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短編

私より先に死んでください

作者:紀舟
「私より先に死んでください」

 それが、私と結婚する彼女が提示した唯一の条件だった。
 普通、こういうものは「私より先に死なないでください」と言うのではなかろうかと思い、そう聞いてみるが彼女は首を横に振る。
 これにはがっかりした。
 確かに私と彼女は見合いで知り合ったし、本人同士よりもお互いの家が望んだ結婚だったが、彼女は私のことをそれなりに好いてくれていると思っていたからだ。
 結婚した後、多額の保険金をかけられて殺されるのかとも思ったが、はたして本当に殺す人間が面と向かって疑われそうなことをいうだろうか。
 何よりも、彼女は「私より先に死んでください」という言葉以外は、真面目でいたって普通の女性だった。
 いや、正直に言おう。私は会った瞬間から彼女に惚れていた。
 容姿も性格も含め、先に死ねと言われたことを引いても、彼女のことが好きになっていた。
 だから見合い後、3か月の交際を経て私と彼女は結婚した。
 結婚してからも、どこにでも存在するごく一般的な家庭を築いていったと思う。
 彼女は料理上手でご近所付き合いも無難にこなし、働く私を十分に支えてくれた。
 結婚して1年後には長男が授かり、その3年後には長女が生まれた。
 家庭はたまに喧嘩もするけれど、泣くことよりも笑顔でいることの多い居心地の良いものとなった。
 しかし、だからこそたまに不安になる。
 なぜ私と結婚した時、妻は「私より先に死んでください」と言ったのか。
 一度だけ妻に質問したことがある。
 あの時死んでくれと言っていたが私はいつ死ねばいいのか、と。
 妻は私の質問に僅かに笑んで、私のいるときに、と小さく震えた声で答えた。
 あまりにも切ない顔をするのでそれ以上、私は話を続けられず、妻の「今日の夕飯はアジフライでいいですか」という声に曖昧に頷いて終わらせてしまった。

 ある日、義父が癌で入院した。
 義母は妻が幼い時に事故で亡くなっており、子は妻一人。
 私と結婚するまで妻の家族は義父一人きりで、男手一つで妻は育てられた。
 当然、看病するのは妻で、私も子供たちもできるだけのことはした。
 しかし看病の甲斐なく、義父は死んだ。
 妻の家族が一人いなくなった。
 病院から生まれ育った家に、もう物言うことのなくなった義父と帰ってきて、葬儀屋と淡々と話を進める妻。
 感動的なドラマや映画ですぐ泣く妻のことだから、葬式の時も泣くかと思ったが妻は終始気丈に振る舞い泣くことはなかった。
 火葬場でも、状況が理解できずただ、じぃじとはもう会えないことを空気で感じ取り、泣きじゃくる幼い娘の背中を撫でながら無言で慰める。
 義父はあまりしゃべらない人だったが妻の父だけあって真面目な人だった。
 煙草を吸うために、火葬場の外に出る。
 屋内は禁煙で喫煙場所がなく、建物の裏手の軒に申し訳程度の缶が置いてあるだけだった。
 焼却炉の煙突から煙がたなびくのを見ながら煙草に火をつける。
 紫煙もまた義父から出た煙と同じ方向に流れていく。
 しばらくぼんやりと眺めていると、人の気配がした。
 妻だ。

「こんなところに居たんですね」
「ああ」
「お骨の取り出しは、少し遅れるそうです。お父さん、結構骨格がしっかりした人だったから、普通の人より時間が掛かるんですって」
「そうか」

 事務的に語る妻は少し頬がこけてはいたが、言動も瞳もしっかりとしたものだった。

「もう、行ってしまうな」
「ええ、そうですね」

 私と妻は並んで空へと昇る煙を見ていた。

「私より先に死んでください」
「え?」

 唐突に妻があの言葉を言った。

「私とあなたが結婚するとき、私、言ったでしょう?」

 ああ、もちろん覚えているとも。

「そうだったな」
「私の母は私が幼い頃、亡くなったわ。だから父はいつも独りだった」
「お義父さんには君がいたじゃないか。独りではなかった」
「いいえ。やっぱりね、娘、子供ではどうしても埋められない孤独はあるのよ。あなたも私も子供たちに完全に甘えることなんて出来ないでしょう?」
「まぁ、そうだな」

 煙草の灰が静かに落ちるのを二人で見つめた。

「お父さんなんて特にそうだった」

 じわじわと紙と葉を焼く火。煙草の筒が短くなる。

「弱音だって吐きたかっただろうにね。寂しかったこともあっただろうにね」

 私は妻を慰めるでもなく、肯定するでもなくただ聞いていた。

「死ぬことはね、仕方のないことなのよ。誰だっていつかは死ぬのですもの」

 私と妻はお互い見ることなく押し黙った。

「でも、でもね。私が死んだあと、私の大切な人が寂しくなったり、孤独な日々を送ることは嫌なの。ものすごく我儘なことを言ってるのは分かっているんだけど、嫌なの」
「そうか」
「お父さんの孤独は私では埋められなかった」
「そうか」
「それが私には、悔しいの」

 その時初めて妻の目からほろりと一粒、涙がこぼれた。
 やっと、妻が胸の内を吐露した。

「子供たちは良いわ。私よりもあなたよりも大切な人ができて、いつかは私の手から離れていく」
「そうだな」
「でも、あなたは? 私が死んだら貴方はどうなるの?」

 私は静かに待った。
 遠くで子供たちの声が聞こえる。

「私は貴方がお父さんのように寂しさを噛みしめながら生きていくような人生を送って欲しくない」
「だから、私より先に死んでくれ、か」
「ええ、そう」

 私は目元をハンカチで押さえた妻の肩をさすった。
 妻の肩は薄く、言った言葉の強さとは反対に弱々しく頼りなかった。

「でもな、それは俺も同じだよ」

 残された家族のことを思わない夫、父親はいないだろう。

「俺が先に死んで、お前が苦労するのは俺も考えたくはない。だから」

 そこで私は、妻と顔を合わせた。

「だから、俺が先に死ぬか、お前が先に死ぬか……いや、違うな。俺が長生きするか、お前の方が長生きするか、勝負だな」

 妻の目から涙が止まり、初めて見た奇怪な生物を見るような目で私を見た。
 私はまだ長さの残る煙草の火を消して、持っていた煙草の箱をくしゃりと潰す。

「今日からスタートだ」

 焼却炉の煙突からたなびいていた煙は、いつの間にか消えていた。

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