扉絵:篠崎荒汰 イメージ画
(未成年の喫煙は法律により禁じられています!)
chapter1:fanatic love
#2 vision
朝は、苦手だった。
当然のごとく今日も、頑なに閉じられた戒の両眼は、隙あらばその瞼の裏に潜り込もうとしてくる朝日の光を、一片たりとも受け付けようとはしていなかった。
それは、隣のベッドで枕に足を乗せて高いびきをかいている親友に関しても、同じだったはずだ。
「何だよ、こんな朝早くから……」
珍しく、戒は目を覚ましていた。いつもの時間より一時間も早い。
ベッドの中で心地よいまどろみを貪っていると、玄関のインターホンを鳴らす音が聞こえたのである。
もぞもぞと起き出し、重い足取りでリビングへ赴き、インターホンのモニターを覗き込む。逆光ではっきりとは見えないが、玄関先に現れたこの気配には覚えがあった。
パタパタとスリッパを鳴らしながら玄関へ向かい、金属製の冷たいドアノブに手をかける。その向こうから差し込んでくる強烈な朝日の洗礼から逃れようと、瞼が自分の意志に反してピクピクと痙攣していた。
「蓮条、か?」
ようやく視力が戻っていた。
目の前に立っているのは、高校のクラスメートの“蓮条誠獅郎”だ。
「何を言うか、朝練に出るならば起きていて当然の時間だ!」
彼の声は、朝一番に耳に入れるには少々度が過ぎる程の張りと声量があった。
蓮条は、戒のクラスの学級委員長である。
従って、毎日の授業の始まりと終わりは、彼の腹の底から張り出される号令により、一日として滞る事なく告げられるのである。退屈な授業に飽き飽きしている戒にとって、彼の声というのは当然、出来る限り聞きたくない部類に入る。
おまけに、朝練と聞いて、戒は非常に面倒な事を思い出してしまっていた。
「呼びに来たって、絶対朝練には行かないからな」
蓮条が何事か口にしようとするのを見計らい、戒は言葉を重ねた。
蓮条は、戒が一応所属している事になっている剣道部の主将でもある。
戒は一年前の編入時早々、その才能を目敏く見抜いた蓮条に勧誘されて剣道部に所属したが、初めて参加した練習で行った“肩慣らし”で、蓮条に怪我をさせてしまった経験があり、それ以来ずっとクラブ活動に参加する事を拒み続けているのである。
しかし、怪我をさせられた当の本人にはそれを微塵も気にする様子がなく、一年たった今もこうして、しぶとく復帰の勧誘を続けているのであった。
ところが。
いつもなら、ここで数分間の押し問答が始まる所なのだが、蓮条から発せられた言葉は全く予想だにしないものであった。
「警察を呼べ、神代」
聞き慣れない言葉に、戒は耳を疑った。
「は? ケーサツ……?」
「いいから呼べ、早く! 話は後だ!」
青筋を立ててまくしたてる蓮条の剣幕に、戒は少々たじろいだ。
高校生とはいえ、彼は全国レベルの実力を持つアスリートである。
同年代の少年達とは一回りも違う鍛え抜かれた体躯が身に纏う気迫は、目の前の相手に触れずとも、空気を揺るがしながら伝わってくるような凄みが感じられた。
「何やお前ら、朝から何ガチャガチャやっとんねん」
奥の部屋から、ついに荒汰までが起き出してきた。パーマなのか寝癖なのかわからないほど、酷くボリュームアップした金髪をボリボリと掻きながら、オクターブ上の情けない声で、大あくびをしている。
「蓮条、お前携帯持ってないのか?」
「そんなもの、あればとっくに通報している! もういい、電話を貸せ!」
言動こそ横暴だが、普段の蓮条は常に沈着冷静でポーカーフェイスを崩さないタイプである。そんな彼がここまで露骨に焦っている所を、今まで目にした事があるだろうか?
彼とはただのクラスメートで、それ程の接点は無いではないかと言われれば、そこまでなのだが。
戒が目配せすると、荒汰は面倒臭そうに溜め息をつき、奥の部屋に携帯電話を取りに戻った。
「なぁ蓮条、いい加減何があったのか教えてくれてもいいだろ」
蓮条の緊張感は、もやもやと渦巻いていた眠気と倦怠感をすっかり吹き飛ばしてしまうほど、真に迫るものがあった。
パジャマ姿のままサンダルを引っ掛けると、戒は蓮条の横をすり抜けて玄関前に横たわる連絡通路へ向かってスタスタと歩き出す。その様子を黙って目で追っていた蓮条は、振り返った戒が促すように首を傾げると、ようやく口を開いた。
「その下に、死体が落ちている」
簡潔に言って、彼は通路の側面の塀の向こうを指差した。
「な……に?」
自分でも何を言っているのか聞き取れない程の、掠れた声だった。
気がつくと、戒は蓮条が指差した方へ、吸い寄せられるように歩いていた。
塀の縁に手をかける。
身長百六十センチ足らずの戒にとって、そこから身を乗り出して下を覗くのは、なかなかどうして骨の折れる所作だったに違いない。
しかしすぐに、そんな事はどうでも良くなった。
戒の住むマンションの外観を彩る色彩は、白。
従って当然、眼下の階から伸びる渡り廊下の屋根も、白いはずである。しかしそこは、別世界のような色彩に溢れていた。
紅い塗料が、滴り落ちる程の飽和状態で、真っ白なキャンパスをムラなく染め上げている。眩しい朝の光を受け、艶やかな紅は一層輝きを増しているようであった。
眼下に描かれた紅の洪水は、戒の両眼がその中心部の“源泉”と思しきものを捉えるまでの間、まるで悪魔のように甘く、見る者の全ての感覚を釘付けにしたようだった。
「何や、これ」
いつの間にか戻った荒汰も、一緒になってその光景に魅入られていた。
「飛び降り自殺か?」
誰も否定はしなかったが、その場に居合わせた誰もが、荒汰の言葉が見当違いであることを、容易に判断できたに違いない。戒の双眸が捉えたその死体からは、今も尚、鮮やかな紅が滾々と湧き出していた。
仰向けになったその死体には、首から上が無い。おまけに、腰から下も無い。
力無く助けを乞うように天へと向けられた右手が、消失した頭部に代わって何かを訴えているようにも見える。それは本当に、“死後硬直がもたらした偶然の産物”という言葉だけで片付けられるものなのだろうか?
「飛び降り自殺した奴の死体が、あんな風になるはずがない」
そこまで言って、戒は不意に肉体と意識が寸断されてしまったかのような、妙な感覚に陥った。
意識は確かにここにあるのだが、自分自身が確かにここに存在しているのだという実感が薄れていくような、奇妙な心地になったのである。やはりそれは、あの現実離れした光景を目の当たりにしたせいなのだろうか。
その刹那。戒は、現在自分の視覚が捉えている“現視”とは別の、記憶の奥底の“幻視”を垣間見た。
白いマンション。
広がる鮮血の紅。
血溜まりに横たわる自分。
血溜まりの中に足を踏み入れようとする気配。
薄れゆく意識の中で捉えたそのシルエットは――
「戒! おい、しっかりせえ!」
気がつくと、先程までの“幻視”は見えなくなっていた。
どこがどうなったのか全く覚えはないが、戒は玄関のドアの前にうずくまっていたのである。
ぼんやりと左右に視線を泳がせる自分に、焦った様子の荒汰が必死に呼び掛けている。
視覚に続いて聴覚が戻るのを実感すると、先程まで遥か遠くからのものだったように感じていた耳慣れた声が、突如として間近に感じられた。
「何だよ、うるさいな……」
まどろみの途中で揺り起こされたような気分になった戒は、不快そうに顔をしかめた。
「アホか! どんだけ心配した思てんねん」
厳しい口調だったが、安堵の溜め息を漏らした荒汰の表情は柔らかかった。
「あんなものを見た後では仕方ないだろう」
借り物の携帯電話を閉じ、蓮条がこちらに近づいてきた。
何やら、辺りがザワザワと騒がしい。どうやら、周辺住民もこの異変に気付き始めた頃合いらしかった。
「取り敢えず、学校には連絡しておいた。登校は警察への報告が終わってからで良いとの事だ」
蓮条の後方から、慌てた様子で警官が走り寄ってくるのが見える。
これから訪れる面倒なやりとりの時間を思うと、戒は鬱陶しい思いがしてならなかった。
警察の事情聴取を終えた後、時刻は既に正午近くまで過ぎていた。
結局聴取の内容の大部分を占めていたのは蓮条の証言で、残りの二人の為に割かれた時間はごく僅かであった。飽くまで遺体の第一発見者は蓮条で、戒と荒汰の二人は、彼の目撃証言の一部を共有しているに過ぎない。
いかにも念の為、といった素っ気ない扱いを受けながらも、戒は堂々と学校をサボる事が出来るこの状況に、満足感を感じていたのだった。
ご協力ありがとうございました、と深々と頭を下げ、二人組の刑事が部屋を出て行く。
いつの間にやら蓮条がリビングから姿を消しているのに気付き、戒は何となく窓の隙間から外の様子を伺った。
「――ました――なら――」
依然警察の現場検証は続いているらしく、部屋の中にまでザワザワと外の話し声が届いている。
それに混じって、廊下の先の玄関扉の向こうから、蓮条の話し声が聴こえてきた。
「あ! 蓮条の奴、またオレの携帯使いよったな」
テレビのチャンネルを次々と変えながら、荒汰が深く嘆息をもらす。
「アイツ携帯も持っとらんのか? 金持ちのくせに」
悪態をつきながらリモコンをソファーへ放り投げるのと同時に、やや苛ついた様子の蓮条が戻ってきた。
「馬鹿を言うな、持っていないのではない! 先刻から突然見当たらなくなったのだ!」
素直に無くしたって言やあいいのに、という言葉は取りあえず飲み込んでおき、戒は野太い蓮条の声を少しでもかき消そうと、リモコンを拾い上げ、テレビの音量を上げてやる。
「……あ」
ささやかな抵抗も虚しく、テレビの主電源が落とされ、視界の行く手を阻んだ蓮条が、腕組みしながらこちらを睨み付けていた。
「くつろぐ前に私の話を聞け!」
コイツの場合、日常的に藪睨みのような目つきだったかもしれないな、等と関係ない事に着目しながら、戒は、隣の荒汰と面倒臭さ丸出しの表情で蓮条の方を見た。
「誠ちゃーん……俺ら、安眠の邪魔されてごっつ眠いんや。どうせ何も見てないねんから、もうこの辺で堪忍してや」
「誰が“誠ちゃん”だ! 気安く呼ぶな、痴れ者が!」
どう考えても今時の高校生らしくないこの態度と口調を、さらりと肯定してしまうような風格が、彼にはあった。
「あんなものを見た後で、そのような態度で居られる貴様らの神経…疑わざるを得んな」
やり場のない憤りを軽減させようとするかのように、蓮条は深く溜め息をついていた。
「少しは危機感を覚えろ……殺人犯が近隣を徘徊しているかもしれんのだぞ。神代……腕に自信のある貴様は良くても、そこにいる篠崎ごときでは、そうも行くまい!」
鳩が豆鉄砲を食らった様な顔で、目を丸くする荒汰。
「お前……こんなヒョロいの差し置いて、俺の心配かい」
蓮条と荒汰のやり取りを尻目に、戒はさりげなくテーブルの上の電気ケトルで準備していた熱湯を、インスタントのココアパウダーの入ったマグカップへと注ぎ、くるくるとかき混ぜる。フワフワと漂うピンクベージュの泡を見つめながら、出来立てのココアを恐る恐るすすっていると、何故か荒汰が引きつり笑いを浮かべてこちらを見つめてくるのに気付いた。
「まあいい。それはそうと、お前の携帯電話でまた学校に連絡を取らせてもらった」
「学校に?」
訝る荒汰に携帯を渡すと、蓮条は小さく頷いていた。彼にしては珍しく、囁くような小声で呟く。
「欠席連絡だ。もちろん、公欠のな。警察にしばらく外出禁止を命じられたと言っておいた。神代の具合が悪かった事も多少使わせてもらったが」
予想だにしない返事に、戒と荒汰は顔を見合わせた。
「話しておきたいことがある。警察には話していない事だ」
彼――蓮条誠獅郎は、至って真面目な男である。
その彼が、万年皆勤賞の彼が、多少のでっち上げも気にせずに、公欠とはいえ休みを取るとは――同じクラスのメンバーにとってみれば、奇跡に居合わせたと言って良いくらいの出来事である。
「何だよ……どうしたんだよ、蓮条」
さすがの戒も、戸惑った様子で訊ねていた。
「単刀直入に言う。私は、貴様らの正体を知っている。知った上での“話”がある」
しばしの逡巡。最初に返答したのは荒汰だった。
「何や、正体て? 一体何の――」
「私は回りくどい言い方が嫌いだ。だから単刀直入に言う。貴様は安倍家に源流を汲む、陰陽師の一族の者だな」
「お前……」
荒汰の表情が一瞬にして凍りついていた。
それと同時に、戒は辺りの空気が針のように鋭くなっていくのを感じ取っていた。
蓮条の言動に注意を払わなければならないのは理解していたが、戒にとっては、久しぶりに露わになった荒汰の“臨戦態勢”の方が、気になって仕方がなかった。
しかし相対する蓮条の方には、そんな空気など微塵も感じ取って居ないかのような落ち着き振りがあった。
「お前、それがどういう意味なんか分かってモノ言うとんのか? 場合によっては俺が――」
『やかましいっ!』
あまりの気迫に、二人は思わず口をつぐんだ。
「篠崎、貴様には関係ない! 私は神代と話しているのだ!」
「は、い?」
不意を突かれ、戒は一瞬めまいを覚えていた。
いつも以上に眉間に皺を寄せ、蓮条がずずいと詰め寄る。
「そうなんだろう、神代! シラを切っても無駄だぞ!」
胸倉を掴まれそうになったのをやり過ごし、戒は何とか声を絞り出した。
「ち、違いま、す……」
数分後。
ようやく興奮をおさめた蓮条から、その情報源を聞き出すことができた。
何でも大昔から、蓮条家は安倍家に縁のある一族らしく、嫡男である誠獅郎にとって、その情報を聞き出すのは難しい事ではないとの事であった。
蓮条家が時の権力者として名を馳せた数多くの人材を輩出してきた家系である事は、もはや誰の耳にも疑いようのない事実なのだが――
「本家の付き合いの事は、俺ら分家のモンには詳しくは聞かされへんからなぁ……」
というのが本当の所のようである。
「まぁ、蓮条家も暖簾分け前の姓やったら、いくつか心当たりはあるかもしれへんけどな」
「貴様こそ、姓が普通すぎるぞ……実にわかりにくい!」
「安倍かて普通やろ、そない言うたら」
まだ何か言い足りない、と言った感じの荒汰を差し置き、再び蓮条はマイペースで話し始めた。
「では常日頃から察知していた霊気は、神代から発せられるものでは無かったというのか?」
「ほぉ。お前、霊気を感じ取れる力もあんのかい。ただの金持ちのボンボンとは、やっぱりちゃうんやなぁ」
関心した様子で顎に手をやると、荒汰は口笛を吹いた。いつの間にか、警戒は解けているらしい。
何か信じられる要素でも見つけたのだろうか、と戒は再び蓮条をじっくり観察する事にした。
「私には、霊気を放出する力はあっても、感じ取る力は無い」
そう言って蓮条が突き出したのは、紫色をした、長さ一メートル強はあろうかという筒状の布袋。
そう言えばこの袋は、彼がたとえ授業中でさえも手放すことなく、文字通り肌身離さず持ち歩いていたものだった。
大方、袋の形状と、彼の剣道に対する打ち込み様からして、竹刀を入れる袋なのだと思っていたが、袋から取り出されたのは、何と一振りの太刀であった。
「これは、我が蓮条家に伝わる霊刀“薄緑”。強い霊気を察知すると、刀身が光を発するように出来ている」
見るとその刀の鞘からは、淡い光が漏れていた。
「だが、その霊気の源泉といった細かい事まではわからない。貴様らはいつも二人で居るから、どちらが霊気を発しているのかまではわからなかった」
道理でいつも蓮条からは強いオーラを感じていたわけである。
ようやく納得が行ったらしい荒汰は、ニンマリと笑みを浮かべた。
「どうやら嘘は言うとらんみたいやな。分家の俺でも良ければ、話ぐらいは聞いたるけど? その代わり、戒についての詮索は無しや」
「わかった、話そう」
「荒汰……」
表情を変えずに呟いたのだが、その声色から荒汰は、見事に戒の不安感を汲み取ったらしかった。ニッコリと微笑みながら、戒の頭をポンと叩く。
「安心せえ、戒。コイツの相棒から発せられとる霊気……一点の曇りもない、武人の霊気や。俺はこの手のカンはごっつ当たるんや。コイツは信用できる」
何の根拠も無さそうな発言だったが、彼の笑顔は自信に満ちている。
そういえば、陰陽師と言えば占い師でもあるもんなぁ。占い師と言えば、人を見る目とインスピレーションだよなぁ、などと、戒は自分を納得させるための理由をいくつか見つけて、落ち着こうとしていた。
荒汰のカンが信じられないわけではない。
しかし、体はなかなか言う事を聞いてくれそうもない。心拍数が、右上がりに上昇していくのを感じていた。
「神代、言っておくが、私はさっき見た殺人事件の話をしようとしているだけだ。別に貴様らの生業がどうのと話すつもりではない」
何となく戒の焦りが伝わったのだろうか。
口調は相変わらずのキツさではあるが、蓮条は冷静に言い放った。
「手短に言う。私は、あそこに死体が置かれる現場を見た」
あちこち移り変わっていた二人の視線が、一気に蓮条の方に集まった。
蓮条は、場に流れた沈黙を、そのまま話すように促していると取ったようだ。淡々とした口調で語り始める。
「とは言っても、犯人を見たわけではない。私には、何もない空間から、いきなりあの遺体が落ちてきたようにしか見えなかった」
「な、何やそれ……」
「あの遺体が空中に現れた瞬間、私は薄緑が光を放ったように感じ、袋を投げ捨てて刀に手をかけた」
手の中の太刀に視線を落とし、忌まわしい記憶に目をこらすかのように、蓮条は両目を細めた。
「あの死体が現れた付近を見ていたら、突然薄緑が見た事もない程の強い光を放った。こんな事は前代未聞だが、握っては居られない程の熱も発していて……」
蓮条は刀を膝の上に置き、真っ赤にただれた両の手の平を広げてみせた。
「この通りだ。私は薄緑を落としてしまった。慌てて拾ったが、再び光る事はもうなかった」
「その時、何かがそこに居たってことなのか?」
眉をひそめて考え込む戒に、蓮条は黙って頷いた。
「しかも、ごっつい霊気の持ち主っちゅう事か……」
「お前、霊気感じられないとか、逆に正解だったのかもな……それほどの強い霊気感じ取ってたら、動けなくなるどころか、下手すりゃ気絶してたかもしれない」
蓮条のただれた手の平を見た瞬間、朝一の衝撃映像が脳裏に蘇った戒は、胃液の逆流を必死に堪えていた。
「生きてただけでも儲けもんだ。そいつの餌食にならなかっただけでもな」
目を閉じ、呼吸を整える。
あれは、自分ではないのだと、ともすれば幻に取り込まれそうになる自分の心を、必死に現へと引き戻そうとする。
「あの死体、俺達が見た時にはまだ血が噴き出してた。お前が目撃したのはアレが殺られた瞬間と、ほぼ同じくらいだったんだろうな……」
「ちゅーか、俺のマンションのすぐ側で起きたっちゅうのに、気付いてなかったんか? 俺ら」
言われてみれば、そうである。
戒が厭な夢にうなされた時間とはかなりズレがあるし、今朝は爆睡も爆睡だった。いくら何でも、そんな強力な“何か”が居たとすれば、気付きそうなものなのだが。
「戒も俺も、霊気を探知する能力には長けとる筈なんやけど……それも、そいつの能力の内っちゅう事なんやろか?」
「うーん……」
唸ってみても、答えは出て来ない。
「気になる事が、もう一つある」
言いながら、蓮条が制服の胸元を緩め、鎖骨のあたりを露わにしていた。
「神代、以前貴様と行った練習試合の時、私が怪我をしたのを覚えているな?」
「あ、ああ……」
忘れられるわけないだろ、と動揺の色を浮かべながらも、戒は記憶の糸を手繰り寄せた。
確か、あの時は――
竹刀を持った戒に、蓮条が“危ないから胴着をつけるように”と勧めた。
それを“面倒だ”と断り、“さっさとかかってこい”と促した。
戒にとっては、単に早く事を済ませて自由になりたかっただけなのだが、結果的に蓮条の神経を逆撫でする結果となってしまい、半ば喧嘩のような状態で対峙。
打ち込んできた蓮条の一閃をかわし、がら空きの胴を見ながら、どうやって手加減したものか一瞬決めあぐねていた所に、予想よりも速い蓮条の二太刀目が迫っていた。
驚いた戒は、反射的に蓮条の竹刀を返す刀で叩き折ってしまい、叩き折った竹刀の一部が蓮条の首筋をかすめてしまった。
結果、大量出血に至り、敢えなく病院送りとなってしまったのである。
「あの時私がどこを怪我したか、指すことができるか?」
「そんなの……」
出来るに決まっているだろう、と浮かない顔で蓮条を見たのだが、その表情は一瞬で様変わりしていた。
「あれ?」
傷跡がない。どう見積もっても、軽傷などではなかったはずなのに、である。
「あん時って、お前学校には来てたけど、包帯グルグル巻きやったように記憶しとるんやけど」
荒汰も、驚きを隠せない様子である。
「私には自己治癒力を促進させる力があるらしい……おかげで、物心ついてからは、怪我や病気は一切したことがないことになっている」
無表情のまま、詰め襟を元に戻し、蓮条は続けた。
「あの時はかなり目撃者がいたからな…必要な偽装をしたまでのことだ」
「何や誠ちゃん……俺、あんな怪我しとんのに学校出て来て、物凄い精神力やなぁってちょっと尊敬したのに」
「本題はそこではない!」
恐らく荒汰の“誠ちゃん”がカンに障ったのだろう。
いきなり声を上げた蓮条は、再びいつも通り、眉間に深いシワを刻んでいる。
「その火傷……結構時間たってるわりに、酷いまんまだな」
「あぁ、そう言えばそうやな」
呑気な荒汰を睨み付け、蓮条は腕を組んだ。
「ふん。貴様も神代のように、少しは現実の出来事を洞察する能力を磨くべきだな」
「またまたー。朝からカリカリしすぎやで、誠ちゃん。コーヒーブレイクでも、どお?」
苦笑いしながら立ち上がった荒汰は、両手をヒラヒラとさせながら、奥のキッチンへ消えていこうとする。
「それほどソイツの力が強かったって事なのか? 自分の主の手の平を焦がしてまで、危険を知らせようとしたのか?」
妙な違和感を感じ、戒はおもむろに蓮条の手首を掴み、鼻先を擦り付けんばかりの勢いで火傷を凝視した。
「おい、傷は結構酷いんだ。あまり……」
その時、迷惑そうに抵抗しようとした蓮条を覗き込むように、突然荒汰が奥から顔を出した。
「あ。お近づきの印に教えたるけど……ソイツ全然自覚ないけど、一応女やねん」
「何? お、おまッ……近……!」
「おい! 荒汰!」
ほくそ笑む荒汰を、物凄い勢いで振り返る戒。
同じく物凄い勢いで手を引っ込めた蓮条が、苦悶の表情を浮かべ、ひたすら激痛に耐えていた。
「お前なー! 男子校なのに、置いてもらえなくなったらどーすんだよ! コイツ学級委員長だぞ! なぁ蓮条……黙っといてくれよ! 頼むから!」
慌てふためきながら、また蓮条の顔から鼻先数センチの位置で懇願する戒。
「いや――別に、自分の利益にならないような事はしないが」
ダラダラと脂汗を流している蓮条を、戒はさらに怪訝な表情で見つめ返す。
「わ、悪かった。そんなに痛かったのか……?」
「別に、これしきの怪我など、どうということは……篠崎、貴様!」
耐え兼ねた荒汰が、コーヒーそっちのけで腹を抱えて笑っているのが見えたのだが――
既にいろんな意味で消耗していた蓮条は、ただオタオタと喚く以外の術を持たなかった。
「誠ちゃん、女が苦手で男子校に入ったって噂、ホンマやってんなあ! 可愛いわ! 友達なれるわ!」
床を転げ回る荒汰の頭上を、一瞬風圧が通り過ぎたような気がした。
まだ痙攣している腹をさすりながら顔を上げると、鞘から抜き放たれた霊刀を振りかざした蓮条が、仁王のような形相で立っている。
「せ、誠ちゃん……?」
「篠崎……貴様、今死ぬ覚悟は出来てるんだろうな?」
荒汰の甲高い絶叫が木霊する中、一人溜め息をつきながら、戒は冷めかけたココアを飲み干していた。
何の話をしてたんだっけ?
バタバタと争い合う二人の様子を見ていると、戒は何だか、どうでも良くなってくるような気がしていた。
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