#8
「あんたって、絶対に認めないのね」
「樹理。ぼくはおまえに嘘はつけないよ。やってないことをやったとは言えない。別に信念なんてものじゃない。他の人になら誤解されたってかまわないさ」
樹理は笑うのをやめて、話に耳を傾けてくれている。
「樹理。こんな言い方したら、また怒らせるかもしれないけど言うよ」
こほん。咳払いをひとつして、自分の気持ちを打ち明けることにした。
「今日のことは、おまえにとって不本意なことだったろうけど、ぼくにとっては夢のような一日だったよ。ずっと前から、樹理のことが好きだったんだ。もういつからだったかもわからないくらい前からね」
(いつか、この台詞を言うことがあったら、そのときはぼくの心臓はサイレンを鳴らすことになるだろうと思っていた)
「おまえにとっては、お芝居だったし、どうでもいい相手に二度も唇を奪われて怒るのもわかる。だけど、ぼくはそうせずにいられなかったんだ」
激しい感情の高ぶりを経て、明鏡止水の境地に少年は達している。
たとえ樹理に嫌われても、変わらず彼女を守っていこうと誓った。
「小見尋、あんたはやっぱりバカよ」
背中を向けていた樹理が振り返って言った。
「どうでもいいと思ってる人に、こんなこと頼むわけないでしょ」
正座したまま手をついて、樹理が一歩彼に近づく。
「わたしは、いつからあんたのこと好きになったか、はっきり覚えてるよ」
なぜだろう。そのことを冷静に、自然な気持ちで受け止めていた。
「いつからなの?」
小見尋は樹理の肩に両手を置いた。
「小学校三年生。あんたが、いま通ってる道場に殴り込みをかけて来たときよ」
小見尋が師範代を務める道場は、もともと樹理が通っていたのだ。
『あんなところ、もう行きたくない』
樹理が泣きながら言うのを聞いた小見尋は、こっそり彼女の練習日に道場の窓から内部を覗いた。
稽古は熾烈を極めていた。門下生たちは泣きながら素手で木の板に正拳を打ち続けている。
よくみれば、木の板には拳が破れて血の色が移っている。
ある者は、泣きながら師範に腕を引かれ股割の稽古をしている。
『な、なんだよ? これ』
小学生の鍛錬とは思えない。樹理はどこだ。
大人と組み手をしている樹理を見て、彼は頭に血が上った。
心優しい樹理は本気で正拳を打つことが出来ないでいる。おろおろしている樹理に業を煮やして、師範らしき男から右へ左へ樹理の頭に平手が飛んだ。
(そのあとのことはよく覚えてない)
「あんた、扉を蹴破って殴り込んで来たのよね」
「ぼくは気がついたら、袋だたきになった後。縄で縛り上げられていたんだよな」
両親に小見尋の身柄が引き取られた後に、両家の親を交えて家族会議が開かれた。
「オミのお父さんが、『あんな無茶な道場はいますぐやめさせろ』ってパパを説得してくれた」
「それでもおじさんがウンと言わなくて、『自分は敵が多いから、家族も護身術は習わなくちゃ行けない』とか言い張ってね」
「殴られて顔じゅう腫れ上がっていたあなたが立ち上がって、パパに言い放ったのよね。『おじさん、樹理の代わりにぼくが道場へ通う。樹理はぼくが守る! それならいいだろう!?』ってね」
樹理の指が手に触れた。こんどは骨経術を極められる心配はなさそうだ。
少年は右手で樹理の手を握った。
「ふだん、人の話を聞き入れない父も、あなたの姿に心を動かされて要求をのんだ。あなたは翌日、道場に出向いて頭を下げてまで入門した。そのときからよ。わたしが、オミのこと好きになったのは」
樹理の右手が彼の膝の上に。長いまつげには、涙の雫。
「それより以前は、あなたがわたしのこと気にするのは、わたしと比べられることにストレスを感じているせいだと思ってた。オミに悪いなと思っていたんだよ」
「なんでもそつなくこなす子どもだったからな、樹理は」
(彼女が少年っぽく振舞うことも、ぼくが彼女と比較されるひとつの理由だったのだと思う)
「大人はみんな、わたしをえこひいきした。だから、あなたがコンプレックスをもっているのかと」
「もってたよ。だから、ぼくは樹理を超えたいと願っていた。それが高じて、勉強でもスポーツでも苦手意識をもつと、それを避けて通ることができない性格になった」
「そんな人はあなただけ。わたしに好かれようとする男の子はたくさんいたけど、わたしに勝とうとする人なんていなかった」
樹理の切なげな顔は初めて見た。少年は彼女の体を抱きしめる。
少し汗ばんでいるぐらいなのに、それなのに樹理の体からは、いいにおいがした。
「好き……好き。小見尋、ホントだよ」
ぎゅっと、力を入れると昨日、背中で感じた感触がよりやわらかく、彼の胸板に迫ってくる。
「じゃあなんで、あんなに泣いたの?」
「せっかくのキスが台無しになっちゃった気がして、悲しくなったのよ。最初のキスはよかったけど」
二人は目を合わせ、今日三度目の唇を重ねた。樹理の右手は彼の背中にまわされた。
強く樹理の唇を吸っても、彼女はいやがる素振りを見せなかったので、よりディープな口づけになったが、彼女も背中を反らせて応じてくれた。
気づくと、樹理の背中は畳にまで届き、彼女の体が少年の下にあった。
(い、いける)
「樹理、」
なんとなくバストを触るのが気後れして脚の方に手が伸びた。樹理のスカートの裾を上げようとしている。
「あ、だめ!」
バッと樹理の手が、それを止めようと手首をつかむ。
「樹理、ぼくのこと好きだよね?」
「それはそれ、これはこれよ! そんな流されるみたいなのは嫌!! これだから、素直になれないのよ」
樹理の柔らかな体が、急に鋼のような力強さを取り戻した。
だけど、そこはそれ。全力モードになった少年の力にはかなわない。
体をよじって逃げようとする樹理の肩をがっちりとつかんで自由を奪っている。
そんなやりとりをしているうちに、樹理も観念したのか、徐々に抵抗する力が弱まってくる。
「……もう、仕方ないなぁ」
やがて、そんなことばが小見尋の耳元で聞こえた。
彼はもう一度、樹理に口づけしようとした。そのとき、
「小見尋、樹理ちゃんが来てるならお菓子を……」
急にドアが開いて、彼の母親が顔を出した。この攻防の最中で、帰宅したことに気づかなかったのだ。
最初は水平を向いていた視線は、次に下を向き、息子と目が合った。
ぱくぱくと、金魚のように口を動かす母だった。あとで樹理に言われたが、彼も同じ顔をしていたらしい。
「や、やあ、母さん」
「あ、あんたたち、何してんの!!」
こうして、残念ながら樹理の貞操は守られたのであった。
鬼のような形相で、ひとり息子にわめきつづける母だったが、やがて、さめざめと泣き出した。
「ほんとに、もう! 樹理ちゃんにこんなひどいことするなんて。情けないったら、ありゃしない」
「あ、あの、おばさま、わたしはもういいですから……」
樹理がなんとか、母を取りなそうとする。
二人はならんで正座したまま、父が帰ってくるまで母の説教が続いた。
「こんなことを、樹生おじさんが知ったら……」
母は小見尋の身を案じてもいるのだった。エプロンに顔を伏せ、涙をぬぐっている。
(参ったなぁ……)
居所のない小見尋は、ただ頭をかいていた。トントン。樹理の指が彼の肩をたたく。
目を閉じてあごを上げる樹理。もう一度彼女にキスした。
この日から、二人は深い愛情に結ばれている。
だけど、母の心配通り。二人の道行きには、この先思いもよらぬ残酷な運命が待ち受けていた。
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