真剣勝負対戦相手と対戦順番
一番勝負──背番号1×背番号2
二番勝負──背番号3×背番号4
三番勝負──背番号5×背番号6
注意事項
四番以降の対戦相手と順番は、任意とする。
勝負は、最後の一人になるまで続けられる。
△
天井のサーモグラフィーにより、死亡が認められたときは、壁のランプがそれを知らせる。
△
随時、死体は箱に戻さなければならない。死体を箱に戻したら、白いボタンを押して蓋を閉じる。
△
部屋の備品を故意に破壊してはならない。
△
武器と食事は、全てダンボール箱に収めたが、どちらも新たな追加はない。
△
全ての勝負の後、生存者が一人と確認された場合のみ、部屋のドアが二十秒間だけ開かれる。
△
上記の対戦相手と順番が守られないときは、部屋のドアは永遠に開かない。ただし、故意ではない事故による死亡については、その限りではない。
△
勝負は常に一対一として、不意討ちを禁ずる。
以上。
知るのを控えてこそ、長生きもできるのだ。
トマス・ハリス『ハンニバル』より
●
中川和博は、佳奈子の作ってくれたドライカレーを平らげると、ベッドから出た一時間後には車に乗りこんでいた。
エンジンを始動したとき、彼の腕時計は二時十五分、カーラジオをつけると、中川の知らない歌謡曲が流れていた。
これから片道八キロほどの道のりを走り、彼は三尾に会いに行くつもりだ。
右足の骨折と、右目の網膜剥離、それが三尾の現状だった。
二週間前のことだ。N市で強盗を働いて逃亡中の犯人と、別件で聞きこみをしていた三尾とが鉢合わせた。偶然、立ち寄った民家に、逃亡中の強盗犯が潜伏していたのだ。三尾が何故、自分がこんな目に遭わされたのかの理由を知ることが出来たのは、だから翌日の昼を過ぎてからだった。もうそのときは手術も終わっていた。二日後には犯人も捕まった。
中川が三尾を見舞うのは、これが二度目だった。細かな情報の遣り取りの必要もあったが、今日はそれだけでなかった。
コンビニのある交差点で、長い赤信号に引っかかった。日曜だからか人通りも多い。家を出てから二十分が過ぎていた。後、五分も走れば病院に着く。
病院の駐車場に車を止めると、中川は三尾の病室に直行した。
職業柄、病院を訪ねることは多かった。だが、病院というやつは、頻繁に改装なんかをしている。壁の色が変わったりすると、全く違った建物のような印象を受ける。
中川は、一階のエレベーターの前に立った。エレベーターに乗りこむと、三階と五階のボタンを押した。一緒に乗りこんだ車椅子の男性の行き先が三階だった。三階でその男が降り、代わりに中年の女性が乗りこんだ。
エレベーターを五階で降りて、廊下を二度曲がって、三尾の個室に行き着いた。佳奈子に頼んで買ってもらっていた、見舞いの海老煎餅をちらと見て、中川は病室のドアをノックした。
「やあ」中川の姿を見て、三尾が言った。「今日は、どうした──?」
椅子にいた三尾の妻が立ち上がった。二度目になるが、中川は簡単な見舞いの挨拶を済ませ、海老煎餅の入った紙袋を彼女に手渡した。三尾が、「ちょっと外してくれ」妻にそう言った。
「何かあったか?」
妻が病室から出た後、三尾が言った。どうやら、中川の表情を読んだらしい。中川がうなずくのを見て、
「まあ、座ってくれ。いい天気だ。喉は渇いてないか? そこに飲み物がある。開けてみてくれ。私にもコーヒーを頼む」
サイドボードの扉を開けて、缶コーヒーを二本取り出すと、中川は一本を三尾に手渡した。それから椅子に座った。
「ありがとう」
三尾が言った。
もうそろそろ三時だった。中川は、自分のコーヒーをサイドボードの上に置くと、懐から出した手帳を広げて話し始めた。
「三日前の午前八時ごろ、平塚山の渓流で、若い男性の遺体が発見されました。──ところで、三尾さんは、二年前の冬に雪山で発見された学生のことを憶えておられますか──?」
「ああ。憶えている。確か名前は──」
「築知澄です。当時は××大学の学生でした。この春に卒業して、現在は、U市のスーパーマーケットで働いています。実は昨日、彼を訪ねたのですが、」
「その前に、平塚山で発見された遺体の説明をしてくれないか?」
「ええ。そうですね。──さっき申し上げた通り、遺体が発見されたのは、三日前の午前八時ごろでした。発見者は、川釣りに来ていた三人連れの内の一人で、名前は、田熊晃、年は二十九歳、男性です。その日、彼らは釣りを始めたばかりで、田熊がふと目の前の崖を見上げると、そこに人間の死体らしき物体を発見したということです。そこは、岩場に木が茂っているような場所で、高くて距離もあるし、死体なのかそうじゃないのか、なかなか見分けがつかなかったそうです。それで、連れの一人が双眼鏡を持っていたので、出して見てみると、どうも死体に間違いなさそうだということで、警察に通報することに決めたわけです」
「ふうん」
三尾はうなずいて、それから缶コーヒーを開けて飲んだ。
「私も頂きます」
中川も缶を開けて飲んだ。
「それで、遺体の状況は?」
「かなりひどかったですね。性別は男性で、恐らく、まだ若いですね。髪を脱色し、全身に数多くのピアスがしてありましたので、そう見当をつけているわけですが、残念ながらまだ身元は分かっていません」
「なるほど」
「解剖の結果から、死後、少なくとも五ヶ月は経っているそうです。死因は分かりませんでした。それから、自分から崖に落ちたのか、それとも突き落とされたのか、その判別も出来ませんでした。仮に落とされていても、そのとき彼が生きていたかどうか、その点も分かりません」
「で、それが築知澄と──?」
「三尾さんは彼の供述を憶えておられますか? 彼は、複数の人間が薄い緑色の服を着せられ、閉鎖空間に閉じこめられて、日本刀を使っての殺しのトーナメントを強制されたと、そう言っていたのですが。しかし、発見されたときの彼の服装は、ジーパンにセーターだったと記録されています」
「確か、薬をやってたんじゃないのか?」
中川はうなずいて、
「一種の麻薬が検出されました。合法成分でしたが」
「で?」
三尾が、じろりと中川の顔を見た。角刈りの赤ら顔は、刑事というよりも、どこか飲み屋の亭主といった風情だが、こんなときは、さすがに迫力があった。
「遺体の服装が、まさにその通りだったのです。薄い緑色の服を着ていました。背中に番号があって、大きく“2”とプリントされていました」
「背番号だと?」
「ええ。すっかり忘れていましたが、供述書を見直してみると、薄い緑色の上着には背番号がうたれていたと、確かに彼はそう言っています」
「薬は?」
「いいえ。或いは、腐敗の途中で分解されたかもしれません」
「それで築に会いに行ったか。──彼は何と答えたんだ?」
中川は、そのときのことを思い返した。
大学を卒業した築知澄は、マルビシというスーパーマーケットに就職していた。マルビシは、県下に二十を超える店舗を構えている。歴史も古く、健全な経営を続けていたため、最近になって更に店舗を増やし始めているようだ。そのU市にある二つの店の内の、駅前店の方に彼は勤めていた。
中川は、スーパーは客商売でもあるし、夜になって彼の実家の方に訪ねることにした。
築の実家は、彼の職場からほど近い場所にあった。現在、親子三人で暮らしている。既に母親はなく、彼には妹がいた。
午後十時ごろ、訪ねて来た中川を見て、築はさっと顔色を変えた。
「それが、どうも私の訪問が迷惑なようで、何を聞いても、記憶にないとか、忘れましたとか、おざなりの返事しかもらえなかったのです」
そう言って中川は手帳の次のページを捲った。
「まず、服装についてですが、供述書にあるようなことを言った憶えはないと。発見されたときの服装は、ジーパンにセーターだったと言いました。それは、こちらの記録とも合っていますし」
「ふん。それで?」
三尾が軽くコーヒーを口に含ませた。
「日本刀を使っての殺しのトーナメント、の部分について尋ねてみると、」
「憶えてなかった?」
「はい。寒さのせいで頭がおかしくなっていたのかも、そう答えました。供述書にもある額の傷を指摘すると、何でついたか分からない、でも、少なくとも日本刀ではないはずですよ、こんなことを言いました」
「薬については?」
「大学の友人にもらった頭痛薬を飲んだかもしれないと」
「その友人の名は?」
「忘れたそうです。法律的にも問題のない薬ですし、他も記録にある通りですので、これでよしと言えばよしと言えるのですが、あのような遺体が見つかったので」
そう言うと、タオルで顔を拭くような感じで、中川は掌で顔をさすった。それから、
「一度、山に登ってみようと思っています」
そう言った。
●
病院を後にした中川は、それからホームセンターに向かった。時刻は四時を回っていた。
昨夜遅く、インターネットで調べてみると、山登りにおいて必要な七つ道具は、ロープ、軍手、ナイフ、地図、地形図、コンパス、ステッキだった。いつ山に行けるか分からないが、時間があるときに用具だけは揃えておこうと思った。
国道を離れて県道に入った。ビジネスホテルの角を左に曲がり、そこから一キロくらい進んで、更に右に折れた。すると進行方向にホームセンターの看板が見えてきた。
駐車場は、ほぼ満杯だった。それでも待つことなく駐車することが出来た。
私費で支払うつもりだから、なるべく安く用具を揃えたかった。陳列棚を眺めながら、中川は、半年ほど前の、三尾との会話を反芻していた。
「お互い、なかなか家に帰れないが、そこのところはどうだ?」
三尾が、そんなことを言った。
パトカーの中──市川ビルで起きた、殺しの捜査からの帰りだった。殺されたのは、あるメーカーの事務員で、犯人は彼女の交際相手の男性だった。男の行方を突き止めたとき、彼は既に死亡していた。自宅近くの藪で首を吊っていたのだ。
「しかし、お前のかみさんを初めて見たとき、こんな美人が、どうして刑事なんかと結婚する気になったのかと思ったよ」
中川が佳奈子と結婚したのは三年前だった。多分、そのときの話をしている。
「大丈夫です」
中川が最初の質問に答えた。実際、そんな心配はなかった。
「何か、こつがあるのか?」
「そんなもの、ありませんよ」
本当に、そんなものなかった。
佳奈子は、人として優しい女性だった。しいて言うなら、それが理由だろう。彼女は、幼いころより病気がちだった母親の代わりに家事をこなし、弟の面倒を見て来た。苦労を重ねて来たので、誰に対しても思いやりが深い。多少のことで文句を口に出さない。
三尾の言う通り、彼女は美人だった。真っ白い肌。長く黒い髪。古典的な美人と言えた。確かに中川には過ぎた女性かもしれない。実際、中川自身もそう思っている。
レジで代金を支払いながら、
──せっかくの休日まで、自分はこんなことをしている……。
そんなことが、中川の心をよぎった。
帰り道、ケーキ屋に寄った。
佳奈子の好きなショートケーキを持って、中川は家の玄関ドアを開けた。
いい匂いだ。今夜はシチューらしい。
時刻は五時を過ぎていた。鍵をしまいながら、彼は台所のドアを開けた。
まだ子供はないが、夫婦は上手くいっている。
「お帰り」
流しの前に立っていた佳奈子が振り返った。長い黒髪がサラッと揺れた。
●
流通センターから届いた荷物を棚に並べながら、築は自宅に訪れた刑事のことを考えていた。一日に二回、流通センターから荷物が届けられる。それらは、菓子、ジュースや麺つゆ、砂糖などの食料品だ。チューインガムみたいな小さなものは、簡単に組み立てられる樹脂製の箱に入れられて来る。
築はスナック菓子を棚に並べながら、刑事──名前は中川だった──が、何を掴んだのかを考えていた。彼は、手持ちの情報を少しも洩らすことがなかった。
言われるまで気づけなかったが、彼はあのときの刑事だった。あのとき、もう一人、中年の刑事がいた。しかし、自分の話は全く信じてもらえなかった。
──それなのに、今ごろ来やがって!
しかし、どうして今ごろになって──?
二年前、自分は確かに惨い目に遭った。供述の通り、“複数の人間が、閉鎖空間で、しかも日本刀を使っての殺し合いを強制された”のだ。
あのときは、まだ薬の影響下にあった。多くのことが思い出せなかったが、自宅に帰ってから全てを思い出せた。あれが夢ならよかった。だが、額にはちゃんと傷あとが残っている。自分が殺した男に──浜田栄治につけられた刀傷が──。
部屋の様子も憶えている。
六面全てが、鉄板で溶接された閉鎖空間。異常に高い天井。緑色の床。ドアも窓もない壁。天井の近くに、大きなアナログ時計が埋めこまれていた。その時計の下に、六個の赤いランプがともっていた。天井には一台のカメラがあった。
何もかもが犯罪のために作られた部屋──。
浜田以外の名前も憶えている。彼らの遺族を捜すのも可能だが、勿論、それをしたことはない。それを条件に、あることを叶えてもらった。
その後、一度、殺されかけた。山の奥深い場所に連れられて、背中に猟銃を突きつけられた。森田一という男だった。そのとき、彼の携帯に連絡が入り、自分は助けられることになった。そして、新たな条件を課せ加えられた。
「今後、この件に関して警察が訪ねて来たら、ここに連絡を」
そう言って携帯の番号を教えられた。中川が帰るとすぐ、その番号に電話をかけた。男が出て、そちらに行くと言われた。翌日、初対面の男が自分を訪ねて来た。その男に、中川との遣り取りを全て話した。
それから十日余りが過ぎた。
──妹は、癌から生還した。あの薬は、妹の体から全ての癌細胞を追放してくれた。だからこそ、自分は彼らに従っている。
自分さえよければ、誰に迷惑をかけようと、全く関係なしという現在の風潮。自分もそうなのかもしれない。だが、彼らに逆らっても勝てる見こみはない。
棚に菓子を並べ終え、休憩時間になった築は、昼食をとろうと近くの喫茶に向かった。
彼はその途中で、ブロック塀にぶつかった軽自動車を見た。事故の直後らしく、隣に運転していたらしい女性が立っていた。幸い、軽症のようだ。フロントグラスも割れてなかった。
しかし、築を釘付けにしたのは、その近くに止まっていた、四トントラックの方だった。
荷台に、あの箱を積んでいた──。
間違いない。一つしかないが、あの箱だった。
だが、
彼はそれを無視して歩き始めた。
関係ない。中に人がいようと、自分には関係ない。彼らが何をしていようと関係ない。
関係ない。関係ない。
自分とは関係ない。
彼は足を速めた。
関係ない。関係ない。自分とは関係ない……。
遠くでパトカーのサイレンが聞こえた──。
●
その日、ロープなどを揃えた二週間後、中川は平塚山に向かっていた。
季節は初夏である。遺体発見場所の渓流の一キロ手前まで林道があって、そこまでは車を進めることが出来る。その林道を土埃を上げながら車を走らせた。トランクのリュックには、登山の七つ道具を入れてあった。それと弁当と。今朝、佳奈子に持たせてもらったものだ。ステンレス製の水筒も入っている。
目的地まで来たので車を止めた。土埃のせいで、車体が白くなっていた。地図を手に入れて、地形の把握は済んでいた。
中川は、トランクから出したリュックを肩に担って、渓流の周辺の調査を始めた。家を出てから二時間、今は山に囲まれている。
二年前、築が発見されたのは全く別の場所で、ここからだと十キロ以上離れている。発見者の森田一が消えてしまったので、その正確な位置は分からない。記録に残る彼の住所は、空き家になっていた。僻地なので隣家もなく、誰も彼の行方を知らなかった。
一体、この山にどんな秘密が隠されているのか──。
築は何かを隠している。それは間違いなかった。しかし、まさか二年前に、彼が言ったことが行われたとも思えない。
遺体が発見された崖の上にたどり着いた。
渓流まで十五メートルくらい。五階建てビルの屋上の高さだ。不用意に近づいていい場所ではない。
中川は身を乗り出して下を覗いた。木が鬱蒼としている。これでは落ちてもどこかに引っかかるだろう。
地面を調べたが何も見つからなかった。時刻は午前十一時になろうとしている。近くに平地を見つけて、中川は少し早い昼食をとることにした。
小さく畳まれたシートを広げて、その上で弁当を食べ始めた。オカカ入りのおにぎりに、おかずは、ミートボール、高野豆腐、唐揚げ、アスパラガスのサラダだった。
食後、煙草を吸い、山火事にならないよう、慎重に火を消した。山火事なんか出すと、調査どころの騒ぎでない。
さて、と腰を上げて、中川は調査を再開した。耳を澄ませても渓流の音が聞こえなくなった。何かの巨木があって、そこに鳥が集まっていた。胸元の赤い、名の知らぬ鳥だった。
人の通れるような道はなかった。背の高い雑草を掻き分けながら進んだ。雑草が途切れたところで林になった。
こうやって自然に囲まれると、太陽の様子がダイレクトに伝わる。雲間から顔を出すと、さあっと日が照るのだ。なかなか気持ちがいい。
彼は、どこから来たのだろう──? 辺りに人の気配などない。ひょっとしたら、小屋くらい見つかると思っていたが……。
四時間ほど歩いた。時刻は三時を過ぎていた。
と、
向こうの斜面に、白い壁みたいなのが見えた。
何だろう──? どうも人工物に思える。
●
やはり、建物だった。白木で組まれた山小屋だった。小屋の傍に小さな空き地が造られ、車の通れる道がどこかに続いていた。或いは、自分が車を止めた林道に続いているのかもしれない、と中川は思った。
道は舗装されてない。石ころ混じりの、ひどいがたがた道だ。
小屋は、乗用車が二台入るくらいの大きさだった。ストーブのためのものか、屋根に煙突が出ていた。窓が一つあり、無地のカーテンがかかっていた。小屋の後ろには一台のセダンが止めてあった。誰か人がいるのかもしれない。しかし、ノックしても返事はなかった。
ドアノブに触れてみると、簡単に開いた。中に入ると部屋の隅に小さなキッチンがあった。キッチンの前にはテーブルがあり、小屋の中は綺麗に整頓されていた。
それだけなら普通だが、床に奇妙な穴が開いていた。一辺が、約一、五メートルほどの正方形の穴。中を見下ろすと、なだらかなコンクリートの階段があった。奥に照明の光が見えた。
中川は、その中に入ることにした。
二メートルほど下りると、堅固なコンクリート製の短い廊下があった。天井に蛍光灯がつけられていた。廊下の先にドアがあった。廊下の幅分の大きなドア──そこも鍵がかかってなかった。中川は慎重にそのドアを開けた。
部屋になっていた。上の小屋より広い。そこに複数のパソコンとモニターが置かれてあった。人はいなかった。照明がついてない。モニター画面の光と、廊下の蛍光灯の光で、辛うじて部屋の中を見渡せた。
中川は、モニターを見ようと画面の方に回りこんだ。そこには、同じ画像が異なる表情で映し出されていた。一つは普通の映像だが、もう一つはサーモグラフィーによるものらしい。
ほぼ立方体に思える、複数の箱が置かれた空間だった。
危ない──! と、中川は思った。この空間は、築の供述書にある部屋ではないのか──。
閉鎖空間、日本刀、殺しのトーナメント──。
そのとき、彼は、築が真実を話していたことを悟った。
中川は体を身構えた。外には一台のセダンがあった。相手は一人か──それとも、二人以上いるのか──?
「くそっ!」
思わず呻き声を上げそうになる。地の利から考えて、無事に帰れる可能性は、限りなくゼロに近い。
罠だった。小屋を発見された時点で、この部屋で確保するつもりだった。
佳奈子……。
中川がそうつぶやいたとき、既に闇に紛れて、彼の背後に迫っていた何者かがいた──。
■
「おい。目を覚ましたぞ。名前は? あなたの名前は?」
「中川和博……」
彼は、はっきりと答えることが出来た。
「気分はどう?」
今度は女性が呼びかけた。
床に横たわっている中川を、三人が取り囲んでいた。
「わ、私は……」
「薬で眠らされていたのです。──起きられますか?」
中川は、男の手を借りて起き上がった。
「ここは……あなたは……」
「ここがどこかは私達にも謎ですが、私の名は、鏡原です」
「わたしは八田京子。それから、この方は、南さん。彼の頭は気にしないで」
中川は、そのとき初めて気づいたが、その南と紹介された人物は仮面を被っていた。それは、西洋甲冑の冑だった。磨かれたステンレスみたいに銀色に光っていた。見えるように、目のところが細長く開いていて、他は全部鉄に覆われていた。
「取れないのです」南が言った。「知らない間に、つけられていたのです」
「水を飲みますか?」鏡原が言った。「但し、一人につき二リットルしかありません。それと、パンが一個あります」
「いえ……」
中川は自力で立ち上がると、部屋の中を見回した。
六面全てが、鉄板で溶接された閉鎖空間だった。照明は明るく、広さは十坪くらい。緑色の床に、大きな鉄製の箱が置かれていた。全部で六個あった。
天井の近くに、大きなアナログ時計が埋めこまれていた。時刻は二時ちょうど。時計の下に、六個の赤いランプがともっている。
天井の高さは五メートルを超えていた。体育館にあるような笠つきの電球が、高い天井から部屋を照らしていた。それから、天井には一台のカメラがあった。
「この部屋は……」
「さっき言った通り、それは私達にも分かりません。それより、中川さんは、どうしてここに拉致されたか、憶えておられますか──? 私は、夜、ベッドで寝ているところを拉致されたようです。出張中のビジネスホテルでした」
鏡原が説明した。彼は、六十手前くらいの、実直そうな男だ。
「わたしは、自宅の近くの公園を散歩していたときでした」
続けて、八田京子が言った。綺麗な娘だが、顔に大きな傷あとがある。
「僕は大学のゼミの部屋にいたときに拉致されたみたいです」
冑を被らされた南が言った。彼は大学生だった。薄い胸板をして、女みたいに痩せていた。
中川が箱に近づいた。鉄で出来た六個の箱は、一辺、一メートルくらいの立方体だった。部屋の中に、ばらけて置かれてあった。同じ規格品のように思える。真っ黒く塗装されており、上側の蓋が少し開いていた。箱の側面には白いボタンがついていた。中川が、そのボタンに触れようとしたとき、
「駄目です! それに触れないで!」
鏡原が言った。中川は伸ばした手を引っこめた。そのとき、箱の陰で横たわっている、二人の人間に気がついた。
「我々六人は、六個の箱の中に入れられていたのです」
「箱の中に──」
「あなたも、そうでした。まだ眠っている内に、私と彼とで外に出したのです」
鏡原は南の方を向いた。南はそれを受けて、
「気がついたとき、僕は箱の中にいました。僕が意識を取り戻したとき、この箱の蓋は閉まっていました。外に出ようとしたのですが、すごく頑丈で出来ませんでした。それが、一時間ほど前に急に開いたのです。こちらの鏡原さんと僕だけが目覚めていて、他の四人の方は、まだ眠っていました。それで、二人で箱から出したのです。それが、今から二十分ほど前のことです」
箱の陰で横たわっている二人の内の一人は、南と同じような冑を被されていた。女性だった。冑の下から茶髪が伸び、胸の上に置かれている手には、派手なつけ爪がされていた。それから、胸元に刺青がしてあるのが見えた。一部分しか見えないので、何を彫っているかは分からない。もう一人は男性で、三十代に見える。眼鏡をかけ、額に沢山の汗をかいている。
「まだ気づかないのですよ。二人とも、何だか苦しそうです。──ところで、さっきの質問ですが、中川さんは、どこで拉致されました──?」
鏡原が言った。
「憶えてません……」
嘘を言った。
「そうですか。又、思い出したら教えて下さい」
鏡原は少し残念そうだった。
「このボタンは──?」
中川が、さっきの白いボタンの説明を求めた。
「これをご覧下さい」
と、鏡原が一枚の紙片を差し出した。その紙片には、次のような文章がプリントされていた。大きさはA4サイズ。見出しだけゴシック体が使われていたが、本文は明朝体だった。
真剣勝負対戦相手と対戦順番
一番勝負──背番号1×背番号2
二番勝負──背番号3×背番号4
三番勝負──背番号5×背番号6
注意事項
四番以降の対戦相手と順番は、任意とする。
勝負は、最後の一人になるまで続けられる。
△
天井のサーモグラフィーにより、死亡が認められたときは、壁のランプがそれを知らせる。
△
随時、死体は箱に戻さなければならない。死体を箱に戻したら、白いボタンを押して蓋を閉じる。
△
部屋の備品を故意に破壊してはならない。
△
武器と食事は、全てダンボール箱に収めたが、どちらも新たな追加はない。
△
全ての勝負の後、生存者が一人と確認された場合のみ、部屋のドアが二十秒間だけ開かれる。
△
上記の対戦相手と順番が守られないときは、部屋のドアは永遠に開かない。ただし、故意ではない事故による死亡については、その限りではない。
△
勝負は常に一対一として、不意討ちを禁ずる。
以上。
これが全文だった。
●
壁の時計は三時になっていた。中川が意識を取り戻してから一時間が過ぎた。
中川は、築が言っていたことを思い返しながら、これから自分達がどう対応して行けばいいのかを考えていた。
築の血液からは、麻薬が検出された。恐らく、自分達も同じものを投薬されている。今は麻薬の影響はないみたいだが、その内に効いてくるかもしれない。体はふらついているが、頭はクリアだった。目覚めてない二人は、或いは薬との相性が悪く、拒否反応が出ているのかもしれなかった。
しかし、あの冑は何だ……? 六人の内、二人に冑が被されていた。一人は南という大学生で、もう一人は派手な女性だった。南の言う通り、冑には鍵がかけられていた。
南の冑をよく見せてもらうと、それは前後で顔を挟みこむようになっていた。その合わさるところに二センチほどの出っ張りがあった。それが鍵になっているらしいが、鍵穴みたいなのはなかった。口の部分に工夫があって、金具をずらすと少し開くようになっていた。
我々には水とパンが与えられている。水とパンは、ちゃんと六人分あった。口の工夫は、食事のためのものだろう。
水は二リットルのペットボトルに入っていた。それが六本あった。パンは学校給食のようなコッペパン。これも六個あった。食料はダンボール箱の中に入っていた。鏡原が見つけたとき、箱はガムテープで封をされていたそうだ。
だが、ダンボール箱はもう一つあった。中には六振りの本物の日本刀が入っていた。それに、全員につけられた番号──自分の上着の背中には、大きく“1”とプリントされている──。築の供述の通りだ。そして、2番が南、3番が鏡原、4番が八田京子、5番が、まだ目覚めていない、冑をつけている女性、6番が、同じく、まだ目覚めていない男性だ。
「何を考えています?」
鏡原が中川に声をかけた。
「いえ。特に──」
中川がそう答えると、
「そうですか。すいませんが、職業を教えて下さい」
「職業を?」
「はい。それから、お住まいになっている住所と」
「それを聞いてどうするのです?」
中川が言うと、
「全員に聞いてるの。何かヒントを捜してるのよ。ここから出るための。中川さんは1番だから、しっかり考えてた方がいいわよ」
八田京子が言った。
彼女の言う通りだった。
中川は、まだふらつく足で、三十分ほどかけて部屋の中を調べていた。今、部屋にあるものだけで、ここから脱出するのは不可能だった。
「職業は、」
と、言いかけて、今度も中川は、刑事であることを隠すことにした。とっさの判断で、そう決めた。何か考えがあったわけではなかった。
「職業は、実家で小さな印刷屋を経営しています。住所は、S町です」
実家が印刷屋を経営しているのは本当だった。兄が跡を継いでいた。
「そうですか。それでは、全員、同じ市内の人間ですね。全員と言っても、我々四人だけですが。八田さんもS町ですよ。私と南さんはU町ですが」
「実家は四国ですが、今はU町に下宿しています。そこから電車で大学に通っています」
中川に向かって南が言った。
「わたしは主婦をしています。主人は市役所に勤めています」
八田京子が言った。
「お子様は?」
鏡原の質問に彼女が首を横に振った。
「いいえ。この春に結婚したばかり」
「そうでしたか……」
八田京子の言葉に全員が同情した。
「色々と部屋を調べられていましたが、何か見つかりましたか──?」
「いいえ」中川は答えた。続けて、「その紙片は、どこにありましたか?」
「これは、彼の上着のポケットに入っていたのです」鏡原は、まだ意識を失ったままの男性の方を指し示した。「私達のポケットには何もありませんでした。失礼ですが、あなたのポケットも見せて頂きました。残念ながら何もありませんでした」
しかし、中川は、彼らの知らない情報を持っている。注意事項の二番目の、“天井のサーモグラフィーにより、死亡が認められたときは、壁のランプがそれを知らせる。”そのサーモグラフィーの映像は、間違いなく、あの小屋のモニターに映されていたものだ。
モニターのあった部屋と、この部屋との位置関係は、どうなっているのか──?
中川は思考を凝らした。ひょっとすると、この鉄板の向こうにモニターの部屋があるのかもしれない。そして、今も我々のことを観察しているのだ──。
●
壁の時計は三時半。全員で、紙片にある注意事項について検討を始めた。
しかし、このパズルは欠損部分が多すぎる。
「天井のサーモグラフィーにより、死亡が認められたときは、壁のランプがそれを知らせる……一体、何人の人間に覗かれているのかしら……」
八田京子が、女性らしい不安を口にした。
「誰かが死ねばランプが知らせるということは、ランプは六つあるから、一つずつ消されるという意味ですか」
南が全員の顔を見た。八田京子が不安そうにうなずいた。
「全ての勝負の後、生存者が一人と確認された場合のみ、部屋のドアが二十秒間だけ開かれる──見たところ、どこにもドアはないみたいですが……」
鏡原が言った。確かにその通りだ。他の三人も細かく部屋の中を調べているが、そんなドアを見つけることは出来なかった。
「外から溶接を破るんじゃないかしら?」
「なるほど。そうかもしれませんね。我々が運びこまれたときは、まだ、どこかが開いていて、閉じこめてから、溶接で塞いだのかもしれません。と、いうことは、仮にここから出られたとしても、外には我々をこんな目に遭わせた犯人がいるということです」
「この、随時、死体は箱に戻さなければならない、は、どういうことでしょう──? それから、白いボタンの意味は──? ボタンを押せばどうなるのでしょう……?」
南が紙片を指差しながら言った。
「試しますか?」中川が言った。「特に禁止されてもないようですし」
「わたしは反対」
八田京子が言った。
「どうしてです?」
そう言ったのは南だ。
「勘よ」
「賛成です。あれには触れない方がいいでしょう」
鏡原が言った。その言葉通り、彼は中川がボタンに触れようとしたのを止めた。
「ですが、戦う順番が決められているのは何故でしょうか?」
続けて鏡原が言った。
「僕と中川さんが一番です。次が鏡原さんと八田さん。最後が、あの二人」
「わたしは、やらない。人なんか殺せないわ」
「勿論ですとも。そもそも、我々をここに閉じこめた者は、本当に我々が殺し合いをすると思っているのでしょうか?」
「それは僕も思います。たとえ飢え死にしても、人を殺したり出来ません」
南が鏡原に同意した。
「おや? どうしました?」鏡原が中川に声をかけた。「意見があれば、遠慮なくおっしゃって下さい」
「いえ。私も皆さんと同じです。人を殺したり出来ません」
中川は言った。
だが、築達は殺し合いを実行したのだ──。恐らく、麻薬のせいで──。
「喉が渇いたわ」
そのとき、八田京子がペットボトルのキャップを開けて水を飲み始めた。それを見た中川が、あることに気づいた。それは、ペットボトルの水に麻薬が仕込まれている可能性だ。そうだ。だから、幻覚とかの症状が、まだ出てないのだ。では、水を飲まなければ助かるのか──? 中川は、その可能性はないと感じた。彼らは、全員が飢えて死ぬまで解放しないはずだ。それに、どのような結果になろうとも、自分が生き残れるチャンスはない──。自分は刑事なのだ。彼らを追ったがため、きっとメンバーに加えられた。
だが、
既に四人の水は半分に減っていた。もう遅いのだ。麻薬は全員の体に行き渡っている。どうして彼らは自分を1番にしたのだろう──? 普通に考えれば、最も敬遠されるはずだ。一体、これから何が起きるのか。
「でも、どうして二人だけ、冑を被らされたのでしょう?」
鏡原が唐突に疑問を口にした。
「それは、僕が一番知りたい。こいつ、すごく重いんです」
南が言った。
「南さんには悪いけど」八田京子が続けた。「ひょっとして、あなたは、これを企てた人の仲間じゃない?」
「いきなりどうしました──? 南さんも、びっくりしてるじゃありませんか」
鏡原が驚いた。
「それは……だって、顔を隠してるじゃない」
確かに彼女の言う通り、冑のせいで彼の顔を見ることは出来なかった。
「でも、冑を被らされているのは、僕だけでありません」
南の言う通りだ。冑をつけた人間は二人いる。
「彼女も仲間なのよ」
「八田さん。それはおかしいです」鏡原は続けた。「彼女は苦しんでいるんですよ。二人が仲間なら、何故、助けないのですか?」
「仮病を使ってるの。顔が見えないから簡単だわ」
「しかし、もう一人の方は、本当に苦しんでいるみたいですが」
鏡原が言った。
「彼は本当に苦しんでいるのよ! もう、何でもいいから、ここから出しなさいよ! そんな冑なんか脱いで!」
「き、決めつけるな!」
南が八田京子に詰め寄ろうとした。今にも飛びかからん気配を見せた。
が、
「やめなさい! それから、八田さんも! 皆さん、もう少し冷静になりましょう」
近くにいた中川が、それを制した。
「そうですね。中川さんのおっしゃる通り、皆さん、もう少し冷静になりましょう。それから、中川さん、あなたも意見をおっしゃって下さい。さっきから、ずっと黙ってるじゃありませんか。ここから出るためには、全員の協力が必要なのですから」
「──私は、彼らは本気だと思います」
「本気とは?」
「彼らは、私達に殺し合いをさせるつもりです」中川は言った。「この紙片のルールで、最後の一人になるまでゲームを続けさせるつもりなのです」
「ゲームですか……?」
鏡原が不思議そうな顔をした。
「そうです。彼らにとって、これはゲームなのです」
「そんな馬鹿な……。あなたは、本気でそんなことを……?」
「わたしも中川さんに賛成」八田京子が割り入った。「南さんと、南さんの仲間が仕組んだゲームよ!」
「この女、まだ言ってやがる──」
南が悪態をついた。彼は本気で怒っているようだ。
●
南と八田京子の、ちょっとした小競り合いから八時間が過ぎた。依然、脱出の方法は見つかってない。
しかし、たった一つだけ発見があった。壁に小窓を見つけた。一個の鉄の箱の陰になっていたのだ。十五センチ四方くらいの大きさしかなく、残念ながら、そこからの脱出は不可能だった。中を覗くと、筒状に、ずっと奥まで続いていた。八田京子が、毒ガスが流されるかもしれないと騒ぎ出したので、箱で穴を塞ぐことにした。
依然、5番と6番の二人は意識を失っている。ひどく具合が悪そうだ。特に男の方がひどい。だが、どうしようもない。
二時間ほど前のこと、鏡原が部屋の中央に立って、
「出してくれ! 頼む、ここから出して下さい!」
カメラに向かって訴え始めた。十五分以上、延々と続けたが、全く効果がなかった。
──今は、中川以外の全員が眠っている。
中川は、考えを巡らせていた。
山に登ることは言ってあるので、遭難を心配して、既に山の捜索が行われているかもしれない。しかし、ここがあの山小屋の近くであったとしても、渓流からは、かなり離れている。林道に止めた車は発見されるだろうが、そこから先は期待出来ない。
幸い、麻薬に侵された兆候はまだない。
全員に水を飲むことを禁止しなかった。どの道、飲んでしまう。一滴も水がない状況で人が生きられるのは、せいぜい三日、それくらいなら黙っていた方がいい。
一番勝負は、自分と南だ。麻薬が効果を発揮するとともに、殺し合いが始まる恐れがある。多分、麻薬は興奮剤の一種だ。
何故、彼らはこんなことをするのか──? 何かの宗教儀式だろうか……?
運がよければ、一人はここから出られる。築みたいに。彼が供述を変えたのは、きっと、そう指示されたのだ。犯人から。
全員、死んだように眠っている。“不意討ちを禁ずる”の一文のお蔭だ。そうでなければ、南は眠れなかったろう。
真剣勝負の対戦相手と対戦順番が決められている。最初の二人が戦わないことには、何も始まらない。そうなると、自分達が望まなくても、鏡原と八田に、けしかけられる可能性が──
「うう……」
八田京子の呻き声だ。うなされているのだ。大きな傷あとがあるものの、美しい彼女の顔が苦痛で歪んでいた……。
●
6番の男が息絶えた。
そのとき、壁の時計は六時をさしていた。鏡原と南が鉄の箱から出てから、既に六十時間以上が過ぎていた。
「ほ、本当に、し、死んだのですか……?」
鏡原が聞いた。一番の年長者だが、誰よりも動揺していた。
「ええ」
死亡を確認した中川が答えた。
彼は、最初から具合が悪かった。一度も意識を取り戻すことなく、そのまま死んでしまった。幸い、5番の女性は最初より容態がよくなっている。男性の方も快方に向かえばいいがと、全員が願っていた矢先だった。
「上記の対戦相手と順番が守られないときは、部屋のドアは永遠に開かない。ただし、故意ではない事故による死亡については、その限りではない──つまり、5番は、戦わずして勝った」
南が紙片を読み上げた。
八田京子が呆然と壁の一点を見上げていた。
「どうしました──?」
彼女を心配した鏡原が声をかけた。
「あ、あれ……」
「あれ──?」
鏡原が彼女の視線をたどると、そこには六個のランプがあった。
その内の一つが消えていた。
「あ、あれは、いつ消えたのです──!」
鏡原が彼女に問うた。彼女は首を横に振って、
「分かりません……。今、気づきました……」
「三分くらい前は、ちゃんとついてました」
南が言った。
「そ、そうですか……。で、電球の寿命でしょうか……」
鏡原が、そんなことを言った。しかし、南は、
「違います。死亡の確認がされたのです」
「あ、あなたは、どう思われます──?」
鏡原は中川にも意見を求めた。
「残念ですが……」
中川は、そう言って目を逸らした。
「何てことだ……」
鏡原が低く呻いた。
そのとき、南が、
「この方のパンを全員で分けましょう」
ダンボール箱を指して言った。彼は、その言葉通り、二つ残っていた内の一つを、四分割して全員に配った。本当は五分割しなければいけないはずが、誰もそのことに気づけなかった。
●
「だから、戦う真似をするのです。そうやって、奴らの反応を見ます。本気で戦うのではなく、振りをするのです」南は小声で続けた。「それで、奴らの反応が分かるはずです」
彼は中川を相手に話していた。声を落としているのは、カメラの向こうにいるであろう彼らに聞かれないためだ。
「鏡原さんと八田さんは賛成してくれました」
彼の言う通り、既に根回しは済んでいた。周到さは、彼の意外な一面だった。
「一番勝負の僕達が戦って、奴らの真意を確かめるのです。奴らが冗談でしていることなら、すぐに止めに入るはずです」
「その可能性はない。君も分かってるはずだ」
中川が言った。
「そうかもしれませんが、でも、試す価値はあると思うのです」
南は食い下がった。
「試してみるだけなら、いいじゃありませんか」鏡原が割って入った。「それに、他に方法がないのですから……」
「冗談でしていることなら、人が死んだ時点で解放されたはずです」
「それは、おっしゃる通りですが、そこを何とか……この通りです──」
鏡原は、土下座までして見せた。
「やめて下さい。しかし、そこまで言われるのでしたら」中川は暫く考えてから、「──分かりました。他に方策もありませんし……」
「本当ですか? ──ありがとう! ありがとう! 本当に感謝します」
「では、勝負は一時間後にしましょう」
南がそう言って中川から離れた。
以下は南の提案である。
──一番勝負の中川と南が真剣勝負を始める。但し、本気で戦うのではなく、その振りをして見せる。中川が南を斬る。そのとき、南の冑に刀を当てる。真実味を出すためだ。慎重にこなせれば怪我はない。斬られた南は床に倒れる。そして、彼らがどう出るか反応を待つ。
こんな単純な計画で彼らを騙せるとは思えないが、中川は、その計画に従うことにした。但し、仮に成功したとしても、それは南が斬られたと思わせることに成功しただけで、ゲームは続けられるはずだ。時間稼ぎにもならない。全く無駄なことだと中川は悟っていた。
それより心配なのは、さっきから感じる体温の上昇だ。恐らく、麻薬が効き始めている。
このときになって、中川は水を飲んだことを激しく後悔したが、今更どうしようもない。それに、一滴の水も飲んでいなければ、きっと脱水症状を起こしていた。ペットボトルの水は、もうほとんどなかった。このままでは、水を巡っての殺し合いさえ起きそうだ。
近い将来、水と食料の不足は、世界戦争の原因になるであろうと言われている。ここは、その雛形のようだ。
きっと殺し合いは始まる。この部屋は小さな地球なのだ。
●
一番勝負は壁の時計で九時に始められる。
中川は刀を鞘から抜いてみた。価値は分からないが、ちゃんと研がれていた。刑事ということもあって、彼が真剣を持つのは初めてでなかった。それに、彼は剣道の有段者だ。
中川が剣道を習い始めたのは、二つ上の兄の影響だった。近くの道場に兄が通っているのを見てから、自分もしてみたくなった。小学一年生になったばかりのころだった。それから、兄と一緒に通うようになった。三年生のとき、兄は県大会でベスト4に入った。しかし、中学になって兄は早々と剣道をやめてしまった。だが、中川は、社会人になるまで剣道を続けた。現在は、四段を取得している。
一方、南の方は、剣道は中学のときに体育で習っただけだった。元々がスポーツマンでなく、大学での専攻は日本文学だった。最近ゼミに提出した課題のテーマは、『松本清張作品が二十一世紀の社会に与える影響について』というものだった。この堅苦しいテーマで、彼は教授から“優”の評価を得ることが出来た。その内容というのが、冒頭部分を書き出してみると、
「九十年代以降、社会は、多種多様な価値観の中に埋もれ、そして、喘ぎ始めた。人々が何かを始めようとしても、その規範となるものが失われ、道徳は個人の価値観に従属するものになってしまった。
そんな中、最近では六十年代が見直され始めている。当時は、人情と言われるものが、まだ残っており、良識というものが社会の根幹に存在していた。そのことは、清張作品の中にも認められる。つまり、清張作品では──」
以下、この課題では、清張作品の個々の分析が始まる。
昨年くらいから、彼自身も創作を始めていた。今、彼が手がけているのはSFだった。ウーという名のアンドロイドの青年が、人間の女性を愛する物語だ。ヒロインは、ウーのことを疎ましく思っている。彼女は、アンドロイドに感情があることを認めないのだ。もう少しで完成なのに、こんなことになってしまったことを、南は残念に思っていた。もしかしたら、作品は永遠に完成しないかもしれない。
創作の世界では、主人公は、どんな危機的状況からも生還を果たして、最後には必ず望むものを手に入れる。それに比べて自分はどうだ。南は我が身を振り返った。自身の提案で始めたことなのに、心の底からおののいている。中川が、ちゃんと冑を打ってくれるか不安だ。彼の手元が狂ったら、肩で真剣を受け止めることになる。
南の冑の中は汗だくになっていた。
●
鏡原の合図で二人の勝負が始められた。
中川は刀を上段に構えた。
刀は力のない者が扱うと、自身を傷つけることになる。例えば、達人なら生竹を寸断したりも出来るが、素人がこの真似をすると、竹ではなく、自分の脚を斬ってしまう。竹に刀を跳ね返され、勢い余した力で脚を傷つける。運悪く動脈を切断したりすると、失血死の恐れもある。素人が刀を扱うのは、思う以上に危険だ。
冑のせいで、南の表情が見えない。或いは、青く顔色が変わっているかもしれない。
と、
掛け声とともに、中川が刀を振り下ろした。
“ガチン”と冑に触れる音。振り抜かれた刃先が、南の膝の下辺りで止まった。
見事な腕前。南は無傷だ。
が、
そのとき、
「よけて!」
八田京子の声が鳴り響いた。
次の瞬間、南が中川に斬りかかった──。
だが、床に倒れたのは南の方だった。刀を放り出して床の上を転がった。
「うあぁぁぁ! 手が、手が斬られた──」
大袈裟な声を上げた。しかし、右手から血は出てなかった。
「峰打ちだ」
「い、一体、どうしました──?」
鏡原が目を白黒させた。
「殺されかけた」鏡原にそう答えると、中川は、倒れている南の襟首を掴んで、「最初から、そのつもりだったか?」
「ち、違う。ぼ、僕、どうしちゃったんだろ……あは、はは」
「どうして?」八田京子が言った。「この人、笑ってるわ」
「私には訳が分かりません。説明して下さい」
鏡原は、一瞬のことで見逃していた。
「こいつ、中川さんを殺そうとしたの! 体格から、まともに戦っても勝ち目がないと思って、姑息な作戦を立てたのよ!」
八田京子が、吐き捨てるように言った。
「言いましたね。はは。こいつ呼ばわりですか……」
「殺しちゃえば?」八田京子が続けた。「中川さん。こいつ、殺しちゃえば?」
「あ、あなた、何てことを……」
鏡原が、化け物を見るような目で彼女を見た。
「だって、勝負して勝ったのよ」
「綺麗な顔をして、あんた言うねぇ。へへへ」
南が嘲った。中川は、掴んでいた南の襟首を放した。それから、「お前は最低だ」そう言って、床の鞘を拾って刀を鞘の中に納めた。その背後に向けて、
「勝負を続けないか?」
南が声をかけた。
「馬鹿が何か言ってる」
八田京子の声には、心からの軽蔑がこもっていた。
●
佳奈子は今ごろ、どうしてるだろう……。
と、言っても、今が朝なのか、それとも夜なのか分からない。壁の時計は七時だった。
閉じこめられてから、少なくとも丸四日が過ぎた。もう、水がない。このままでは本当に死んでしまう。
心配性の佳奈子、ちゃんと眠れてるだろうか……。
そうだ。あれは結婚式のことだ。佳奈子の友人が、スピーチでこんなことを話した。
「佳奈子ちゃんは綺麗だから、男の方からも人気がありましたが、なかなか誰ともお付き合いしないのです。ですから私達は、そんな彼女が、どんな男性を選ばれるのか、色々と予想──いえ。想像していたのですが、今日、中川さんを拝見して、ああ。なるほど。佳奈子は、こんな素敵な男性を待っていたんだなと、私は納得することが──」
冗談めかしていたが、佳奈子が異性に慎重だったのは、本当のことだったと思う。
そのときだった。
「あのう。少し、いいでしょうか?」
中川の傍に鏡原が寄って来た。彼は、さっきまで八田京子と話していた。
「──どうしました?」
「提案があるのですが、」
「ええ?」
「もう一度、彼と勝負してみませんか?」
鏡原は、そう言って南の方を見た。
「もう一度?」
「そうです。このままでは、我々は本当に死んでしまいます。でも、勝負をすれば、一人は生き残れる」
真顔で話した。中川は、何も答えることが出来なかった。
「どうか聞いて下さい。八田さんとも話しましたが、6番の方が亡くなってからでも、かなりの時間が経ちます。残念ながら、これを企んだ人間は本気です。我々が死んでも構わないのです。だから、戦って一人でも生き残って、ここから出るのです。どうです──?」
「残念ですが、」と、中川は続けた。「仮に私達が戦ったとして、次はあなたと八田さんです。──あなた達は戦うことが出来るのですか?」
「戦えます。いえ。戦います。八田さんとも戦うことを約束しました」
その八田京子は、壁にもたれて座って静かに天井を見ていた。
「だから、お願いします」
鏡原が、又も頭を下げた。
「もう返事はしました。あきらめて下さい」
中川は答えた。
が、
「中川さん。もしも、もしもですよ。負けるのが怖いのなら、あなたはもう、南さんに勝っています。だから、彼の隙を突いて殺しても、問題ないのではありませんか?」
「は?」
「あのとき、とどめを刺しておけば、あなたの勝利でした。だから、あなたは既に勝利しているのです。ですから、いつあなたが彼を殺しても問題ないと思うのです」
この非情さは、麻薬の影響だろうか……? 中川は寒気を覚えた。しかし、そういえば、八田京子も同じことを話していた。
「彼を殺すのです。ね、中川さん。私はゴッホを見たいのです」鏡原は続けた。「若いころ絵を描くのが好きで、私は美大に行きたかった。でも、経済的にそれは不可能でした……。もうじき、私は定年退職です。そうなれば、好きな絵を描いて、世界中のゴッホを見て回りたい。私は、まだ大原美術館のゴッホしか見てないのです。ね。お願いです。どうか私にゴッホを見させて下さい……」
彼は泣いていた。
●
ちょっと眠ってしまった。目がしばしばするが、冑があるので手で擦れない。
しかし……。
確かに自分は最低だ。でも、最初からの計画じゃない。それだけは本当だ。
刀が冑を叩いたとき、本当に怖かった。でも、彼の動きが止まったとき、今なら殺せると思った。同時に体が動いてしまった。つまり、出来心だ。
なのに、あの女、あの女、小説のモデルにして殺してやる。徹底的に痛めつけてやる。
目脂があるのか、瞼を開けにくい。おまけに冑のせいで視界が狭い。
しかし、これからどうなる……。このまま死ぬのか?
ん? 誰かが目の前にいる──?
●
為す術もなく時間が過ぎて行く。
中川と鏡原は時計の下辺りにいた。八田京子と5番の女性は、中川から見て右手の壁際にいた。南一人だけ、左手の方に離れていた。
6番の遺体は箱に戻された。注意事項によれば、死体は箱に戻し、白いボタンを押して蓋を閉じなければならない。
全員、壁にもたれて座るか、床に寝る以外に、他にすることはなかった。
鏡原は静かに眠っていた。南も寝ているようだ。八田京子が5番の女性に水を与えていた。気を失っているのが幸いしてか、彼女の水だけ僅かながら残っていた。
中川は、壁にもたれて座っていた。睡眠も座って取った。そうやって、自身の身の安全を守っていた。
鏡原の、あの非情な提案を聞かされてから半日が過ぎた。
中川は、鏡原の話を思い返した。
以前、日本人がゴッホの大作を購入して、色々と話題になったことがあった。自分が亡くなったとき、絵と一緒に燃やして欲しいと言ったとか、確かそんな話だった。
喉が渇いて、からからだ……。
キングのホラーに、無人島に漂着した男の話があった。無人島には食料になるものがなかった。彼は、自身の手足を切り取って食べた。──日本刀がある。自分の肉を食べようと思えば食べられる。しかし、まさか、そんな真似は出来ない……。
中川は、又、馬鹿なことを考えていると、深くため息をついた。
まだ、頭は正常らしい。だが、それは自分で判断しているだけのことで、本当は既におかしくなっているのかもしれない。
八田京子が壁の時計を見た。そのとき、彼女の表情が凍りついた。
不思議に思った中川が、背面の壁を見上げた。だが、変わったものは何も見えなかった。
「どうしました──?」
中川が声を出さずに口の動きだけで言葉を伝えた。すると、彼女が無言で時計を指差した。中川は時計を見た。角度的に文字盤まで見えないが、今度も変わったものはなかった。
「ランプ」
彼女が言った。
「ランプ?」
今度はランプを見た。
「これは──」
中川が上擦った声を出した。ランプの二つ目が消えていた──。
彼は床から立ち上がると、八田京子の方に移動した。きっと、冑の女性が亡くなったのだ。
中川は彼女の傍に座り、手を取って脈を確かめようとした。
が、
「生きている……。どういうことだ──?」
中川の疑問に、八田京子は首を横に振るだけだった。
「わたしは、時計を見ようとしてただけ」そう言った。それから、「誰が死んだの?」
「分からない」
5─3=2 亡くなったのは、鏡原か南だ。中川は、鏡原の様子を確かめに戻った。彼は精神的にも参っていた。五人の中では一番高齢だし、そのせいで体が持たなかったのかもしれない。
中川は、彼の手首に手を当てた。──脈は力強く打たれていた。
「死んでいる?」
後ろから八田京子が覗いた。
「いや」
中川は再び立ち上がると、今度は南の方に向かった。その後に八田京子が続いた。
南は仰向けに眠っているように見えた。鉄の箱に囲まれた場所で、隠れるように身を横たえていた。
中川は腰を下ろすと、彼の手を取って脈を診ようとした。しかし、彼の死は脈を確かめるまでもなく、その手に触れただけで確認することが出来た。死んでから、かなりの時間が経っていた。
「どう?」
八田京子が尋ねた。中川は首を横に振って、
「駄目だ」
「嘘」
「本当だ……」
中川は、南の手を床に戻した。それから、死因を特定するために彼の体を調べ始めた。
「何をするの?」
南の上着を捲り始めた中川を見て八田京子が聞いた。
「死因を調べる。見たところ体に異常はないが、服に隠れているかもしれない」
「持病でもあったのかしら?」
「そうかもしれない」
ズボンもずらして見てみたが、どこにも異常は見られなかった。
「もう済んだ?」
ズボンを脱がしたところで後ろを向いた八田京子が尋ねた。
「ああ」
彼女は振り返って、
「それで、何か分かったの?」
中川は首を横に振った。
「何もない。多分、衰弱死だ」
「どうするの?」
「まずは鏡原さんを起こす」
「でも」
「でも?」
中川は首を傾げた。
「これでやっと一番勝負が終わった」
彼女はそう言った。
●
「ああ。本当だ……」南の死亡を確認した鏡原は声を震わせた。「まだ若いのに、どうして……」
「中川さんは衰弱死だと」
八田京子が言った。
「衰弱……。そうですか……」
「大丈夫ですか?」
中川が鏡原を気遣った。一時は殺せと言っていたが、いざ死ぬとうろたえてしまう。
「大丈夫です……。それで、遺体はどうします……?」
「同じです。箱に戻します。手伝って頂けますか?」
「勿論ですよ……」
前回と同じく、中川が上半身を、鏡原が下半身を受け持った。
「軽いですね……」
鏡原が言った。思った以上に南は痩せていた。二人は、一旦、遺体を箱の傍に置いた。
「これですね?」
中川が鏡原に聞いた。注意事項にはないが、遺体は本人が入っていた箱に戻すことにした。全員の箱を知っているのは、今は鏡原一人だけだった。
「間違いありません」
「では、中に入れましょう」
二人は腰を屈めて再び南の遺体を持ち上げた。そのとき、南の頭が右に傾いて、冑と首の隙間から、粘り気のある血が流れ出して、床の上に小さな血溜まりを作った。
「な、何ですか!」
鏡原が顔色を変えた。
「一度、下ろして下さい」
「わ、分かりました」
迂闊だった。体は調べたが、頭を調べなかった。やはり、どこか箍が外れている。中川は、そう思いながら、冑の目の穴から中を覗いた。
「どう?」
八田京子が聞いた。
「目が」
「目が?」
「潰されている。刀で突かれたんだ。恐らく、傷は脳まで達している」
「な、何ですって? い、一体、どういう──」
鏡原が顔色を変えた。
「それは、こっちが聞きたい」
中川が二人を見て言った。
「ひょっとして、わたし達を疑ってるの……」
「ま、まさか……。わ、私はやってない」
「お二人は、彼の死を望んでおられた」
「でも、中川さんにも殺す理由があるわ」八田京子が言った。「だって、一人でも生き残るためには、みんな南さんが邪魔だったもの」
彼女の言い分は正しかった。中川も例外でない。彼にも動機があった。
自白のない限り、犯人の特定は難しかった。
●
二人の勝負を中川は止めることが出来なかった。
鏡原と八田京子は、真剣を構えて向き合っていた。
鏡原は、娘くらいの年齢の八田京子を、本当に殺すことが出来るのか──? そして、彼女の方も──。
南の遺体を箱に戻した後、使われた日本刀の特定が出来た。拭われていたが、刃先に血の痕が残っていた。刃先はダンボール箱の底の部分で拭われていた。誰の仕業か分からないが、かなり機転の利いた犯行だった。或いは、鏡原と八田京子の共謀かもしれない。
中川は、自分が刑事であることを告白しようとも思ったが、しかし、それをしても事態の改善は望めないことに気がついた。知っていることの全てを話し、生き残れた人間が本当にいることを教えれば、逆に勝負を煽る結果になってしまう。
中川は築のことを考えた。あのとき、全く馬鹿らしい話だと思っていた。薬のせいで幻覚を見たのだろうとしか思わなかった。そこまで考えたとき、彼は、あることに思い至った。
築を発見して病院に運んだ森田一は、彼らの仲間だったのではなかろうか──? だから姿を消した。築の供述は正しかったのだから、森田の言ったことは怪しくなる。
何てことだ……。中川は、今更ながら彼らの周到さに驚いた。
──鏡原と八田京子は、なかなか動かなかった。刀を中段に構えたまま、互いの様子を窺っていた。
ひょっとして、恐怖で足が竦んだか。それなら、勝負を放棄したらいい。
けれど、中川のこの淡い期待は、儚く裏切られた。
鏡原が刀を振り下ろした。八田京子がそれを避けた。その避け方が見事だった。素人の動きではなかった。そういえば、剣先の微かな動きで、彼女は南の不意打ちを見破った。
一体、何者だ──?
そう考えると、彼女の構えに見覚えがあった。
思い出した。彼女の名前は、富田圭子。オリンピック級の剣の達人で、自分とは比較にならないほど強い。今まで気づけなかったのは、顔の傷のせいかもしれない。
そうか、彼女が……。
まともに戦って鏡原に勝てる相手ではなかった。これを企んだ人間が、どうして彼女のような一流の剣士を選んだのか──? それとも偶然か。しかし、四人の中に剣士が二人もいる。
彼女のことを、何かで読んだことがあった。剣の修行をして世界中を旅している。そんな内容だった。インドでは重篤の人の死を見届けたり、そんな過酷な精神修行をしていたらしい。
鏡原が不憫だった。既に勝敗は決まっていた。だが、この事実を彼に話しても、勝負は止められないだろう。一番に、彼女が真実を明かすとは思えない。偽名まで使っている。
ひょっとして、彼女は彼らの仲間か……? でなければ、どうして偽名を使う必要があるだろう。
再び鏡原が打ちこんだが、今度も簡単にあしらわれた。腕に格段の差のあることに、彼は少しも気づいてなかった。
全く、彼の命は富田圭子の手に握られていた。
鏡原の三度目の攻撃を、彼女は刀でがっちりと受け止めた。激しい鍔迫り合いが始まった。一見、競合しているように見える。実際は、彼女が刀を通して鏡原を操っていた。糸でなく、刀で操られた人形だ。
富田圭子の人形は、対戦相手を壁に押しつける役目を与えられた。
人形は勝負に勝ったと思ったことだろう。
「本当に申し訳ありません」
鏡原が彼女に言った。
「どうしてです?」
彼女が答えた。
「はぐ」
鏡原が妙な声を出した。そのときはもう、彼の体に刃が突き刺さっていた。
「ごめんなさい。でも、もう聞こえないかしら……」
彼女は鏡原の体を抱いて、床の上に横たえた。それから壁のランプを見た。三つ目のランプが消えるのを確認してから、
「死んだわ。知らないことは幸せなことなの。そうよね」
そう言った。
鏡原の下腹から血が流れ始めた。
暫くして、富田圭子が一人で彼の体を抱え上げた。中川からの手伝いの申し出を彼女は拒否した。遺体を箱に戻すとき、彼女は、
「前は、これで失敗したの。靴を脱いだのがいけなかった」
「何のことです?」
「いいえ。何でも」
彼女はそう言って箱の蓋を閉めた。それから白いボタンを押した。
壁の時計は九時二十一分。ここに閉じこめられてから六日目に入っていた。既に三人が死亡し、5番の女性はまだ気を失っている。
「わたし達の勝負は十一時でいい?」
富田圭子が言った。中川はうなずいて、
「その前に教えて下さい。富田圭子さん」
彼女を本名で呼んだ。
すると彼女は微笑んだ。そして全く動ぜずに、
「何でしょうか?」
そう言った。
●
生存者が三人。そして、光を失った三つのランプ。
富田圭子は床で横になっていた。
壁の時計は刻々と十一時に近づいている。
中川は、意を決して彼女に近づくと、
「話したいことがあります」
小声で言った。
「何?」
彼女は振り返らなかった。壁の方を向いたまま答えた。
「起きてもらえませんか?」
「どうして?」
「彼らに聞かせたくない。近くで話したい」
「……」
返事がなかった。
「じゃあ、こうさせてもらう」
中川は、彼女と並んで横になった。
鏡原との勝負の直後、中川は彼女に偽名の理由を尋ねた。そのとき、彼女は次のように話した。
「こんなだから、顔で悟られる心配はないと思ったけど、名前で分かってしまうと思って。こんな状況の中で、自分が剣士だなんて分かったら、どんなふうに思われるか怖くなって。それで偽名を使ったの」
筋が通っていた。中川は彼女の言葉を信じることにした。
中川は彼女に向かって話し始めた。
「聞いて欲しい。私も嘘を言っていた。実は、××署の刑事なんだ」
「刑事!」
彼女の体がピクリと動いた。
「声を小さく」中川は彼女を制した。それから、「ここから出たら警察に行って欲しい。勿論、あなたに殺人罪は適用されない。但し、その前に、あなたは彼らに拘束されるはずです」
「どうして?」
「ここでの出来事を口外しないことを誓わされます。恐らく、拒否すれば殺されるでしょう。ひょっとしたら、そのために何か与えられるかもしれません」
「何か?」
「多分、現金でしょうね」
きっと築もだ。だから何も話そうとしなかった。中川はそう考えた。
「お金?」初めて彼女が中川の方に目をやった。
「勿論、乗っては駄目です」中川は警告した。「一生、彼らに監視されますよ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「ここを出て彼らに拘束されたら、彼らの言うことに従ってください」
「それでいいの?」
「いいえ」中川は続けた。「従う振りをするのです。お金も受け取っていいでしょう。ですが、ひと月ほど待って警察に行って下さい」
「ひと月? どうして?」
「あなたには見張りがつけられるでしょう。しかし、ひと月もすれば彼らにも油断が出る」
「いいわ。それで?」
「携帯を使って、××署の三尾刑事を呼び出して下さい」
「みお刑事ですか?」
「そうです。漢数字の三と尾っぽの尾で三尾です。彼が出たら、『行方不明の中川刑事について話があります』そう言って下さい」
「行方不明の中川刑事について話があります。──これでいいの?」
「ええ。忘れないで下さい」
「でも、その三尾刑事さんは、わたしを信用するかしら? わたしは、あなたが刑事さんだと信用するけど」
「そうですね。でも、絶対、話を聞きます。それから、会う場所は、松尾ハイツを指定して下さい。住所は、××町三丁目の一。二十二号室です」
「松尾ハイツ。××町三丁目の一。二十二号室」
彼女が復唱した。
「非公式に警察で借りている部屋です。予備の鍵を表に置いてある洗濯機の下に隠してあります。勝手に取って開けて下さい。部屋には、ちゃんと電気も水道も家具もあります。普通に友達の家でも訪ねるように気軽に入って下さい。申し訳ないですが、呼び出す刑事の名前、ハイツの名前と住所を、もう一度、おっしゃって頂けますか?」
「三尾刑事。松尾ハイツ。住所は、××町三丁目の一。二十二号室。合ってますか?」
「完璧です。多分、もうそろそろ時間ですね」
中川が壁の時計を見上げた。
「中川さん」
「何でしょう?」
「手加減はしませんよ」
「それで結構です。私もそうしますから。ですが、最後にあなたのような方と戦えるとは、私も剣道をやっていますからね」
●
人知れず死ぬことは、辛く悲しいことに違いない。
富田圭子の姿を正眼で捉えながら、中川はそんなことを考えていた。
死期を悟った象とは違う。そんな孤独に耐えられる人などない。それが出来るのは、他に目的がある場合だけだ。
自分の未来を彼女に託すつもりだ。どの道、自分は殺される。彼女には、自分がここで死んだことを、外にいる家族に伝えて欲しい。だから、彼女に怪我などさせられない。
気の毒なのは5番の女性だ。しかし、何も知らぬ間に死ねるのだから、絶望や恐怖を感じることはない。それが、せめてもの救いだ。
名前さえ分からぬ女性。富田圭子が警察に駆けこんでも、彼女の身元は判明しないだろう。
茶髪で派手なつけ爪。胸元には刺青がある。富田圭子によると、臍ピアスもしているそうだ。きっと、まだ若いのだ。家族も心配していることだろう。せめて名前だけでも分かるといいのだが……。
「どうしたの? 何を考えているの?」富田圭子が言った。「ひょっとして怖くなった?」
「心配無用」
中川は答えた。
「そう」
同時に、中川は目の前を横切る白刃を見た。それが何を意味するのか分からないまま、彼は、
「ああ。これで死ぬんだな」
そう思った。
・
・
・
・
・
「わ、私は生きているのか……」
鈍い痛みの中で、中川は意識を取り戻した。
「そうね。峰打ちだから。だけど、左の鎖骨が折れたかも」
彼女が言った。
「どうして……どうして殺さなかった……?」
「それを知りたい──? じゃあ、見てれば分かるわ。だけど、知らない方が幸せかも」
そう言うと、刀を持って立ち上がり、彼女は部屋の中央まで進んだ。
「何をするつもりだ……?」
すると、彼女は天井のカメラに向かって、
「見てなさい! わたしはもう降りる! あんた達は死ぬまで馬鹿をやっていればいい!」
そう言うと、自分の首に刃を当てて引いた。
「何をする!」
完全に意表を突かれた中川が、彼女に駆け寄ろうとした。が、傷ついた鎖骨のせいで、立ち上がれずに床の上に倒れこんだ。したたかに横腹と額を打った。それでも這うようにして、中川は彼女の傍に向かった。
「大丈夫か──」
床は血まみれになっていた。大きく開いた傷口から、大量の血が噴き出していた。動脈を切っていた。
「どうして、こんな真似を……」
中川の言葉に彼女は薄く笑った。
「……馬、鹿には……つ、付き合って……ら、んな、い……。わ、わた、し、は……ま……ま、前の、ゲーム……ゲ、ゲーム、にも……さ、参加……さ……せら、れ……」
「前のゲーム?」
「き……築、さ、んと、いっ、しょ……に……」
「築を知ってるのか!」
中川の質問に彼女はうなずいた。
「い、一度、死、んで……そ、蘇生、を……」
言いながら、彼女は下着の中から一枚のカードを取り出した。その間にも出血は止まらず、彼女を抱え起こした中川の上着もズボンも真っ赤だ。
「それは?」
「か……ぎ……」
「鍵?」
「知……ら、な、い……方、が……」
「知らない方が?」
「し、しあ、わ……せ……」
彼女の目が閉じられた。
「おい! しっかりしろ! 死ぬな! おい! 死ぬな!」
彼女の目が再び開けられることはなかった。
「鍵……」
中川がそうつぶやいたとき、壁にある四つ目のランプが消えた。
●
中川は、富田圭子の傍から暫く離れることが出来なかった。
彼女は彼らの手先だった。しかし、遂に耐え切れなくなって壮絶に死んで行った。
南を殺したのも彼女だったか──? ゲームの進行係として、彼らの指令でやったのか──?
中川は、その死顔を見た。そんなに苦しそうな顔でなかった。命を絶つことによって、やっと彼女は彼らから解放された。彼らのことを彼女は馬鹿と言っていた。間違いなく、彼らには他人の命など虫けら以下だ。少しでもまともなら、こんなことを出来るはずがない。馬鹿と言うだけの価値もない人間だ。彼らこそ虫けらだ。虫けら以下だ。
中川は、彼女から渡されたカードを見た。ついている血を、上着の血のついてない部分で拭った。
何も書かれてない、緑色をしたカードだった。大きさは名刺より少し小さい。素材はプラスチックに見える。
「何の鍵だ……?」
中川は一人ごちた。出口の鍵を渡されたのか? しかし、散々探したのに、出口などどこにもなかった。それに、カードの挿しこみ口も見当たらない。鉄の箱の白いボタンも関係なさそうだ。ひょっとして、壁の時計に挿しこみ口があるのかと思い、中川は鉄の箱を重ねて確かめようとしたが、一人では重ねることが出来なかった。が、箱を重ねるのをあきらめたとき、中川にある考えが浮かんだ。
中川は、5番の女性の冑に触れた。冑は前後で顔を挟みこむようになっている。合わさるところに二センチほどの出っ張りがあり、それが鍵になっているらしい。
中川は、その出っ張りの部分にカードを近づけてみた。すると、“カチッ”と音がして冑が二つに割れた。見事に正解だ。中川は、彼女の顔から冑を取り去った。
「何てことだ……」
中川は彼女を抱きしめて、
「佳奈子──」
呻くように言った。そのとき、富田圭子の最期の言葉の意味を、彼はやっと理解することが出来た。
──知らない方が幸せ。彼女はそう言った。つけ爪も胸の刺青も茶髪も、全てカムフラージュだった。
今、中川は思う。彼らは虫けらじゃない。
悪魔だ。
●
服の切れ端を口に含んでから、中川は冑を装着した。
そして、待った。
●
意識を取り戻したとき、中川佳奈子の視界に最初に入ったのは、目の前の大きな箱だった。それは鉄で出来ていた。触れると冷たかった。
自分が、どこにいるのか分からなかった。
服が変わっていることに気がついて驚いた。材質は綿だった。薄い緑色をしていた。しかし、それ以上に驚いたのは、両手のつけ爪と胸の刺青と茶髪だ。
嫌な臭いがしていた。何か動物的な臭いだった。這うようにして移動すると、大まかな部屋の様子を知ることが出来た。
周りが鉄で溶接されていた。右の壁に大きな時計があった。その下に赤いランプがあった。そして、床に赤い痕を見つけた。血みたいだった。嫌な臭いの元のように思えた。どこか分からないが、尋常な場所じゃない。彼女は一層、体を身構えた。
そのとき、背後に何かの気配を感じた。だが、後ろを振り返るのが怖かった。それは怪物かもしれなかった。虎やライオンの類かもしれない。それでも、勇気を振り絞って彼女は後ろを振り返った。
異様な姿の人間が、そこに座っていた。頭に何かをつけていた。映画などで見る西洋の冑みたいだ。大柄の男。服が赤く染まっていた。
彼が立ち上がった。そして彼女に近づいた。恐怖で動けなくなった彼女に、彼は一枚の紙片を差し出した。
「な、何です……?」
彼女は震える声で尋ねた。彼は、自分の口を指差して首を横に振った。口が利けないのかもしれない。
自分に危害を加えるつもりはないらしい。彼女はそう思った。でも、赤く汚れているのは間違いなく血だった。
彼女は、紙片を読むことにした。
そこには驚くべき内容が記されていた。どうにも信じられないことだ。それでも彼女は事実の確認を始めた。
最初の四行は置いておくことにして、箇条書きされた注意事項には、
“四番以降の対戦相手と順番は、任意とする。勝負は、最後の一人になるまで続けられる。”に続き、“天井のサーモグラフィーにより、死亡が認められたときは、壁のランプがそれを知らせる。”と書かれていた。
──壁のランプ。彼女は壁を仰ぎ見た。多分、あれのことだ。六つある内の二つが赤く光っている。しかし、死亡とはどうしたことか。そして、その次には、“随時、死体は箱に戻さなければならない。死体を箱に戻したら、白いボタンを押して蓋を閉じる。”とある。
この箱の中には、本当に死体が入っているのか──? 彼女は信じることが出来なかった。
そのとき、彼女の死角になる箱の陰から、さっきの男が女性の体を抱え上げた。
それは、明らかに死体だった。首のところが大きく割れていた。傷口は、彼女の口よりも大きかった。臭っていたのは、まさしく血だった。
彼は死体を抱えたまま、近くにある箱の前まで移動した。それから、死体を箱の中に入れた。紙片にあるように、白いボタンを押して蓋を閉じた。
彼女は悟った。箱の中には本当に死体がある。
それでも、彼女は彼のことが怖くなかった。彼は、生き残るために仕方なく戦った。彼の背番号は1。彼女は自分の背番号を確かめた。5。
一連の作業の後、彼は床から刀を取った。そして、もう一人の生存者に近づいた。
「あわかっれ」
刀を差し出して、彼はそう言った。ひどくくぐもった声で、何を言ったのか彼女には聞き取れなかった。
「あわかっれ?」
彼女が聞き返すと、
「たらかっれ」
今度はそう聞こえた。
「戦って──?」
彼女がそう言うと、彼はうなずいた。“勝負は常に一対一として、不意討ちを禁ずる。”と、最後に書かれているから、勝負には合意が必要だ。そして、“全ての勝負の後、生存者が一人と確認された場合のみ、部屋のドアが二十秒間だけ開かれる。”らしい。
しかし、部屋のどこにもドアが見当たらない。
「ドアはどこにあるの?」
佳奈子の質問に、彼は首を横に振って答えた。それから、彼女の足元に刀を置いた。
●
中川は、三メートルほど離れた場所から妻のことを見守っていた。
頭のいい女性だ。部屋の様子と紙片の内容を見比べて、必ず自分の置かれた状況を把握してくれる。中川はそう信じた。
富田圭子の死から十六時間後、彼女はやっと意識を取り戻した。
これが全部、夢ならよかった。ここが我が家で、天気のいい、明るい光の当たるリビングならよかった。だが、実際は、血の臭いのする閉鎖空間だ。
自分は殺されなければならない。それが佳奈子の命を助ける唯一の手段だ。
佳奈子は自分と同じ剣道の有段者だった。佳奈子とは、剣道を通して知り合った。その最後の勝負で自分は本当に死ぬのだ。
佳奈子が意識を取り戻してから一時間が過ぎようとしている。そろそろ時間だ。中川はそう思い、刀を持って立ち上がった。
その瞬間、彼女が中川の方を見た。
男が近づくのを知り、彼女は刀を手に取った。それから、ふらつく足で立ち上がった。彼の刀が抜かれると同時に、彼女も刀の鞘を払った。
二人は部屋の中央に進んだ。
彼女は刀を構えた。同時に中川も刀を構えたが、それは本来の彼の構えとは違っていた。
「名前は? あなたの名前は?」
彼女は、自分が殺すかもしれぬ人の名を知っておきたかった。しかし、返事は戻らなかった。
勝敗を一瞬で決めたいと中川は思っていた。苦しんで死にたくなかった。中川は、防御を外して彼女を攻めた。
なのに、彼女は中川の剣を払うだけで、打ち返してこなかった。
まだ、ためらいがあった。
それでも中川は同じような攻撃を続けた。巧みに負けを装って、左手首の動脈を切られることに成功した。
中川の左手首は、ほぼ皮一枚で繋がっていた。派手に血が噴き出た。中川は、右手一つに刀を構え、更に彼女に攻撃を加えた。
大量の出血で、中川の意識は朦朧とした。
中川は、冑の細い隙間から妻の姿を見ることが出来た。
──知らない方が幸せ。富田圭子はそう言った。しかし、自分は知ることが出来て本当によかった。中川は、最期の瞬間にそう思った。
●
一家は、きのこ採りに山に来ていた。一家はこの時期になると、毎年のようにこの山を訪れていた。しかし、ここで発見された死体のことは知らなかった。知っていたら恐らく来なかったはずだ。
五人家族だった。夫婦と、息子が二人に娘が一人。上の二人が男だ。長男は六年生。一番下の女の子は、まだ幼稚園にも行ってない。
朝の八時から来ていた。昼には弁当を広げて昼食をとった。ここは景色がいいので家族のお気に入りの場所になっていた。近くには渓流もあるし、夏には水遊びも出来た。魚も釣れそうだ。一つ来年くらいには、道具を揃えて釣りでもしてみようかと、父親は考えていた。道具は借りてもいいが、でも、壊したらいけないな、そんなことも考えた。
ちょうど、昼食を終えたときだった。いきなり、おかしな女性が現れた。子供達が怯えた。彼女の服は、血で真っ赤に染まっていた。
「ど、どうした──! 怪我をしたのか!」
父親が声を上げた。
「助けて──!」
その女性が言った。父親は、妻と子供に車に戻るように命じた。車は、二百メートルほど離れた林道に止めてある。母子は父親の言葉に従った。
「どこを怪我した?」
父親が聞くと、
「これは、わたしの血ではありません。警察に、××署にお願い、連れて行って! そこに主人がいます」
彼女の言う通り、血は乾いていた。だが、どちらにしろ、これは事件だ。父親は彼女を車に乗せることにした。
警察署までは一時間以上かかる。家族と血だらけの女性を乗せて、父親は車を出発させた。母子は恐れおののいていたが、助手席に座らされた佳奈子は、自分をこんな目に遭わせた奴らは、絶対に夫が捕まえてくれると、そのときはまだ心より信じていた。
了 |