83.アリスの孤城 【世界との別離】
さようなら、お前の世界。
いつか、誰かがお前を思いだしてくれるさ。
*
「約束通り、1時間経ちましたわ」
透き通る声が聞こえた。答えるように、戯けた返事が返ってくる。
「そうねー。じゃあ、これが最後の質問。私の質問に答えてくれないー?」
もう何杯目になるか分からない紅茶を飲みながら、マッドは言った。朝葉香が、仕方ないといった様子で頷いた。
「いいでしょう。これが正真正銘、最後の質疑応答ですわ」
「ありがとー。あのね……朝葉香ちゃんは、私のこと憎い?」
それは、余りにも今更過ぎる質問だった。今更過ぎて、なんとも言えない。
「……葉月のことを、言っていますの?」
「そう言うことになるわねー」
飄々と肯定したマッドに、朝葉香は間髪いれずに答えた。
「ならば、答えは『憎い』ですわね」
当たり前の答えだった。血の繋がった妹を、毒殺されたのだ。憎くない訳が無い。マッドは、不思議そうな顔をした。心底、不思議そうな。
「じゃあ、どうして私を殺さないの? 妹の仇なんでしょー? 復讐とか、恨みとか、そういうのは無いの? 殺したいと思わないの? 目の前にいる、この私を」
朝葉香が、自分でポットから紅茶を注いで、暫く黙った。
カップの表面でゆらゆらと揺らめく赤茶色の液体は、少し光に反射していつも通りの自分の顔を映した。
長く伸びたこの黒髪は、確か妹が死んだときからこの長さに整えてある。
少し冷ましてから飲む紅茶は、さっきから喋りっぱなしで疲れている喉を潤した。
「わたくしは貴女を殺して楽にさせてあげるつもりなど、毛頭ありませんわ。牢獄に捕らえて、犯した罪と見つめ合わせて、そして全てを償ってもらいますの。死んで、全てを許して貰おうなどと思わないことですわね。葉月が苦しんだ苦痛以上の苦しみを味わってから、死ねばいいのです。そうじゃないと、わたくしの気が済みませんもの」
そう言って朝葉香がもう一度カップに口を付けたとき、紅茶はもう冷たくなっていた。口を開けたり閉じたりして、何かを言おうとしているのに何も言えずにいるマッドを前にして、朝葉香は言葉を続けた。
「貴女は、何故わたくしとこんな茶会をしたかったんですの? 何か、話したいことがあったから、こんな時間の潰し方を選んだのでしょう?」
「私は……」
朝葉香の真っ直ぐに見つめてくる目を、マッドは直視出来なかった。
「私は、責めて欲しかったのかなー…。もしかすると、貴女に……あの事件の唯一の生存者の貴女に、謝りたかったのかもしれないわ。誰も、聞いてくれる人なんて生きてなかったから……」
「謝っても、許しませんわ」
「うん、分かってる。別に許してもらおうなんて思ってないの。ただ、思いっきり憎んで罵って欲しかったのかも……そうやって、お前は生きている資格の無い人間だって、責めて欲しかった。その方が、楽なのよー……いまのこの状態は、宙ぶらりん過ぎて、しんどい」
マッドは、そこまで言って、言葉を止めた。
「なーんちゃって。自分でもよく分からないわー。それより、1時間お喋りに付き合ってくれてありがとー。お礼にクウヤ君にとって『良いこと』を教えてあげる」
そうだった。朝葉香は忘れかけていた約束を思い出した。
「都合屋は、一体どうなりますの?」
「あの毒はね、『解毒剤が無い』というより『解毒剤がいらない』の」
「解毒剤が…いらない……?」
意味が上手く掴めなかった朝葉香がオウム返しに聞く。その向かいで、マッドが楽しそうに答える。
「そう。あれは私の新作だって言ったでしょー? 朝葉香ちゃんの知ってる『毒』を改良したやつなの。高熱が出て魘されたりするけど、3日も経てばすぐに元通りよー」
クウヤの毒は、死に至るモノではなかった。妹とは違うモノだった。
ほっと安堵の息を吐く朝葉香だったが、すぐに表情を元に戻す。
「何故、そんなことをしましたの? 改良をするだなんて…」
「アリスちゃんの為よ」
「アリス?」
「アリスちゃんに、これ以上人殺しをして欲しくなかったのー。絶対に後悔するから。だから、毒だって嘘を吐いて、アリスちゃんに渡したわけー。で? 朝葉香ちゃんは、これからどうするの?」
不意に投げかけられた質問だったが、答えはもうずっと前から出ていた。
朝葉香は、迷うことなく言葉を口にする。
「決まってますわ。カノン達の後を追います。そして、全てが終わった後に貴女を捕まえて、警察軍へと引き渡しますわ」
「さっすがー」
そして、席から立ち上がる。ドアの傍まで歩いていき、その閉じられていたドアに手を掛ける。
朝葉香も立ち上がった。これから、急いでカノン達を追わなければならない。大した情報は掴めなかったが、それでも何も無いよりマシだ。
コヒナタのこと、クロックのこと。まだその2人と出会ってなければいいのだが。
「じゃ、元気でね」
マッドが廊下へと大きくドアを開けて、それから右手を朝葉香に向かって差し出した。
「……なんの真似ですの?」
「握手。お別れの」
にっこりと擬音がつきそうなくらい満足に笑うマッドを見て、少し脱力したが、朝葉香も右手を差し出す。
だけど、これがお別れな訳ではない。
「後ですぐに会いますわ。貴女を…つか、まえ…に……?」
どさっ、と朝葉香の身体が床へと落ちた。力が抜けたように動かない。朝葉香のその様子を見て、にぱ、とマッドが笑った。
「ところがどっこい、捕まるわけにはいかないのよねー」
先ほど握手を交わしたマッドの右手には、指と指の間に小さな針が挟まれていた。
眠り薬が、塗り込まれた針だった。
「あと1時間、追加で眠っておいてねー」
ひらひらと手を振って、マッドは扉を閉じる。そして自身だけが廊下へと出た。
「さてと。救護係は、もうそろそろ出番かしらー?」
ゆっくりと、散歩を楽しむかのような足取りで、マッドの姿が廊下の先へと消えた。
*****
クロックがアリスと初めて出会ったとき、彼は野良犬のように死にかけていた。場所は、確か路地裏だった。
彼は、警察に捕まった後すぐに脱獄を成し遂げたが、行くあても無いまま方々を彷徨っていた。何もすることが無かった彼は、これからのことを考え続けた。自分はどうすべきか、何をすべきか。そして、いつしか生きる意味が分からなくなった。
自分の好きな時計は、もう集めきっていた。することもしたいことも、もう彼には無かった。力尽きたその場所を、自分の死に場所にしようと思っていた。
そんなとき、彼と彼女は出会った。
「アナタが脱獄したって言う時計狂いの連続通り魔ね?」
彼女は、怯えることなくそう話し掛けてきた。
ぼろぼろの雑巾のようになった彼を見て、彼女は色んな話をした。自分が殺した両親のこと、友達のフランのこと、自分を分かってくれる仲間を探していること。
そして最後に、彼女は言った。
「アナタ、私の仲間にならない? アナタは強いんでしょう? なら、きっと誰にも負けないわ」
アリスは、自分に言った。クロックは初めて自分を認めてくれた彼女の言葉を信じたし、そう思った。
彼に、生きる意味が出来た。
クロックが仲間になることを了承したとき、アリスは自分の腕試しに作ってみたという腕時計を彼に贈った。彼女なりの、仲間の印だった。
そして、今。その腕時計を見て、クロックは思う。
これは、悪い夢だと。目の前で不気味に微笑む殺人鬼を見て、思う。
「あはははっ! もう終わっとく? それとも続ける? どっちかが死ぬまでさ」
アリスが、強いと言ってくれた自分が、弱いと判断した小僧に、やられていた。
「あれ、もしかしてもう死んじゃった?」
自分が床に倒れたことを理解して、クロックはまた、夢を見ているのだと思った。
「死んでなど、いない」
「そうこなくっちゃ。さて、と。右足は折ったし、左腕も折った。肋骨も何本かいってるだろ? 次は何処を壊して欲しい? なんならリクエスト聞いとくけど」
アゲハは、異常だった。
骨の折れる音、血の匂い、肉が避ける音。人間をいたぶり、潰し、壊すこと全てを楽しんでいた。
「お前は、狂っている……」
「そりゃどーも。最高の誉め言葉だね。そういうあんたも、『狂っている』からこんなことをしてるんだろ? 血が見たくて、断末魔を聞きたくて、こんなことをしてたんだろ?」
クロックは、答えられなかった。アゲハの異常さは、自分の予想を遙かに超えていた。あれは人間などと呼んではいけない。化け物だった。
「化け物、か。こんなお前の姿を、さっきの金髪少女が見れば、さぞや驚くであろうな…」
せめてもの嫌味とばかりに言ったその言葉に、アゲハがぴくりと肩を震わせた。
「さっきの金髪少女? 誰だ、それ」
「憶えていないのか。お前の……いや違う、お前の中の『レオラリアナ』の友達だそうだ。そう、奴は言っていた」
起きあがりながら、クロックが言う。折られた右足に激痛が走ると思ったが、もう痛みを感じることすらも身体が拒否してしまったようだった。
しかし彼には、それよりもアゲハが気になった。その血色の目の焦点が、自分に合っていない。
「ともだち? ははっ! あんた、自分で何を言ってるのか分かってんの? 俺は殺人鬼なんだぜ? 友達なんか知らない。居ない。…………知らない?」
アゲハは、それ以上何も言わなかった。まるで違う世界を見ているかのように、焦点が定まらない。最早、クロックのことなど眼中に入っていない。この世界ではない何処かへと、アゲハは視線を向けているように思えた。
「俺にも友達が居た……違う、知ってる? 何言ってんだ、俺……いや、これは『オレ』なのか?」
アゲハは、クロックにも見て取れるほど不安定になっていた。
「アゲハ、お前は」
「……るさい…」
パリ、とガラスを踏み割る音がする。
さっきアゲハが粉々に壊したせいで床に散らばった時計の部品を、アゲハが踏んだ。
「うるさいっつってんだよ! 苛々するなあ、もう! 俺には友達なんか居ないんだよ! 友達がいるのはアイツの方だ!」
そして、蹴った。
砕かれたガラス同士がぶつかり合い、以前にもまして細かくなる。まるでダイアのように煌びやかに反射するそれらを、クロックは不覚にも見とれてしまった。
「なんだよ……なんなんだよ! 俺は俺だ! 俺が『俺』なんだ! なんでお前等はいつもいつもアイツの話ばかりで……アイツは違うんだよ! アイツは別なんだ、俺じゃないんだ! 俺はアゲハ・ストレインだ!」
それは、自分にそう言い聞かせているようにしか聞こえなかった。アゲハが、狂ったように叫ぶ。
「お前、もういいよ。もういらない。面白くない。楽しくない。死ね」
クロックが次に彼を目にしたとき、彼は、そのナイフを自分の喉元に持ってきていた。
いつのまにか、クロックの身体は床の上へと押し倒されていた。その上から、押さえつけるようにアゲハが乗っかかっていた。
「さすがだ……速いな」
目で追うことすら、アゲハはさせてくれない。刹那の猶予すら、無いのだ。
クロックは、もう迷わなかった。元々、思い残す事なんて無かった。何も、持ってなかった。
「お前なんか……!」
アゲハがそのナイフを振り上げた時、一瞬だけアリスの笑顔が脳裏を過ぎった気がした。
アリス出会ったとき、腕時計を貰ったとき、仲間が増えたとき。そして、シオンを連れてきてから増えた、本当の楽しそうな顔。自分は、あんな顔をさせてあげられたのだろうか。
一瞬の筈が、とても長く感じた。
がしゃん
装飾の宝石が反射しながら、そのバタフライナイフは細かなガラスの海へ落ちた。
「…………何をしている?」
飛び退いたアゲハはその左手で、クロックによって負わされた右腕の傷口に爪を食い込ませていた。傷口を、抉っていた。
止まりかけていた血が、ぽたぽたと絨毯に染みを作る。
「意味が、分からん……お前の行動は…」
目の前の彼を見て、クロックが独り言のように呟いた。それに、彼が応じる。
「オレだって分かんねーよ……あー、ちくしょう…血が足りねぇ……」
「当たり前だ。折角塞がろうとしていた傷口を開けて、お前は何がしたいんだ、アゲハ」
クロックが立ち上がって、先ほど落ちたナイフを取る。その彼の眼前に佇む人物から、次の言葉が紡がれる。
「何言ってんだ、あんた。オレはレオラリアナだって何度も言っただろうが」
「……なるほどな。痛みで、目を醒ましたか」
「お陰様で」
笑う余裕なんて無かったが、レオラは笑顔を作って見せた。そして、聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「おやすみ、アゲハ」
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