人を信じるな。
最愛の人にそう教えられた。もし、信じれば、その先に有るのは裏切りと喪失だけだからと。
怖かった。漠然と幼心ながらにその事を知っていた俺にとって、最愛である“家族”と呼べるほどの存在から、そう教えられたのは恐怖以外の何物でもなかった。
蔓延るほどの自分と似た形のモノが信用できないと言うことが、たまらなく、怖かった。
現実を、叩きつけられた気がした。
『それは……―――も信じちゃいけないの?』
だから、俺はその事をあの人に伝えた。
あの人は笑った。
『――――』
何と言って、笑ったのだろう?
思い出せない。景色が歪んでいく。冷たい、無機質なコンクリートの部屋も、瓦礫で埋まった街も、時折聞こえる呻き声も、全てが歪んでいく。
歪む先で見えたのは………メイド服?
……なぜ?
「くぁ………」
窓辺から差し込む光が暖かく、そして眩しくて俺は眼を開けた。ゆっくりと霞がかった脳に先程まで見ていたであろう夢の漠然としたイメージが浮かんでは消えていく。
だが、その夢は明確な形を形作る前に、薄霧の様に胡散し、記憶の奥底へと埋没して行った。……いやな、夢だったような気がする。
思い出せそうで思い出せないこのジレンマ。喉に小骨がつっかえた様な気がする。
「緋蓮様、どうしました?」
自分の左斜め上で、静かな声が聞こえた。
またかと思いつつも、その方向に目を向ける。って、言うかこいつは本当に俺と同類だな。
そんな事を考えつつ、声のほうに眼を向けると、そこには無表情で静かに佇むメイドがいた。顔が近い。もう少し近かったら間違えてキスをしてしまうところだった。
「………玲、人の部屋に勝手に入ってくるな」
「一応、緋蓮様のお世話係をお嬢様から承っておりますので、朝食に遅れないように起しに参りました」
互いの唇が触れ合うかもしれないと言うのに、目の前のメイドは全く表情を変えなかった。いや、互いに表情はピクリとも変えない。鉄仮面勝負だ。
「だったら起せよ。なに俺が自発的に起きるまで顔近づけてみてやがるんだ」
その瞬間、僅かに玲の表情が揺れた。その頬は赤みが差して、瞳を潤ませる。
今までが鉄仮面だったので、その表情の代わり映えに思わず目を瞠る。
「えっと……その……ずっと耳元で『緋蓮は玲のモノ。緋蓮は玲のモノ』って囁き続けていました」
「洗脳かっ!!」
何だこのメイド。怖いわ!!
あー、なんかメイド服が夢に出てきたような気がする。深層心理から侵されているのか俺は?
先程までの恥じらいの表情はどこへやら。玲は尻尾の様な後ろ髪を弄りながら無表情で話し出す。
「さて、冗談はさておき、本当の所は緋蓮様が魘されていたので、折角だからもっと苦しめばいいのに。と、思っていましたら、その苦しみから緋蓮様が自力で脱出された、と言うわけです。単純な嫌がらせです。悪意はありません」
「悪意しかねぇ!!」
何だこのメイド。この前は気持ち良さそうに眠っているから、って理由で午前四時に起されたぞ。
「緋蓮様、早くしないと朝食に遅れます。急がないと一秒ごとに千円の罰金が発生しますよ」
「聞いた事ねぇルールだな」
「今作りました」
あっけらかんと答えた鉄仮面メイドは一礼すると部屋からさっさと出て行く。
慌しい。ローテンションなのに、静かなのに、無表情なのに、嵐のように騒がしい奴だ。
まるで、嵐の時の静けさ………違うけどさ。
などと変なことを考えていると、室内電話が鳴り響く。
こんな時間に誰だ。と不審に思いながらも受話器を取る。
『今から十秒以内に来ないと、罰金発生。プツッ……ツーッツーッツーッ』
マジかっ!!!!
普通なら冗談とも取れる類のものだが、ことあのメイドとなると話は別だ。本気で取られる。
いや、獲られる。盗られる。
身支度もそこそこに、俺は食堂までの道をダッシュした。
広い食堂。そこにはバカに長いテーブルが数台置いてあり、それぞれの席で、シェフが作った料理を口に運んでいる。
毎朝行われる風景。その中で、一人暗く、沈んだ表情をしている男がいた。
「ジグジョ〜」
イッツ、ミィー!!
半泣き状態で俺は目の前のパンにかじりつく。カリッと焼きあがった食感が、なんとも心地よい。飲み込んだ後、サラダに手を付ける。近くに置かれたスープの匂いがまたなんとも。
「十秒……十秒遅れただけで……」
はい。取られました。一万円。泣きてぇ〜。
「どんまい」
玲、黙れ。
後ろを通る時に、わざとらしく声を掛けやがって。今度アイツの白い髪を血で染めてやる。
いや、まぁ、寝坊をした俺が悪いのだけれども。
「もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ」
あぁ、朝からショックな事が起きて、全く食欲がでねぇ。
あぁ、折角美味しい朝食なのに。
「もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ」
おっ、やべぇ、スープなくなっちまった。おかわりはねーよな、さすがに。
あーぁ、味わって喰えばよかった。
「もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ」
あー、サラダウメー。ドレッシングなに使ってんだ?
今度聞いてみようかなぁ。どうせ、手作りとか言うんだろうけどなぁ。
「もぐもぐもぐもぐもぐもぐ「いつまで貪ってんのよっ!!」………」
自分の頭上から聞こえた耳障りな声。俺をこんな不自由な境遇に押し込めた憎き人物の声を俺は聞いた。
その少女はある一点だけを除けば、超がつく………いや、並?………いやいやいや、中の下?………まぁ、取りあえず美少女がいる。
「早くしないと学校に遅れるわよ」
イラついたような声。絶対にカルシウム不足だな。だから、身長もちっちぇし、胸もねぇんだ。
「もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ」
パンを口に咥えながら、俺は席を立つ。やはり、視線の前には該当の人物がいた。
人の心の奥底まで見抜くかのような凛とした瞳と言われる、俺にしてみれば近所のガキみたいな生意気な眼。
今にも折れそうなほど、か弱く、守ってあげたくなるような身体と言われる、俺にしてみれば抱いても面白くも無さそうな貧相な身体。
流れる川のようにさらりとした印象を与える髪と言われる、俺にしてみれば頭につけたリボンがでかすぎて、Xの字にしか見えない変な頭。
「よぉ、サテ○イトキャ○ン」
「Xガ○ダ○か、私は!!」
この仇名は髪形を見て思わず言ってしまった仇名だ。別に悪意以外の他意はない。因みに、名前は……えっとぉ、あれ?……く、く、……くじゃ……孔雀?……ちがっ、あっ、九条 巴だ。
しかし、この俺がこのみょうちきりんの護衛役になるとは。世も末だ。
切っ掛けは……フジテレッ、じゃなくて、あの事件からだったよな。
気が遠くなるような昔、ただただ暗い世界に、一人だけ取り残された。
暴力、略奪、淫行、裏切り、騙し合い。
信じるものが一つもない世界。救いも、癒しもない、そんな世界。
修羅のみが生き残っていく、阿鼻叫喚の地獄絵図。
その世界で『護り屋』として仕事をしていく中で、俺は偶々偶然に、なんでか、運命と言うか、必然と言うか、呪いと言うか、運勢が悪かったというか何と言うか、俺はそいつとであった。
闇に包まれた“裏”から遠くはなれた光に包まれた“表”と言う遠い世界。その光満ち溢れる場所で、
「なにすんの………は……なしなさいっ!!」
巴の甲高くて、耳障りで、聞いているだけで人を不快にさせるような声を初めて聞いた。きっと、ベストオブ迷惑賞の堂々第一位に輝ける声をしているだろう。
その声の大きさに思わずその方向へと眼を向ける。そこには、この近くにあるボンボンの子供達が通う高校の制服を着た少女が三人の男達に車に押し込められようとしているところだった。
「あんた達……こんな事して無事で」
「ウルせぇ!!」
乾いた音が辺りに鳴り響く。その音は少し離れた場所にいる俺にも確かに届いた。俺の耳がいいだけか、それとも叩かれた音が大きかったのか、それは分からないが、少女の頬は赤く腫れており、痛々しさを見ているこちらにまで伝えてくる。
「痛いじゃないっ、なにすんのよ!!」
だが、少女の表情には怯んだ様子は全くない。むしろその瞳に映る敵意が更に増したようだった。
その少女を見るたびに、俺は何かを思い出しそうになった。
久しく忘れていたものを。
憧れ?親しみ?……なつ……懐かしい?
そうだ、懐かしいんだ。
初めて見る筈のその少女に、俺は何か訳のわからない懐古感を感じていた。
だからだろうか、俺は思ってしまった。
――護らなくては、と。
初めて、人に対して抱いた感情だった。そこから先の行動は良く覚えていない。いつの間にか身体が動き、少女を掴む腕を、俺は掴んでいた。
「あんたら、この子が伏龍高校の生徒ってしっててこんな事やってんのか?」
三人の中で一番偉そうな奴を前に話しかける。話しかけながらも握力を入れる事だけはやめない。喩え、その腕が悲鳴を上げようとも。
腕の痛みに耐えかねたのか、少女の腕を男は離す。他の二人は突然のイレギュラーの存在に驚いたのか呆気に取られたような表情をしていた。
はっ、だから誘拐は手際よく、手早くやんなきゃいけねーんだよ、素人が。
隙を突いて、少女は誘拐犯から逃げ出し、俺の背後へと回る。と、同時に何かが折れる音がした。
「なんかしんねーけど、イラついてんだ。…………殺してやるよ」
折った腕に更に力を込め、その動きを止める。そして、ようやく思考停止から立ち直ったであろう二人の男と対峙する。
だが、未だ行き成りの乱入に思考の方は付いて行ってない様で、目を見れば相手の同様の程が手に取るように分かる。
男二人がちらつかせるのはナイフ。
得物を見た瞬間、熱が冷める気がした。
熱く、何も考えず、ただ殴りあう喧嘩の思考回路から、どの様に追い詰め、どの様に甚振り、どの様に殺すか、の殺し合い様の思考回路へとスイッチが入れ替わりそうだ。
俺の中の黒い感情が、ちっぽけな存在を喰いたいと訴えてくる。
どちらからともなく、男達は襲い掛かってくる。
その内、一番身近にいる男に照準を絞る。突き刺すような軌道を描くナイフを持つ手を、手首から握り、その手の軌道を無理矢理変える。そして、更に手を引く事で、ただでさえ前傾姿勢の男の姿勢を悪くする。がら空きの顎目掛けて手加減して、拳をめり込ませる。
大柄な男の身体が、いとも簡単に宙に浮く。
「ういたぁ!?」
残る一人の男が、驚愕の表情で俺を見る。その瞳には驚き、そして、僅かな絶望感と、恐怖。幾度となく眼にした……負け犬の、眼。
腰が抜けたのか、男は地面に這い蹲りながら、俺から離れようとする。
思わず、唇が愉悦に歪む。
「あんたら、悪人には向いてないぜ」
戦意を失くしたガラクタを見て、俺は溜め息を吐きながら、足を振り上げた。そして、その足を勢い良く、振り下げる。
「礼を一応言っておくわ」
高飛車な少女はひと段落してからゆっくりと俺に話しかけてきた。
べつに高飛車な態度を取られても、お嬢様だから仕方ないと割り切ろう。
「まぁ、月が出ていないとお前は弱そうだからな」
「はっ?」
行き成りの俺の言葉に、少女は不可思議なものを見るような眼でおれを見る。
「月基地からのマイクロウェーブ波がなけりゃ、サテラ○ト○ャノン打てねーもんな」
「X○ン○ムか、私は!!」
俺が何を言っているのかがわかったのだろう。その少女はすぐさま機体の名前を出して否定する。……お嬢様なのに俗世的なもの知ってるな。
「まぁ、いいわ……」
少女は気を取り直すかのように、居住まいを正して、口を開く。
「私の名前は九条 巴。あんたは?」
「緋蓮。それ以外は教える気はないな」
それだけ伝えて、俺は踵を返す。歩き出そうとするが、服を何者かに掴まれる。後ろを振り向けば、なぜか少女が俺の服の裾を握り締めていた。
「………あんた、なんかフリーターっぽいし、つーか、プーみたいだから、私が雇ってあげるわ」
「………」
なに言ってんだ、この女は。
「私の護衛役になりなさい!!」
「却下」
0.3秒で答えを出して、すぐに俺は逃げる。だが、少女はそれでも俺の服の裾から手を離さない。
「屋敷に住まわせてあげるし、一日三食保障するわ。だから」
ギュッと掴まれる衣服。窺うような上目遣い。頬も若干、赤く染まっている。
余程力が入っているのだろう、中々振りほどけない。だが、その少女の腕を振りほどくと、一度も振り返る事もなく、俺は自分の居場所へと向かっていった。
「絶対、諦めないんだから〜っ!!!」
少女の懸命な声を聞きながら“裏”の世界へと向かっていった。
もう、二度と会う事はないと思っていた、水無月巴と言う少女。が…………俺の認識は驚くほど甘かった。
数日後、俺の事務所兼居住区に大男たちが大勢押し寄せてきた。
その中には一人の少女が。
「お前……」
「言ったはずよ。“絶対諦めない”って」
困惑し、脳の思考速度が低下中に、何人もの大男達から羽交い絞めにされる中、俺はなぜ、少女が持っているのかと、こ一時間問い詰めたくなるような大型のスタンガンを少女に押し付けられた。直後襲い来る、言い表す事のできない激痛。何とか堪えて、意識だけは保つが、身体の芯から痺れがきて、抵抗どころじゃなくなる。絶対、違法改造だろ、この電流。
痺れて抵抗できない身体を、ロープでグルグル巻きにされ、そのまま丸太を運ぶかのように、数人で抱え上げられていった。
「…………っ!!!」
「クスクスクスクス、悔しそうな顔。いい事、私は絶対に諦めないんだからね」
「―――――――っっ!!!!」
俺の声なき絶叫が、辺り一面に響き渡った。
「どうしたの? ボーっとして」
巴が俺を振り返る。その長い髪がさらさらと音を立てるかのように宙を舞う。
「あー、此処に連れてこられたときの事を思い出してた」
「あー、アレ」
その時のことを思い出したのか、少しだけバツの悪い顔をする。流石に本人も悪い事をしたと自覚を持っているようだ。
「アレはあんたが悪い」
「ナンデだよ」
「あんたが私の言う事聞かないからよ」
だが、バツの悪そうな顔も一時の事。すぐにいつもの傲慢不遜な表情に戻る。
「いいじゃない。『護り屋』でしょ? 懸命に護ってくださいね護衛役さん?」
「ちっ」
あの後、俺はちんちくりんの父親と契約を交わした。
報酬もよかったという事もあるが、コイツに興味があるのも確かだ。なにかが、引っ掛かる。記憶の中に眠る………なにか。
「大丈夫、私なら絶対退屈させない。“信用”しなさい」
「“信用”………ねぇ」
――信用しても、やってくるのは裏切りと、喪失だけ……
コイツなら、別の最後を見せてくれるかもしれない。僅かながら、そう思った。
裏切りや、喪失、更には後悔とは違った、また別の幕引き。
それを、この女から見せられそうだ。
僅かながらに、楽しく感じた。仕事が楽しく感じられたのは久しぶりだ。
思わず、口元が綻んだ。
それは、ある晴れた日のこと。
学校へと向かう道の途中の平和な日の出来事。
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