妄想か暴走か現実
眠る前に投稿したせいか、ジャンルを誤っていたので、お詫びして訂正します。
しばらく、家に帰るのはやめようと思う。母さんがとても心配するからだ。
母さんは薄幸を絵に描いたような外見をしている。まだ四十三歳だというのに、髪という髪は真っ白になり、頬は痩け、目は常に充血し、くまも酷い。
母さんがそうなってしまうのも無理はない。もう三年も前から、とある組織に命を狙われているのだ。僕はまだ十歳の小学生だが、母さんを見れば、その組織がいかに危険な存在であるかは充分に解る。
『家にいると、危ないのよ。私だけならともかく、あなたまで命を狙われたら、母さん耐えられない』
家を出なさいと、母さんは言う。例え真夜中であろうとも、僕が言う事を聞かないと、叫び声を上げてあらゆる家具をひっくり返し、包丁を僕に向けるのだ。
『言うこと聞けよ馬鹿息子! 命が危ないんだよ! 死んじゃうんだよ! お願いだから、今すぐ出ていって頂戴よ!』
父さんは、いつも母さんを組織から匿ってくれる機関に連れていこうとしていたが、家を開けたら組織に乗っ取られるという母さんの危惧が、それを断固否定した。暴れ方が尋常じゃなくなるのだ。
しかし、母さんも疲れているんだと思う。そう言っている割に、母さんはよく、家から姿を消す。そういう時、大体母さんは近くの喫茶店か、公園にいた。閉店後三時間もその喫茶店に居座ったり、公園に犬の散歩に訪れていた老夫婦を襲ったりと、バリエーションは様々だが、とにかく、姿を消した時は大概この二つのどちらかにいた。
真夜中に追い出される僕を、父さんが追ってきたりはしない。僕の行き先は判っているし、母さんの面倒を見るので精一杯だからだ。そういう時は、決まって僕は最上階の祖母の家に泊まる。小さいながら、うちのマンションは祖母の所有する物件らしい。
『あんたも大変ねぇ。頭のおかしなお母さん持っちゃってさ』
祖母は忌々しそうに、床を見つめてそう言う。二階下は僕の家だ。
『違うよお婆ちゃん。母さんは組織に命を狙われているんだ』
祖母は深い溜め息を付いて、それ以上何も言わなかった。
僕は祖母に、これから何日か連続して宿泊する許可を申請した。祖母は面倒臭そうな顔をして、財布から二万円を取り出して僕に渡した。
「なんて言ったっけ? 今流行ってる深夜も開いてる喫茶店。そこにおいきよ」
「漫画喫茶?」
「そうそう。あっちの方が楽しいよ」
前に、母さんから祖母は組織の毒牙にかかり、身内に対する愛情を刈り取られてしまったのだと聞かされた事があるが、本当らしい。深夜に小学生が行ったって、入れてくれる店があるとは思えなかった。祖母は毎日僕と暮らすのが嫌なだけだ。今までだって、布団が無いという理由で、僕は真冬にも関わらず冷たい床で眠らされてきたのだ。
祖母のそういう態度が、床よりも僕には冷たかったので、二万円を握り締めて、午前零時の街へ出た。
僕の家のすぐそばには、産業道路と国道十五号がぶつかった交差点があって、深夜、人気こそ少ないものの、道路には大きなトラックが何台もスピードを出して走っている。
僕は、今道路に出れば組織の追従を逃れる事が出来るのではないかと思った。僕が安全ならば、母さんの心配の種も少しは減るはずだし、それはとても有効な手段であるように思われた。
しかし、交差点の対岸にある交番から駐在が僕の方をじっと見つめている事に気付くと、今それを実行するのはひどく危険だと思い直した。
暴れていた母さんに耐えかねて、父さんが警察を呼ぼうとした時に、母さんはこのように叫び、電話線を切断したのだ。
『あんた、そんな事も解らないの? 国家権力はすでに組織の手に落ちたのよ! だからあんたは駄目なのよ! 浅はかなのよ!』
ここから一歩進んだら、それこそ組織に捕まりかねない。そもそも、僕がそういう考えに至った事自体が、組織の罠であるという可能性すらある。
僕は怖くなって、回れ右の後全力疾走した。背後から組織の視線を感じたが、一度たりとも振り返る事はなかった。
結局、僕は母さんが家を出た際に発見される小さな公園で夜を明かす事にした。
母さんがわざわざここを選ぶという事は、組織の魔手がこの公園には及ばないという事を示唆している。少し安堵してベンチに横になった。やけに明るいと思ったら、綺麗な満月が空に浮かんでいた。僕はそれを眺めている内に、何故か涙を流していた。特に今は泣くべき時ではないと思ったが、涙は止まらず、その内得体の知れない悲しみが津波のようにやってきて、僕は声を押し殺しながら、すすり泣いた。
朝日が登った後で、僕は家に帰ってみた。父さんが食卓にうつ伏せになっている。家具は相変わらずひっくり返って、割れた食器や、様々な種類の請求を記した書類がそこら中に散乱していた。
母さんは、寝室で包丁を枕元に置いて眠っていた。珍しく寝息を立てている。熟睡しているようだ。僕は昨晩において、母さんが組織と渡り合っていく為の対抗策を見出したのではないかという仮説を考えた。そのように考えると、僕もたまらなく幸せな気分になる。すると、とてつもない睡魔が僕を襲い、母さんの隣に倒れ込んでしまった。
目が覚めると、包丁がまな板を叩く音が聞こえた。僕は寝ぼけ眼でリビングに赴く。
「あら、日曜日なのに早いじゃない」
優しい母さんの声だった。時折、母さんは組織の事を忘れる。その度に、僕は母さんがおかしくなってしまったのじゃないかと思い、精神を治療する病院への通院を勧めるのだが、今日は特別だった。やはり、僕の仮説が正しかったのだろう。
「父さんは?」
「さぁ。朝起きたらいなかったわよ。それより、昨日何かあったの? 食器が大分なくなってるのよねぇ」
やはり、母さんはおかしくなってしまったのではないか。僕の懸念は心臓のスピードと比例して加速度的に膨れ上がる。
「組織は?」
「何よ組織って。あんた、漫画の読みすぎじゃないの?」
とてつもなく、嫌な予感が胸をよぎった。
母さんは、組織に洗脳されてしまったのではないだろうか?
「それより、さっきまた義母さんから小言をくらったわ。あんた、夕べ二万円も貰ったんですって? やめてよ。あの人がどれだけ嫌味か知ってるでしょう? もうウンザリなのよ! あの人の声聞くだけで、鳥肌が立って…」
まな板を叩く包丁の音の間隔が短くなっていく。母さんはいつものようにぶつぶつと何か呪いの言葉のようなものを唱え始めた。
僕は胸を撫で下ろした。よかった。母さんは洗脳されても狂ってもいない。いつもの母さんだ。
組織に対抗する方法など結局見当たらなかったのかもしれないが、母さんが狂ってしまうよりは遥かにマシだ。
その日の夜、警察から父さんが首を吊って死んでいるのが発見されたという電話があった。確認の為、出頭を願うという旨だった。
僕は『その手には乗らないよ』と言って電話を切った。電話線も抜いた。
ついに、組織は父さんを殺すまでに至った。これからは、抵抗が必要になってくるだろう。僕は愛する母さんの為に勇気を絞った。
母さんは出て行きなさいと鬼神の形相で僕に叫んでいる。母さんも必死に戦っているんだ。僕だけが逃げ出す訳にはいかない。
僕は台所から包丁を取り出し、家を出た。反撃の時は来たのだ。僕はたまらなく怖かったが、深呼吸をしてエレベーターに乗り、最上階のボタンを押した。