私は彼からいろんな話を聞いた。彼から出される話題に、勉強の愚痴があったことは一度もなかった。彼は周囲の期待に応えるために、模試で安全圏を連発しながらも勉強の手を緩めることはなかった。
 私にとって、祈ることしかできないその期間は、苦しかったし長かった。しかし彼の手前、弱音を吐くわけにはいかなかった。
 まあ、今思い出せばそのときのつらさなんて可愛いものだったのだけど。
 彼の一家と毎年合同でやっていたクリスマスパーティも、去年はなくなった。でも、それに関しての不満は全くなかった。彼がごめんと謝ってきたときに、約束を取りつけることができたから。
 来年は二人だけで、駅前のイルミネーション見に行こう。
 年が明けてすぐ、彼は受験のため東京に発った。母親と二人で泊りがけだ。
 学校も三日ほど休んで、その三日間私はずっと落ち着かなかった。それは、当時は彼の試験の調子が気に掛かっているせいだと思い込んでいた。それだけではないことに気が付いたのはあとになってからのことだ。そこにあいつがいない。それだけで私は不安になる。しかしそれは最近になってやっと分かったことで、そのときの私は気付く由もなかた――いや、気付かないように蓋をしていたのかもしれない。ただ確かなのは、気付いたときにはもう手後れだったということだ。
 そう、今ではもう手後れ。でも、往生際が悪い私は今でも待っている。情けないけどどうしようもないし、今ここに彼はいないから情けない姿を見られることはないし、もういいや――私は止まりそうになる足を前へと動かしながら、家路を急いだ。
 彼が受験からこっちに帰ってきた次の学校の朝、彼はいつもように私の家の前で待っていた。昨日は、夕方には帰宅してゆっくり休んだはずだったのだが、何だか疲れたような顔をしていた。受験というのは、きっと想像以上に心労が多いのだろう。経験したことがない私には、お疲れさま、としか言うことができない。どうだった?などと訊いて地雷を踏みはしないか逡巡していると、彼の方から口火を切った。
「筆記は、まあまあだったかな。面接はちょっと失敗したかもだけど」
 そっか、と私がなおも愛想笑いすると、彼が不満そうに顔をしかめた。
「そんなに気ぃ遣うなよ」
 ずっと思ってたけど。お前らしくもない。
 後にそう続いた言葉で、私の頭に血がのぼった。
 私の半年間の我慢を、何だと思ってるの?
 私が今本音を吐かされたら、――行かないでと言ってしまうことも知らないで。
 ――なんて心の声はやっぱり外には出せずに、私はなるべく何でもない風に口を尖らせた。
「私だって気ぐらい遣えるし」
 ここで私がキレてどうする。彼はもっと大変な思いをしてるんだから。
 しかし自分で言ったその言葉は何だかあまりにも幼く聞こえた気がして、私はそれから学校へ向かう間、彼の目を見ることができなかった。
 二月の初め、彼は合格発表を見に行くためにまた一日だけ学校を休んだ。彼に対する気後れは、ずっと残ったままだった。彼のいない学校で一日を過ごしたあと、ちょうど今くらいの時間に家に帰ると、私の家の門の前の石段に、彼が顔を伏せて座っていた。
 私が帰ってきたのに気付いた彼が、ぱっと立ち上がる。そして、急き込んで口を開いた。
「お前に一番に報告したくて」
 嫌だ、聞きたくない。反射的にそう思った。彼のその言い方で、もう答えは分かっていたから。しかし彼はそんなことにはまったく構わず、私の逃げ道を塞いだ。
「合格した」
 彼のその声と、
 ああ、こいつ好きだ。
 心の中だけで響く自分の声が重なった。
 自分の声を外側から聞いたのは初めてだった。いや、今までも流れてはいたのだろう。私が聞こうとしなかっただけで。
 彼が遠くへ行ってしまうこと。彼と離れたくないこと。彼は何とも思っていないらしいこと。目を反らしていたことが、一気に私を襲って、
「今までありがとう」
 はにかんだ彼のその言葉が、引き金を引いた。
「勝手に行けばいいじゃん、あんたとやっと離れられて清々するよ!」
 彼が目を見開いた。それを見てから後悔したが、もう遅い。次に彼がどんな顔をするのか知るのが怖くて、私は彼の顔を見ないまま家の中に駆け込んだ。
 それが最後の別れだった。それから卒業までの一か月、彼が私の家の前で待っていてくれることはなかった。
 私は悪くない、とずっと自分に言い聞かせてきたけど、いい加減分かっていた。私があんな言い方さえしなければ。
 ごめんとひとこと言えていれば。笑顔でおめでとうとさえ言えていれば。行ってしまう前にもっと喋れたかもしれない。四月になってからだって繋がっていられたのだろう。電話とかできたかもしれない。夏休みにでも遊びに行けたかもしれない。私の机の上には、まだ出せていない手書きの年賀状がある。
 どうせ、イルミネーションの約束も覚えていないんだろうな。知らないだろうけど、私、楽しみにしてたんだよ。
 自分でも実際離れるまで気付かなかったぐらい淡い気持ちなら、すぐに忘れるだろうと思っていた。でも、無理だった。
 勉強は上手くいっているのかな。部活には入ったんだろうか。風邪は引いてないかな。私のことは、たまには思い出してくれるのだろうか。たまには、会いたいなんて思ってくれてないだろうか。
 会いたい。
 それが正直な気持ちだ。
 ごめんって言いたい。ありがとうって言いたい。いろいろと大変だろうけど、頑張れ、私もここで頑張ってるから。でもやっぱり、あなたがいないから寂しい。
 そう思ってしまうことを自分に許可したのも、十か月ぶりだった。
 ずっと蓋をしていた。鍵を掛けていた。でも、もう限界だった。十二月二十二日、二学期終業式からの帰り道。釣瓶落としの夕焼け空が、紫色に鬱血するころ。私は自分の心の声を聞いた。二回目だった。
 会いたい。
 景色がにじむのを誤魔化すように顔をあげたとき、私は初めて自分が家の見えるところまで帰ってきていることに気が付いた。
 そして、自分の家の前に『あいつ』がいることに。
 合格発表のあの日と同じだ、と思った。私の足が止まった。彼が、こちらに気付いて顔をあげる。目が合った。
 それをそのまま受け入れられるような精神状態ではなかった。
「……幻?」
「幻じゃないし」
 彼の頬がふっと緩んで、動けなくなった私の前まで歩いてきた。
「久しぶり」
 ああ、こんな声だったな、と思った。
 私が何も言えずに固まっていると、彼が続けた。
「突然で悪いんだけど、今夜、あいてない?」
 声を出さない私を見て、彼は、別に今夜じゃなくてもいいんだけど、と言葉を足した。
「別に明日でも明後日でも、明々後日でも……」
「あいてる、あいてる! 今夜すっごく暇!」
 遮るように発した私の声は、さっき喉が締まりかけたのもあって少し掠れていた。うわ嫌だこんな可愛くない声、
「そっか、よかった」
 でも、彼が笑ってくれたから。もう全部いいことにする。
 ふと、彼が手を伸ばした。反射的に身を竦めた私に微笑み、彼は私の右肩の鞄を取った。
 うわ、重いなと呟きながらそれを、そのまま自分の肩に掛ける。
「あーそうか、学期末だもんな」
「え、そっちの学校は冬休みないの?」
「あるよ? あるけど、補習ばっかだから。靴とかみんな置きっぱなし」
 ということは、彼の学校は実質まだ冬休みではないようなものだということだ。それなら、
「なんで帰ってきたの? 明日は休み?」
「明日が、年末年始以外で唯一の休みで。今日は、学校が終わってから来た」
 確かに彼の厚手のコートの下は、制服のようだった。私と違って、彼がこの格好をしている必要性はない。本当にそのまま来たらしい。
「えっと、じゃあ明日の夕方には……」
「うん、向こうに戻ってないと困る」
 見ると、彼の荷物はリュックサックひとつだけだった。そうなんだ、と私はなるべく残念そうに見えないように頷いて、それから首を傾げた。それじゃ、明日でも明後日でも明々後日でも、よくないんじゃないの?
「えっと、まあ、そうなんだけど」
 彼はばつが悪そうに頭を掻いた。
「いきなり押しかけたの俺の方だから。お前が今夜都合悪ければ、一日や二日潰しても構わないつもりで来た」
「えっと、……」
 わざわざ年末年始とは別にしてまで、そんな風に予告なしに帰ってこなければいけない理由を考えたが、私にはどうしても思い浮かばなかった。考えあぐねて尋ねた私に、彼が答えた。
「来ちゃえば、もう逃げられないと思って」
 そして、これ喋れば喋るほど墓穴掘りそうだな、と呟いて口をつぐんだ。
「え、逃げるって何から? お正月に帰ってくるときじゃ駄目なことだったの?」
 この辺りから、私はうっすら期待をし始めていた。彼が、私の欲しい言葉をくれることを。その期待が外れる可能性も一瞬頭をよぎったが、努めて深く考えないようにして彼の答えを待った。
「正月休みのついでにしちゃうと、夏と同じ失敗繰り返しそうだったから」
「夏?」
 そう、と彼は斜めに頷いた。
「お盆休みで帰ってきたとき。すぐ行けば会えるところにお前がいるのに、怖くて会えなかった」
 怖くて、というところが引っ掛かったが、彼はまだ言葉を続けた。
「帰省っていう名目があったせいで、たとえお前に会えなくても、俺が帰ってきた意義は一応あったことになった。夏休みは、そうやって逃げた。だから、同じことにはならないようにしたくて」
 そして、思い切ったように言った。
「今日は、お前に会うってだけのために来たんだ。……だから、親にも言ってない、し、お前に会えなきゃ帰れない」
 私は彼の顔を見た。彼は目を伏せて、顔を背けた。私は自分の口が開いたままなのに気が付いて、慌てて閉じた。
 まだ分からないことはたくさんあった。しかし、どれから訊けばいいのか分からなかった。空はもうだいぶ暗くなって、彼の肩越しに寂しげな街灯の灯がぽつりと見えた。
「ごめん」
 蚊の鳴くような声がした。マフラーで口元が隠れているが、彼の声だ。
「え、なんで」
「臆病者でごめん」
 私は何と答えればいいのか分からず顔を伏せた。言いたいことがないのではない。頭の中では言葉がぐるぐる回っていた。
 何でそっちが先に謝るの。謝らなきゃいけないのは私のはずなのに。悪いのは全部私なのに。
 やっぱり、優しいんだね。十か月会わなくても、私たちの関係は変わらない。あんたが兄で、私が妹。
「あんたはずっと前から大人なのに、私はいつまで子供なんだろう」
 一瞬、自分がそれを声に出していたことに自分でも気付かなかった。あ、と思って彼を見ると、彼は渋い顔をして私を見ていた。
「俺がもし本当に大人だったら、お前をこんなに傷付けることもなかったよ」
 自業自得でこんな後悔することも、と消えそうな声で続けた彼は、すぐに唇を噛んで黙り込んだ。
 待って、こんなタイミングで黙んないで頼むから、
「えっどういうこと……、大丈夫?」
 彼は黙ったまま頷くと、――ややあって首を横に振った。
「え、」
 私が目を泳がせていると、彼がまたぽつりと話し始めた。
「中学受験してよかったと思うことはたくさんある。周りもみんなすごく頭いいし、教科書のレベルも授業のレベルもたぶん、高い。でも」
 彼は、肩に掛けた私の鞄の紐を握り直した。
「例え世界一の医者になったとしても、俺はお前を守れない」
 そこで私を見た彼が、思い出したように、寒くない?と訊いた。
「寒くはないけど、」
 私からすれば、鞄を二つも提げている彼の方が心配だ。私は門の前の石段に、右側に寄って座った。彼は少し躊躇ったあと隣に来て、私と(あいだ)を空けて座った。
 そして膝に視線を落とし、話を再開する。
「お前さ、自分は子供だって、俺は大人でいいなってずっと言ってるけど」
 俺にしてみればお前の方がずっと大人だよ。
 彼はそう続けた。
 俺が持ってないものをお前は持ってて、それは勉強とか要領とかそんなものよりずっと大切なもので。
 俺は思ったことは練ってからじゃないと言えないし、正しいと思ってても周りが反対すればすぐ日和る。でもお前は、思ったことぱっと言えるし違うんじゃないのって思ったらそう叫べるだろ。
 ずっと羨ましかった。
 俺が中学受験できたのはお前のお蔭だし。お前の前でだけなら素直でいれたのも事実。俺が親とか他の同性の友達よりお前のこと信頼してるのも。
 そして、自嘲するように小さく笑った。
 馬鹿なんだよ、遅すぎたんだ。
 お前のいるところじゃないと、俺は俺じゃいられない。自分の意見も言えないし、議論なんてもっての他。
 でも、それは受験するって決めてから気付いたことで。
 しかもお前がいろいろ我慢して応援してくれてるのに応えない訳にもいかなくて。
「怖かったんだぜ俺だって」
 そう囁いた彼の声は、ひどく弱々しく聞こえた。
 そんな大人扱いしないでくれよ俺だってまだ子供なんだ。
 あと一歩で泣き出しそうな声を押し殺して、彼は、好きだと言った。
「お前に胸張れるように、大人でいたかった。正しくいたかった」
 でも、無理だから。自分はそんなヒーローじゃないって分かったから。
「……なんて、」
 彼が、私の隣でいきなり立ち上がった。
「言うつもりないことまで言っちゃったじゃんか、お前のせいだ」
「……は!? 私何にもしてなくない!?」
「お前の顔見ただけで全部吐いちゃっただろ、お前の責任」
 言い返そうとする私に被せるように、彼が語を繋いだ。
「好きとか、言う気なかったのに」
「……なんで? 私も好きだから嬉しいよ」
 一瞬彼の肩がぴくりと跳ねた。と、彼が大きく溜め息を付くと、だからだよ、と呟いた。
「待っててほしいって思っちゃうから。次会ったとき、お前の気持ちが変わってないか、そこを気にしちゃうから」
 だから言いたくなかった。
 そっぽ向きながら話す彼の顔は紅くて、そんな彼を横で座って見ていられる私は幸せ者だと思った。
「あーもう俺何でこんなことまでお前に喋んなきゃいけないんだろ」
 思えば、
「たったの二回目、か」
 そう呟くと、彼がちょっとだけ視線をこっちに向けた。
「何が?」
「恋愛絡みの話をするのが」
「まあ、そうなるな」
 即答された、ってことは、彼にとってもあの記憶は印象深いのだろうか。
「あのときもごめん。あの……告白の返事ぐらい自分で考えろってやつ……、覚えてる?」
「覚えてるもなにも」
 彼が私を軽く睨んだ。
「あれ、めちゃくちゃ勇気要ったんだからな」
 彼がまた腰をおろして、頬杖をついた。
「今思い出しても恥ずかしいわ。自意識過剰みたいに」
 断り方を相談したかったんだけど、分かってる、よね?
「しかも、対する返事は本心かどうかよく分かんないし」
「ごめんなさい……」
 私は肩を縮めた。すると、彼が私の左肩を肘で小突いた。私が顔をあげて彼の顔を見た瞬間、彼と視線がぶつかった。
 目を逸らしたかったが、彼の涼しい瞳が私を放してくれない。彼が私を捕まえたまま、言った。
「イルミネーション」
 あ、
「一緒に見に行ってくれませんか」
 待っていた言葉。
 でも、
「……そんなふうに、新たな提案みたいに言わないで。」
 覚えていてくれただけで、私は嬉しいんだから。
「それはこっちの台詞だ」
 隣からふてたような声が聞こえた。
「お前が忘れてるかもしれないってことが、怖かった。だから、新しくお願いした」
 予防線。これぐらい許して。そう言った彼に、私は返した。
「イエスもノーも言わないよ。もともと存在した約束だ」
 そして立ち上がった。彼との間に降ろしてあった鞄を取る。
 その取っ手が冷たくて、私はようやく時間が過ぎていたことを感じた。もう六時をまわっているかもしれない。急がないと、母が夕食の準備を始めてしまう。
「家入って。支度するから待ってて」
 私が門を開けて彼を通そうとすると、彼がそれを拒んだ。親に筒抜けだから嫌だ、そう言って彼は私を片手で拝むと、私が今来た道を反対方向へ歩き出した。
「駅の前で待ってるから」
「そんな、寒いでしょ」
 彼が、ちょっと止まって振り返る。
「これも、……俺のわがまま。だめかな」
 まだうんとは言えない私に向かって、彼は言った。
「正月にまた帰ってくる。そのときは正々堂々インターホン押して、お前に会いにくる。だから、頼むからもうちょっとだけ待ってほしい」
 せめてもうちょっと、お前と対等に口喧嘩できるようになるまで。
「そんな、今でも対等、っていうか私の方が下で……」
「って言ってくれるとは思ってた。うん」
 彼が私の台詞を途中で引き取った。
「でも俺の問題なんだ。悪いけど。だから、わがまま」
 今夜お前と一緒に綺麗なもの見られたら、俺もきっと大きくなれるから。向こうでも、もうちょっと自分らしく頑張れるから。
 私が見つめる彼の目は真剣そのもので、
 彼らしいや、と私は微笑んだ。
 彼がそう決めたのならしょうがない、協力してやろうじゃないの。
「分かった、待ってるからね」
 彼もほっとしたような表情を浮かべた。
「じゃあ、私はお母さんに適当に話つけて、準備してくる」
 ありがとう、と彼は駅への道を歩き出した。
 と、彼が不意に立ち止まった。それで私も気が付いた。
「雪……」
 道の少し先で、彼が私を振り返る。
 そのときの彼の泣きそうな笑顔を、私は今でも鮮明に覚えている。


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