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シャンプーが切れていたので

作者: M川

 毎週金曜日に女性が殺される、という事件が二ヶ月ほど前から始まり、現在も継続中なのでこの国も随分と物騒になったことよのぉと思った昼下がり。現場は東京のとある区に集中していて、何を隠そう、そこは僕が住んでいる街でもある。


 例え巷で殺人鬼が闊歩していようと、知人が殺されようと、人ってもんは生活を営まないとならないわけで、はは、中々に因果な生物である。因果の塊だね。


 僕は『生活』の代名詞的行為であるところの昼食ってやつをしている。スパゲティを茹でて、缶詰のトマトソースをかけて食べる。特別美味くもないし、不味くも無い。普通だ。大抵のものは普通だ。ん、いや、大抵だから普通なのか? ま、どうでもいいけど。


 僕は、トマトソースで赤く塗れた皿を眺めていた。いつの間に完食したのだろう。大抵の食事は終了した途端に消費の過程を忘却される運命にあるね。お、なんか名言っぽいな。そうでもねえか。


 皿が赤い。実に赤い。それは、もうね、赤いとしか言いようが無い。まるであれだ。ありきたりだけど、まるで、そう、血みたいだね。うわ、本当にありきたりじゃんよ。


 血。血飛沫。


 機械的な騒音。


 人間的な悲鳴。


 湿った異音。


 空気が共鳴する。


 不意に訪れる静寂。


 場所に残留する余韻。


 勘弁してくれ。もう、勘弁してくださいって。皿を見つめながら、気がつくと殺人事件のことを考えている。別に皿の上の赤色に誘発されたわけではない。ここ最近、僕は何を見ても殺人事件のことを考えている。無理も無いと言える。そう、全くもって、無理も無い。


 先週の金曜日、僕は愛する妻を失ったのだから。


 僕は皿を流し台に置くと、ソファに倒れこむ。睡眠に逃避するつもりなのである。食べてすぐに横になると牛になるらしい。上等じゃないか。牛。良いじゃないか。牛。そうだ、牛になろう。牛になって日がな草を食んで生きようじゃないか。素晴らしいじゃないか。牛。みんなも牛になれば良いのに。


 寝ます。もう寝ます。さようなら。


 そんでもって僕は夢を見る。夢はひと昔の邦画みたいに、豪華三本立てだった。一本目の夢では、僕は食肉用の牛になっていて、帽子を被った無表情のおじさんに屠殺されるという、最高にクールな夢だった。でかい刃物で僕の頭部をバッサリいかれたところで、場面が切り替わり、次の話に移行する。


 二本目の夢では僕は街中で穴を掘っていた。鉄製のつるはしでアスファルトの表面を砕き、露出した赤茶けた関東ローム層的な土をスコップで掘り返す。街の人は、僕をチラリと見るが、特に咎めるでも、声をかけるでもなく、『まあ好きにさらせ』といった感じで通り過ぎてゆく。僕は、いつ咎められるかとビクビクしながら、それでも土を掘り返す。歩道に散乱する土塊。六十センチメートルほど掘っただろうか、僕は傍らにおいてある大きなビニール袋をその穴の中に落としこむ。何が入っているのだろう? 僕には分からない。分からない振りをしたし、本当に分からなかった。とにかく、隠さなくてはならないことだけは確かだった。僕は袋の上から土を被せる。急いで、急いで。早く、誰の目も触れないように、覆い被せなきゃ。だけど悲しいことに、どうしたって穴に入れた袋の大きさ分の土が余るし、砕けたアスファルトは僕の力じゃ元に戻せない。絶望して、泣きそうになったところで、唐突に太陽が大爆発して、場面が変わる。


 三本目は、これは今までのそれとは打って変わって、僕の人生における過去の場面であった。正確に時期も思い出せる。


 これは二週間前の土曜日の光景だ。夕食後だったから、時刻は十時前後だろう。


 僕と妻は、自宅アパートのリビングで、日本茶を飲みながらテレビジョンを見ていた。ブラウン管には、『実はカツラなんじゃねえの』という疑惑がそれなりに一般化しているテレビ局のアナウンサーが映っている。アナウンサーは、『否、自分の頭髪は天然のものだ。混じりっけなしの、ピュア百パーセントな自毛なのである』と言わんばかりの真剣な口調でニュースを読み上げている。


 そのニュースの内容は、やはり、例の連続殺人事件。死体が発見されたのは、今日、すなわち土曜日の早朝。事件現場は、僕の家から歩いて三十分ほどの所にある、住宅街の片隅の有料駐車場。あまり使われていない場所で、人の出入りも少ない。そこの空きスペースに、ソレは無造作に転がっていた。いや、無造作ってのは勝手な想像だがね。


 「うわぁ……、やっぱり今週も出たか」


 「そりゃ出るわよ。毎週出るんだから」


 「好い加減飽きないのかな」


 「飽きないんじゃない?」


 「俺だったら三回位で飽きると思うな」


 「え、とりあえず三回位はやってみるわけ?」


 「例えばだよ。仮定形。ウィルの話」


 「未来形? じゃあいずれやるんだ」


 「間違えた。イフ。俺、英語は苦手なの」


 「わざわざ使わなきゃ良いのに」


 「こんなの、使ってるうちに入んないけどね」


 「それですら間違えるんだから相当なものよねぇ」


 「よねぇ」


 僕達の馬鹿話を余所に、人工頭髪疑惑アナウンサーは、あらぬ疑いを掛けられた哀れな自分の毛根の力強さを主張するかのように真面目な口調でニュースを読んで読んで読んで読んで読んで。


 室内を蛾が飛んでいて、それを叩き落そうと椅子から立ち上がると、僕はテレビに膝をぶつけて、その衝撃でテレビの中のアナウンサーのカツラがベランッと洒落たデスクの上に落下して、アナウンサーの絶望的な悲鳴、その瞬間にテレビジョンの画面が青色一色になり、無駄にポップな丸いフォントで『しばらくお待ち下さい』の文字が出てきたところを目撃した辺りで、僕はこれが記憶と虚構の入り混じった夢であることを認識した。あぁ息が切れる。


 僕は目を覚まさなくてはならない。


 夢から醒めたら、また一人ぼっちだ。


 だけど、それでも、いつかは必ず醒める夢。


 ここに留まれば留まるだけ、虚無的な空洞は大きくなる。


 だから、僕は目を覚まさなくてはならない。


 因果だなぁ、おい。


 因果ですよ!


 ごはんですよ、みたいに言うんじゃねえよ。タコ。








 目を開けると夕方。


 別に僕が目を開けたから夕方になったわけじゃなくって、目を開けたときがたまたま夕方だっただけだ。断じて僕のせいじゃない。そうやってなんでも僕のせいにしたがるのは、止めた方が良いと思いますよ。それにしても腰が痛いな。ソファが安物だからだ。あるいは、ソファってのはそもそも寝ると腰が痛くなる仕様なのかもしれない。ちゃんとベッドで寝ましょうね、という意味だろうか。余計な世話だ家具風情が。あぁ、どうやら僕はまだ、寝惚けているみたいです。


 デジタル時計がピッと音を立てる。午後の五時。今日は金曜日。別に国民の祝日でもない。本来なら、今がまさに会社が終わった時刻だ。同僚達は両腕を天井に向かって突き上げ、気持ちよく伸びをしている事だろう。伸びなら僕もさっきしたぞ。仲間だ。


 妻を失った先週の金曜日から、僕は会社を無断欠席している。社会人として失格だろうか。失格だろうな。失格で一向に構わないけど。そして、その姿勢が更に失格の度合いに拍車を掛けることに僕は気付いている。それも含めて全部オーケィだ。


 僕は流し台に放置してあったスパゲティの皿を洗う。妻は食器を洗うときにゴムの手袋をしていたが、僕はしない。無手で挑む。手荒れは気にしない派だ。そんな派閥があるのかどうかは知らないが。


 換気扇の近くの小窓から、外の音が聞こえる。表は大通りに面している。


 通りを行き交う、車のエンジン音。


 否応なしに、チェーンソゥの音とダブる。狂気の音。狂気の音。


 そう、連続殺人事件の犯人は、チェーンソゥを凶器に選んでいた。


 死体は損壊が激しく、大抵の場合がバラバラ殺人だった。


 その内の幾つかの死体は、パーツが不完全だった。


 腕が足りない死体、足が足りない死体、首が足りない死体、その他のパーツが足りない死体。欠けた死体。死してなお失うものがあること、それは不幸だろうか。少なくとも幸福ではないだろう。


 今も、


 どこかで、


 誰かの、


 体の、


 なんらかの、


 パーツが、


 発見、


 されず、


 街中の、


 死角に、


 転がって、


 いるに、


 違いない、


 わけで、


 それは、


 あまり、


 気持ちが、


 良い事、


 とは、


 言い難い……。


 畜生。思考が抑圧できない。回想が止まらない。先週の金曜日のあの赤い光景が蘇りそうだ。蘇る。今にも蘇る。やばいって。溢れそうだ。脳から。胸から。口から。眼窩から。記憶の蓋を溶かして。出るな。やばい。出るな。出るな。出る。出る。


 地面を浸蝕する、赤黒い不定形。フォームを変えながら、広がり、伸び、染み込む血液を発見した時には、僕は既に事態を把握していたさ。


 以前の報道で既に、犯人がチェーンソゥを使用していることは発表されていた。血と肉片に塗れたチェーンソゥを抱え、白い仮面を被った不審者を、現場近くで目撃した人物もいる、とのこと。


 あの日、あの時、僕は会社の帰りだった。金曜日。大抵、金曜日は帰りが遅くなる。明日が土曜で休日だから、酒飲みの上司や同僚達につき合わされるのだ。下らない不平を聞いたり、面白くも無い愚痴をこぼしたりしながらダラダラと数時間。


 自宅の最寄り駅に着いたのが夜中の十一時半頃だっただろうか。正確に記憶しているわけではないが、大体その辺りだ。まぁ、この際時間はどうだっていいのだけれど。


 駅から自宅アパートまでの僕の道程において、一箇所、非常に人寂しい場所がある。神社だ。いや、寺だったか。どちらでもいい。神社としておこう。金曜の深夜、神社で人に出くわすことはまずなかった。人気の無いその神社の玉砂利をガリガリと踏みしめて帰るのが僕の日課だった。


 墓地の方から、小さな、しかしハッキリとした悲鳴が聞こえた。僕は、その声色から、妻の悲鳴だと判断した。否、その自転では、そういう可能性もあるな、と思っただけだった。しかし僕は、ほぼ無意識に、墓地の方へ足を向けた。途端、耳障りな機械音が発生した。それは、原付バイクのエンジン音に似ていた。今度は、大きな悲鳴。声帯が破れるんじゃないかというくらいの、大きな、悲鳴。


 一瞬、躊躇った。自分以外の人間を呼ぶべきかどうか、迷ったのだ。だが、数秒の後、僕は兎に角駆けつけることが先決だと結論付けた。僕は走り出した。


 墓地の入り口は小さく、その時は金属製の門のようなもので閉じられていたが、腕力で体を持ち上げて飛び込んだ。着地に失敗して足首を捻ったけれど、無視した。


 異臭。


 肺の奥に絡み付くような異臭がした。それはまさに生物の匂い。


 未だ血煙が漂っているような、そんな、感じで。


 僕の頭の中は、意外と冷えていた。


 きっと、取り乱す余裕もなかったのだろう。


 黒い斑模様の墓石を見つけた。


 斑模様は、微妙に蠢いていた。


 足元の石畳にも、それと良く似た模様。


 見覚えのある、腕と、脚が転がっていた。


 まるでマネキンのソレみたいだなと思った。


 腕と、脚以外は、見当たらなかった。


 黒い墓石の傍らに、ニットのチョッキが落ちていた。


 妻のだった。僕がいつか買ったやつだった。


 妻は僕に対して、洋服を選ぶセンスが皆無と言ったが、そのチョッキは外に出かける時に、よく肩に羽織っていた。僕はチョッキを拾い上げる。血の飛沫がついている。


 地面を良く見ると、血痕が、絵筆で描き殴ったように、墓地の裏口の方へ続いている。墓地の地面を半紙に見立てた、習字みたいだった。その血痕を辿ってゆけば、妻が『いる』はずだった。


 そこで初めて取り乱した。見たくなかった。確かめたくなかった。何も知らないことにして家に帰ったら、妻が笑顔で迎えてくれるんじゃないかと思った。このまま、頭がおかしくなってしまえば良いと思った。狂え。狂ってしまえ。だが僕は、そう簡単に狂ってしまえるほど、弱くもないし、強くもなかった。僕は血の跡を辿って、駆け出した。気道が圧迫されているんじゃないかというくらい、息が苦しかった。間抜けなことに、血で足を滑らせて、二度ほど転んだ。


 やはり血は裏口に続いていた。裏口を出ると、そこは神社の外だ。狭い車道があり、車が駐車されている。血は、その車の元で途切れていた。


 僕は車の正面に駈け寄る。途端にヘッドライトがつき、僕の目を焼いた。急に車が走り出す。僕に向かって。僕は、車が加速する前にボンネットの上に飛び乗った。拳でフロントガラスを殴りつける。しかし、不自然な体勢、ガラスには皹すら入らない。運転席には、血塗れの白い仮面を被ったヤツがハンドルを握っていた。ニュースで言っていた目撃証言と一致する風貌だ。


 不意に、車が左右にぶれた。血で湿っていた靴底の摩擦力は弱い。僕は車のサイドに振り落された。地面をゴロゴロと転がって、タイヤの下敷きになるのを避けるのが精一杯だった。車が去りゆく直前、僕の名前を呼ぶ掠れた妻の声が、車内から聞こえたような気がした。


 僕はすぐに立ち上がって、今までの人生において最大の出力で駆けた。無駄。無駄だった。当たり前だ。逃げてゆく車に追いつけるはずが無い。それでも、車が見えなくなっても、僕は駆けた。泣きながら駆けた。


 気がついたら、狭い部屋の小さい椅子に腰を下ろしていた。


 僕はどうやら、不審者として警察に保護されたようだった。


 僕は、包み隠さず全てを話した。ぶちまけた。


 ニットのチョッキは、証拠品として没収された。


 アレは妻のものなのに。僕の妻のものなのに。


 悔しかった。


 夜が明けて、漸く開放された。家に帰ると、そこには警察官がいた。またかよ、と思った。彼らは、僕の家を、僕たちの家を、色々と調べていた。そういえば、事情聴取の最中に、そんなことを許可した記憶があった。


 警察官はビニールに入った紙切れを僕に見せた。それは妻の書置きだった。


 『シャンプーが切れていたので、コンビニまで買いに行ってきます』








 さて、回想終わりだ。


 どっと疲れが出た。汗も出ていた。一度記憶が発芽すると、成長しきるまで、止まらないのだった。昨日も、一昨日も、この記憶の暴走が起こり、こんな風に汗びっしょりにさせられたものだ。全く、僕の脳なのに、どうしてこんなに勝手な振る舞いをするのだろう。


 流し台の水が流れっぱなしだったことに気付く。栓を締める。なんて勿体無い。妻を失ったからと言って、その代わりに水道代がただになるわけじゃない。はは、馬鹿みたいだ。はは。あぁ死にたい。でも死ねないし、死なない。


 考える。


 僕は雑誌、テレビ、インターネットを通じて、この事件についての情報を探し回った。探して、探して、探した。アンダーグラウンドなサイトにアクセスしてまで、情報を漁った。


 事件の概要はこうだ。


 今までの被害者の人数。それは十人。そのことごとくが女性。


 一人目の被害者。今から二ヶ月前の金曜日(便宜上、この日を一週目とする)に殺害される(死体発見日時は省略)。現場は、とある駅前のパチンコ屋の裏路地。死体は、胴体から首を切り離されていた、所謂首きり殺人。死体のパーツで欠けているものは、無かった。


 二人目の被害者。二週目の金曜日に殺害される。現場は、比較的大きな児童公園。死体は、所謂バラバラ殺人。死体のパーツで欠けているものは、右腕。


 三人目。三週目の金曜日に殺害される。現場は、とあるマンションの屋上。同じくバラバラ殺人。欠損パーツは無し。


 四人目。四週目の金曜日に殺害される。現場は、デパートの地下、貨物トラックなどの搬入口。同じくバラバラ殺人。欠損パーツは両目。


 五人目。五週目の金曜日に殺害される。現場は、とある河川敷、橋の下。所謂首きり殺人。欠損パーツは頭部。


 六人目。六週目の金曜日に殺害される。現場は、線路のガード下。所謂バラバラ殺人。欠損パーツは無し。


 七人目。七週目の金曜日に殺害される。現場は、スーパーマーケットの裏のゴミ集積所。同じくバラバラ殺人。欠損パーツは無し。


 八人目。八週目の金曜日に殺害される。現場は、区立図書館の近くの廃屋。同じくバラバラ殺人。欠損パーツは両目。


 九人目。九週目の金曜日に殺害される。現場は、人気の無い有料駐車場。所謂首きり殺人。欠損パーツは無し。


 十人目。僕の妻だ。十週目の金曜日に被害にあう。現場は例の神社。所謂バラバラ殺人(未遂?)。欠損パーツは胴体、左腕、右脚、頭部……というより、右腕と左脚以外は全部だ。


 死体は、全て本人のものと確認されたらしい。


 ネット上では、こんな悪趣味な憶測、噂が流れている。


 「誰かが、複数人の死体のパーツを継ぎ合わせ、一人分の肉体を作り上げている」、と。


 肉で出来たツギハギ人形。フランケンシュタインのアレか。アレなのか。アレなんですかこの野郎。


 しかしなるほど、そう思うのも分からないではないと思う。欠けているパーツを全てたし合わせれば、(多少余分なパーツは出るものの)、繋ぎ合わせれば、左脚の欠けた人間一人分の肉体を作り上げることが出来そうだ。そして、今夜犯人は、その欠けている左脚を手に入れるため女を殺すのだ、とか。


 だが僕はその推測は間違いだと思う。いかにも『それっぽい』考えではある。それが合理的な考えだ、というわけではない。寧ろ逆だ。非常に頭の螺子のイカれた行動として、それっぽい、と評しただけだ。僕はその馬鹿さ加減が、カモフラージュのように思えるのだ。そもそも、完璧に頭の螺子がイカれたヤツなら、とっくに警察に捕まっているんじゃないか?


 犯人は、保身する術を持っている。自分の有利なように事を運ぶだけの、冷静さがある。こいつは冷静な殺人鬼だ。ネット上で言われているような、血に狂った怪しい呪術マニアなんかじゃない。


 ただ、今夜、もう一度事件が起こるという説は、僕もその通りだと思う。それに関しては全面的に賛成だ。そうでなければ、辻褄が合わない。言い換えれば、今夜犯人が動けば、それなりに辻褄が合う、ということだ。


 はは。なんだろう、冴えてきたじゃないか。あんた。


 復讐に燃えるヒーローにでもなったつもりかい。


 ふふ。御冗談を。








 僕は黒いジーパンに黒いシャツを着て、外に出る。ぬるい風が吹いている。血の匂いがした気がしたが、きっと錯覚だろう。もう殆ど使わなくなって久しい自転車の埃を払い、サドルに腰を下ろす。ダイヤル式のチェーンを外し、左足でスタンドのロックを解除、夜の街へ走り出した。


 僕は、全てのケースの事件現場を調べた。とある法則性を見抜いた。否、これを法則と呼べるのかどうかは怪しいところだが、得るものがあったことは事実だ。それが全てで、それで充分。僕は、次の犯行現場を予測した。候補地は幾つかある。短時間で回れば、あるいは犯人に出会うことが出来るかもしれない。


 漕ぐ。タイヤの空気が抜けかけているのか、僕の脚力が落ちているのか、両方なのか、そのあたりは定かじゃないが、なんだかペダルをこぐ足が重い。


 一つ、こんな疑問がある。


 『犯人は、何故僕の妻だけを生きたまま連れ去ったのか?』


 それは例えば、こう説明をつけられる。


 『僕の登場が犯人にとって予想外だったから。本来は完全に殺害するつもりだったのが、予定を変更し瀕死の状態で車に連れ込んだ』


 この疑問に関しては、この説明で、特別不自然さは感じない。


 では、次の疑問はどうだろう?


 『犯人は、何故僕が車に辿り着くまで、待っていたのか?』


 その疑問には、こう答えられるかもしれない。


 『僕が車に辿り着くのと、犯人が車に辿り着くのがほぼ同時期だっただけで、別に僕を待っていたわけではない』と。


 あるいは、『姿を見られたかもしれないと思い、僕を車でひき殺すことにした』。


 余すところ無く、説明できているだろうか?


 答えは否だ。全くもって、否だ。


 前者を否定する根拠は、僕がその現場に居合わせた上で感じたこと、それに尽きる。絶対に、犯人は、僕を待っていた。犯人と僕の距離が非常に近く、そしてヤツが慌てていたのなら、車の開け閉めする音が僕の耳に届くはずだ。そんな物音は聞こえなかった。絶対に、だ。これは断言できる。


 では後者。これは、全く辻褄が合わないわけではないと思う。だが、それでも不自然だ。犯人の姿を視認したのは、何も僕が初めてというわけではない。過去の事件の時にも、数度、犯人と目される人物が目撃されている。しかし、彼らは別段命を狙われなかった。僕だけが狙われた。それってさ、不公平じゃん。いや、私情でもって難癖をつけているわけではない。客観的に考えて、不公平である、と、ね。


 もう一つ不自然な点がある。それは、僕を殺すつもりだったのなら、どうしてちゃんと殺さなかったのか、ということだ。僕はかなり危険な姿勢で地面に落ちた。バックして轢き殺すことも、充分可能だったはずだ。リスクがある? 本当にそうか? 人気の無い墓地でチェーンソゥを凶器に人を殺すのと、人気の無い墓地の裏で人を轢き殺すこと、果たしてリスクに差があるだろうか? 寧ろ、目撃者である僕を生かしたままにすることの方が、危険だと思う。


 つまるところ、犯人は、車で僕を待っていて、しかしながら、僕を殺すつもりではなかった、はずなのだ。犯人はね、僕に、妻の声を聞かせたかったのだと思う。体を切り刻まれ、瀕死のまま車に連れ込まれた哀れな女は、お前の妻なのだぞ、ということを僕に深く知らしめる為に、だ。


 そして、ここから導かれる結論は。


 結論は。


 結論は。


 非常に、簡単なことだ。








 幸か不幸か、一番目の候補地であるところの、近所の商店街の裏路地の廃工場で僕は犯人の車を発見した。僕は両足をアスファルトに突き立てて、自転車を止める。


 背の低い校舎のような、その廃工場に僕は忍び込む。


 犯人は、今まさに、その右手のチェーンソゥでもって、まだ幼さの残る女子高生を切り刻もうとしていた。少女の口にはガムテープが貼ってあるため、その悲鳴はこもって殆ど外には聞こえない。


 僕は、唾を飲み込んで、懐中電灯をつけた。光に反応して、白い仮面がこちらを向く。右手に構えたチェーンソゥの刃が、光を受けてギラギラと輝く。恐らく、あの凶器は十人分の血液を吸っている。現代における魔剣と言えるだろうが、でもまあ、言ったってしょうがないじゃん。


 その犯人は、背が低かった。小柄、という意味ではない。立った姿勢を、とれないのだ。何故なら、犯人は車椅子だから。


 そして、正面から見た犯人のシルエットは、極めて非対称であった。右手にチェーンソゥを持っているから、ではない。犯人の肉体そのものが左右非対称なのだ。何故なら、犯人には右腕が無いから。


 さらに言えば、犯人が車椅子なのは、左脚が無いからであって、そして犯人が僕に妻の声を聞かせたのは、妻は飽くまでも被害者なのであるということにしたかったからだ。付け加えると、事件の現場は、全て妻の行動範囲と言えた。読書家の彼女は図書館通いをしていたし、児童公園も買い物に行く途中に通るし、あのマンションには妻の高校時代の友人が住んでいてたまに遊びに行っていたのを知っている。その他の現場も、まあ、そんな感じで。


 妻は、自分の右腕と左脚を切り捨てて、『殺人事件の被害者』になろうとしたわけだ。実際に被害者になってしまうことで、容疑の目を逸らそうとしたのだ。


 そして、敢えて体のパーツに欠損を作ったのは、ネットで流れているような、ああいうどうかしている説を蔓延させる為、だ。それは何故か? 精神的に問題があれば、法律上、責任能力がないとみなされるから? そうかもしれないが、それだけじゃないはずだ。


 死体で肉人形をつくるには、全てのパーツが必要だ。当然、頭部も胴体も。妻は、自分が死ぬつもりは無かった。生きていく上で最低限、頭部と胴体、そして、片腕は必要だったのだ。つまり、『頭部および胴体の見つからない死体が存在する必然性』が、必要だったのだ。


 まったく、こうして考えてみれば、幼稚な計画なんだけどね。


 「チェックメイツってやつだな」僕は懐中電灯で妻の仮面を照らす。


 「なんでメイツ?」妻は、チェーンソゥを持ったまま、右ひじを仮面の下部に引っ掛け、グイっと外す。ちょっとした悪事を見とがめられた小学生ような、幼い邪気のある笑顔だった。


 「俺は英語は苦手なんだって」


 「無理に使うことはないのに」


 「どうして、こんなことを?」


 「さあ。趣味じゃないかしら?」


 「じゃあしょうがない」


 「本当にそう思う?」


 「全然」


 僕と妻に挟まれた女子高生は、何がなんだか分けも分からずに、首をキョロキョロと動かしている。妻と親しげに話す僕に、助けを求めて大丈夫なものか考えあぐねているのだろう。可愛そうに。


 「君、もう帰りなさい」僕は少女に近づいて、口のガムテープを剥がしてやる。少女がのどの奥をヒッと鳴らして体をビクンとさせる。「もう、夜も遅いんだからさ」


 少女は怯えた目で僕を見ると、一瞬妻の方を振り向き、そして廃工場の出口へ向かって走っていった。ほとんど四足歩行みたいな、前のめりでバタバタとした、危うい走り方だった。


 「気をつけなさい。走ると転ぶよ。怪我をしたら大変だ」


 「あの子は、警察を呼ぶかしら?」


 「呼ぶだろうな、まあ常識的に考えて、さ」


 「私、どうしようかな」


 「どうしたい?」


 「えー、貴方に任せる」


 「そりゃ困ったなぁ。丸投げかい。丸投げなのかい」


 さて、この結末、少なくとも、ハッピーエンドは望めない。


 かといって、殺人鬼である妻を受け入れて共に猟奇の道を走ることもお断りだ。


 ただ、このまま、何も分かり合えず、何も伝え合えないまま、警察が来るという事態も、なんだか無機質で、嫌だ。このまま終わりなんて嫌なんだ。


 妻が警察に捕まること、これは逃れられない現実だ。それでは、その時がくるまでの僅かな時間を、僕はこの愛する妻と、なにをしてに過ごせばいい?


 「それは中々ディッフェレンスな問題だ」


 「ディフィカルトじゃないの?」


 「この際だから告白するけど、俺、英語が苦手なんだ」


 「あらそう。それは驚愕の事実だわ」


 早速、遠くからサイレンの音が聞こえてくる。


 聞こえてくる気がしただけだ。流石にまだ早過ぎる。

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― 新着の感想 ―
[一言] かなりドキドキしながら読みました!! 犯人が意外な方で吃驚しました。
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