褐色の彗星
夜の草原は、冷たい空気に満ちていた。移動の間に日が暮れ、夜が訪れたからだ。
青臭い草の香りは冷やされ、日中よりも強く嗅覚に触る。
ゼノくんとフェルノートさんに声をかけ、三人でやってきたのは馬車から少し離れたところ。
クズハちゃんの言葉通りなら、もう少しでやってくるらしいのだけど……。
「僕には獣の匂いは感じられませんけど……クズハちゃん、ほんとにこっちなんですか?」
「他の生き物ならともかく、獣は嗅ぎ慣れていますもの。草の匂いにうまく隠れているようですけれど、間違いありませんわ」
なるほど。クズハちゃんがそういうなら、間違いはないか。
僕と出会うずっと前からよく狩りをして生活をしていたようだし、その嗅覚は信用していいはずだ。
「んー……」
会話をしている横で、思案顔で辺りを見回しているのはリシェルさんだ。
警戒の証として耳を立てるクズハちゃんとは対照的に、ぴこぴこと長耳を揺らす姿はどこか楽しげにも見える。
「狼系の魔物ですね。魔大陸、特にわたくしの領地ではあまり見かけませんが、狡猾な狩りをする種です」
「リシェルさん、分かるんですか?」
「ええ、もう見えておりますゆえ。残念ながら、彼らはあまり美味しいとは言えないのですが……」
心底残念そうにリシェルさんは溜め息を吐く。食べる気満々だったらしい。
溜め息を吐いた理由の残念さはともかく、淡い金髪が夜風に揺れて月光を反射する様子は褐色の肌によく映えて、美しかった。なにも知らなければ、ひどく幻想的な光景と言える。
「では、リシェリオール・アルク・ヴァレリア。ヴァレリア家当主として、力をお見せ致します」
すう、と紫色の瞳が細められるのは、笑みではなく集中したからだろう。
細い指が空中をすくうようにして動き、やがて天上へと突き出される。広げた五指は空中を掴もうとするようで、どこか幻想的だ。
魔力に長けた種族なので、やはり魔法を使うのだろう。そう思っていた予想は、一息で裏切られた。
「流れ落ちませ、天の華。『落華流彗』」
言葉が紡がれた瞬間に、それが来た。
空から降ってきたのは、流れる水のようにも、流星の軌跡のようにも見えるフォルムをした弓。
リシェルさんの身長ほどもある大弓は、月光を反射して蒼の色に輝いている。そっと指を乗せれば、弦は月下で咲く花のごとくするりと張った。
クズハちゃんが目を見開いて、それがなんなのかを口にする。
「魔具ですの……!?」
「この子は呼び掛けなくては来られないので、拘束中は使えなかったのですが……もう、その制約は消えました。それではアルジェ様、クズハ様。拙い技でありますゆえ、どうかご笑覧を」
薄く微笑んで、リシェルさんは草原を見た。弓がほんの少し傾くのは、狙いをつけているからか。
リシェルさんに『落華流彗』と呼ばれた大弓には、肝心の矢がつがえられていない。けれど、魔具は特別な武具だ。持ち主の魔力を糧にして、通常ではありえない現象を起こす。
「願いませ」
謳うような言葉が紡がれ、やはり、魔具特有の現象が起きた。
弓弦が夜空の星のように輝き、指先に収束していく。金色の光が、蒼い弓を照らし出す。
少し離れていても感じられるほど、魔力が肌に触る。現れた金の矢が、間違いなくリシェルさんの魔力によって生み出されたものだという証拠だ。
「魔力がある限り、矢が不要な弓ということですか」
「基本的な権能はそうです。そして今は、それで十分でございましょう……ふっ!」
解放された弦が、魔力の矢を弾き出す。
夜の空気を切り裂いて、流星のように光が駆け抜けた。
風切り音と、草が散る音。そして、獣の悲鳴が夜に響く。
「当たりましたわ……!」
クズハちゃんの言葉が通るのと同時に、僕もそれを理解していた。夜風が血の匂いを運んできたからだ。
「食べられるものでもありませんゆえ、すべてを射殺す必要はありませんでしょう。狼は賢きもの。あと数射で、自ら退くことを選ぶはずです」
凛とした声を響かせながら、リシェルさんは一度弓を降ろし、深く一呼吸。弓道でいうところの、残心に似た動きだ。
「続けて、願いませ」
再び夜に声が響き、星が現れた。
リシェルさんはゆったりしているとも取れる動きで、確実に射撃を重ねていく。
四度目の射撃を終え、そろそろ血の匂いが濃くなってきたと感じるようになってきた頃に、ようやく彼女は『落華流彗』を完全に下げた。
「退いていくようですね……草の揺れが遠ざかるのが見えます」
口ぶりからして、リシェルさんは視覚で狼たちの動きを把握しているらしい。
種族的なものか、彼女が視覚強化の技能を持っているのか。どちらにせよ、よく見える眼を持っているようだ。
「彼らには申し訳なくありますが、肉食獣の血の臭いがあれば他の獣も寄り付きません。これで食事中も安心でございましょう」
言葉を作りながら、リシェルさんが大弓を掲げた。
流線的な形をした弓がふわりとひとりでに手から離れ、夜空へと昇っていく。
星が空へと戻るのを、僕たちは見送った。
「あの弓、普段は空に浮かんでいるんですの……?」
「はい。星と同じように空に有り、持ち主が呼ぶときにのみ、現れます。無論、日中にも呼ぶことはできます」
「……それ、どうやって契約するんですか?」
魔具との契約は、それに魔力を送り込むことで行われる。先日僕も経験し、『夢の睡憐』という刀と契約を結んだ。
遥か空中にある弓に魔力は流せないので、それでは契約は結べないと思うのだけど。
「契約するまではふつうの弓なのです。空に己を置くのは、契約を成してからになります」
「ふむ……なるほど。面白いですね」
「はい。普段の荷物にならない、良い子です」
荷物にならないのもそうだけど、パッと見は武器を持っていないように見えても即座に召喚という形を取れるのは、強力な利点だ。
リシェルさんに初めて会ったとき、彼女が言葉すら紡げないように拘束されていたのは、そういう理由もあったのだろう。
「それでは戻りましょう、アルジェ様、クズハ様」
「そうですね、そろそろご飯もできた頃でしょうし」
「はい。今日の献立はクズハ様が狩ってきた野ウサギだそうで、実はとても楽しみにしているんです」
「……ヨダレ垂らしてますけど、なに言ってますのこの人」
「クズハちゃんが捕まえてきた野うさぎが楽しみだそうですよ」
「……八羽しか狩れませんでしたから、ほどほどにお願いしますわね」
ふつうなら充分すぎる量だけど、リシェルさんがいるとたしかに少ないか。
今までの旅との違いを妙なところで再度実感しつつ、僕たちは馬車へと戻った。
その後、リシェルさんがクズハちゃんの狩りの成果をすべて平らげてしまったのは言うまでもない。働いても働かなくても燃費が悪いダークエルフさんだった。