月世界旅行
当作品は空想科学祭二〇〇九出展作品ですが、近代SFの先鞭、ジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズによる「月世界旅行」とは一切関係ありません。
人類が初めて月面に足跡を残してから六〇〇年あまりの時が過ぎた。
太陽系第三惑星、地球。
この星は未だ虚無の宇宙の中でひときわ美しく、緑の森と青い海がつくりだす輝きは、黒曜石の台座に据えられた群晶のようでもある。
ただ、それはわずかな作為もなく維持されてきたわけではない。
大きなものでは二二世紀末の大規模異常気象、二四世紀初頭の隕石衝突など、いくつかの危機的状況が地球に訪れたが、そのたびに適切な処置を施して前人の怠惰を償い、既定されていた災厄をやりすごしてこそ保たれてきたのだ。
六世紀を経ても我々の生活に大きな変化は見られない。
夜明けとともに活動を開始し、若いものは学校へ、経験を積んだものは仕事へと向かう。
日が落ちれば友人や家族と語らい、時計の短針が頂点を指す頃には休息のために寝台に入る。
夜間の仕事を生業とするものがいるため、総てのものに当てはまるわけではないが、それはどの時代でも変わることはないだろう。
長い年月の間に言語は統一されて久しいが、前史時代に夢想されたように電波や超能力的なもので意思の疎通を図るというようなことは、現段階では実用化される見通しが立っていない。
自然環境保護の観点から紙という媒体は使われなくなり、データ技術の発展に伴い問題そのものが消滅した。
エネルギー生産方面では懸念材料の大きな火力発電や原子力発電は姿を消し、高効率化された太陽光発電、地熱発電によって必要十分な量の電力が確保されている。当然、消費側の高効率化においても目覚ましい飛躍を果たしたことは言うまでもない。
映像媒体もブラウン管、液晶と進化したように三次元投影式が現れたものの、番組の制作過程に変化があるわけでもなく、娯楽環境の進化については多国籍化と統一言語化によって多様な展開をとげたチャンネルが最大の恩恵と言えるだろう。
機器の小型化もさることながら、三次元投影式の出現はその機能を活かした相互同時通話機能に劇的な貢献を果たしている。
移動手段についても、瞬間移動や次元転送ができるようになったわけではない。
車は水素エンジンや電気モーターによる無公害化は達成したが、空を飛ぶでもなく四つのタイヤが付いているし、飛行機も安全性や効率を考慮すると常識外れな速度で飛ぶわけにはいかない。
この分野で大きく変わったことといえば、電車が全てリニア化かつ地下鉄化されたことだろうか。
その他、大幅な利便性の向上や簡略化、効率化はあっても、数百年前の人類と我々とでは、ライフスタイルという点での差異は認められない。
大きく変化したこともある。
宇宙開発分野におけるそれがセンセーショナルだろう。
我々は月に居住可能な全天型ドームをいくつか建設し、その大半には娯楽施設が配置される一大リゾートを作りあげた。
基礎は人工的に作られたとはいえ、なるべく自然に植生させた草木による森林浴や、地球から運び込んだ海水をたたえたビーチで海水浴を楽しんだり、カジノなどの遊興施設も取り揃えるなど、ドームごとに特色を持たせており、ドーム間の移動もリニアモーターカーを使用してそれぞれ一〇分足らずで到着するようになっている。
ほぼ中央にホテルや別荘を集めたドームがあり、利用者はここから好きな場所へと出掛けるのだ。
特権階級のものや特に裕福なものはここに別荘を持つことが多く、私有宇宙船で往来するものもそう珍しくはない。
もっとも、利用者の大部分は一般の旅行者であり、気軽に、とはいかなくとも、長期休暇のバカンスにちょっと背伸びしてみようか、という程度で足を運ぶことができる。
旧オーストラリア東部、ブリズベーン宇宙港から出発する月への定期便は比較的利用の少ない平日であっても日に五、六本程度が運行され、連日にわたって月旅行経験者を量産していく。
現地時間午後三時、そのなかの一便に間もなく離陸の許可が下りるところだった。
今日もまた、旅行者たちを乗せた船が月へと飛び立つのである。
『……当機は大気圏を抜け、安定航行へ移りました。席を離れるお客様は安全のため磁力靴の作動をお確かめください……』
「ここ空いてますか?」
「ええ、どうぞ」
「宇宙って本当に暗いんですね……客室の小窓とは迫力が違う」
「そうですね、飲み込まれそうです」
「やはり割高でも展望室付きを選んで正解でした」
「あなたも宇宙は初めてですか?」
「実は二度目なんですが、前回は寝て起きたら着いてしまっていたんですよ」
「帰るときも?」
「寝る子は育つと言いますからね」
「まあ」
「あなたは初めてのようですが」
「私は怖がりなもので、理屈ではわかっていても事故とかが心配で今まで乗れなかったんです」
「なるほど、わかりますよ。そういうのは理屈ではないですからね。今回は何故?」
「友人の結婚式なんですよ」
「それはめでたい、いや、ご苦労様です、と言うべきでしょうか」
「全くです、皆地球に住んでいるのだから地上でやればいいのに」
「他の出席者の方々はご一緒ではないのですか?」
「先に向こうで観光すると言って、先週から。私は仕事があるので、帰りもとんぼ返りですよ」
「それは大変だ。スケジュールの調整は難しいですからね」
「そういえばあなたは何をしに? バカンスのようには……見えないですけど」
「仕事です。月支店に異動になったのでしばらく地上には戻れませんよ」
「月に回されるなんて、優秀なんですね。お仕事は何を?」
「電化製品の営業です。月に住む人も多くなってきましたからね、事業の拡大がなければ縁もなかったのでしょうが」
「月の電化製品というと、EEかLCですか」
「EEです。ご入用の際は是非」
「お上手ですね。でも私、今の機械って苦手なんですよ」
「とてもそうは見えないですね、最新型も使いこなしていそうだ」
「昔からアンティークが好きで、そればかり触っていたら、という感じです」
「そうでしたか。しかし、友人に詳しいのがいますが、それはそれで複雑なのでは?」
「中身のことまではちょっと。単に見た目が好きなだけなので」
「確かに味はありますよね……おや、その携帯もそうですか」
「ええ、これは五〇年程前のものです」
「凄い年代ものですね。それでも未だに使えるというのがまた凄いですが」
「一応メインチップは交換してるらしいです。それでも必要最小限の仕様変更で済ませているとか」
「最近では数ヶ月ごとにバージョンアップしてますからね」
「そんなに早く新製品が出ているのでは売る人も大変でしょう」
「そうでもないですよ、変わるといっても秋物が冬物になる程度のことですから」
「着る服が変わるのは女の子にとって一大事なんです。そんなことでは彼女に怒られますよ」
「すいません、失言でした。相手がいれば違ったんでしょうけど、以後気をつけます」
「そうですよ、もてそうなのにそんなことで損してるのはもったいないですよ」
「僕のようなタイプはいくらでもいると思いますが、褒め言葉として受け取っておきます」
「まあ、それはそれとして、聞いてみたいことがあるんですけど」
「なんでしょう?」
「私のこの端末、音声通話しかできないんですけど、三次元投影式にすることってできますか?」
「モノにもよるんですが……ちょっと見せてもらってもいいですか」
「どうですか?」
「……できないことはないですが、多分最新型を買ったほうが安くなっちゃいますね」
「そうですか……。それだけはできたら便利だなと思ってたんですけど」
「ならいっそもう一台持つというのはいかがですか? 今なら新規加入でポイントが三ば……」
「……」
「……すいません。いつもの癖で営業してしまって」
「ああ、大丈夫です。ちょっとびっくりしただけですから」
「三次元投影式の話でしたね。僕の端末で悪いんですがここを見てもらえますか?」
「はい」
「この部品が装置の要なんですが、今の新製品はほとんどこれの値段のようなものでして、やはり単品で買うと割高になってしまいます」
「ええ」
「それにこれは外面に露出しなければならないものなので、アンティークに取り付けるというのも外観を損ねてしまうことになります」
「はあ」
「もちろん極小のデバイスを組み込むことで目立たなくすることはできますし、手頃なものならMVF-M11CかORB-01がコストパフォーマンスに優れていますが、やはり今組むなら高性能なZGMF-X19Aあたりが……」
「……」
「……難しかったですね」
「他に何かありましたか?」
「え、ええと、古いものでも大丈夫ですか」
「どのぐらい古いものでしょう」
「二三〇〇年代以前のものって残ってませんかね?」
「その頃のものはさすがに残ってないでしょう。隕石衝突の被害もありましたし」
「そうですよね……。あっても博物館にいくレベルですものね」
「アンティークというより、もはや化石ですね。そこまでこだわるのは何故ですか?」
「私たちの進化の形を身近に置いておきたいんですよ」
「なるほど。しかし、あまり古すぎると趣味の範疇を超えてる気もしますが……地震や津波で当時の機械文明はほとんどが埋もれてしまいましたからね」
「何故掘り起こさないんでしょう」
「埋もれた大都市圏を掘り起こせば見つかる可能性は高いはずですが、いわば墓所のようなものですから」
「生態系も壊滅的な被害があったとデータベースにありました。……やはりそんな時代のものを欲しがるのは不謹慎でしょうか」
「いえ、欲深いのは人間だけではないということですよ」
『……間もなく月面宇宙港に到着いたします。展望室のお客様は座席にお戻りください……』
「そろそろ戻りましょうか」
「そうですね」
「もう月には来ないんですか」
「宇宙も悪くありませんでしたから……」
「そのときはご案内しますよ」
『……本日はMWTをご利用いただきありがとうございました。アンドロイドの皆様に快適な旅を……』