孤独の花
その夜、柏木園子はまた公園でひとり泣いていた。
高校に入学してすぐ始まったイジメは二年生になってもますます酷くなり、園子の心身を苛んでいた。本人はその原因が自分の暗い性格にあるのだと決めつけていたが、周りの人間からすればそれは単なる口実に過ぎなかったろう。
腰まで伸びた艶やかな黒髪に、いかにも清純そうな顔立ちと豊かに発達した四肢のギャップ。まずそれが他の女子の癇に触った。しかも家は裕福で、試験では三位以下に入ったことがないという才媛ぶりが、なおさら園子に嫉妬の目をむけさせた。それだけでイジメという儀式の生贄になる条件は十分だった。
だから彼女が最初抱いた、自分の内気で引っ込み思案なところを直せばイジメもきっと収まるだろう、という願いは間違いだった。勇気を出してクラスメイトに話しかけても無視され、積極的にグループの輪に入ろうとしてもまるで害虫のようにはじき出された。
ただ一度、テストの何日か前にノートを見せてと頼まれたことがあった。クラスの中でも派手で、いつも大きな声で友達と騒いでいる女だ。園子は嬉々としてノートを貸した。返ってきたのはテスト期間が終わってからで、ボロボロに破かれていた。次のテストでも同じ女子が頼んできたが、私もまだ使うから、と断ると大声で周りに聞こえるように園子を非難しだし、皆がそれに同調した。
それから園子は努力することをやめ、ひたすら耐えることを選んだ。両親に心配を掛けたくなかったので、泣くときはいつも公園だった。ベンチに座り、声を押し殺して泣いていると、ふと人の気配がした。
見ると同い年くらいの男性がこちらを心配そうにうかがっていた。互いに見知らぬもの同士、目が合ったのが気まずかったのか、照れ隠しのように柔和な笑みを浮かべながら近づいてくる。
園子はとっさに顔を伏せた。異性が苦手、というより怖い印象を持っていたはずの彼女だが不思議と恐れはなかった。そしてベンチの隅に遠慮がちに腰掛けてきた男の顔を前髪ごしに見た瞬間、心臓がドクンと高鳴るのを感じた。
どうして、泣いているの? 男の涼やかな声。まるで耳元で囁かれたように甘く全身に響いた。
園子は答えるどころではない。自分がイジメに苦しんで泣いていたことさえ、すでに頭から吹き飛んでいた。物言えずうつむく園子を見て、男はよほど深刻な理由だと受け取ったのか、とりあえず場を和ませようと自分のことを語り始めた。
隣町に住んでいて、妹がひとりいるということ。普段はこんなところには来ないのだけれど、仲の良い幼馴染がどうしても欲しいという料理本を近くの本屋まで買いに来たということ。努力して進学校に進んだが勉強が難しくてついていくのに必死ということ。妹や幼馴染がやたら騒がしくて落ち着く暇もないということ。
ごめん、俺が愚痴こぼしても仕方ないよね。決まり悪そうに男が言った。そんなことはない。彼の声を聞いていると心の靄が晴れ体が軽くなるようだった。
とりあえず温かい飲み物でも買ってくるから、ちょっと待ってて。立ち上がり公園の外にある自動販売機に向かおうとする彼の背に園子は思わず声をかけようとしたが、寸でのところで声が出なかった。もっと話を聞きたかった。名前や学校、どんな料理が好きで、いつも聞く音楽はなにか。彼が戻ってきたら今度は自分からも話題を振ろう。植物の話なんてどうだろう?
もし彼も好きなら早速共通の趣味を見つけたことになる。いや、やっぱり駄目だ。花の世話が好きなんて言ったら暗い娘だと思われる。明るく演じなければ、きっと不気味な女だって嫌われてしまう。それは、同級生にいじめられることなんかよりずっとずっとつらいことだ。
突然、園子はハッとして懐から手鏡を取り出した。ひどい顔だった。泣いていたせいで目はわずかに充血し、頬は涙の跡が何本も走っていた。園子は激しく狼狽した。同年代の女の子ほど美容に執着してはいないので容姿には自信がなかったが、普段はもう少し、可愛いはずだ。彼には自分の一番綺麗なところを見て欲しかった。
向こうに目をやると、すでに彼が両手に缶ジュースを持ってこちらに歩いて来ていた。園子は思わず公園の外へ走り出した。まだ名前も聞いていない。いま別れたら二度と会えないという危惧もあった。それでも、こんな私は本物の私じゃない、という気後れが園子を彼から遠ざけていった。
振り向くことなく家に帰った園子は、部屋に閉じこもり高まる動悸を抑えかねていた。
次の日から彼女の生活は一変した。
むろんイジメは続いたが、いちいち泣くことはなくなった。そして帰宅すると自室でこっそりと身だしなみを整え、毎晩あの公園へ足を運んだ。また彼に会えるかもしれないという淡い願いを抱いて。彼から逃げた夜のことは後悔していない。あのまま惨めな姿で彼を幻滅させるよりはこうして待っているほうがはるかに良かった。
何日待っても彼は現れない。しかし絶望はしなかった。園子はすでに心の中に蒔いた彼という種を育てるのが楽しくてしようがなかったのだ。実際に会えなくとも、短い時間で見せてくれた表情、聞かせてくれた声を何度も反芻するだけで幸福だった。それはどこか、植物を育てることと似ていた。雑草を取り、水をやって大切に育てるほど花を咲かすときの感動は大きい。
結局、園子の想いは蕾のまま膨らみ続け、彼女は三年生に進級した。
新年度の始業式が終わったあと、ホームルームでクラス割が発表された。新しいクラスメイトには初めて見る名前も、そうでない名前もたくさんある。知っている人間は、ほとんど彼女をいじめていた連中だった。園子はさしたる感慨も湧かず、説明が終わると校舎裏に向かった。
「良かった。みんな元気に育ってるみたい」
園子は色とりどりの花に向かい、静かな声で語りかけた。
校舎裏の花壇。生徒たちに見捨てられて久しいその場所を、整備して使えるようにしたのは園子だった。学校側も荒れるに任せるよりはと、あっさり許可を与えた。相手が成績抜群で素行優良な園子だったので「人数を集めて園芸部を作っては?」と勧めてくる教師もいたが、丁重に断った。園子は人との関係よりも花との繋がりを欲していたのだ。
新学期を迎えても園子の献身的な手入れは変わらなかった。ジョウロや霧吹きで水をやり、害虫がついていないかよく確認して、肥料を与える。その最中にもひとつひとつの花に話しかけ、わが子のように可愛がった。
「じゃあみんな、また明日ね」
作業を終えた園子が振り向いて手を振ると、無数の花が満面の笑顔で送り出してくれるようだった。園子はそのまま正門わきにある水道に行き、土まみれの手を洗った。薬品を用いる場合などを除いて園芸用のグローブは着けないようにしていた。身の回りは常に清潔を保っているが、花たちの世話をするときの汚れは気にならなかった。
「きゃっ!」
何の前触れもなく背中を中心に冷たい感触が広がり、思わず悲鳴を上げた。後ろに振り返ると水色のバケツがカラカラと地面を転がって、自転車置き場のほうに複数の女子の笑い声が遠ざかっていくのが聞こえた。水浸しになった園子は数秒立ち尽くしたのち、なにもなかったように教室へ歩を進めた。教室には体育授業用の運動着が置いてある。
いくら放課後で人影がまばらとは言っても教室で着替えるわけにもいかず、運動着を持ってトイレに向かおうとしたそのとき、雑談をしながら何人かの男子が教室に入ってきて園子の姿に気づき、黙って遠巻きに眺めた。
園子は反射的に身を縮ませながら小走りで行こうとするが、ひときわ大柄な男が出口を塞ぐように立ち「ヒュー」と口笛を吹いた。男の視線の先は胸元。ブラウスが濡れて青い下着のレースがくっきりと透けているのを自覚した瞬間、園子は両手で自分の身を抱くようにしてその場にうずくまった。
「おい柏木、そんなにびしょ濡れじゃ風ひくぜ」
「持ってんの体操着だろ? さっさと着替えろよ。俺たち邪魔しねえから」
男たちは次々に園子を囃し立てた。女子たちが「陰気で真面目なだけのガリベン女」として園子をいじめているように、男子も「美人でスタイルの良い内気な少女」をいたぶることで加虐心を満足させようとしていたのだ。
校内で手を出すつもりはなくとも、怯える彼女の姿は十分にそそるものがあるし、あわよくば着替えを見物するくらいの楽しみは許されると考えたかもしれない。
園子は羞恥と恐怖で体が震え、声も出せなかった。もしかしたら自分がここで着替えるまで本気で帰してくれないのでは、という不安が胸中に渦巻いていた。この二年間、色々なイジメを受けてきたが、こんな形のものは初めてだった。
「お前ら、なにしてんの」
教室の外からすこし低い、怒気を孕んだ声が聞こえる。教師ではない。園子の中の蕾がわずかに綻ぶのを感じた。間違えようがない。でも、なぜここに。
「あ……野々原」
「どけよ。そんなとこに突っ立てると邪魔なんだよ」
大柄な男はすごすごと道をあけた。他の連中もすっかり毒気を抜かれたように、野々原と呼ばれた少年に愛想笑いまで浮かべながら教室から去っていった。
「あいつらから、何かされたのか?」
半年ものあいだ想い続けた男性がすぐ目の前に立っている。月光のもとで優しく微笑んでいた彼の顔が、いまは夕日に照らされてやけにまぶしかった。
「大丈夫、です」
ようやく口から出たのがそれだった。われながら無愛想で、あまりに素っ気ない。でも彼は不愉快な様子も見せず、制服の上着を脱いで自分にかけてくれた。
「早く、着替えてきなよ。そのままじゃ冷えるだろ」
園子の格好を気遣っているのだろう、あさっての方向に目を泳がせながらドギマギしている。そんな仕草もたまらなく愛おしいと思った。勇気を出さなければ。園子は震える声で言った。
「隣町の県道沿いにある公園、ご存知ですよね」
「え?……ああ、市立病院を過ぎたところにあるやつか。知ってるけど」
「今晩十時、そこで待ってます」
言うや否や園子は彼の横をすり抜け、女子トイレに駆け込んだ。途中背中に声をかけられても振り向かなかった。個室の中で必死に息を整える。唐突過ぎただろうか。
自分は半年間ひと時も忘れたことはなかったが、彼はまるで覚えていないようだった。いや、こうして再会できた奇跡を無駄にしてはならない。控えめな園子にとって生まれてはじめての挑戦に胸が躍っていた。
お風呂で体の隅々まで念入りに洗い、慣れない化粧も薄くほどこした。買っただけで一度も衣装棚から出さなかったノースリーブのセーターに丈の短いスカートを着て姿見の前に立つと、さすがに赤面する。
強調されたバストラインを手でなぞるとそのまま覆い隠したくなるし、ちょっと大またで歩けばショーツが見えてしまいそうな恐怖感がある。
しかし世事に疎い園子でも、男というものは総じて胸の大きな女性を好み、露出度の高い服に心を動かされるものだと認識していた。彼が喜んでくれるならどんな格好でもしよう、と決めていた。
鏡の前で思考錯誤を繰り返し、時計が九時を回った頃には家を抜け出した。まだだいぶ時間の余裕があるがそれでも心臓は張り裂けそうに高鳴っていた。だから公園に着いて、先に待っていた彼の姿を見たときは心臓が止まりかけた。
「い、いつから待っていたんですか?」
「いや全然。待ってないよ。ただ名前も用件も聞けなかったから、気になって」
「そんな……どうしよう私、自分のほうから誘っておいて」
激しく動揺する園子に、男は優しく話しかけた。
「俺は野々原っていうんだ。君は?」
「柏木です……柏木、園子と申します」
「頭なんて下げないでよ。そうか、柏木さんていうんだ……去年も、ここで一度会ったよね? すぐ気づかなくて、ごめん。また会えて良かった」
「そんな……わたしのほうこそ、ろくにお礼も言えなくて、ごめんなさい」
「お礼を言われるようなこと、してないよ……学校では、いつもあんなことされてるの?」
瞬間、園子は自分の表情が硬直するのを感じた。いけない。笑わなければ。
「……無神経なこと訊いたかな。でも、俺をここに呼んだのもその件だと思って」
違う。イジメのことなんかどうでもいい。もっと彼を知って、もっと仲良くなりたいだけだった。自分の苦しみや惨めな境遇など隠して、普通の女の子みたいに彼と接したいだけなのだ。そのためにこんな着慣れない服や、自分が興味なくとも盛り上がりそうな話題を頭に入れておいた。
なのに、あまりにも真摯な彼の瞳に見つめられると、自然に涙が溢れてきた。これではあの時と同じではないか。自分を叱咤しようとしても、頬を伝う涙は止まらなかった。
「助けて、ください」
口が勝手に動いた。嗚咽交じりだったので、子供のように舌たらずだったと思う。それでも彼にはしっかり聞こえたのだろう。園子の冷たく強張った手を優しく握りしめた。
そのあと園子は二年間誰にも話せなかった苦痛を、男に打ち明けた。話せば話すほど、心の底に澱のように溜まった感情がほぐれていくのを感じた。そのあいだ彼はじっと園子の言葉に耳を傾けていた。
「話してくれてありがとう。最初に言うけど、悪いのは柏木さんじゃないよ」
まずそう断言した。
「柏木さんは自分が暗くて社交性がないからいじめられるって言うけど、そんなの真に受けちゃ駄目だ。そういう連中はいじめやすい奴からいじめてるだけなんだから」
「……そんなことないです。わたし、本当に人間よりも花と話すほうが多いくらいで、こんな気味悪い女、誰だって近づきたくありませんよ」
「自分が世話してる花に言うんでしょ? 思いやりがあるだけじゃない。そんなのいじめる理由にはならないよ。まあ、正当な理由なんてものあるはずないけど」
「そう、なんでしょうか……?」
「そうさ」
すると彼は上着のポケットから二本の缶ジュースを取り出し、一本を園子に渡した。片目をつぶって「今度は逃げないでね」と悪戯っぽく笑う。園子も釣られて笑みをこぼした。
「でも、たしかに柏木さんみたいな女の子って珍しいよなあ」
「え?」
「それだけ可愛ければふつう高飛車になって周りから浮くことはあっても。逆はないと思うよ」
「可愛いだなんて……お世辞言わないでください」
「お世辞もなにも、本当だよ。あのときだって、すごい美人が公園で泣いてるもんだからドラマの撮影かなって一瞬思ったぐらい」
「……本当ですか? 野々原さんはわたしのこと、綺麗だと思いますか?」
「……もし柏木さんが綺麗じゃなかったらウチのちんちくりんな妹はどんなランクに分類されるのか哀れむほどにね」
園子の表情が驚きから喜びに変わった。
「とにかく、これからは俺がなんでも協力するから。心配しないで」
頬を紅潮させたまま園子はこくりとうなずいた。
あとは他愛のない雑談、しかし園子にとってはなにより貴重な時間が過ぎていった。最も驚きだったのは、彼が二年間、自分と同じ高校に通っていたことだ。
ふたりの高校はマンモス校で校舎が大きく三つに分かれており、それぞれの建物の一階は一年、二階は二年、三階は三年というふうに学年混合型に配置されており、彼とは同じ校舎にならなかったことが面識のない理由であった。
それに加えて学校での人との交流を必要最小限に抑えたかった園子の心情もそれを助けていた。なんにせよ「灯台もと暗し」という使い古された言葉では片付けられない不運だった。
「もうずいぶん遅いね。また明日、学校で会おう」
「待ってください」
彼と会えなかった半年間で一生懸命育てた蕾は、すでに花を咲かせることになんのためらいもなかった。
「さっき、わたしのためになんでも協力してくれるって、おっしゃいましたよね?」
「ああ、協力する」
「本当ですか?」
彼は強い意志を宿した瞳ではっきりとうなずいた。
「ならお願いします……わたしとお付き合いしてください!」
バッと勢いよく頭を下げ、勇気の限りを振り絞って告白した。時間の流れが止まり、耳を流れ落ちる髪の感触まで鮮明だった。ややあって、彼がしどろもどろに口を開く。
「でも、なんつーか、俺たちさっき自己紹介しあったばかりだし……」
「それでも、好きなんです」
彼にとってはついさっきかもしれない。しかし園子にとっては半年前から始まった恋なのだ。もし断られたら、自分でもなにをするかわからなかった。
「だけどそれはさっきの協力とはまったく関係な」
「わたしのこと、綺麗って言ったのは嘘だったんですか? 綺麗だと思うなら、彼女にしてください!」
彼の言葉をさえぎるように詰め寄った。初めて見る園子の強気な態度に圧倒され、男はなおさら動転して目を白黒させた。
「わ、わかった。正直、君みたいな美人が彼女なら俺もすごくうれしい。だけど俺みたいな唐変木に彼氏なんか務まるかどうかアレだから、とりあえずお友達からってことで付き合おうか……っておわッ?」
園子は体ごとぶつかるように男の胸に飛び込んだ。男は姿勢を保つためにとっさに園子のなだらかな肩を掴む。かぐわしい花のような芳香が心地よく鼻腔を刺激した。園子も彼の背に手を回し、体をしっかりと密着させる。熱く火照った乳房を通じて互いの鼓動が高まるのを感じた。
「だったらこれで、恋人にしてください……」
眼を閉じ、淡いルージュの光沢を放つ唇を彼の前に差し出す。やがて男も魅せられたかのようにあっさりと唇を重ねた。長い長い接吻のさなか、園子はこのまま彼と同化して一本の樹木になりたい、と本気で願った。
盛りの季節を謳歌する花のように、園子はその人生で最も輝かしい日々を送っていた。新学期早々、園子と仲良さそうに登校して、休み時間もずっと一緒にいる男が「野々原」だというのを知ると、彼女をいじめようとする輩はいなくなった。
別に彼がとりわけ喧嘩が強いとか皆を取り仕切る能力に優れているわけではない。ただ誰しも彼が「筋の通った」人間であることを知っていたのだ。ある種の人望とも言える。仲間の誰かから「野々原には迷惑かけんな」と釘を刺され、ひとりでリスクを負ってまでイジメという暇つぶしに走る人間はいなかった。
イジメから開放されると、それまで巻き添えが怖くて近づけなかった穏健な女子が園子に近づくようになった。もともと性格がよく丁寧な物腰の園子である。そのうえ表情が明るくなればおとなしい女子たちにとって憧れのような存在になるのは当然だった。園子にとって仲の良いグループを作って会話や食事を楽しむのは決して得意ではないが、周りが自分に合わせてくれるので別段苦痛でもなかった。
やっと手に入れた、なんでもない穏やかな日常。望んでいたはずの静かな生活だった。ゆえに、去り行くときもまた早かった。それは満開に咲き誇った桜がおのずと花を散らしてゆくことに似ていた。
とある昼下がり、園子は不思議な違和感にとらわれた。自分でも「?」と首を傾げたくなる妙な気分だ。どうということはない。単刀直入に言えば、彼が自分から少し、遠ざかっていたのだ。
もちろん登下校のときはいつもふたりだし休みの日はデートだってする。どこから見てもれっきとした恋人同士に違いなかった。でも、常に一緒ではなくなった。新学期が始まったばかりのときは休み時間、自習、課外授業に至るまでずっと自分に付きっ切りだったはず。それなのに、どうして。
「ねえ園子ちゃん。ここの問題なんだけど」
今も休み時間なのに、まったく関係ない女の子に勉強を教えていたりする。
「ああ、そこは問三の応用だから同じように……」
「なるほどお。さっすが、頭いい」
いかにも愛嬌のある、くりくりとした猫目の娘だった。頭はそれほど悪いほうではない。さっきの問題だってよく考えればすぐにわかっただろう。本気で自分に勉強を教わろうというのではなく、むしろ雑談が主な目的のようだ。一問解くあいだに三つくらいの話題が飛び出てくる。
「でね、そこでもらった試供品のシャンプーが……」
ペラペラとよく動く口を、園子は黙って見つめた。たまに作り笑顔でうなずいてやれば相手は満足なのだ。
それよりも心配なのは彼の学力だった。
初めて会ったとき「勉強が難しい」と嘆いていたので、即興で作った問題を解いてもらったのだが、結果は予想より悪くほぼ赤点だった。彼の自尊心を傷つけたかもしれない。もっと易しい問題を出せばよかった、と悔やんだ。
彼が頭を掻きながら「悪いけど、勉強得意なら教えてもらえるかな?」と頼んできたときは即答で快諾した。それから毎日、図書室でふたりの勉強会が開かれた。
基礎の習得が不十分、というのはすぐにわかった。聞けばこの高校に入るのもかなり背伸びした結果で、無理やり過去の試験問題を頭に詰め込んでなんとか合格したのだという。
たしかに、ふたりの通う高校は地元ではトップの進学校であったが、それでも園子にしてみれば難関とは呼べなかった。ただ家から通ってほしいという両親の希望に添う範囲内で最も高い偏差値の高校を選んだに過ぎない。
自分の安易な妥協と、彼の必死な努力が作った偶然を、しかし園子は運命だと感じた。
「園子ちゃーん、わたしの話聞いてる?」
「……え? はい、聞いてますよ。隣に座っていた方、大変でしたね」
「ふーん、なんか心ここにあらずって感じだったから。もしかして野々原のこと、考えてたりしてた?」
名前を呼んだ。しかも呼び捨てで。そういえばこの娘が彼と親しげに話すのを見たことがある。どんな話をしていたのか、よく聞いておけばよかった。
「気をつけなよ園子ちゃん。あいつ誰にでも優しくするんだから。ちゃんと紐つけて握っとかないと風船みたいにどっか行っちゃうかもよ。まあそういう雲みたいなところがあいつの長所なんだろうけど」
「え……?」
誰にでも優しくする。どんな風に優しいんだろう。脳内に浮かんだビジョンは、夜の公園で重なり合う男女の影絵だった。思考が停止し、ぐらりと平衡感覚が揺らぐ。
「ほら、噂をすればなんとやら。大好きな王子様だよ」
言われなければそのまま机に突っ伏すところだった。扉に眼を向けると、彼が幾人かと談笑しながら教室に戻ってきた。彼の周りにはいつも人が集まる。男も女も、馴れ馴れしく彼に語りかけ、肩を叩いてふざけあったりしていた。
「よう倉西、おまえも柏木さんに勉強教わってんのか」
輪から外れた彼が話しかけたのは自分ではなく猫目のほうだった。
「そうよ。次の試験のヤマ張ってんの」
「なら俺にも教えてくれよ。数学がかなりやばいんだ」
園子が「はい」と答える前に、倉西が強い語調でさえぎった。
「ダメよ。あんたみたいな不純物が混ざったらこっちのレベルまで下がっちゃう。いいから落ちこぼれは向こうの隅っこで小学校のドリルでもやってなさい」
頭にカッと血がのぼって、思わず手を振り上げるところだった。自分がどれだけ罵倒されても悲しいだけだったのに、彼を侮辱されるとたまらない怒りがこみ上げてくる。
なのに彼は苦笑いを浮かべて、こんなことを言った。
「はいはい了解。出来の悪いお邪魔虫は消えますよ。柏木さん、またあとでね」
振り返りざまにフッと見せた優しい、どこか安心したような笑顔。どうして行ってしまうのかわからなかった。邪魔なのはこの女なのに。こんな馬鹿な女、自分がちゃんと勉強を教えればすぐに追い越せるのに。
「………て…………だ……………き………………ね」
倉西がなにか面白そうに話している。園子にはすでに聞くふりさえできなかった。
どうして彼が自分から遠ざかろうとするのか、そればかり模索した。
帰結する答えはひとつ。
それは、自分が独りではなくなったから。
彼は優しい。だからその優しさは孤独な人間にこそ向けられる。クラスメイトに囲まれて過ごすようになった園子には、もはや優しくしなくても良いと、判断したのだ。
園子は心の中で嗤った。
自分はなんて浅はかなのだろう。名前と顔を覚えるだけでもわずらわしい他人との関係を強めることで、彼との絆を希薄にするところだったのだ。
だいじょうぶ。過ちに気づいたのだ。いくらでも修正はできる。
園子は右手を握り締め、ゆっくりと頭上に持ち上げた。
……たとえば、こんなふうに。
バンッ!
渾身の力で振り下ろされた右手は机を強打し、教室中に大きな音を響かせた。
しんと静まり返った室内で、園子に視線が注がれる。園子はなんの反応も見せず、ただじっとしていた。それだけで望みのものは手に入った。
「柏木さん、行こう」
彼がそっと肩を抱き、教室の外へと連れ出そうとした。いきなりのことに身動き取れなかった倉西も慌ててついていこうとするが、無言のまま手で制した。普段は使われていない視聴覚室に行くと、静かに園子と向き合った。
「いきなりどうしたの? 倉西になにかされた?」
「違います。わたしが悪いんです」
涙を浮かべながらかぶりを振る園子。
「なにがあったのか、落ち着いて話して」
「……本当に何でもないんです。ただ倉西さんに何度も課題の答えを訊かれてたら、前にノートを無理やり取られたりしたことを思い出して。それで、突然怖くなって。自分でもよくわからなくて」
男の胸にしがみついて小さく震える園子の姿は、あまりに痛々しく、愛おしかった。
「ごめん。あいつも元はいい奴なんだけどちょっと調子に乗る癖があって。俺からもよく言っておくから」
「やめてください。そんなことしたら貴方まで変な目で見られます。わたしが強くなれば、すむことですから」
「だけど」
「貴方さえいれば、わたしはもうそれだけで幸せなんです」
手を伸ばして彼の首に抱きつき「貴方もそうですよね」と囁いた。
しばらくの沈黙のあと、彼もほっそりとした腰に手を回し、うん、とうなずいた。
それからというもの、園子が人と話すことはほとんどなくなった。親しくなりつつあった人間にも冷たく接することで、そうなるよう仕向けたのだ。
だが彼の眼からすれば精神的に追い詰められた園子を周囲が無視するような構図に映っただろう。だからこそ、園子と過ごす時間が濃密になった。
その日の放課後も、ふたりは連れ添って校舎裏の花壇に向かった。
「いつも手伝っていただいてありがとうございます。みんなとっても喜んでます」
「俺もだんだん花の名前覚えてきたよ」
次はどんな花が咲くんだろうなあ、と楽しげに話す彼の横顔を見て、園子はたまらなくうれしくなった。園芸の作業には力が必要なものも多く、彼は率先して手を貸してくれた。
「そうですね、そろそろクロッカスやビオラが……」
先を歩いていた園子が校舎の角を曲がったとき、ピタリと足を止めた。
「なに? 誰か先客でも……」
花壇を見た彼が眼を見開いて驚愕する。昨日までなんともなかった花壇が、めちゃくちゃに荒らされていたのだ。花は無残に引き抜かれ、何度も踏み散らかされた跡がのこっている。
園子は顔を覆ってその場に座り込んだ。
「しっかりして柏木さん。誰が、こんなことを」
「……わたし、近頃また独りになって、きっとそれで。だけどこの子達はなにも悪くないのに。こんなの……いくらなんでもひどすぎます」
「とりあえず今日はもう帰ろう。明日、俺も一緒に直すから」
彼は憔悴しきった園子を介抱するように家まで送り届けた。
「ごめんなさい。せっかく貴方が助けてくれたのに、わたしやっぱり変われそうにありません。もっとクラスに溶け込めればこんなことされなかったのに」
「だいじょうぶ。無理しなくたって良いんだ。君には、ずっと俺がついてるから」
別れ際、男は優しく髪を撫でながら園子の額にそっと唇を重ねた。
帰路につく彼の背中を見送ると、園子は家には入らずもと来た道を戻りはじめた。正門はすでに閉まっていたが花壇なら背の低いフェンスを越えればすぐだった。荒れ果てた花壇の前に立つと、抑揚のない言葉をつむいだ。
「痛かったでしょう? 本当にごめんなさい。でも、これで彼はもっとわたしに優しくしてくれるの。さっきなんて道路だったのに、おでこにキスしてくれたのよ。フフ、みんなのおかげ。ありがとう」
丹精こめて育てた花たちをむしっていくのはつらかった。それでも罪悪感はまったくない。園子にとって花はいつくしむだけの対象ではなく、いわば自己の体の一部のように思っていた。
園子のことを絶対に裏切らない、最高の協力者であり共謀者なのだ。だから自身の一端である花を傷つけることで彼の愛情が得られるのなら、なんの躊躇もなく行えた。
黄昏どき。真っ赤に染まった夕日と夜の闇が拮抗した不安定な世界。危ういバランス。
もしそのとき、園子の姿を見た者がいれば、あるいは気づいたかもしれない。
仄暗い金色に染まった、底知れぬ瞳の深さを。 |