#4
いくらなんでもそれは想定の範囲外すぎる。
樹理を見て、すぐに視線をそらした。なんだか、見てはいけないような表情だったから。顔の筋肉が弛緩して、白目をむいたように瞳は虚空を見つめていた。
次いで、彼は春香の方を見た。彼女なら助け舟を出してくれるような気がしたのだ。
彼女は満面の笑み。興味津々の顔で期待している。
(だめだ、こりゃ)
「いや、だめだよ、そんな。キスは恋人同士の神聖なことなんなだから、人前でなんて」
「さっき、挨拶みたいなもんだって言ったじゃない」
ぐうの音も出なかった。
「さあさあ、恋人同士だったらそれらしく、証を見せてよ」
歌舞伎役者が見得を切るように、聡子が迫ってくる。
「さあさあ、」
こんどは春香も調子を合わせている。
(うう、どうすればいいんだ)
そのとき、凛とした声が弾けた。
「いいわ、見せてあげるわよ」
その樹理の声を聞いたとき、小見尋の左脳は言語機能が麻痺して、言葉の意味を理解できなかった。
数秒して、その『見せる』という意味が、春香と聡子の目の前で、二人がキスすることだということを認識するに至った。
「ま、マジ?」
樹理の首が縦に振られた。
「で、でもさ……」
「いいって言ってるでしょ!」
女々しい彼氏を、樹理は叱り飛ばした。
(だめだ。これ以上、ためらうようでは、ふたりにこれが芝居だと見抜かれてしまう)
もはや、覚悟を決めるしかないし、すでに樹理は覚悟を完了している。
(ぼくだって、やるときはやるさ。ああ、やってやるとも。だが、どうやって?)
やりかたを知らない。
コーナーをはさんで座っていた樹理が、彼のすぐ右に座りなおす。
二人は数秒見つめあった。聡子と春香ももう言葉を挟まない。
小見尋は目で樹理に訴えかけた。
(ホントにいいの?)
樹理のあごがわずかに揺れた。テーブルの下で樹理の掌に彼の指が包まれる。OKということだ。
樹理の唇を見る。カラオケを歌った後だけど、リップの光沢で輝いている。色は薄めだけど、細めの唇で口角がキュッと上がっているのも印象的な形だ。
(ほんとに、これは夢じゃないだろうか?)
ずっと、口づけたいと、なんども妄想の中でふさいだ唇だ。
「ふたりのことは気にしないで……、いつも通りやってよ」
樹理が、わざと春香と聡子に聞こえよがしに言う。そのあと、ふっと彼の耳元に口を寄せ、ささやいた。
「夢の中でいつもしているようにね……」
耳が燃えるように熱を持った。なにもかもお見通しだとでも言わんばかりだ。
小見尋は樹理の肩に左手を置いた。右手は樹理の手を握ったままだ。
唇まで距離は一〇センチ。樹理は目を細めた。
五センチメートル。長い睫の奥から自分を見ている瞳。恥ずかしいのか、そっと視線がはずされる。
四.三.二……。樹理の吐息がほほをなでる。
小見尋は鼻息が荒くなるのを隠すために、呼吸を止めていた。
(や、やわらかい)
そう感じた瞬間にぱっと、樹理は彼から顔を離した。
「ど、どう、これでいい?」
聡子と春香に向き直って、樹理はそう言った。
ゆっくりと深呼吸した。いま、確かに樹理と唇が触れた。歓喜に震える指で自分の唇を触った。確かにそこにある。自分の唇だ。
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