幼馴染
それは、野々原実が柏木園子と交際を始める半年ほど前のことである。
「ただいま。ほらよ、お目当ての本買って来たぜ」
「ありがと〜! どうしても欲しかったんだ、この本! 待ってて、すぐお夕飯にするね」
自宅で実を迎えたのは、隣に住む幼馴染、河本綾瀬である。
綾瀬が隣町にある大型書店まで本を買いに出ようとしたところ、見とがめた実が夜遅いという理由で代わりに行ってくれたのだ。
綾瀬は慣れた手つきでエプロンを着けると下ごしらえを終えていた野菜と肉を炒め始めた。今晩のメニューは八宝菜、綾瀬の十八番である。
軽やかにフライパンを操りながら居間でくつろぐ実に話かける。
「ホントこんな時間に行ってもらってごめんね〜!」
「別に良いよ。こんな夜中に女の一人歩きは良くないしな」
「でも隣町なら庭みたいなもんじゃない。さては可愛い幼馴染が心配で居ても立ってもいられなかったんだな〜?」
「可愛いが余計なんだよ……って冗談だよ! 冗談!」
眼が笑っていない笑顔でこちらに包丁を投げつけようとする綾瀬に、実が慌てて否定する。
幼い頃からずっと一緒だったふたりは十年以上もの時を共に歩んできた。実のほうは活発で面倒見の良い彼女を「姉」のように慕っていたが、綾瀬のほうは必ずしも「弟」として見てはいなかった。
「はいお待ちどうさま。……でもちょっと遅いから心配しちゃった。なにかあったの?」
「ああ。それがさ……県道沿いに広い公園があるだろ?」
ちゃぶ台型のテーブルの向こうに座った綾瀬に「いただきます」と手を合わせたあと、実はさきほど体験したことを話した。
通りがかった公園で女の子が泣いていたこと。
なにか力になれないかと思い話しかけたがひたすら無視されたこと。
席をはなした隙にいなくなってしまったこと。
「おかしなこともあるもんだよなあ……ん?」
実は箸をとめてうつむき気味な綾瀬の表情をうかがった。
その瞳にはいつもの力強さがなく、どこか虚ろでさえあった。
「綾瀬?」
「どうして、そんな見ず知らずの娘に話しかけたの?」
まるで咎めるような語気に、実はわずかにたじろいだ。
「どうしてって……心配で気になったから」
「気になったら誰にでも話しかけるの? もしそんなことして事件にでも巻き込まれたらどうするの?」
「そんな感じじゃないさ。可愛い、普通の娘だもの」
「可愛いかどうかなんて関係ない!」
突然出た怒声に綾瀬自身がハッとして口を押さえた。
「ご、ごめんなさい怒鳴ったりして。でもこんな夜に公園にいるなんてあんまり普通じゃないし、やっぱり危ないもん」
「……そうだよな。綾瀬だって料理の準備して待っててくれてたんだし、寄り道せずに帰ってくるべきだった。ただ、昔のこと、ちょっと思い出してさ」
「昔のこと?」
綾瀬がいぶかしげに首を傾げた。
「覚えてないか? ガキの頃あの公園で、俺たちが初めて会ったときのこと」
「初めて……あっ! たしかいじめられてた貴方をわたしが助けて」
「そうそう。って、忘れてたんなら言うんじゃなかったかな」
実は気恥ずかしそうに鼻の頭を掻いた。
別に忘れていたわけではない。綾瀬だってあの日のことは鮮明に思い出せる。公園でいじめられていた男の子を助け出し、泣きじゃくるその子の手を引いて送っていったら、それが自分の家の隣だったのだ。
「……あのときの実、ずっと泣き止まなくてどうしようかと思った。正直同い年って知って驚いたくらいだもん」
「まあ、そのマネというか、恩返しというか」
「なるほど。困っている人は見捨てられない。そういう風になったのはわたしのせいでもあるわけか」
共通の思い出はほかにもいくらでもある。そういった心のアルバムを紐解いていくだけで綾瀬の胸はじんわりと暖かくなった。
「まったく良いところだけは自分のおかげかよ……それじゃ、うまい飯もいただいたところで、お暇するか」
「うん、おやすみなさい。途中で知らない女の人とかに付いて行っちゃダメよ?」
「はいはい。おやすみなさい」
綾瀬は玄関で実を見送り、食事の後片付けを終え、ひとり自室にこもった。
「………………」
することもないので何気なく実に買ってきてもらった本を手に取る。レシピから栄養配分まで詳しく載った厚めの料理本である。
これを使って実にもっとおいしい料理を作ってあげたい。そう思っていたはずなのに、綾瀬の心は暗澹として一向に晴れなかった。
実は誰にでも優しい。それはわかっている。
しかし綾瀬は気づいてしまった。公園で会った女のことを話しているときの彼の瞳に憧れが、好意が、興味が、爛々と輝いていることを。少なくとも実がその女に惹かれているのは間違いなかった。
ピラ ピラ ピラ……ビリ ビリ ビリ ビリ ビリ ビリビリビリ
ページをめくっていた指が、次第に本を破っていった。
憎かった。実がその女と出会うきっかけを作ってしまったこの本が。
悔やんでいた。それを導いてしまった自分自身を。
だが心配することはない。結局、女は名前を告げることもせず去ったのだ。もう二度と会うことはない。そうに決まっている。そのうち実も女のことなど忘れて自分と恋人のような関係を続けるのだ。
実に、明日はなにを作ってあげよう。考えているうちに綾瀬の意識は眠りの淵へと堕ちていった。
深い夜の闇のなかで、運命の歯車はたしかに回り始めた。 |