chapter2:The brute
#3 cloudly,clear later-3
焦燥感を全面に押し出しながら玄関に飛び込んできたのは、息を切らせた荒汰だった。
事の重大さに、それまであった一連の出来事の記憶が薄まりかけていた戒は、荒汰が複雑な表情で唇を噛むのを見た瞬間に、全てを思い出してしまっていた。
「荒汰――ごめん、悪かった。だけど、話は後だ」
長々と話している余裕が無い事は明らかだ。しかし、短いやりとりの中にどんな言葉を織り混ぜれば自分の気持ちが伝わるのか、今の戒には見当もつかない。
歯痒さに俯いた戒の頭を、荒汰の温かい手がふわりと撫でる。
顔を上げた瞬間、もうそこに荒汰の影はなかった。慌てて振り返ったリビングでは既に、荒汰のてきぱきとした指示が飛び交っている。
「澪ちゃん、応急処置に必要な道具あるか? あと、お湯とタオル。悪いけど、ベッド使わせてもらうで?」
「もちろん問題ないわ。薬箱、すぐ持ってくる!」
「おい、あんた。俺と一緒にコイツをベッドへ運ぶの、手伝ってくれ」
「おお、悪いな。コイツ、ガタイがいいから結構重いんだよ」
一気に緊迫感の高まった室内をキョロキョロと見回す。ここが荒汰の部屋ならまだしも、勝手のわからない澪の部屋では、自分にやれることは限られている。後ろから現れた澪の手から薬箱を受け取った戒は、青白い顔でぐったりとする蓮条の元へと走り寄っていた。
「荒汰、たぶん応急処置なら俺の方が得意だ。俺にやらせてくれ」
「――わかった。頼んだで、戒」
深く頷き合うと、戒は薬箱の中を物色しながら蓮条の満身創痍の体を注意深く観察していた。
蓮条の着ていたカッターシャツは、見るも無惨にあちらこちらが切り裂かれている。その鮮やかな切り口は、まるで鋭利な刃物によって付けられた傷のようだ。
しかし、最も目を引くのは左肩からの出血。蓮条の左肩は何かで抉られたように酷く損傷していて、こそげ落ちた皮膚の向こうからは、筋組織とともに骨までが露出している。全身の切り傷の中に致命傷たり得る深いものは一つもなく、白い衣服を赤黒く染めているのは、おそらくそのほとんどが肩からの出血によるものだと思われる。
待てよ、何か変だ。
圧迫止血用の包帯を伸ばす手を止め、戒は蓮条の全身を再び隈なく観察する。
ややあって、戒はその朧気な疑念の輪郭をはっきりと掴んでいた。喉元まで出かかっていた言葉を口にしようとしたとき、部屋の隅で壁に寄りかかってこちらを見つめるあの銀髪の男の存在に気が付き、ぐっと息を止める。
「お前、コイツを見つけたとき、何か気付いた事はあったか?」
ひとつひとつ、慎重に選び取りながら言葉を紡いでいく。
ごく普通の人間に襲われたとしても、蓮条がこれほどの傷を負わされるなどという事は到底考えられない。だとすれば、少なくとも普通ではない何か――おそらくはあの案件の関係者に襲われたと考えるのが自然だろう。もしかしたらこの男は、何か重大なものを見ているかもしれない。
「ああ、コイツを襲った犯人を見てないかって事か? それなら、誰も見てねえよ。俺はコイツが道端に倒れてんのをたまたま通り掛かって見つけただけさ。顔に見覚えがあったからお前の仲間だって事にすぐ気付いて、バイクで運んできてやっただけのことだ」
何も見ていない? 本当に?
この男に関しては、昨日会った時からどうも“食えない奴”というイメージがちらついてしまって、素直に受け入れることが出来ない。昨日男が見せたあの曇った無機質な瞳――ただの直感でしかないのだが、何かがあるような気がしてならないのである。
男の発言に、引っかかる節は特に無いような気がする。本当の事を言っていればの話ではあるが。
彼がもし“怪しいものを見た”とでも言えば、極秘事項である案件に関わった部外者として、それ相応の対処を考えなければならないところだ。しかし、彼の言い分はそうではない。本当にただ怪我をした蓮条を連れてきただけなのだとすれば、男にはこれ以上この場に立ち合わせるべきではない。
どうしようかと考えあぐねていた時、男の隣に立ち、固唾を呑んでこちらの様子を見守っていた澪が口を開いていた。
「ねえ、平助。私今から警察に連絡しようかと思ってるの。あんた、これ以上ここに居るとまずいんじゃないの? 声掛けられる前に消えた方が身のためよ」
「げ、マジかよ。面倒臭えな……」
頭の回転の速い澪なら、自分と同じ考えに辿り着かないはずは無い。だとすれば、今回の一件を警察へ報告する事に何の意味もないことはそれほど考えなくてもわかるはずだ。澪は意図的に男を遠ざけようとしているに違いない。
みるみるうちに顔色を変えた男は、苦虫を噛み潰したような顔で頭を掻いていた。
「悪ぃけど俺、どれを引っ張り出そうか迷っちまうくらい身に覚えがあるんだ。じゃあな、あとは宜しく頼んだぜ」
携帯電話をちらつかせてほれほれと脅す澪に急かされ、男はそそくさと踵を返していた。
「ああそうだ。なあ、そこの女みたいな顔の奴」
ぼんやりとしていた戒は、周りの視線がこちら一点に集まるのを感じ取り、ようやく自分が呼ばれていることに気が付く。何を思ったのか、男は寝室のドアに手を掛けた瞬間、突然思い出したように戒の方を振り返ったのである。口の端に薄っすらと意味有り気な笑みを浮かべて。
「そいつに言っといてくれよ。“拾った命は大事にしろ”ってな」
やっぱりコイツ、何かが普通と違う。
先程も思い返していたあの淀んだ色の瞳。今の彼の瞳の色はまさにそれだ。
何を考えてるんだ?
不気味な存在感がちらほらと見え隠れするその不敵な笑みに、戒は言い知れない不安を感じずにはいられなかった。
「ちょっと、早く出て行きなさいってば!」
しばらくこちらを見つめていた男を、苛付いた澪のタックルが遮っていた。
ぶつぶつとぼやく男を玄関の向こうに追い出した澪は、用意周到に鍵まで掛けて、再びこちらに走り寄ってきていた。何もそこまで毛嫌いしなくてもいいのにと、戒には二人の関係が益々よくわからなくなってくる。
澪は男の事を幼馴染みだと言っていたが、そもそもこの二人にはどれほどの繋がりがあるというのだろう。
「ね、ねえ。手当ての続きはいいの? 彼の傷、相当なものなんじゃないかと思うんだけど」
いかにも恐る恐るといった感じで蓮条の傷の具合を覗き込んでくる澪。
手にした包帯を再びくるくると回して巻き取った戒は、大きく息をついていた。
「結論から言うと、たぶんもう手当ては必要ない。傷口は全部塞がってるから、あとは皮膚組織の再生を待つだけだ。蓮条の服に付いた血が真っ赤な鮮血じゃなかったから、傷の具合を見た時わりとすぐ気付いたんだけど」
「や、やっぱりそうなんか? 俺もまさかとは思てんけど」
ずっと押し黙っていた荒汰が、強張った表情で戒の方を振り返る。
「何それ、どういうこと?」
やや苛付いた様子で戒と荒汰の二人をギロリと睨んだ澪が、不貞腐れた顔で腕を組んでいた。
「誠ちゃんは生まれつき、怪我に対する自然治癒力が人より何十倍も優れとるんや。せやから、きっと今回もその力が働いとるんやとは思う。思うんやけど……」
すっきりとしない表情を浮かべたまま、荒汰は静かに促すように蓮条を覗き込んだ。
釣られた戒と澪も、同時に蓮条の蒼白になった顔を見遣る。
「昼間、ナイフを振り回して襲ってきた“加害者”を取り押さえたとき、誠ちゃんは頬にほんの少し切り傷を負っとった。その傷を気遣ったとき、アイツは俺らに“こんな傷くらい一晩寝れば治る”って言うたんや。これがどういう意味かわかるな?」
不安そうな面持ちの荒汰に感化されたのか、次第に澪も声のトーンを落とし、まじまじと蓮条の顔を見つめていた。
蓮条の顔は、失血によって若干顔色が悪い事を除けばいつもと変わらない――そう、いつもと変わらないのだ。
「顔の傷がもう無いわ――いつもより怪我の治る速度が異常に速いってことよね。だって、傷を負ってからまだ半日とたってないんでしょ? 体を休めたりしたわけでもないし」
「そう、そこなんや。しかも、問題はまだある。単にいつもの誠ちゃんの荘厳な霊気が増幅されとるっちゅうだけならまだええ。修行を積む過程で、何かのきっかけを得て力が倍増するっちゅうのはよくある話や。せやけど、今の誠ちゃんはそういうのとは違う……霊気の質自体が変質してしもとるみたいな、妙な感じがすんねん」
歯痒そうに口元を固く結んだ荒汰は、眉を潜めて拳を握っている。
「この怪我を負ったとき、誠ちゃんに重大な“何か”が起きた事は間違いない。あの案件に関わった時点で、迂闊に独りで行動させるべきやなかったんかもしれん。コイツには今、妖と戦う術がないっちゅうのに――」
悔やむように俯いた荒汰の背中に、何か掛ける言葉が無いものかと探しあぐねていたときのこと。
それまでうめき声の一つもあげることのなかった蓮条が、微かではあるが唇を動かしているのが見えた。いち早く気が付いた戒は、手に取ったタオルで蓮条の額に浮かぶ玉のような汗を拭き取りながら、耳をそばだてる。
「から――」
「蓮条?」
「力が、欲しい――」
弱々しく伸ばされた蓮条の手が、戒の腕に触れる。
「蓮条、気が付いたのか?」
戒の呼びかけに、荒汰と澪の二人が一斉にこちらに集中したと、背中にぶつかる気配で感じ取る。
蓮条はこちらの呼びかけには一切反応せず、ただひたすらうわごとのように同じ言葉を繰り返すばかりだ。
力が欲しい? 一体、何のことだ?
「蓮条?」
再三の呼びかけに著しいまでの反応を見せたのは他ならぬ蓮条本人だった。
ほんの一瞬大きく体を震わせた蓮条は、何かに驚いているかのように大きく目を見開き、息を荒げて天井を凝視していた。
「く、神代――?」
戒の腕を握り締めたまま反射的に飛び起きた蓮条は、肩に走った痛みに息を詰まらせ、呻き声をあげていた。
「おい、そんなに動くな。お前の怪我、相当酷いぞ」
「ここはどこだ?」
青白い顔を苦痛に歪め、蓮条はキョロキョロとあたりを見回していた。そこでようやくずっと戒の腕を握っていたことに気が付いた蓮条は、熱くなった鉄板にでも触れてしまったかのような速さでその腕から手を離し、再び痛みに大きく顔を歪ませていた。
「ここは私の家の寝室よ。キミ、怪我をして倒れていたところを発見されてここに連れて来られたのよ」
戒の隣にしゃがみ込んだ澪が気遣うようにゆっくりとした口調で言って、訝る蓮条を見つめていた。
「私は、怪我をしているのか? 何があったのか全く思い出せん……」
頭痛がするのか、額を強く押さえた蓮条はギリギリと奥歯を軋ませていた。
額を押さえる手はそのままに、彼は信じられないとでも言いたげな表情で満身創痍の自分の体のあちこちに目を走らせている。
「無理に思い出そうとしなくていいよ、蓮条」
なるたけ優しく声をかけた戒は、うなだれる蓮条に再び仰向けになるようにと促す。
素直に従った蓮条は、心配そうに覗き込む三人の様子を見て、ようやく自分の置かれた状況を理解出来てきたようであった。
「私は一体誰に襲われてこうなったんだ? そもそも、何故助かったんだ……」
「お前を助けたのは、昨日澪の家に居たあの男だよ」
「あの男? 鷹咲平助のことか?」
聞き覚えの無い名前に、戒は訝しげに首を捻る。
確かにさっき、澪があの男の事を“平助”と呼んでいた気はするが。
「え。蓮条君、平助を知ってるの? 昨日はそんな風には見えなかったけど」
驚きに目を丸くする澪に、蓮条はただただしかめっ面を返すばかりだ。
「わからん――昨日は確かに知らなかったはずだが、今何故あいつのことを知っているのか、自分でもわからん――」
記憶が混乱しているのだろうか。
再び頭を抱えて苦しみ始めた蓮条は、普段の態度からすれば及びもつかないほど酷く動揺しているように見えた。
「誠ちゃん、あんまり無理に思い出そうとせん方がええ。落ち着けばそのうち記憶も戻るやろしな」
「篠崎――」
蓮条にかけられた布団を軽く叩いた荒汰は、先ほどまでの戒と同じように、つとめて落ち着き払った口調で呼びかけようとしているようだった。
「おい、お前の部屋に居たあの男――鷹咲は、お前の幼馴染みだと言っていたな」
「ええ、そうよ。でもその前に」
きりりと目元を尖らせた澪は、穏やかに振舞おうとする戒と荒汰とは真逆の冷たい態度で蓮条を睨んでいる。
「キミねえ、そのぶっきらぼうで堅苦しい口調は地だから赦してあげる。でも、人の事いつまで“おい”とか“お前”って呼ぶつもりなの? いい加減にしないと怒るわよ」
鼻先がくっつくのではないかというくらいの距離でビリビリと睨みをきかせる澪に、蓮条はすっかり気圧されてしまっている。
「そ、それならどう呼べばいいんだ――“久遠時”か?」
「それも嫌なのよねえ。どうせなら澪って呼んでくれない?」
肩にかかった髪を払いのけ、澪はニヤリと微笑みながら戒に向かって目配せしてみせた。
その場を和ませようとして言っているのか、単に蓮条をからかいたいだけなのかはわからないが、蓮条はすっかり澪のペースに嵌められ、急速にいつもの調子を取り戻しつつあるようだ。
眉間の皺を増やして顔を真っ赤にした蓮条は、拳を固めて澪に向かって猛抗議を始めていた。
「たいして親しくもない女を名前で呼び捨てにする事など出来るか!」
「あら、じゃあ戒も一緒なのね? 戒も親しくないから姓で呼んでるのね?」
更に悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらにウィンクを投げる澪に、戒は苦笑いで応える。
怪我人に向かって、とほんの少しだけ良心は痛むものの、彼の反応を見たいという好奇心に耐え切れなくなっていた戒は、精一杯哀しそうな表情を浮かべて蓮条を見つめてみる。
「蓮条……お前、俺の事をそんな風に思ってたのか」
「ち、違――そういうわけでは――!」
「誠ちゃん、俺の事もそんな風に……」
「お前の事はどうでもいい。ついでに言うなら“誠ちゃん”と呼ぶのをやめろ」
「な、何で俺だけ……」
いじけたようにそっぽを向いた荒汰は、子供のように頬を膨らませて引っ込んでしまっていた。
こみ上げてくる笑いを堪えながら、戒は慌てふためく蓮条をちらちらと覗き見る。
「ねえねえ、私は誰?」
ベッドの淵に両手で頬杖をつき、物をねだる子供のように甘えた声を出した澪に、蓮条は少しも目を合わそうとしない。深く考えるような間を置き、彼は遂に観念したようだった。
「澪」
蚊の鳴くような声でぼそりと呟いた蓮条に狂喜しながら、澪は隣の戒に腕を絡ませ、魔女のように不敵な笑みを浮かべる。
「そうね、私もこれからは“誠獅郎君”って呼んであげるわ。じゃあこっちは? 早く言いなさい、ほら早く!」
「か、戒」
「きゃあああ、言ったわね! あ・ま・ずっ・ぱ・い!」
さすがの蓮条と言えど、女相手ではたいした抵抗も出来ないらしい。青白い顔に赤みが差しているのは、体調の影響なのか、それとも気分の問題なのだろうか。
「いい加減に話を戻したいんだが」
すっかり先ほどの話の流れなど忘れてしまったかのように黄色い声をあげる澪に、うんざりした様子の蓮条が溜め息を漏らしていた。女二人と話す事には嫌気が差してしまったのか、はしゃぐ澪と振り回される戒はこれ見よがしに無視し、蓮条はおとなしくその様子を眺めていた荒汰の方に向き直る。
「なあ誠ちゃん、明日は日曜日や。何かあっても困るし、戒の奴は今日ここに泊まらすさかい、お前はうちに泊まってけや。話は明日でもええやろ? 明日になれば、ある程度お前の調子も安定するやろし」
「それは、構わないが」
明後日の方向を向いていたというのに、しっかり二人の会話を聞いていたらしい澪が、長い髪を掻きあげて耳をそば立て、ニヤニヤと笑いながら二人の下へ近付いてくる。
「あらあらー? 荒汰君、今日は誠獅郎君と一緒に寝るの? 体よく状況を利用したわけね」
「やかましわ! ほっとけ!」
可笑しくてたまらないとでも言いたげにコロコロと笑った澪は、励ましのつもりなのか、渋い顔で腕を組んだ荒汰の肩を深く頷きながら何度も叩いていた。
「何だ? 何かあったのか?」
「何にもあらへん!」
不機嫌そうな態度を見せる荒汰を見て、澪は益々笑いが止まらなくなって来ているようだ。
戒は改めて確信する。
澪はきっと、自分の言いたい事を言っただけなのだ。先ほどまでの彼女の態度は、結果的にはそうなったものの、元々は蓮条の気持ちを落ち着かせてやるために取った行動ではない。
しかし、それはそれで、彼女の自由な立ち居振る舞いは嫌いではないと思った。
困り顔の荒汰と目が合った時、戒は腹の底から湧き起こってくる笑いを表に出さずにはいられなかった。釣られて荒汰も、苦笑いを浮かべている。
きっと、大丈夫だ。
いつもと変わらない荒汰の様子を肌で感じた戒は、再び確信していた。
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