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異天つ空から 作者:Yatusaka
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ひとつ

 方今私は胸中に何とも言い難く漂う漠然とした──それは抗い得ぬものへの恐怖とも似ている──不安を患っていた。それはまるで渺然たる天の深淵を望むような果てしない暗闇で、更にこれの解を思慮模索する私の身体にある種の高揚と背骨が伸びたような浮遊感をもたらしてくる。私はこれが甚だしく不快である。頭を考えに耽らせれども全く解せぬ悩みであり、ひたすらに思い描くものがこの暗闇に適う正答となること、解決への糸の一縷さえ未だ見いだせなかった。
 壁に背を凭せて屈み、思いに耽り帽子を弄ぶトバルの横の扉が不意に開いた。其方へトバルが顔を上げると同時に白い長衣を着て、トバルより僅かに背丈は高く、僅かに痩けた顔をした男が姿を見せた。
「おう」
 デオの短い一声の後、おお、と返してトバルは立ち上がり自らの背中を埃を落とすように手で軽く叩いて言った。
「じゃあ行こうぜ」
「いつものトコな」
 白髪混じりの黒髪に帽子を被せながら二人は肩を並べて歩いた。
 二人は前もって行きつけの酒場に行くという約束を交わしていたのだ。このデオという男はトバルの昔馴染みであり、二人の住まうこの城郭都市ハウグルを守護を担う団体の一つ、ヴァルト戦士隊の副隊長という立場にいるのである。つい先程、彼が出てきた建物が戦士隊の本拠であった。
 大通りは今や淡水色の空に夕の赤みを帯びていながらも、荷馬車や人は行き交っていて、私とデオも混沌とした通りの流れのその一員であった。
「なあデオ」
「何だ」
 私は今揺蕩う悩みを此処で吐き出そうとしたが、一瞬此処でどう言おうものかと思って口を咄嗟に、しかし不自然なく取り替えた。
「そういえば、お前のところは新しく人は入ったか」
「ああ、来たよ、三人。ただ一人が問題児でさ」
 幸い疑念は持たれなかった。しかし、私一人ではどうにもならぬ悩みであるので密か事にはせずに僅かに酔ってから明かすことにしよう。決心し、さて私はデオの愚痴めいた──しかし表情は楽しげである──話に答えた。
「問題。どういった風にだ」
「名前、カーノって言うのね。それでそいつが口悪くてさ」
「はぁ、莫迦だの阿保だのとか」
「いや、そんなものじゃないね。うちのもんに、面に胡麻を並べやがって、なんて言うんだ。確かにあいつの顔にはそばかすがあるが、あいつはそれを胡麻と言ったんだよ」
 酷い酷い、と言いながらもデオは笑っていた。私もつい吹き出してその彼への同情は無しに笑った。その後、デオは言う。
「奴は恐らく東の下町の者だろうな。偶に来るんだよ、そういう輩が」
「はあ、やっぱりな。なら規律をきっちり教え込んでやらなきゃな」
「あ、もうやったよそれ」
「やったの」
 彼の手早い対応と、そのカーノという人が受けたであろう教え込みの手酷さを想像し私はまた笑った。
 ヴァルト戦士隊の教え込み即ち教育とは武器は持たず、徒手にて隊の一人と新入りを争わせるというものだ。しかし、隊の者は殴り蹴る事はせず投げ技のみ──猶致命の危険がある投げ方は禁じられる──で相手どり、そして完封する。こうして力量差と上下関係を教えるというのである。
 聞いた通りに挑発したのならば、果たしてその人はどうなったのだろう。私は彼にそれを尋ねた。すると、彼は復も笑ったのだ。
「それはな──ああ、顔面を侮辱された人はコルメルと言ってな、それでそいつが奴を相手を名乗り出たのさ。勿論圧倒的に抑えたよ。その闘いがよ……いや、これは着いてから話すとしよう。酔った最中で聞けばまた更に面白く聞こえるだろうさ」
「楽しみだ」
 雑談を交わしながら二人は角を曲がって喧騒を背に受けつつ真っすぐ行き、建物を二つ通り過ぎて、道を一つ跨ぐと目的の酒場にたどり着いた。看板には麦を束ねた絵があって、それに「黄昏亭」と文字が重ねてある。トバルがデオより少し前に出て、酒精を嗅ぎ取りながら自在扉を押し開ける。猶道中も今も暗闇の晴れること、胸中にのみならず身体に蔓延る浮遊感即ち不快感の消え去ることはなかったのである。
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