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※軽めですが若干性表現があります。苦手な方はご注意ください。
扉絵:紅流瑛時 イメージ画

挿絵(By みてみん)

chapter1:fanatic love
#5 confession-1
 薄暗い部屋の正面に掛けられたスクリーンの映像を見つめている。
 砂煙の巻き起こる中、時折カタカタとリズミカルに銃声が鳴り響き、怒声と悲鳴が交錯している。荒涼としたこの風景には見覚えがあった。
 カメラのレンズが追いかけているのは、この映像の主人公と思しき一人の小柄な人間だ。
 主人公は、マネキンのような無表情を崩さぬまま、手にした日本刀のようなもので荒野の人々を次々と斬り裂いていた。
 斬り裂かれ、惨たらしく転がった死体達は、迷彩服にヘルメット、ライフルなど、どれもかなりの重装が施されているのに対し、黒いウェットスーツのような服にたった一本の刀しか持たない主人公は、かなりの軽装である。
 丸腰同然の小柄な人間に、紙切れのように斬り捨てられていく人々。返り血をものともせず、ただただ斬って、斬り続ける。
 ああ、これは確か俺だ。
 部屋の隅に佇んでいた戒は、他人事のようにその事実を思い出した。それと同時に映像がプツリと途切れ、辺りに光が戻る。
「――以上で我が社の開発商品のプレゼンテーションを終了します」
 部屋にいたのは自分を入れてたったの三人だ。そのうちの一人――スクリーンの側でノートパソコンを操作していた若い男が口を開いた。
「素晴らしい!」
 スクリーンの前の椅子に座っていた初老の男が、感極まって立ち上がった。拍手をしながら、満足そうに何度も頷いている。
「気に入っていただけましたでしょうか?」
「もちろんだよ、さすがは世界に名を馳せるケルス製薬だけのことはある」
 悦に入った様子の初老の男を見て、若い男もまんざらではない表情だ。
「ありがとうございます、お客様」
「聞けば、女の子だそうじゃないか。こんな細腕で、あんな野蛮な真似が出来ようとはねぇ?」
 だらしなく口の端を歪め、“お客様”と呼ばれた男は、頭から爪先まで舐めまわす様なねっとりとした目つきで戒を見ていた。
「水を差すようですが、これはあくまで我が社の“商品”です。見た目は人間の女と遜色ございませんが、生物学的には相容れぬ存在です」
「フフ、まあいい。気に入ったよ、これを借り受けよう。そうすればもう、我が国はあの大国と対等の兵力を得る事になるんだからな」
「それでは、この契約書にサインを……」
 このやり取りを、もう何度目にしてきたことだろう。あの薄っぺらい紙切れ一枚に、何度翻弄されてきたことだろう。あの紙切れに“お客様”のサインが成された瞬間に、また自分はあの記録映像を再現することを強いられる。
 しかし戒には、ただそのやり取りを黙って見守る事以外の選択肢は残されてはいなかった。抗ってみたところで、その先にあるものが希望に満ちたものであるとは到底思えなかったからである。
「しかし、この子は普通の人間と同じようにものを考え、判断する力も持っているのだろう? 聞けば、知能指数は普通の人間の遥か上を行っていると聞いているが」
「戦地では高い知力と判断力も必要になりますから、機能としては抜群に高性能であることは保証しましょう。与えられるミッションにおいては、人間の複雑な感情表現を理解する能力が必要になる場合もありますが――普段は不必要かと思われますので、我が社の開発した特殊な薬品を投与することでコントロールしております」
「なるほど――人の感情さえも制御することが出来るとは。まさに神の領域に踏み込んだと言わざるを得んな。いや、この子が生まれたこと自体が既に奇跡と称するべきなのか」
「身に余る光栄です」
 いつものやり取りを受け流していると、いつの間にか初老の男は居なくなっていた。
 閑散とした部屋に、スクリーンの側でプレゼンを行っていた男が、机の上でトントンと書類の端を揃える音が響いている。
「決まったな、次は東アジアの独裁国家だ。日本(ここ)からそう遠くも無いし、良かったじゃないか。国を束ねる頭目はあの大国に勝つ気で居るらしいが、遅かれ早かれ滅びる国だ。滅びたとしても、近くならすぐに戻ってこれる」
 それの何が良かったのか全く分からなかったが、戒はその視線をちらりと男の方に向ける以外に、何もしようとはしなかった。
「今日の分はまだなんだろう? クスリを飲んでないわりには静かだったじゃないか」
「もう、終わったんだろう。命令があるまでは休む」
 お構い無しに話しかけてくる男の心情が理解できない。理解できないことには答えられないので、戒は男の発言を全面的に無視することにした。
「全く、愛想の無い奴だな。当初ガタガタだったお前の精神がこの所安定してるのは、本当に久遠時(くおんじ)の努力の賜物なんだろうな。聞いたところによれば、それなりによろしくやってるそうじゃないか」
 書類の束でパタパタと自分の顔を仰ぎながら、ニヤついた男が戒の元へと近寄ってくる。冗談めいた口調と共に、戒の肩の方へと伸ばされた男の手が、怒りの形相で睨む戒に捕まれ、宙を仰いだ。
「触るな」
 捕まれた手首の骨がギシギシと鈍い音をたて、一気に男の顔が蒼ざめる。脂汗を流して息を飲んだ男の様子を見て戒はようやく我に返り、手に込めた力を緩めて男を解放した。
「ちょ……調子に乗りやがって、木偶(でく)人形が!」
 真っ赤な手形のついた手首を庇うように身を屈め、男は戒に明らかな敵意を向け、吐き捨てるように罵倒した。
 怒りを覚えたのは、俺への罵倒なんかじゃない。
 こそこそと敗走していく男を、戒は敢えて追いかけようとはしなかった。

 重々しい金属質の扉が閉まり、電子ロックが掛けられる。
 自らの意思では入ることも出ることも許されない、ベッドとテーブルがあるだけの窓すらない簡素なその部屋は、戒にとっては監獄のようなものであり、それと同時に唯一の安息の場所でもあった。
「おかえり、どうだった?」
 ベッドの端に腰掛けた白衣の青年が、戒に声を掛けてきた。
 彼は戒の世話役で、この会社の研究員の一人である、久遠時慧護(くおんじけいご)だ。年齢は戒よりも一回り近くは上であった気もするが、戒にとってはあまり興味の無い情報であった。
「慧護……居たのか。どうって、いつもと同じだ」
 そっけなく返事をして、戒は倒れこむようにベッドに突っ伏した。疲れのせいなのか、やけに苛々している。
「いつもの薬がまだだったろ。忘れてるんじゃないかと思って、言いに来たんだ」
 トレードマークの眼鏡のずれを気にしながら、慧護は戒の方を振り返った。
 また、薬の話か。
 うんざり顔でため息をつき、戒はすぐ側の枕を抱きかかえた。ふかふかの枕の中に顔を埋める。
「あんなの、もう効かない。飲む意味ない」
「効かないって……こないだ調合を変えたばっかりだろう」
 心配そうに顔色を窺い、慧護は戒の抱きすくめていた枕を引っぺがし、額に手を乗せた。
「熱はたいしたことないな。そんなに体調が悪いってわけでもなさそうだけど」
 慧護の指は細くて長い。その掌はいつも少し冷たくて心地良い。
 先程、感情を激しく表に出すといった慣れない作業をしたせいだろうか、いつもより体温が上昇しているような気がしていた戒にとっては、この上なく心地良い感触だった。このまま目を閉じて意識を委ねたくなるような、安らかな気持ちになってくる。
「おい、寝るな。とりあえずこれを飲んでくれよ、飲まなきゃ俺が帰れないだろ」
 徐々に戒の体温を吸い取りながら、ほのかに温かみを帯びてきた慧護の手が突然離され、代わりに戒の額にはカプセルを閉じ込めたアルミのシートがあてがわれた。安息の時間を奪われたような気がして、妙に被害者意識が強くなる。
「別に、すぐに帰らなくてもいいだろ」
 拗ねたようにそっぽを向いて呟いた戒の声が届いたのかどうかは、返事が無いのでわからなかった。
「だから、とりあえず飲んどけって」
「効かないって言ってるだろ! そんなに飲ませたいなら、もっと強いやつを持って来いよ!」
 自分の大声を聞いたのは、随分久しぶりのことだったかもしれない。
 慧護が哀しそうな顔で自分を見ていることには気付いていたが、とにかく今は全てがムシャクシャして、居ても立ってもいられない気分になっていた。
「戒……また眠れてないのか?」
「うるさい!」
 何が気に入らなかったのかはもうよく分からなくなってしまっている。そう客観的に分析している自分も居たりはするのだが、もはや戒の自制心は、怒涛のように押し寄せてくる感情の波に飲み込まれてしまった後だった。
「副作用があるってわかってて、毎日薬を飲むのはもう嫌だ! 何で俺はこんなに苦しんでまで、人を殺さなきゃいけないんだよ! あんなに嫌な思いをしたのに、お前らはまた俺を人殺しの道具として戦場に送り込むのかよ!」
 手元にあった枕を慧護に向かって思いっきり投げつける。枕は彼の眼鏡を巻き込んで床に転がり、怯んだ慧護がテーブルに激突して倒れるのを見ても、まだその感情は収まらない。
「もう嫌だって言ってるじゃないか! 死にたいって言ってるじゃないか! 何で死なせてくれないんだ! 何で――」
 めちゃくちゃに暴れ、喚き散らす戒を、ふわりと暖かいものが包んだ。
 優しい香りがする。これは、慧護だ。
 細い腕からは思いもつかないほど、慧護は強い力で戒を抱きしめていた。
 それだけで小動物のようにおとなしくなった戒は、悲痛な面持ちで慧護を見上げた。
「ん――」
 戒の唇に、慧護の唇が重なる。
 生暖かい舌の感触と共に、異物が喉の奥に押し込まれてくるのを感じ取り、戒は思わず慧護を突き飛ばしてしまっていた。
「な、何だ?」
 しかし気付いた時にはもう遅く、戒はそれを飲み込んでしまっていた。不安そうに喉元を押さえる戒を見て、慧護は可笑しそうに口元を緩ませる。
「安心しろ、お前が不眠を訴えたときのために用意してあった即効性のある強い薬だ。それより――」
 立ち上がり、おもむろに何かを拾い上げる慧護。原型を留めないほどにグニャリとひしゃげたそれは、先程まで慧護がかけていた愛用の眼鏡であった。
「どうするんだ、これ。お前に貰った眼鏡、倒れたときに踏ん付けちまったぞ」
 ああ、そういえばそうだ。
 言われるまでずっと忘れていた。この眼鏡は、少し前に他の研究員に無理に頼んで外から買ってきてもらったものだった。いつだったかの、慧護の誕生日にプレゼントするために。何故か胸の奥がこそばゆいような気がしてくる。
 確かその時たまたま読んでいた本の中に、外の人間は自分の生まれた日を祝う習慣があると書かれていたのだ。ところが、気の利かない研究員が、前々から彼がかけていた眼鏡と同じ色のものを買ってきたおかげで、今の今まで気付かなかったのである。
「慧護、その眼鏡かけてたのか。知らなかった」
「プレゼントした本人が覚えてないって、どういう事なんだよ」
 呆れた様子で頭を掻いた慧護を見ていると、自然と笑みがこぼれてくるのがわかった。
 昂ぶっていた感情が収まってきたのは、薬のおかげなのだろうか。それどころか、まるで酩酊しているかのような、ふわふわとした感覚が現れ始める。
「やっぱりちょっと強すぎたか。少し横になってろ」
 あまりに急激に力を抜きすぎたせいか、戒は崩れ落ちるようにしてベッドに倒れ込んだ。まるで戒の回りの重力が突然強くなったのではないかと思えるくらい、異常に体が重い気がする。しかし、脳の一部が痺れているような浮遊感は、鳥肌が立つほどに気持ちが良かった。
「慧護――」
 半開きになった眼を向け、戒は慧護に手を伸ばす。
 そこには、戸惑うような表情で戒を見つめる慧護が居る。もはや慧護を取り巻く景色は薄靄(うすもや)がかかったようになっていて、戒には全く認識ができなくなっていた。
「行かないで」
「え?」
「側に居てくれ、慧護」
 言葉通りに慧護はベッドサイドに屈み込んだ。再びあの冷たい手が、戒の頬の温度を少しずつ奪っていく。
「戒、俺は苦しんでるお前をこうして見守ることしか出来ない自分の立場が、辛くて仕方がない」
 慧護の手が、小刻みに震えているのがわかる。涙こそ見せないが、慧護の顔は酷く悲愴に満ちているように見えた。
「なあ、戒。この先もしも――もしもこの牢獄から逃げ出せるチャンスが来たら、その時は迷わず逃げろ。後ろなんか振り向くな、絶対に逃げろ」
 浮遊感があまりに強い。長く思考することが出来ない。戒には、慧護の真意が何であるのか、考えることすらできなかった。
 それよりも、今は彼の温もりが欲しくて欲しくてたまらなかった。
「慧護――来て」
 片眼にすっぽりと覆いかぶさった慧護の長い前髪に手を伸ばし、掻き揚げる。驚いたように見開かれた彼の黒い瞳を見つめながら、戒は愛おしむように慧護の顔を両手で包み込んだ。
 しばしの逡巡の後、慧護は再び戒と唇を合わせた。
 しかし、軽く唇を触れ合わせただけですぐに顔を背けてしまう。
「慧護?」
 不意を突かれたように瞳をぱちくりとさせ、戒は訝った。
「駄目だ。お前は毎回、薬でおかしくなってるだけなんだ」
 辛そうに唇を噛み締め、慧護は首を振った。
「今更だろ。お前だって、上からの命令でここに居るくせに」
「それは――」
「わかってるんだ、初めから。お前がここに居て優しくしてくれるのは、俺をここに繋ぎとめる足枷(あしかせ)になるためなんだろう? それでも良かったんだ――」
 否定してくれ、嘘でもいいから。
 しかし、戒の儚い願いが届くことはなかった。
 否定することも肯定することも無く、動力源を失った機械のように固まってしまった慧護に、戒は再び手を伸ばした。
「それでも、俺は慧護に側に居て欲しいから」
 しばらくの間、呆けたように戒を見つめていた慧護は、ポロポロと涙を流しながら、戒の手を握り返していた。
「何、泣いてるんだ?」
「うるさいな、子供(ガキ)の癖にいちいち突っ込むな」
 怒ったように眉をひそめ、ゴシゴシと涙を拭う。
 いつも通りの顔に戻った慧護は、一瞬悪戯っぽく微笑み、眠たそうな眼を向けて少し状態を起こしていた戒の肩をポンと突き飛ばした。
 薬でフラフラになっていた戒は、簡単にベッドの重力に吸い込まれ、動けなくなってしまう。
 程なくして、ベッドがぎしりと沈み込み、自分の上に覆いかぶさった慧護と目が合った。
「お前がそう望むなら、好きなだけ側に居てやる。それが俺に課せられた任務だからな」
 愛しい者の名前を呼ぼうとする戒の声が、首筋に走った甘い感覚に遮られ、嬌声へと変わる。
 たとえそれが、誰かの身勝手な意思によって仕向けられた偽りの好意だったとしても、構わなかった。
「っあ――けい、ご――慧護――」
 普段の自分からは考えもつかないほどに、甘く上ずった声が漏れる。
 少し汗ばんだ慧護の背中に両手を這わせ、快感の波が突き上げてくる度に、戒は恍惚の表情で打ち震えながら、爪を立てた。
「愛してる」
 甘い夢の中で、そんな声が響いた気がした。しかし、それは自分自身の儚い望みから生まれた、幻想だったのかもしれない。
 次第に戒の意識は薄れていき、無意識の帳が幕を下ろしていた。

 暗闇で目が覚めたのはいつものことだ。窓の無いこの部屋には、蛍光灯の明かりを灯さない限り、光が差すことは決して無い。これもまたいつものことだが、隣で寝息を立てていたはずの慧護はいつの間にか居なくなっていた。
 薬の副作用でキリキリと痛む頭を押さえ、戒は手早く衣服に袖を通し、蛍光灯のスイッチを押した。
 ところが蛍光灯が光を帯びてすぐ、パチンと弾けるような音と共に、再び辺りに闇が戻る。
 蛍光灯の故障だろうか? 闇の中で動くのに慣れている自分には、あまり関係の無い話ではあるのだが。
 キョロキョロと辺りを見回し、どうしたものかと考え込んでいると、突然青白い非常灯が点灯し、けたたましい非常ベルの音と、異常を知らせる機械的なアナウンスが鳴り響いていた。
『非常事態発生、非常事態発生。当施設のマザーコンピューターが、外部からの干渉によって侵入を受けました。各所員は直ちに対策に当たってください。繰り返します――』
「マザーコンピューターが干渉された? それで電力供給がシャットアウトされたのか……」
 まさかと思いながら、戒は電子ロックされているはずのドアに手をかけた。予想通り、ドアは拍子抜けするほど簡単に開いた。
 廊下を覗いてみると、いつもはたくさんうろついているはずの研究員達が、コンピューターの復旧に気を取られているのか、人っ子一人歩いていない。
 意を決して戒が外に飛び出すと、予備電源装置が作動したのか電子錠は自動的に閉じ、完全に閉め出しを喰らう格好になった。これでもうこの部屋に戻ることは出来ない。ここまで来て、戒は腹を括ることにした。非常灯の明かりを辿り、出口へと一目散に駆けて行く。
 途中、慧護が詰めていた研究室の側まで来て、戒は立ち止まった。
 扉を開けたら、彼はそこにいるのだろうか――戒の脳裏を迷いがよぎっていた。
『お前がそう望むなら、好きなだけ側に居てやる』
 昨晩の甘い記憶が、自由になりたいと願う自分の欲望と激しく交錯している。
『もしもこの牢獄から逃げ出せるチャンスが来たら、その時は迷わず逃げろ。後ろなんか振り向くな、絶対に逃げろ』
 まるで慧護がすぐ側で語りかけてきているような、不思議な感覚をおぼえた。
 戒は全ての迷いを捨て、自由へ向かって走り出した。
 出口が見える。正面玄関のセキュリティを破ることは不可能だったかもしれないが、非常灯の先の出口は、非常事態が発生したときには内側からならロックが外れるようになっていると、いつか慧護が言っていた。自由はもうすぐ側まで迫っているはずだった。
「え――?」
 予想外に、非常口の周りが何かの液体で溢れている事に気付いた。
 暗がりでその色はわからなかったが、戒はその液体が、嗅ぎ慣れた不吉な匂いを発している事にも気が付いた。
「まさか――」
 それはまさに、血の匂い。何度シャワーを浴びて体についたものを落としても、記憶の奥底にしっかりとこびりついて離れない、死の香りだった。
 血溜まりの中に横たわっているのは、真っ白な白衣を真紅に染めた、慧護の姿であった。
「慧護っ!」
 悲鳴にも似た大声をあげ、戒は慧護に飛びついた。その体は、まだほのかに温もりを帯びている。
「戒……良かった、ちゃんとここに来れたんだな」
 掠れた声で息を荒げ、苦悶の表情を浮かべた慧護が血溜まりの中から顔を上げた。
挿絵(By みてみん)
「ここでお前を食い止める振りして待ってるつもりだったんだけど……マザーコンピューターのセキュリティレベルを下げたのが俺だって、バレちまった」
「慧護、それ以上喋るな!」
 医学の知識は幼い頃に完璧に履修したはずだった。その知識の全てが、彼は絶対に助からないと告げている。しかし、戒には到底諦める事など出来はしなかった。
「戒、早く行くんだ。俺を狙撃した奴らが、お前を血眼で探し回ってる」
「でも――慧護が――」
「言った筈だ、お前の側に居たのは任務だからだと。俺に固執する理由はないだろう」
 血まみれの手で戒の頬を撫で、慧護は自嘲する。
 その掌はいつもの心地よい温度ではなく、氷のような冷たさで戒の頬をチクチクと刺激していた。
「戒、逃げろ――せっかく転がり込んできた自由から、目を、背ける、な――」
 慧護の声が、どんどん脆弱(ぜいじゃく)さを増していく。やがてズルリと音をたて、慧護の腕が完全に力を失う。反動を受けたのか、彼の胸ポケットから、昨晩の一件で無残な姿に変貌を遂げてしまったあの眼鏡が滑り落ちた。
「戒――一度でいいから、お前が、女らしく、着飾った、姿を――」
 ビクンと大きく痙攣した慧護の瞳が、擦りガラスのように曇る。大きく見開かれた瞳には、もはや戒の姿は映っていなかった。
 どうしてなのだろう。これまでくぐり抜けてきた戦地でも、同じような状態になった人間を何度も目にしてきた筈なのに。こうなることは、データとして蓄積されているはずなのに。目の前で起きた出来事の意味するものが何なのか、全く理解できない。
「うあああああああっ!」
 紅く染まった両手で、戒はひたすら髪を掻きむしっていた。
 ブチブチと髪が悲鳴をあげていたが、どうでも良かった。サラサラした髪が揺れるのが綺麗だとか、明るい茶色が好きだとか、褒めてくれる人間はもう居ないのだ。
「嫌だ――嫌だああああああっ!」
 誰か、この絶望的な状況から救い出してくれるものはいないのだろうか。
 唯一助かる道が、彼についていくことだと信じていたのに。
 誰か、誰か、誰か――
「誰か、助けて――」
 その刹那、暗闇が広がるばかりであった筈の天井に、光が差していた。そんなことは有り得ない。ここは明かりを取る窓すらない、暗闇の中だというのに。
 おまけにどこからか、幻聴のようなものまで聞こえてくる。それは、この施設から戦場以外に出たことのない自分にとっては、聞いたことのない声であるはずなのに。
 その声は不思議と懐かしかった。天から降り注ぐ光を仰ぎながら、戒はその声に耳を傾けた。
『そこはお前の今()る場所やない! 戻るんや、戒!』


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