幸せな願望
小太りな男がいる。四十歳後半の冴えないサラリーマンのその男の最近の悩みといえば、髪の毛が薄くなってきたことぐらい。これといって生き甲斐もなければ、出世していく同僚を横目に未だに平社員のままで、特にそのことを気にするわけでもなく、ただ生きているといった感じの男だった。
そんな彼にも唯一大切にしているものがある。それは初めて貰った給料で買ったアンティークの時計。特別高価な分けでもないのだが、ねじを巻けば未だに滑らかに動き、その小さな小窓から見える歯車の動きを観察することが、休日の大切な日課となっていた。
そんなある日、例に倣ってその時計を見ていた男。着ているティーシャツで、時計のレンズを何度も拭いてはニヤニヤ、誰が見ても気持ち悪い笑みを浮かべていた。家族がその光景を見たらどう思うのか?そんな心配は必要なかった。この年になって一度も家族をもったこともなければ、結婚の『け』の字も出たことがない。いや、彼の過ごしてきた人生を考えてみると、女を知っているのかどうかすら疑問に思うぐらいなのだ。そんな彼の唯一の話相手は、近所の公園で拾ってきた野良猫ぐらいだった。
突然、自宅の電話が鳴った。もちろん彼女や友人などからの電話ではないことは、本人が一番よく分かっていた。仕事の電話だ。手に持っていた時計をテーブルの上に置き、楽しい時間を裂かれた思いで、嫌々電話のある隣の部屋に向かった。
「はい、はい、今出ますよぉ・・」
野良猫を飼い始めてから、随分独り言が増えたことに、男は全く気付いていない。
テーブルの上でゆっくりと時を刻んでいる時計。ソファの上で横になっていたその野良猫は、まるで袋小路に追い詰められた鼠を睨む様に、首を持ち上げてその時計を見つめている。
数分後、電話を終え戻ってくる男。すると、猫が大きな箪笥と壁の隙間に前足を突っ込み、必死で出し入れしている光景を見つける。
「お前、そんな所で何やってんだ?」
拾ってからもう半年。男は未だに猫を『お前』呼ばわりなのだ。きっと一生その猫は名前で呼ばれることはないのだろう。
ふとテーブルの上に目をやると、ねじ巻きだけが置いてある。その横に置いてあったはずの時計の姿が、無くなっていることに気付いた男。その瞬間、嫌な予感と共に男の心臓は一気に早まり、足の力が抜けるような焦りを感じた。
「お前!!」
自然と出たその言葉に、男自身、驚いたほどの大きな声だった。猫はその迫力に一瞬たじろぎ、近付いてくる男をかわす様にソファの下に逃げ込んでいく。案の定、時計は猫の仕業だった。箪笥と壁の十センチほどの隙間の奥から、時を刻む音が微かに聞こえてくる。
その音を聴いた瞬間、その時計が壊れていないという安堵感と、この隙間からどうやって取ろうかという思いが頭の中を過ぎった。
取り敢えずその隙間に手を突っ込んでみる男。が、太い腕はどう頑張ってみても肘の辺りまでしか入らず、まだまだ時計までは届きそうにない。仕方なく方法を変え、箪笥を動かそうと押してはみるが、これまた丈夫に出来ているその箪笥は、男だけの力ではとても動きそうになかった。箪笥の中身を全て出してから押せば動きそうなものだが、面倒なことが大嫌いなその男にとって、その様な考えはこれっぽっちも思いつかないことだった。
結局、押入れの奥から孫の手を持ってきて、その長さと男の肘までの長さを合わせて、なんとか時計まで届くことが出来た。少しでもレンズに傷を付けまいと、埃といっしょに慎重に手繰り寄せていく。埃まみれのその時計を手にした時の喜びは、ここ一年間の中で一番の感動をその男に齎した。それともう一つ、生まれて初めて『痩せる』という考えを思いついた日でもあった。もちろん思いついただけで、それを行動に移すまでに数ヶ月掛かったのだけれど・・。ちなみにこの日以来、猫の呼び名が『お前』から『おいっ』になった。
勤める会社の社員旅行でのことだった。男にとってそれは、気の進まない旅行ではあったが、これも仕事内と自分に言い聞かせ、仕方なく自宅を出た。三日間その家に帰れないのかと思うと、出不精の彼にとってはとても辛い瞬間だった。
社長の友人が経営しているという理由で、奈良県にある温泉旅館に泊まることになっていた。奈良県の町並みに建ち並んでいる古い建物を見ていると、それぞれに、学生の時に行った修学旅行の思い出が甦る様な気持ちでいた。しかし、その男にはそんな気持ちは少しもなかった。なぜなら、男は修学旅行や何かの旅行の時には、決まって仮病を使い休んでいたのである。だから、彼にとってその町並みは新鮮で、新幹線の中でずっと思っていた憂鬱感なんかは、その時には吹っ飛んでしまっていた。
宿に着くころにはすっかり日も暮れていた。部屋に入るなり男は、一階にある大浴場や露天風呂には行かず、部屋に備え付けてあるシャワーを浴びていた。彼に言わせてみれば、他人に裸を見られるほどの恥はないのだそうだ。『お前の裸なんか誰も見ねぇよ』と突っ込みたくもなるが、だらしない生活を送っている割には、こういった変なプライドだけは持っている様で、そのプライドが彼の人生を大きく変えることになった。
社員旅行の最終日。新幹線まで時間があったので、一人の若い同僚の提案で、一行は東大寺の大仏を見に行くことになった。集団の一番後ろで、男がその大仏の大きさに見惚れている時、事務員の女性二人が何やら騒いでいた。
「あなたなら潜れるわよぉ」
「無理だって。私けっこう着痩せするタイプなのよぉ」
どうやら、名物の柱に空いている穴を潜り抜けられるかどうかで揉めている様子だった。ある一人の上司が、口を開けて大仏を見上げているその男に言った。
「お前ならどうかな?潜れそうか?」
一斉に笑い声が上がった。
「無理無理、あと二十キロは痩せないと」
「意外と着太りするタイプだったりして」
何の話かさっぱり解らなかったが、馬鹿にさらえていることは誰の目にも明らかだった。
「出来ますよ、それくらい」
言ってしまった。彼の変なプライドが許さなかったのだ。『出来る』なんて口走ったはいいが、その穴は大仏の鼻の穴と同じ大きさほどしかなく、『人間は肩まで入れば大抵の穴は通れる』という話を聞いたことはあるが、男の頭すらギリギリぐらいの大きさの穴なのだ。彼が穴の前に屈んだ時には、笑い声はもう無くなっていた。
「やめておいたほうがいいよ」
「ただの冗談なんだからさぁ」
彼にとって『ただの冗談』ほど、この世で嫌いなものはなかった。
挑戦を始めて一分もしないうちに、大きな壁にぶち当たった。一方の肩は何とか通ったのだが、どうしてももう一方が胸の贅肉に当たり、通すことが出来ないのだ。いつの間にか辺りには、ちらほらと見物人が増えていた。同僚たちも、穴を潜っている男が仲間だとは思われたくないのか、たまたま訪れた通りすがりを装っている雰囲気で、見物人に紛れている。この時初めて男は思った。同僚に馬鹿にされたことよりも、こんなことをしている自分の方が、プライドを傷つけるのではないかと。しかし、彼はやめなかった。いや、やめようにも、もう後戻り出来ない状態になっていた。通すことの出来なかったもう一方の腕も、首の辺りまで来ていて、あとは思い切って力を入れるだけだったのだ。
「うくぅ〜、くっくっくっ」
真っ赤な顔に血管を浮き出しながら、奇声を上げている男。拍手が上がった。なんと、誰もが無理だと思っていた男の両肩がスッポリ抜けたのだ。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・」
もう彼に力は残っていなかった。足をバタつかせようが、手で木を押そうが、びくともしない。どっち付かずの身体になってしまった。
「助け呼んで来ます」
誰の声なのか、周りがどんな様子なのか、その男にはもう考えられなかった。ただじっと、自分の身体から突き出た長い木の柱を見上げているだけだった。そして、男はこう思った。『俺はこの柱に踏み潰されたんだ』。
思わず頬の筋肉が緩んだ。
その日以来、『痩せること』がその男のテーマになった。男の考えることと言ったら、夕食のカロリーだとか、ジョギングの走る距離だとか・・。すっかりアンティークの時計は棚の中に忘れ去られていた。毎日一時間ジョギングをし、一時間風呂に浸かった。食事は一日二食。大好きだった間食とアルコールは一切止めた。その代わり、煙草の吸う本数が以前の三倍になっていた。彼のモットーは『健康に痩せる』ではなく、『何でもいいから痩せる』なのである。
成果は直ぐに表れた。一ヶ月三キロを目標にしていたのが、初めの月にその倍の六キロも落ちていたのだ。鏡を見る自分の顔が、気持ちほっそりしてきた様に思える。こうなると、痩せていくのが楽しくて楽しくて仕方ないのだ。ダイエット依存症。
体重が減るのと比例して、ダイエットもハードになっていった。販売されているダイエット本の全てを買いあさり、『痩せる』と言われているものは全て試した。毎夜、体重計に乗ることが一番の楽しみになっていた。ちなみに、男が痩せていくのと反比例して、猫の体重は増えていった。彼が食事をすると必ずと言っていいほど、最後の一口を猫にやるからだ。
男の一番の喜びは、痩せたことを実感出来る時だった。わざわざ狭い隙間に物を入れて、それを道具を使わずに取る。普通に考えたら何が面白いのかと思うが、彼にとっては堪らなく幸せな瞬間なのだ。
他に、通勤ラッシュの電車の中。以前はよく駅に着いても出るに出れず、次の駅まで行ってしまうことがしょっちゅうだったのが、今では、人と人との間をスイスイと抜け出られるようになったこととか、テレビでやっていた、テニスラケット潜りが出来た時なんかは、床が抜けるんじゃないかと思うほど飛び跳ね、喜んでいた。
前文で言った通り、ちゃんとした食事も取らずに、こんなことばかりをしていたら、病気で寝込むことも多々あった。しかし、彼にとって病気に掛かることも、ダイエットの一環としてしか考えられなくなっていた。食欲減退、熱に拠る発刊作用、風邪薬に拠る睡眠作用。根は面倒くさがりの彼にとって、こんなに楽に痩せられる方法はないと、痩せる為なら何でも歓迎した。すでに体重は、男の年の平均より遥かに下回っていた。
それから数年後。男はテレビの中にいた。上半身裸の男は、あの東大寺の柱の前に立っている。その身体は、痛々しいほど肋骨が浮き出ていて、年の割りに老けて見えた。『超人偉人列伝』というタイトルバックに、マイクを持って立っているレポーター。
「と、いうわけで、今回は奈良の東大寺にお邪魔していま〜す!」
インタビューを受ける男の表情に、冗談の欠片もなかった。
「この穴を潜るのは二度目と聞きましたが、どうしてまた挑戦されようと思ったのですか?」
「一度目に潜った時は、今の体重の二倍近くありまして」
「二倍もですか?」
「その時失敗したのがきっかけで、痩せようと思ったんです」
男の決意は『思った』どころではなかった。
ここ五、六年のの生活を、大まかにまとめてみた。
o一日のカロリー摂取量
平均1300Cal
(成人男性2400Cal)
o月体重減少量
最大 8?
最小 0,5?
o近所の川沿いを走った距離
総距離 2260?
一日平均 10?
oダイエットに懸けた費用
総額 420万円
o入院回数
七回
o髪の毛が抜けた本数
2万6千本
o付き合った女性の数
0人
etc
などなど、要するに尋常ではなかったのだ。
挑戦は言うまでもなく、成功した。潜る男の身体に、穴の淵が触れないほど見事に潜り抜けた。あまりに簡単に出来てしまうもんだから、周りにいた観客やテレビクルーの人々は、狐につままれた様な表情で男を見ていた。当の本人は、そんなことお構いなしに喜んではいるが、テレビ的には何の面白みのないコーナーになってしまった。それ以来、男をテレビでは見なくなった。
男が運命の女性と出会ったのは、老人ホームに入ってからだった。老人と言ったって、この時、男はまだ五十台前半で、普通の人だったら働き時のはずなのだが、『痩せる』ことをやめられず、今となってはそこの老人たちと同じ年齢に見えるほどになっていたのだ。 しかし、世の中には好き者がいるもので(好き者と言ったって、相手の女性は男より二十も年上なのだが)、その女性と出会って一ヶ月で彼女と結婚してしまった。
このころの彼の身体は、健康な箇所がないと言ってもおかしくないほど、あちこちに病気を患っていた。特に酷かったのが胃で、長い間あまりにも食料を口にしないので、胃が収縮し、ほとんど食べ物を受け付けなくなってしまっていたのだ。しかし、男はそれすら歓迎した。もう彼の身体は骨と皮しかないにも関わらず、まだ『痩せる』ことに希望を抱いていたのだ。栄養は点滴から取り、歩くことも出来なくなったというのに、毎日熱心に自分の体重だけは量らせた。
男は幸せだったのだ。人それぞれ幸せな形は違うとはいえ、これほど変わっている幸せはないだろう。これほどまでに『痩せる』ことにこだわり続け、貫いた人生をあなたはどう思うか?『生まれ変わったらこんな男になりたい』なんて思っている人は、まずいないだろう。しかし、彼はこの生き方が幸せだったのだ。誰が何と言おうとそれに変わりはなかった。
男の新婚生活は早々と幕を閉じた。彼の葬式には意外と多くの参列者が並んだ。仕事仲間。老人ホームの人々。中には野次馬もいただろう。『生まれ変わりたい』とは思わなくとも、男の人生は多くの人々を魅了したことは間違いない。何か一つのことを持ち続けることは、『人を魅了することが出来る』ことを彼は教えてくれた。何だっていいのだ。『誰かを愛すること』『夢を持ち続けること』『感謝の気持ちを相手に伝えること』『花に水をやること』『生きること』。
なんでも続けることは素晴らしい。
男が妻に送った遺言がある。
最愛の妻へ
私はもう長くないだろう
人間、一人で死ぬのは寂しすぎる
君と出会えたことが
私を勇気付けてくれた
出会ってあまりに短い時間だったが
同じ時を過ごせた喜びは永遠に感じる
ありがとう
¨
¨
最後に一つ君に頼みたいことがある
私の入る棺桶のことなのだが・・・。
葬式の祭壇に置かれた棺桶。外見は一見普通の棺桶なのだが、中には男の身体より、一回りも小さい人型の穴が開けられ、そこに押し込まれる様にして男が入っていた。男の顔は、とても満足そうに微笑んでいる様に見えた。