こんなに必死になれるなんて、その神とやらはさぞかしいい男なんだ。
大げさな身振りで話を続ける女を少し冷めた目で見ながら、遠藤春香が考えていたのはそんなこと。
そんな春香の思いを、知ってか知らずか知らずだろうが、女は満面の笑みを春香に向けてくるので、春香もつられたふりをしてあげた。
「なるほど、春香さんは優しい方ですね。いとこさんのことをそんなに気にかけて」
「いえ、そんなことは」
「でも、心配なんでしょう?」
心配じゃないといえば嘘になるから、黙っておく。ただそれだけのことなのに、女はしたり顔で話を再開した。
「優しい人はね、いつも心にためちゃうの。この世界は不公平だわ」
心の病んだ人、疲れた人が救われるには、信じること。それが必要なの。ね、私も最初は思ったの。そんな簡単に信じれない、私は、誰も信じれないって。でもね、そんな頑なじゃないけないなってわかったの。あなたにも、わかってほしい。せっかく、この扉をたたくことができたんだもの、あと一歩だわ……女はそうまくし立てた。
それじゃ、私が病んでいると。疲れていると言いたいわけ。
目で訴えたつもりだったけど、女には届かなかったようだ。爛々と光る眼で私を見ている。
私の答えを待っているのだ。
しばらく焦らしてあげようかと思ったけど、それも面倒だったので、満面の作り笑顔を贈る。
「……それで、何を信じればいいのですか」
口が裂けるんじゃないかというくらいに、笑う女が眩しかった。
世界の約束事だとか、生まれながらの役割だとか試練だとか、そんなのを聞きたくて来たわけじゃないのに、最終的には紙袋いっぱいの資料を持たされた。
また来てね、と言われたけれど、二度と行くもんか。その電話番号は嘘のだよ。
誰か、当たっちゃったらごめんなさいね。
愛はなにより尊いものです、って言われなきゃわからないと、舐められているのが、腹が立ったんだからしょうがない。
はぁ。今日で何度目のため息だろうか。いい加減飽きて顔を上げた春香の目の先に、十字架が立っていた。
水色に塗られた教会を、まるで突き刺すように立っているあれに惹かれただけだ。
だから、ふらと立ち寄った。元々、ミッションスクール出身だった春香にキリスト教に対する抵抗は無い。ただ、それを騙る怪しげな集まりには抵抗しかなかったけれど。
でもその時は、懺悔ができるかと思った。
「おじさん」
春香が呼ぶと、彼は少し困ったような顔をして振り向いた。
「何だい、春香ちゃん」
「由里ちゃん、寝ちゃったの」
「え?あぁ、本当だ。ごめんね、ありがとう」
起こさないように、そっと優しく娘を抱き上げる。その姿を見つめるのは好きだった。
好きだったけれど、だんだんとどうして、悲しくなったりした。
だけど、ありがとうと頭をなでられるのがうれしかったから、黙っていた。
一二歳。春香はまだ子供だった。
だから、何故そんな気持ちになっていたかなんて、知らなかったし、知る必要なんてなかった。
九歳の由里は、もっと子供だった。
いとこの由里が登校拒否になったと聞いたとき、春香は笑った。
春香が、一七の時だ。
笑ったというより、茫然として、それで口が緩んだというべきかもしれない。
その話を聞いてすぐに反応できないくらい、距離が開いていたから。
パッチリ二重の大きな眼で、小さな口。小顔の由里ちゃん。
東京に住む私と、北海道に住む由里ちゃんは、一年に一回、一週間ほどだけ遊ぶ関係だった。
春香と、春香の姉と、由里ちゃん三人そろうと、一番年下で一番可愛い由里ちゃんは誰からも一番可愛がられた。
姉が先に大人になって、私と由里ちゃん二人になっても、由里ちゃんは一番だった。
一番の由里ちゃんは、一番をこじらせてか我侭でもあった。構ってくれないと、露骨に機嫌が悪くなる。
手入れのされていない両眉の間に皺を三本ほどつくって、よく不機嫌をアピールしてきた。
それでも。
遠く離れ、一年に一回しか会わない親戚に対して、年の近い親戚に対して、春香は嫉妬なんて覚えない。
春香は聞き分けの良い子供だったから。
だから、ふくれっ面の由里ちゃんの隣に座って、思いつく話を適当にしてあげたものだ。
そのうち、由里ちゃんの父親が笑ったような困ったような顔をして向かってきて、由里ちゃんを抱き上げる。
にこにこと笑う由里ちゃんを見ているのは好きだったのだ、春香は。
由里ちゃんはいつも太陽のように笑う子だった。
そんな由里ちゃんとも、春香が中学生になる頃に疎遠になった。
春香は中学の勉強についていけなくなっていたし、血縁関係というコミュニティから自分発信の友情関係を築き、維持するのに躍起になっていた。
そして、由里ちゃんが中学生になる頃には、春香はその関係の存在すら忘れかけていたのだ。
薄情なことに。
薄情なことに。
だけど、仕方の無いことだとも思う。
東京から北海道は離れすぎていた。
由里ちゃんが虐めにあっていることなんて、気づけるはずもなかった。
じゃあ、謝りたいのは何。
町を一周ほどして、大体は見て回ることができた。特に危ないところではなさそうだ。
スーパーやコンビニが近くにあって便利そうだし、何より病院の近くという希望に合っている。
怪しい団体がアジトを構えているのが若干気になるけれど、そこを無視すればかなりの良物件だ。
その旨を手帳に記し、春香はぱたんとそれを閉じる。
この春、由里が上京することになった。
スタイリストへの夢を叶えるため、専門学校に通うことになったのだ。
そういった学校自体は北海道にももちろんあったし、由里の両親は道内への進学を希望していたのだが。
というのも、一年以上続いたという陰湿な虐めは彼女の心を確実に蝕み、時に手首にカッターを当てる癖が、由里はまだ抜けない。病院へも通っている。
だからこそ両親は心配したのだろうが、しかし、由里の東京への憧れとそれ以上に、今ある全てから飛び出そうとする彼女の気概が打ち勝った形だった。
そんな由里のために、由里の伯母こと春香の母がしてやれることは、一人暮らし用の物件を探してやることだ。
「それで、この辺りどうかなと思っているんだけど、ちょっと見てきてくれない」
なぜ私が、と春香は言ったが、同世代の意見が聞きたいという言葉に押し切られた。
本当は、周辺情報を見るだけなら世代も性別も関係ないはずなのだ。体よく利用されたのだろう。
けれど春香も、強く拒絶はしなかった。
スタート地点の、アパートに到着した。
アパートという言葉の割には、綺麗で大きな建物だ。ただ、マンションには至らないだけ。
隣に公園がついているので、さらに豪華に見える。砂場とブランコしかないけど。
誰もいないブランコに、春香はゆっくり腰かけた。
きぃ、と軋む音がブランコの年輪と自分の重みを感じさせる。軽く、春香は地面を蹴った。
「優しい人はね、いつも心にためちゃうの。この世界は不公平だわ」
あの女の言うことは、嘘だ。
春香はそう思い、目を伏せる。
だって、私は優しくないのだ。
優しくないから、いくらでも自分に嘘をつける。
だから、いくらでもためこむことができるのだ。嘘も偽善も憎悪も罪悪感も、優しさも。
ごちゃまぜになって、わからなくなるくらいに。
結局、私がこうやって由里のために動いているのだって、一体何のためかわからない。
由里のために何かをしなければという焦燥感があった。
だから母の提案は、本当は渡りに船だったのだ。
「何よりも尊いものは、愛なのよ」
そのために、自分はどんどん汚れていくのに。
中学生二年生になった由里に会ったとき、春香は高校一年生だった。
春香と春香の母、そして、由里と由里の母。あわせて四人で食事に行った時のことだ。
母と叔母が姉妹仲良く話しているのに、春香と由里は挨拶すらぎこちない。
血のつながりが絆なら、遠い分の薄さがあるのかもしれない。けれどそれだけじゃないと春香は分かっていた。
垢抜けない、ダサい春香に対し、由里はきらきら輝いていた。すでに光が見える原石だった。かつての太陽の笑顔は、光を失いかけていたけれど。それでも。
違う世界にいる。春香はそう思った。
きらきら輝く女子の世界に、一歩及ばずにいる春香にとって、由里はシンデレラに見えた。
いや、シンデレラ姫になることが既に内定している灰かぶり娘というべきか。
だから、春香は由里の隣を歩かなくなった。
母と叔母がお喋りをしながらずんずんと先を歩いていく。
春香は、それを追うように早足で歩く。由里の少し先を行き、見ないようにしていた。
由里もしばらく気まずそうにしていて、けれど母と叔母の二人と春香の距離が少し離れたころ、由里が口を開いた。
「ねぇ春香ちゃん」
「何」
「何か、怒ってる?」
怒ってなんかいない。なのに、そう言われたことに無性に腹が立った。
怒っているように見えるのか、あんたには。
私は、あんたが癇癪起こした時も何も言わずに宥めてやったのに。
春香は閉じた口の中でそう呟き、それを全部喉の奥に飲みほしてから、
「それ、そっちじゃないの?」
そう言って、母親の元へ逃げ去った。ただの仕返しのつもりで、年頃の娘の醜い意地悪心。そして由里の顔も見ずに、走って。春香はその時何も知らなかった。
今この時を想い返しても、由里の表情は見えない。
何より、想像をするのが怖かった。
そのとき既に、由里がそういう苦境にあったと知っていたら、自分はもっと優しくなれたのだろうか。
そう思うと、頭を削るようにかきむしりたくなる。
ただ分かるのは、きっと自分は由里を傷つけた、ということ。
ボロボロの由里を、更に打ちのめしてしまったのだ。
由里が虐めにあっていたという事実を知ってから、それだけが春香を責めている。
誰も自分を責めないから、自分で自分を追い詰める。
由里も春香を責めなかった。
由里が責めたのは由里自身。
そして伯母もまた、「どうして早く言わないの」と由里を責めた。叔父は、「何故気づけなかった」と自分を責めた。それから、皆学校や加害者を責めた。
だけど、春香には分かっていた。由里が両親に言えるはずがない。自分が虐めにあっているなんてことを。
由里は誰よりも両親を愛していた。そして、愛されている自分が好きだった。
両親の悲しむ顔や怒りの顔を見たくない、何より、「愛されている自分」が「哀れまれる自分」になるのが許せなかった。
由里はそういう子だった。それを春香は知っていた。
だから、いつも由里は、私の所に来たのだ、と思う。
両親が自分を構ってくれないとき、泣くよりもそうした方が、二人が喜ぶと分かっていた。
年の近い春香には寄り付きやすかったし、わがままを言うことも躊躇われない。
だからきっといつも、そしてあの時も、由里は春香のもとに来たのだ。
「別に、私のことが好きなわけじゃない。きっと、由里ちゃんは私のことを利用しているだけなんだよ」
少しひねくれ出した春香の、独り言を、姉は困ったように聞いた。姉は、何も言わなかった。
姉は由里の性格は知らなかったけれど、春香の性格はよく知っていた。
だから黙っていた。でも、彼女の目が何て言っていたか。俯いた春香の瞼の裏に木霊する。
本当に?
本当に、由里は春香を利用していた?春香のことを好きではなかった?
あの笑顔は。遊ぼう、と袖を引く強さは。春香の話を真剣に聞く、澄んだあの瞳。
話の続きをねだって尖る唇。そして、あの時。話の続きを願った、震える声。
本当に?
今の春香には、分かってしまう。泣きたくなるくらいに。
それは、春香の方だった。
俯いた春香の目の先には、スカートから伸びた春香の足が伸びている。
ブランコに座ったら、足がつくようになったのはいつからだったろうか。
足が届いて、地面を蹴れるようになって、そしていつから、こんなに窮屈になってしまったのだろう。
伸びきれない足の居心地の悪さに、どうしようもなく暴れたい衝動に駆られてしょうがない。
それを振り払うように、春香は大きく右足を上げ勢いをつける。
そして春香は、地面を蹴った。
強く、強く。勢いに乗り、ブランコが大きく揺れる。
空を舞うその瞬間、風が春香の髪をふわりと撫でた。
すくいあげるように、優しい一瞬の風。
春香はその先に、過ぎ去りし日の自分と由里と、そして叔父の笑顔を見た。
「春香ちゃんは、優しいね」
その微笑みを見るのが好きだったから、だから由里のどんな我侭だって春香は許せた。
由里と一緒にソフトクリームをなめながら、春香は笑みを返す。
ぎこちない作り笑顔じゃない、心の底からの嬉しさを込めて。
だって叔父に買ってもらったソフトクリームは、どこの店でも買えない甘さで、舐めるたびに頬が少し緩むのを感じた。
「あー!」
突然、由里の泣き叫ぶような声が響く。
春香が振り返るより早く、叔父は由里を抱きかかえる。
ソフトクリームを服にこぼしたのだろう、水色のワンピースの腿の辺りがべったり汚れている。顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣く由里を、叔父はにこにこ笑いながらあやし始める。
胸の奥が、ちりと焦げつく気持ちがして、何より少し疲れた叔父の目を見たくなくて、春香はその光景から目をそらした。
春香の方が由里を利用していたのだ。
だって、由里の傍にいれば、叔父さんがやってくる。
由里を宥めれば叔父さんは喜んでくれる、褒めてくれる。
優しそうに、少し困った風に、微笑む姿を近くで見れる。
子供の春香には、名前がわからなかった。
由里に苛立つ理由も、今無性に謝りたくなる理由も、今になって分かる。
それは、初恋だったのだ。
叔父の涙は見たくない。
由里が「そんな風」になってしまったというのに、春香が一番に思ったのはそんなことで、自分の醜さに眩暈がしたのだ。そしてそれは今も続いている。
懺悔をしたかった。
だけど、どこですればいいのかわからない。
母も叔母も、叔父も……由里も、誰も自分を責めないのだから。
許されているかのように、存在しないかのように錯覚させられる自分の罪を、必死になって抱え込む自分は哀れに見えるだろうか。
それでもよかった。
裁かれない罪を腹の中で肥え太らせて、そのまま破裂して死んでしまえばいい。
顔で風を受け止めて初めて、自分が泣いていることを春香は知った。 |