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GO WEST
作:夕焼け


僕はこの町から出た事が無い。
これは便宜的な意味ではなく、
本当にこの町から出た事がただの一度もないのだ。
家族や友人と町の外へ出かけた事もなかったし、
学生時代にも遠足や修学旅行なんかは全て休んだ。
別に行きたく無かったとか、そういう訳じゃない。
本当に、本当に偶然風邪や怪我を患いそういった機会を全て逃してきたのだ。

そしてその事に唯の一度も疑問を感じた事は無かった。
なぜかは分からないが、自分がこの町から出た事が無い事に疑問を持たないどころか、
その事にほんの今朝、目が覚めるまで気が付きすらしなかったのだ。

僕は今年で37歳になる。
体は至って健康だし、幸い精神や頭の病も患ってはいない。
幾らか内向的な為、一緒に遠出をするような友人はいないが、
社会に適応出来ない訳ではない。
仕事だってちゃんとしている。
だが未だこの町の外を知らない。
多分知るべきなのだろう。

簡単な事だ。
駅で一番安い切符を買い、電車に乗り、
次の駅で降りるだけでもうそこは僕の知らない世界なのだ。
僕は今日ひとつの決意をする。
この町の外を見に行こう、と。

シャワーを浴び、丁寧に髭を剃る。
なんせ今日は大事な日なのだ。
身なりにも気を使う必要がある。

卸したてのシャツの上に藍色のツイードのジャケットを羽織る。
そして丁寧にアイロン掛けされたチノパンを履き、鏡の前で整える。

そこでふと思い立ち台所に足を運ぶ。
元々朝食は取らない主義だし食欲も無かったが、
今日に限っては何が起こらないとも限らない。
軽いものでもいいから食べておこう。

淡い狐色になる程度にパンを焼き、
カリカリの表面にバターを塗る。

そして僕は考える。
イチゴジャムとピーナッツクリーム、
僕はどちらを塗るべきか。
これはすごく重要な問題だ。
もしここでミスをしたなら、
僕はその事で今日一日を台無しにしてしまう事になる。
しかし考える時間は十分には与えられていない。

トーストは1秒ごとにその熱を奪われていく。
まるで年老いた犬が、
やがて視力を失い、歩く力を失い、
生命そのものを失い、さらにはその存在の跡すらもを失ってしまうように。
緩やかに、だが確実に「それ」は失われていく。

僕はここですでに一つミスを犯した。
パンをトースターで焼く前、もしくはその過程において、
すでにこの決断を下しておくべきだったのだ。
いや、よそう、これは大したミスではない。
まだ挽回出来る種類のミスだ。
ケアルスミス。

ピーナッツクリームだ。
ここで僕が塗るべきなのはピーナッツクリームなのだ。
その事はよく分かっている。
しかし、その考えにいささかの不安がある。
僕は往々にしてこの段階で間違った選択をする。

本当に心が求めているものとは逆のものを手にとってしまう。
そしてその事で僕は深く絶望することになる。
僕は、僕自身をすら理解出来ないのだ。
その本当に表層の、瞬間的かつ絶対的な膨らみをも掴む事が出来ないのだ。

絶対?それは本当に絶対か?
いや、これは暫定と呼ぶべきものだ。

2つめのミス。

僕は気づく。
パンがもうすでに冷えてしまっている事に………
まずい事になった。
これはケアルスミスではない。
「重要なミス」だ。

3つめのミス。そしてその3つめのミスは
確実に取り戻せない種類のミスだ。
どうする?もう一度暖めなおすか?
いや、それは許されない。
僕は一度このパンを暖めてしまったのだ。
僕のターンはそこできっちりと1回分カウントされてしまっている。
さらに言えば、パンの表面はもうカリカリになっている上に、
バターも塗られてしまっている。
これ以上焼くわけにはいかない。

仕方がないので僕は「それ」にピーナッツクリームを塗る。
ピーナッツクリームの塗られたそれをゆっくりと口に運ぶ。
咀嚼する。
3つ分のミスの味がした。

食事を終え、歯を磨き、
僕はいよいよ玄関へ向かう。
財布は持った。
靴箱から上品な茶色の、
実に良い縫い方をした革靴を取り出す。
靴べらを使って踵の潰れないように丁寧に足を封じ込める。

姿勢を正し、深呼吸をする。
僕は今日、これからこの町の外を見に行く。
37年間一度も見たことの無い世界をこの目で見て、
匂いを嗅ぎ、この足で歩き、「知る」のだ。

玄関を出てドアに鍵を掛ける。
きちんと2度、ドアノブを回して引き、
きちんと鍵が掛かっている事を確認する。
大丈夫だ。
ミスはあの3つだけだ。
もう、ミスはしないさ。

駅は僕の家から歩いて13分のところにある。
僕はいつも、なるべく歩く速度を一定に保つよう心がけているので、
この13分という数字は決してアバウトなものではない。
決められた位置にしっかりと打ち付けられ、固定された13分。

幾つかの直線と、幾つかの緩やかなカーブと、
幾つかの急なカーブを越え、
僕は駅にたどり着く。
僕はそれがそこにあることを知っていたし、
今までそれをきちんと「駅」として認識していた。
家から「それ」まで徒歩で何分掛かるのかも知っていたくらいだ。
なのになぜ今までそれを利用した事が無い事に疑問を持たなかったのだろう。
いや、それは或いは至極当然のことなのかもしれない。
男が、「ここに女性用の下着の店がある」という事を認識する事はあっても、
そこを利用した事が無い事に疑問など持たないのと同じだ。
そんなことに疑問をもったらそれこそ困った事になってしまう。
そう、僕には今まで利用するべき機会がなかった。
だから疑問も浮かばなかった。
それだけの事なのだ。

駅に入り、僕は運賃表を見上げる。
隣の駅までは130円。
たかが130円だ。
僕は130円を犠牲にするだけで、
37年間抱えてきた未知(それを未知と認識したのはほんの今朝の事なのだが)
に手を触れる事が出来る。
未知は未知ではなくなるのだ。
全ての可能性がそこにある。
130円。今の僕が抱える好奇心、もっとも強い欲望を満たしてくれる、
その代価が130円だ。

僕は切符を買う。
その並びで買っているどの客よりスムーズに。そしてスマートに。
初めてにしては上出来だ、と僕は自分を褒めてやる。
僕はその事で初めて今日犯した3つの過ちから開放される事が出来た。
さあ、行こう。僕の人生の新たなる始まりだ。

些か興奮する気持ちを抑え、僕は改札を抜ける。
これもまた誰よりもスムーズに。そしてスマートに。

僕がホームへ出ると丁度電車が来た。
完璧すぎるタイミングだった。
しかし次の瞬間僕は愕然とする。
その不自然に大きく、角ばった箱の側面には急行と書いてある。
これは次の駅ではどうやら止まらない。

電光掲示板を見る。
次の電車はあと10分以上来ない。
4つ目のミス。
僕は家を出る前にどうにかして電車の時刻を調べて置くべきだったのだ。
もし、それを調べる事に10分以上の時間を費やしたとしても、
それでもここで待ちぼうけを食らうよりは随分ましだ。

僕は背筋を伸ばし頭を2,3度振ってみる。
ミスを数えるのはもうやめよう。
なんせ今日の僕に与えられた最大の使命は、
今日をこの37年間で一番特別、かつ素敵な日にする事なのだ。
僕は目を閉じ、頭の中で1から60までの数字を数える。
何度も何度も繰り返し数える。
9回目でそれは突然訪れた。




赤い顔の小男、青い顔の大男、
緑の顔の痩せた男、黄色い顔の太った男。
僕は囲まれていた。
目を開くまで全く気配を感じなかった。
僕は冷静に、じっくり彼らを見回す。
一人ずつ、その頭の形から靴の形まで。
彼らは誰一人髪の毛が生えていなかった。
そしてそのその額には赤い男、青い男、緑の男、黄色い男の順に、
1から4までの数字がローマ字で書かれていた。
いや、書かれていたというよりそれはあくまで自然に、雑然と、
そう、まるで古い樹木に年月が刻み込むあらゆる種類のしわのように、
しかるべくしてそこに最初からあるように感じられた。
しかし服はそれぞれそれなりにきちんとしたなりの物を身につけていた。

黄色い顔の男がまず口を開いた。
まとわり付くようなくぐもった声だった。

「黄色い顔の太った男」
ねえ、あんた。
何を待ってるんだい?
あれだ、列車だろ?
きちんと次の駅で停車する
各駅停車の列車を待ってるんだろう?

僕が答える前に青い顔の大男が僕を見下ろしながら言う。
彼の丁度真後ろに太陽があったせいで
逆光が強く彼の表情は読み取れない。

「青い顔の大男」
あれには気をつけなきゃいけないよ。
なんせあれは全ての始まりを終わりに変えてしまうんだ。
そして肝心なのはその作業を「あらゆる駅」で行うという事だ。
全ての駅が「あれ」の停車駅だからね。
この世界の重要なポイントには必ず「駅」がある。
そしてその全てがこいつの標的なのさ。
そう、泣いても喚いても一つ残らず確実に、
始まりを終わりに変えてしまうんだよ。


僕にはうまく意味が理解できなかったので、
そのままを言う。

「僕」
言っている意味が良く分からないな


すかさず赤い顔の小男が言う。


「赤い顔の小男」
意味が分からないって?
俺達の言う言葉の意味が分からないってのか?
こりゃあ傑作だ!
あっはっは。みんな聞いたかい?
俺達の言うことがこの貧相な顔のおっさんにはわかんねえんだってよ!
あっはっは。


その声は必要以上に甲高く、
言葉の意味ではなくその声質そのものが僕に強烈な怒りを与える。
必要以上に大きな身振り手振りも気に入らない。

だがここで怒る訳にはいかない。
僕には今日やらねばならない事がある。
怒るのは駄目だ。
それは許されない。
どれだけ不快な気持ちになっても、
それを声に出して、その「怒り」に
明確な形を与えてはいけない。


「緑の顔の痩せた男」
ね、ねえ、僕は思うんだ。
あのさ、あ、あんたは、何か目的があるのか知らないけど、
い、いやきっとあるんだろう、
あるんだろうね、目的が。
じゃなきゃで、列車になんて乗らないものね。

で、でで、でも、
それでも、それでもだよ、
あ、怒らないでくれよ?
悪気は無いんだ。
気を悪くしないでくれ。

あ、あんたを不愉快にさせたいわけじゃないんだ。
もしかしたら、わ、分かってるかもしれないけど、
も、もももしわかってたらあ、謝る、謝るから。
だ、だけど念を押しておきたいんだ。
そうする必要があ、あると思う。
おいらは、あ悪意でこんな事言うんじゃないからね?
この目、めは嘘をい、言ってないだろ?な?
あ、あんたは、列車に乗るべき人間じゃないんだよ。
うん、ま、間違いない。
あんたは列車なんかに乗……」

ガタンガタン


彼の言葉や意気地を文字通り踏み倒すようにして列車がやってきた。
なぜか僕にはそれが理不尽な行為のように見えた。
僕は幾分彼に対して哀れな気持ちになり、
その気持ちは「彼に対する好意」のようなものを
ほんの僅かだけど僕にもたらした。
しかし、僕だって黙っているわけにはいかない。
もうすでに列車はやってきてしまったのだから。

「僕」
あの、悪いんだけど僕はもう行かなきゃ行けないから。
話はまた今度ゆっくり聞くからさ、
今日のところはこの辺で勘弁してくれないかな?

間髪入れずに赤い顔の小男が言う。

「赤い顔の小男」
ひゃああっはっは!
いかなきゃいけないだって?
散々俺達が忠告してやってるのに!
行かなきゃいけないんだってさ!
ひいいいっひっひっひ!
愉快だね!ひいっひ!


僕は彼を無視し列車に乗り込んだ。
僕が乗るのを待ってたとばかりに僕が乗った次の瞬間ドアが閉まる。
ドア越しに駅のホームを見ると、
緑の顔の痩せた男がこっちを見ている。
その表情には慢性的な性病のような、
救い難い絶望の色だけがこびり付いていた。

僕は座席に着き、あたりを見回す。
比較的空いていたので立っている人はいない。
サラリーマン風の男が週刊誌を読み、
子連れの女性は子供を見て、ためらいがちに窓から外を見て、
そしてまた子供を見てを繰り返している。
何の事はない普通の列車だ。
乗った事がないだけで、僕だって電車に対する知識くらいある。
雑誌やテレビでその車内の風景を見たことだってある。
これはまさにそんな今までに僕が見た「列車の車内」と
まったく他ならないものだ。

僕は震えている。
この震えを抑えることはどうやらできない。
今、まさに僕の視界には
知らない世界が広がっているのだ。

ただ浮かれすぎてはいけない。
一つ注意しなければならない事がある。
確かに窓の外には知らない町の風景が描かれている。
しかし僕はそこにあるはずの音や匂いを肌で感じてはいないし、
その地面をこの足で踏んでもいない。

まだだ、と僕は思う。
窓越しの風景はテレビや雑誌で見た情報と同じだ。
これはある側面だけを規則的に切り取っただけの、
本来そこにあるものを構成するわずかなファクターに過ぎない。
僕は全てを感じる必要がある。
なんせ37年間、それに触れることなく生きてきたのだ。
もういい頃だ。

僕は目を閉じる。
規則的に、同じ量の空気を3度吸い、そして吐く。
4人の男について考える。
彼らはきっと僕が今日犯した4つのミスを表している。
赤いミス。
青いミス。
緑のミス。
そして黄色いミス。

それが何を表していたとしても、
僕はそれを今日に限っては断固として無視する権利がある。
もし今日じゃなければそうはいかない。
僕は彼ら4人にこの肢体を引っ張りあげられ、
例のごとく深い暗闇に放り込まれてしまっていた事だろう。成す術もなく。
そして昨日より幾らか困難な明日を迎える事になるのだ。

だがしかし今日は、今日に限っては僕に利がある。
今日の僕は彼らを、
圧倒的なまでの偏見と傲慢さを持って無視することができる。
悪くない。
ここまでで4つもミスを犯してしまったけど、
気分は不思議と悪くは無かった。

そんなことを考えると頭上のスピーカーからアナウンスが流れる。
もうすぐ次の駅に着くようだ。
僕はまた1から10までを数える。
それは僕の今いる地点から「駅」までの距離を半分にし、
そしてそれをまた均等に半分にし、
その内の僕の分の時間をさらに半分にしてくれる。

静かに列車は停止した。

ドアが開く。
僕は誰よりも迅速に、
そして的確にドアへと向かい、
そして降りた。



「紫の顔のハンサムな男」

君は今5つめと6つめの間違いを犯した。
分かるね?
この列車に乗った事と、
ここで降りてしまった事だ。

いや、厳密に言えば君はもっとたくさんのミスを犯している。
そもそも今朝に限って、パンなんて焼くべきじゃなかった。

ええと、他にも幾つかあったが
一々その都度君にそれを知らせる訳にもいかないからね。
君が考える以上に我々にはすべき事が多くある。
暇ではないのだよ。

しかし、あえて、だ。

私がここに来た。
もちろん先ほどの赤い小男をここによこす事もできた訳だがね。
幾らか筋が通らない事になるが、そんな事はこの際どうでもいい。
私には明確な目的があるからね。
それ以外を優先させるほど愚かではない。
多少筋や理論が通らなくても私は「すべき事」
として決められた順番通りに物事を進める義務がある。
分かるね?義務だ。

そしてここからが本題だ。

もう君は来てしまった。
どこへ?
ここへだ。
君は君の町以外の場所に足を下ろしてしまった。
もう引き返せない。
分かっているだろうけど、
これは忠告や助言ではない。

事実に基づいた、
「確認」だ。

それを認識する事がどれだけ重要な事かはわかるね?


「僕」
分かると思います。

「紫の顔のハンサムな男」
よろしい。
それでいい。
ならばもう私のするべき事はない。
できる事も無い。

そしてこれは個人的に、
職務や義務ではなく、
私個人の感情として君に送る言葉だ。

幸運を祈る


「僕」
ありがとう


彼が小さく微笑みを作ったので、
僕もそれを真似して見せた。

改札を抜ける。
そこには僕の知らない世界がある。

彼の言うとおり、僕はもう引き返せないのだろう。

僕の今までの人生は、
どちらかといえば退屈な人生だった。
その事をひどく嘆いた事もあったし、
ドラマチックな場面を求めた事もあった。
しかしその考えは大抵うまいように実現はしなかったし
僕自身、心のどこかで「それでもいい」と思っていた。

僕は生活の中に幾つかの規則を決め、
なるべくそれに沿うような形で歩いてきた。
それは正しさや潤いの為ではない。
きっと僕の心がそれを望んでいたんだろう。

僕が今日を選んだ理由?
何だったかな。
ほんの今朝の事だけど、もううまく思い出せない。
今日が自分の「とっかかり」を発見した日だったから?
そうだとも言えるし、
違うとも言える。
もうどちらでもいい事だ。
僕はここにいる。
僕の「町」では無い場所に。
それを望んだから。

さて、まずは西を目指そう。
その事について迷いは無い。
1969年から決まっている事なのだ。


行くべき道は西にあると。




















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