chapter2:The brute
#6 and then there were none-2
命のやり取りをしようと、まさにその相手と一触即発の状態にあるとき、あまりに緊張が足りない状態はベストであると言えない。逆に緊張のあまりガチガチに固まってしまっていてもいけない。
おそらく今、戒の両サイドで思い思いに精神の統一を図っていると思われる荒汰と蓮条は、自分のかける戦闘開始の号令を今か今かと待ち侘びている。体中に適度な緊張感を張り巡らせることに成功した戒が、まさに号令の雄叫びを上げようとしたその時だった。
目の前が光に包まれる。
すっかり闇に順応していた視覚を保護することを考えれば、咄嗟に目を閉じることで光を直視するのを避けねばならないことは明確だったのだが、一体誰がそのような事態を予測できただろうか。反応は大きく遅れ、それどころか瞼を閉じた後も、その裏側に貼り付くように残った光によって、戒はくらくらと目眩を覚えていた。
どうやらその光を生み出したのは荒汰でも蓮条でも、敵である平助や桐島でもなかったようで、予想だにしなかった光の洪水が広がった瞬間、皆が一様に大きく目を眩ませる様子を見せたのが分かった。
お互いがお互いを出し抜ける状態にならなかったという意味では、それはまだ幸運であったと言えたかもしれない。
瞳の奥に光の刺激が届かなくなったのを感じ取り、戒は素早く目を開けていた。
小刻みに痙攣する瞼を無理矢理こじ開けたとき、視界は大きく白みを帯びており、その全容の殆どは把握できる状態ではなかった。しかし、戒の両目は訓練によって慣らされた反射で、すぐに元の闇に順応しようと視界の中に満ちる白色のノイズを取り去ろうとする。
いち早くノイズの取り払われたクリアな視界を一望しようとしたとき、天井にぽっかりと空いた穴のあたりから、黒い塊がぼとりと落ちてくるのが見えた。
「荒汰、上だ!」
その落下物の真下に、未だ目を眩ませたままの荒汰が立っていると認識した時には既に、彼の姿はまるで雷落にでも見舞われたかのような轟音をばらまきながら、黒い塊と共に床下へ消えてしまった後であった。
「し、篠崎っ!」
慌てて駆け寄った蓮条も、未だどこか覚束ないような足取りである。
不用意に近付きすぎて更に床板を踏み抜いてしまうようなことがあっては事である。戒が怖々と床に空けられた大穴を覗き込むと、そこには思いがけない来訪者の姿があった。
「いってぇ! ちきしょう、着地の事ぐらいもうちょっと考えろよな!“能力”を使うたびにこうなったんじゃ、いつ死んだっておかしくねえじゃんかよ!」
目元に涙を浮かべ、手にした刀に向かって何やら喚き散らしているのは、戒たちがここにやってくる直前まで血眼になって探していた早乙女和希その人であった。詳しい事情はよくわからないが、先程彼がまくしたてた言葉を反芻してみれば、彼がこれ以上ないくらい健康そうであることと、澪の読み通り、何らかの特殊能力らしきものに目覚めていることは間違いないようである。
「か、和希、お前――」
床板ごと無惨に押し潰されてしまっていることも忘れ、荒汰はぽかんと口を開けて早乙女を見つめている。しかし、早乙女とまともに目が合った瞬間、荒汰は自分を尻の下に引いているその男を突き飛ばし、普段の彼からすれば想像もつかないほどに大きく顔を歪めて早乙女の胸倉を掴みあげていた。
「お前っ! 今まで散々どこ放っつき歩いとったんじゃコラ! 何も言わんといきなり消えよって!」
おそらく彼の怒りは、心配を募らせた分だけ大きく膨れ上がって爆発してしまったのだろう。だからといって早乙女に非があるとも言えない状況だが、あれだけ必死になって行方を追っていたことや、早乙女に対して酷く負い目を感じていたことを考えれば、荒汰の気持ちも分からなくはなかった。
「ああ? うるせえんだよ、お前ら! 関係ねえ奴は入ってくんなって言ってんだろうが! ぶっ殺されてえのか!」
同じ頃、離れた所で怒号を飛ばしていたのは桐島である。
戒たちと数メートルの距離を保って立っていた平助と桐島の二人は、幸いと言うべきか、外から微かに聞こえてくる何者かからの呼びかけに応じる事に気を取られているようだ。おそらく先程から撒き散らされている騒音や光を気にして、外にたむろしていた他の不良たちが不審がっているのだろう。
そうすると、もう少しまわり道をしている時間はありそうだ。荒汰を宥めてやるつもりで床下に降り立った戒は、出来る限り穏やかな笑顔を作りながら憤る荒汰に向かって声を掛けた。
「怒るな、荒汰。無事だったんだからいいだろ? それよりも今は――」
「何だと、てめえ――ふざけやがって! ムカついてんのはこっちの方だ!」
戒の仲裁の言葉が全く耳に入っていないかのような様子で、突然早乙女が青筋を立てて激昂し始めていた。これは全くの予想外である。
いつも一緒に過ごしていた荒汰であるならばともかく、早乙女がここまで怒りを露わにしているところなど一度も見た事がない。いつものお調子者の彼とは百八十度も違った様子で怒鳴り声をあげた早乙女を前に、穴の外から見下ろしていた蓮条までもが言葉を失った様子で呆然とこちらを見つめていた。
「お前、何なんだよ! 何であの時、俺の記憶を弄ったんだ! 意味わかんねえ! 何で今まで黙ってたんだよ!」
「和希……まさかお前……」
力を失った荒汰の右手が早乙女の襟元からだらりと滑り落ちた瞬間、倍返しほどの勢いで荒汰の胸倉を掴みあげた早乙女は、手加減などというものは端から考えもしない様子で、怒りの赴くままに荒汰の体を何度も何度も揺さぶっていた。
「自分のことを話したら、俺が迷惑するとでも思ってたのか! 自分一人で背負い込めば、それで済むと思ってたのかよ! 俺はあの時、お前のことを何でも話せる一番の親友だと思ってたのに……お前は……」
思いの丈を口にするたび、それ以上に溢れかえってしまった感情が、彼の言葉をたどたどしいものに作り変えてしまっているようであった。飽和状態の怒りはやがて哀しみに変わっていったようで、そのうちに早乙女は、ただ両肩を震わせるばかりで、言葉を発しなくなっていた。最後に彼は、苦々しい表情で唇を結んだ荒汰の胸を、わだかまりを散らそうとするかのように一度だけ、拳で強く叩いていた。
「そうか……だとしたらお前は、やっぱりあの時の――」
爆発した思いをひとしきり吐き出した様子の早乙女が、何とも形容し難い複雑な表情を浮かべて戒の方を振り返る。
「早乙女……?」
早乙女が何に対してここまでの怒りを感じているのか、おおよその見当はつく。
おそらく荒汰が“削除した”と言っていた記憶が蘇ったせいだ――彼はこれ以上巻き込みたくないから、危険な目に遭わせたくないからと、“親友”であるはずの早乙女のことを気遣い、忌々しい記憶の全てを、自分と仲良くしていた頃の記憶ごと彼方へ封印することを選んだ。しかし早乙女にとっては、その“親友”であったはずの自分に全てを打ち明けず、一人で抱え込もうとしてしまった荒汰の思いやりが逆に腹立たしかったのだろう。
しかしそれだけでは今、彼の戒を見る目が失踪前と明らかに違っているような気がすることに説明が付けられない。
彼の口振りを考えれば、まるで自分と、もっと以前にどこかで出会っていたとでも言いたげに聞こえてくるではないか――
早乙女の黒い瞳の奥に混じっているものは、何だ?
それは哀しみでも戸惑いでも、ましてや敵意でもない。そんなものよりもずっと単純で残酷な、負の感情であるような気がした。
冷たい汗がするりと背中を伝う。
これ以上の記憶の追走は危険であると、戒の自我が歯止めをかけようとしている。しかし、それよりももっと深い所にある何かが、自我のそれとは違うもっと強い力によって戒の脳裏に何かを蘇らせようとしているのが分かった。
細胞の一つ一つがその“答え”を知らしめようと戒の根底を揺さぶっている。
お前が本当は何者であるのか、忘れることは許さないと。
ここは、どこだ――?
いつの間にか戒は、見慣れているはずであるのに、酷く見覚えのない空間に立ち尽くしていることに気が付いていた。
見慣れたベッドに見慣れた家具。ここが荒汰の部屋の寝室である事はすぐに判ったのだが、何かが違う。そこで感じ取ったのは、後々ここに増やされる事になるであろう自分専用のベッドが置かれていないから、という単純な理由だけでは片付けられないほどの違和感であった。
その違和感の源泉を突き止めようと周囲に視線を走らせる。
時折混じるテレビの砂嵐にも似たノイズによって、目の前に広がる光景が現実に起こっているものでないことは何となく理解が出来ていた。
これはおそらく過去の世界。戒が荒汰と出逢うよりもずっと以前の世界だ。
しかし、未知であるはずの過去の世界を、今自分がこのように覗き見る事が出来るというのは、一体どういう事なのか。
戒はそこで繰り広げられる光景を、まるで記録映像を再生しているかのように垣間見ているのである。
雑音が酷い――
おまけにその映像には色がない。そこは白と黒と灰色とで構成された世界だ。
部屋の隅には驚愕に歪んだ表情でどこかを見つめる早乙女の姿がある。その視線の先に居るのは、小さな子供を抱きかかえるようにして立った荒汰だ。今よりももっと幼い印象を浮かべてはいるが、あれは荒汰に間違いない。
では、あの子供は一体誰なのか?
それ以前に、荒汰の背中のあたりから突き出た、あのぶらぶらと揺れる小さな手は、何を意味するのか?
狼狽し続ける自分に向かって、荒汰に抱かれた子供が振り返る。
刹那、天使のように澄んだ笑みを浮かべた子供の声が、どういうわけか雑音に侵される事なくはっきりと戒の耳に届けられていた。
『僕はお前だよ――“カイ”』
子供の発した言葉が引き金となったかのように、一瞬にしてモノクロームの世界に色彩が満ちていく。
しかし、戒の目に留まったのは、子供の蒼い瞳でも、今の荒汰のものとは随分印象の違う彼の真っ黒な髪でもない。
戒の意識を鮮烈に惹きつけていたのは、立ち尽くす戒に向かってにじり寄るように迫る扇情的な紅。
戒の足元を埋め尽くす、鮮血の紅であった。
それが他ならぬ荒汰によって染められた色彩であると認識した瞬間、それまで何とか保たれていた戒の自我は根底からガラガラと崩れ、再び射し込んできた砂嵐によって、記憶の再生は突如、終わりを迎えていた。
ぐらつく足元をどうすることも出来ず、戒は半ば能動的に意識を手放そうとする。
しかし、消えゆく意識を呼び戻したのは、慣れ親しんだ優しい香りと、包み込まれるような温もりそのものであった。
「――い――――戒! しっかりせえ!」
辛うじて繋ぎとめていた自己認識を再びぎゅっと掴む感触を覚えていた。
「それ以上視るな! 今のお前には何の関係もないことや!」
耳に心地良いその声がくれる刺激によって喚び醒まされた戒はようやく、荒汰によって強く抱き締められている事に気付く。
「荒汰――」
次第に意識が鮮明になっていくにつれて、荒汰の悲痛な面持ちが戒の心に鋭い痛みを差し込んでくるのがわかった。
「今は余計な事で心を乱すな。俺を信じろ、戒。お前の視たもんは、今のお前とは何のかかわりもないもんや」
一度、二度と、荒汰が戒の背中を撫でる度、ささくれ立った気持ちがなだらかさを帯びていく。
気がつけば、穴の上から覗く蓮条も、すぐ側に立っていた早乙女も、いつの間にか辛そうに眉を顰めてこちらを見ているのが分かった。
「悪ぃ――お前があの時の奴とは本質的に違うっていうの、感覚的には分かるんだ。でも何か、その――ご、ごめん」
実質的な言葉を交わしたわけではない以上、本人も何を謝っていいものか分かっていないのかもしれない。
しかし彼は少なくとも、戒があの時間の狭間で何を視、どのようなことを感じたのかが分かっているようだった。
早乙女は酷く戸惑ったような顔で戒を見ると、素直に頭を下げていた。
頭の奥に圧し掛かっていた重みがごそりと遠ざかるのを感じると、戒は早乙女に向かってにっこりと微笑んだ。
「大丈夫だ、俺の方こそごめんな」
何も迷う事はないのだと根拠のない確信が出来たのは、荒汰が居てくれるからに他ならない。
彼が自分を信じるようにと言っているにもかかわらず、それ以上を考える必要など無い。そこに意味などきっとありはしない。
言い聞かせるように繰り返した戒は、深く息をついていた。
「ここはじっくり腰を据えて話さなあかんとこやけど、残念ながら今はそれが出来る状態やない。話は後や」
苦々しい表情でちらりと早乙女を見た荒汰は、次に戒がしっかりとその足を地に付けていることを確認するかのようにじっと見つめると、戒の頬を伝うものをそっと指で拭い去っていた。
いつから自分は泣いていたのだろう――
白昼夢を見た後のような感覚に戸惑いながら、戒はごしごしと目元を擦り、自分を気遣うようにそっと背中を支えようとした荒汰に柔らかく首を振ってその厚意を辞していた。
「和希――今俺らがホンマに考えやなあかんのは、アイツらのことや」
言われて自分も、今しがた早乙女が目で追ったばかりの、荒汰が顎で指し示した先に浮かんだ二つの影を捉える。
いつの間に現れたのか――否、これだけ時間がたっていれば、至極当然の成り行きであるのかもしれないが――やや離れた場所からではあるものの、平助や桐島までもがもの珍しそうに穴の下にいる戒達を覗き込んでいた。
「おいおいおいおい。お前ら、どんな放置プレイだよ――俺らの存在、まさか忘れた訳じゃねえんだろ? いい加減、萎えんだろうがよ」
「げ。コイツら、ライマールの――お前らまさか、こんな奴らと喧嘩するってのか?」
瓦礫を踏み台にして、蓮条の手を借りようやく床の上によじ登った早乙女は、元の物々しい気配をようやく悟ったらしく、酷く顔を歪めながら後退っているようだった。
「さすがに四対二じゃ多勢に無勢かと思ったが、お前みたいな雑魚が増えただけなら、頭数に入れる必要は無さそうだな」
「むしろ足手まといなんじゃねえの? 良かったっすね、アニキ!」
余裕を湛えて不敵に微笑んだ平助と桐島に嫌な顔一つ見せる事無く、むしろその数倍不敵な笑みで口元を染め上げ、白い歯を剥き出した早乙女は、闇の中でもその存在感をありありと示す鮮やかな紅蓮の装飾の施された刀を得意げに突きつけ、声高らかに口上をまくしたてていた。
「聞いて驚け、俺様は超能力者だ! その証拠にこの“天光丸”が――」
「お前は馬鹿か? それともまだ闇に目が慣れていないのか? ここに居る全員がお前と同じように武器を手にしていることに気付かんのか」
唖然とする荒汰を似たような呆れ顔で引っ張り上げながら、一人高揚している早乙女に向かって蓮条が辛辣な言葉を浴びせていた。
「ここに立っている者は皆お前の言う“超能力者”だ。異能力に目覚めておきながらそんなことも分からんのか、お前は」
「ま、マジかよ……そういや何かここに居る全員から、俺と同じニオイがするような……」
自分だけがこの拮抗した状況を打破することが出来る救世主として選ばれたような気にでもなっていたのだろうか。基本的には単純な早乙女のことだ、そう考えてしまうのも頷ける。
そう思うと、こんな状況だというのに不謹慎にも笑いがこみ上げてきてしまう。緊張感の不足を自覚しながら口端が歪みそうになるのをこらえ、戒は地面を踏みしめて穴の上へと飛び上がっていた。
がっくりとうなだれる早乙女に向かって苦笑いを見せ、元より撫で肩に近い彼の双肩を、気合を入れる意味合いで軽く揺さぶってやる。
「ついでに言えば、自分が異能力者であることは敢えて隠して、切り札に取っておく方が賢いと思うぞ、早乙女」
「そ、それはそうかも――」
反論の手立てを全て封じられ、ぐうの音も出なくなっているらしい早乙女の言葉は、既に何やらもごもごと口ごもるばかりで殆ど聞き取れなくなっていた。
改めて目の前の敵を見据えた戒は、手放した緊張感を拾い集めるように再び神経を研ぎ澄ませ、すっかり待ちくたびれた様子の平助と桐島を見据えていた。
「和希、お前は誠ちゃんのサポートに回れ。お前の相手はあの金属バットの男や。俺と戒の能力は、アイツに通用せん事が既にわかっとる。せやけど、くれぐれも無茶はすんな」
埃にまみれた衣服を払いながら再び独鈷杵を構え直した荒汰は、瞳だけを走らせて早乙女に指示を出していた。それに呼応するようにして、蓮条もほんの一瞬張り詰めた構えを解き、両目を大きく瞬かせて黙りこくっている早乙女を一瞥する。
「言っておくが、邪魔になるようなら遠慮なくお前ごと叩き斬らせてもらうぞ。敵わないようならせめて黙って見ていろ。その代わり全力で自分の身を守れ」
「お、お前ら揃いも揃って俺を雑魚扱いかよ……味方とは思えねえ言い草だし」
うんざりした様子で引きつった笑みを浮かべた早乙女は、大きく溜め息をついていた。
「じゃあどんな芸当が出来ると言うんだ、今更隠す必要は無いから言ってみろ」
「な、何もありません――てか、自分でもまだよく分かってません。ごめんなさい」
言葉尻は早乙女の意見を聞き入れるような体であるものの、彼に向けられた蓮条の眼差しは“それ以上無駄口を叩くな”とでも言いたげなほどに威圧的である。
すっかり縮こまってしまった早乙女は遠慮がちに刀を構えると、数歩後退ってからまたも大きく溜め息をついていた。
「ようやくやる気になったか? それじゃあいざ尋常に勝負、だな」
闇夜に響く平助の声は、この状況を心から愉しんでいるかのような、静かな高揚感に満ちている気がした。
どこからともなく吹き込んだ一陣の風を皮切りに、戒は踏みしめた足を躍らせていた。
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