ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
扉絵:ここまで読んでくださった方々に、敬意と感謝の意を込めて。

挿絵(By みてみん)
chapter1:fanatic love
#8 epilogue
 既にあの時から一週間以上の時間が経過している。荒汰の通う神楽坂学園高校は、数日前から平常通りの授業が再開されていた。事件解決の糸口は見つからないものの、毎日起こっていた殺人事件がぴたりと収まってしまった事から、学園側は生徒の生命を危険に晒すような一時の危機的状況は脱したとの判断を下したらしい。
 連日のように報道関係者がマンションの周りに押し寄せ、見慣れた我が家がテレビの向こうに映っている状況にもそろそろ慣れて来ていた。それどころか、未だ謎の猟奇殺人事件の犯人の足取りは掴めないままです、と毎日馬鹿の一つ覚えのように同じ調子でこちらに語りかけるニュースキャスターの声にも、いい加減飽き飽きしていた。
 いくら報道番組で知らない大学教授だか何だかのコメンテーターが“これは現代の日本の歪みを表す象徴的事件です”と真面目顔で語ろうが、元警視庁の重役だか何だかが事件についての見解を語ろうが、自分は事の真相を全て知っている。そしてその真相はこれからもずっと、決して世の人々に知れることは無い。荒汰が陰陽師として携わってきた事件は、ほぼ全てがそのような性質のものばかりだった。しかしながら、今回のように自分の私生活にまで大きく関わるような事件が起きたのは初めてのことだったけれど。退屈な授業を聞き流しつつ、荒汰はぼんやりと二つの空席を眺めていた。
「よぉ、荒汰。神代のやつ、まだ調子悪いのか? アイツたまに寝坊して遅刻したり屋上でフケて寝てたりすることはあったけど、学校休んだりする事なんか今までなかったよな」
 授業を終え、一人黙々と机の中身を鞄の中に放り込んでいた荒汰の後ろから、明るい調子で話しかけてくる者が居る。よく通るハキハキとしたこの声の主は、中学以来の同級生の早乙女だ。
「和希――うん、アイツちょっと調子悪いねん。風邪こじらせてしもたみたいなんや」
 自分でもハッキリ自覚できるほど、抑揚のない声だった。こんな声では、きっと早乙女のような仲のいい友達でなくとも、たちどころに自分の気持ちの何もかもを悟られてしまう事だろう。いつもなら無理して笑うところだったが、荒汰はあれからずっと、そんな気持ちにはなれずに居たのだった。
「何、お前もめちゃくちゃ元気ないし。まさか風邪うつったんじゃねーの? それとも、失恋とか?」
「そうかもしれへん」
 “失恋”という言葉に著しく反応する自分が居る。
 その体裁は、遠からず近からずというところなのかもしれない。弁解のしようもないくらい残酷な選択をさせてしまった自分を、戒は今どう思っているのだろうか。現実世界(こちら)に戻ってきてから、体の傷は嘘のように良くなったが、見えない心の奥底につけられた深い傷は、そう易々と癒えるものではない。荒汰は改めて痛感していたのだった。
「ま……まあ元気出せよ。今度神代が良くなったら、快気祝いも兼ねてどっか遊びに行こうぜ、な?」
 まさか的中するとは思っていなかったのだろう、早乙女は突然気まずそうに苦笑して、荒汰の肩に手を乗せた。慌てる早乙女の様子などどこ吹く風の荒汰は、憂鬱な気分を隠そうともせず、深いため息をついていた。
「そういえば蓮条も休んでるよな。アイツのデカい号令が聞けない日が来るなんて、夢にも思ってなかったなあ」
「あ、そうや……俺、今から蓮条ん家行くんや。悪いけどもう帰らしてもらうわ」
 お前そんなに蓮条と仲良くしてるのか、などという早乙女の声は、もはや耳には入ってきても、その意味を記憶にとどめておく所にまでは至らなかった。別れの挨拶もそこそこに、荒汰は呆けた様子で教室を後にした。
 校門を出て、通学路に差し掛かる。そこから一番近いバス停まで歩き、タイミング良く現れたバスに乗る。吊り革に体重をもたげ、流れていく窓の外の景色に思いを馳せる。瞳に映る景色の中に、印象に残るものなど何一つ無い。視覚が捉えた情報をただただ脳内に垂れ流しながら、荒汰は遂に、聴覚の一切をも遮断していた。
 車掌の声が車内に響く。それが自分の目的地を告げている事に気付いたのは、既にバスの扉が閉まりかけていた頃だった。
 慌てて降りる意志を喚き散らしながら人ごみを掻き分け、車両前方へと走る。怪訝な顔で自分を見つめる車掌に侘びを入れ、荒汰はバスを降りた。
 バス停から程近い場所に、蓮条邸はあった。おそらく日本でもここまでのものは指折り数えるほどしかないであろう、高い塀と美しい庭園に囲まれたその佇まいは、まさに“屋敷”と呼ぶに相応しい、堂々たる風格を漂わせていた。
 ここに通うのももう何日目だろう。あの事件の後、蓮条の経過を見るため毎日のように通い詰めていた荒汰は、慣れた様子で通用門まで辿り着き、インターホンを鳴らした。
 程なくして現れたのは蓮条の世話係の女性――桜澤であった。
「ご足労をおかけしました。さあ、こちらへ」
 いつも通り一言二言、他愛の無い会話を交わし、荒汰は蓮条家の客室へと通された。
 昨日までは蓮条の寝室に直接通されていたのだが、桜澤の話によれば、蓮条は既にいつもの調子を取り戻していて、寝室には居ないということらしかった。
 桜澤に促され客室に入った荒汰は、既に机の反対側で待ち構えていた蓮条と目が合った。
「篠崎か。わざわざここまで足を運んでくれたことには感謝するが、私はこの通りもう元気だ」
 彼の様子は言葉通り至って元気そうで、一時は全く感じ取れなくなっていた荘厳な霊気もすっかり元通りになっている。火傷も跡形もなく消失していて、今まで床に伏せっていた事が嘘のように感じられた。
「そうか、良かったなあ。まあお前は元々自然治癒力のポテンシャルが高いさかい、すぐに良くなってくれるとは思とったけど」
 すっかり回復しきった蓮条を見ても、素直に喜べないのは何故なのだろう。考えればすぐに答えを出せるのはわかっていたが、荒汰は敢えて考えようとはせず、無理に平常を装うと決め込んでいた。
「ああ、それと――やっぱりお前の刀、“向こう側”から救い出す事は出来そうにないんや。単純にあそこを探し出すんが難しいっちゅうのもあるけど、やっぱり紅流の気持ちを考えたら、探そうとする事自体止めとくべきやと思うし」
「それは私も理解しているつもりだ。別に詮索はしない、この通りあの火傷は癒えたんだからな」
「すまん――」
 ピンと張り詰めていた気持ちが、一瞬ほころびを見せてしまったようであった。
 その隙をついて現れ出た荒汰の心の奥底の心理が、その表情にほんの少しだけ、陰りをもたらしていたのだった。
「その様子だと、アイツはまだ眠ったままなのか」
 言われて咄嗟に顔を上げ、苦笑する荒汰。しかしおそらく、今の蓮条に取り繕いは通用しない。共に死地を乗り越えた戦友ともなれば、それは尚更の事なのだろう。まっすぐにこちらを見つめる蓮条に見透かされたような気になって、荒汰は作り笑いをやめ、唇を噛み締めた。
「ああ、そうや」
「もうあれから一週間が経つな――」
 蓮条も沈痛な面持ちを隠さず、言葉を濁らせていた。
「アイツは全てに心を閉ざしてしまっとる。たぶん、俺の事も拒絶しとるんや。前みたいに“夢見”の力を使ってアイツの意識に入り込もうとしても、拒絶されるばっかりで、救い出す事も出来へん。無理に割り込む事は出来るけど、失敗したらアイツの心が壊れてしまうかもしれんし」
 悔しそうに俯いた荒汰は、膝の上に置かれた拳により一層の力を込めた。
「まさかアイツがお前を拒絶するとは思えんが」
 蓮条は相手をフォローするようなタイプではない。おそらくそれは本心から出た言葉なのだろう。しかし荒汰にはそれをきっぱりと否定するだけの、明確に思い当たる節があった。
「アイツは紅流の提案を聞いても、それを鵜呑みにしようとはせず、助けようとしとった。でも、俺は――あの極限状態の中では、紅流を助ける策なんか思いつきもせんかった。だから俺はアイツの気持ちを全部無視して、強制的に紅流を見捨てて自分の身を守る選択をさせたんや。無理矢理あんな残酷な道を選ばせた俺を、アイツが拒絶するのは当然の話なんや」
 蓮条はただ黙ってこちらを見つめている。沈黙が胸に突き刺さるような気がして、息苦しくなっていた。親しくし始めてまだ日も浅い彼に、こんな話をするのはお門違いだったのかもしれない。しかし、堰を切ったように溢れ出た感情は、既に荒汰本人の力ではどうする事も出来ない域に達してしまっていたのだった。
「お前は、神代の事を特別な存在として見ているんだろう?」
 答えが返ってくるとは思っていなかった。感情の渦の中に囚われそうになっていた荒汰の意識を一気に引き戻した蓮条は、言葉を探しながら、たどたどしくではあるが懸命に何かを語りかけようとしているように思えた。
「それなら、アイツを何が何でも守ろうとするのは当然の事だろう。紅流も同じようにそういう思いがあったから、アイツを生かすために自分を犠牲にする方法を取ったんじゃないのか?」
 彼にとって、それは相当難しい講義だったのかもしれない。難解な方程式を解こうと挑んでいるかのように、険しい表情で思考を巡らせ、尚も蓮条は語りかける言葉を探し続けているかのようであった。
 まさか蓮条から、こんな話題で手ほどきを受けるような事があろうとは――
 荒汰は、嬉しさを差し置いて、驚きを隠せないでいた。
「それは、そうかもしれへんけど」
「だったら、お前は紅流の分もアイツを守ろうとするべきなんじゃないのか。アイツにはお前しか居ないんだぞ」
「せやけどアイツは、俺を――」
「弱音を吐くな!」
 蓮条の握られた拳が、怒気を孕んだように勢い良く机に叩き付けられた。驚きにピクリと全身を跳ね上げた荒汰とともに、湯飲みに並々と注がれた緑茶までが、四方八方に跳ね散らかる。その様子を一切気に掛ける様子もなく、蓮条は鋭く荒汰を凝視していた。
「お前はアイツを信用していないのか? 残酷な選択だとわかっていても、それを強制せざるを得なかったお前の気持ちが、アイツには理解できないと? お前は本気でそう思っているのか!」
 止め処なく湧き起こってくる感情に身を任せるかのように、蓮条は再び拳を叩き付けた。割れんばかりの鋭利な音を立てて、再び湯飲みが雫を撒き散らしていた。
「いいか、よく聞け! お前がいつまでもそうやってメソメソしているのなら、アイツを守る役目は私に譲り渡してもらうからな!」
「え――」
 それはあまりにも意外すぎた。今までの彼の様子から考えると、そんな事は思いつきもしなかったのだが。
「お、お前まさか、戒の事好きやったんか?」
「え――」
 先程の自分と全く同じような声と顔つきで固まってしまった蓮条。
 しかし、そうかと思えば突然目に見えるように急激に顔の表面温度を上昇させながら、口をパクパクと開閉し始める。当然の事ながら、その行動に言葉は伴っていない。
「ち、違っ――断じてそういう意味では! そんなものは、意味がっ――!」
 おそらく頭の中で自分の言いたい事を統合出来ていないのだろう。詳しく問い質そうとしても似たような反応が返ってくるだけで、話は一向に進む気配がなさそうだ。彼の言葉は、弱い立場である戒をただ助けるという意味なのか、はたまたそれ以上の意味があるのか。茹蛸のように顔を赤らめているのは、戒という存在を、単に蓮条の苦手なカテゴリーである女性として見ているからなのか、それとも、それ以上の存在として見ているからなのか。表面上はとてもわかりやすそうであるのに、蓮条の反応の真意を汲み取るのは、とても難しい事のように思えた。
 しかしながら、彼が自分の本当の気持ちに関して理解している事は間違いないことで、自分のクヨクヨ悩む気持ちに渇を入れようとしてくれている事だけは間違いない。心の中の薄靄が晴れた気になった荒汰は、蓮条の様子など気にする事もなく、希望に満ち溢れた表情で立ち上がっていた。
「お前ももうすっかり元気みたいやし、そろそろ帰らしてもらうわ。お前に言われた通り弱音を吐くのは止めて、アイツを守る方法、絶対に考え出したるわ!」
「そ、そうか――」
 ようやく落ち着いた様子の蓮条の覇気が若干弱くなっている事も気にせず、荒汰はニッコリと微笑みながら振り返っていた。
「おおきにな、蓮条。アイツが目え覚ましたら、真っ先に連絡するさかい」
 半ば小走りに駆け出すようにしながら襖へと向かい、手を掛ける。
「調子が戻ったら、いつでも剣道部の練習に来いと伝えろよ」
 去り際、蓮条が穏やかな笑みと共に告げた言葉を胸に、荒汰は帰路についた。

 目を覚ますと、そこには見た事も無い景色があった。
 自分の持てる知識を総動員しつつ、辺りを観察してみる。そこにあるのは、つい先日まで自分が使っていたような簡素なものではなく、適度なスプリングの利いたベッドと、サイドテーブル、本棚、液晶テレビ。そして、開放された窓辺。明らかにここは、あの殺風景な研究所の一室とはかけ離れた所だ。少なくとも、元の場所に連れ戻されたわけではないらしい。ここが天国なのか、はたまた地獄なのかは見当もつかなかったが、自分は確かに生きている。戒は安堵にほっと胸を撫で下ろしていた。
 体中がぐっしょり湿っている。それが自分の流した汗なのか、血液なのか判別するには、月の光だけでは光源が足りない。
 確か自分は失血によって気を失い、倒れたはずだ。システムトラブルによって混乱に陥った研究所からまんまと抜け出そうとした矢先、最も大切な存在だった慧護の死に直面し、絶望に打ちひしがれながらそれでも尚、戒は自由にすがってあの地獄から逃げ出した。しかし、いくら混乱状態だったとは言え、組織は完全な隙を見せたわけではなかったようで、脱出に成功して早々、訳のわからない狼の怪物のようなものに追い回される羽目になったのだった。
 あれはおそらく“陰陽師”と呼ばれる超能力者の扱う“式神”とかいうものだ。戒の所属していたホムンクルス研究チームである“薔薇十字(ローゼン・クロイツ)”では、被験体として何人かの陰陽師を囲い入れてある、というような話を、以前慧護から聞いた事があった。おそらくあの式神は、そこからの差し金なのだろう。
 一通り状況分析を終えた戒。しかしまた、矢継ぎ早に様々な疑問が生じてくる。
 当然ここには自分をあの現場から運んできた人間がいるはずだ。それは一体誰なのか。その人間は、自分の敵なのか、味方なのか。敵であるとすれば、出来るだけ目立たないように、いかに始末するか――
 考えを巡らせていると、扉の向こうからガチャガチャと鍵を回すような音が聞こえ、戒は油断なくその方向に警戒を払っていた。
 現れた気配は、拍子抜けするほどズカズカとこちらへ近付いてくる。しかし、その気配の纏う霊気は、まず間違いなく普通の人間のものでは無かった。
 痛む体に鞭打って状態を起こした戒は、よろめきながら立ち上がり、気配のする方に全ての神経を集中させていた。
「おー、ようやくお目覚めかいな。心配したで」
 鋭く殺気を投げる戒とは対照的に、扉を開けた気配の主は呑気な声をあげていた。
 陰影などから推測すると、相手はおそらく自分の一回りくらい上の体格を持つ若い男だ。身のこなしのお粗末さから考えて、おそらく力ではこちらの方が数段以上、上回っている。しかし、その身に纏う限りなく澄み切った強い霊気は、自分のそれを遥かに凌駕している。
 おそらく向こうも多少はこちらを警戒しているらしい。微妙な間合いを保ちながら、張り詰めた霊気を消し去ろうとはしていない。
「待てよ、動くなよ? 今電気点けたるさかいな」
 攻撃的な意志は持ち合わせていない、とアピールするかのように両手を挙げつつ、気配の主は壁に手を這わせていた。
 軽快なスイッチ音が響き、部屋の輪郭が急激に浮かびあがった。同時に戒の視力のスイッチも切り替えられ、暗順応していた視覚が瞬時に明順応しようと働きかける。部屋の入り口に立っていたのは、想像していたよりもずっと若い男だった。おそらく年齢は二十歳にも満たないくらいで、短い金髪にジャラジャラとぶら下げた耳元のピアスという出で立ちから考えると、あまり柄のいい部類の人間だとは思えない。おまけに喋り方も訛りが強く独特で、この地方の人間ではないのかもしれない。
「お前の横に転がっとった獣型の式神は、俺が消しといたったさかい、安心せぇ。術者に位置を知られると面倒臭いしな」
 しかも、式神を知っているとなると、それなりに事情に通じた立場の者のようだ。大怪我のせいであまり余裕のなかった戒は、単刀直入に相手の正体について切り込んでいく事に決めていた。
「お前は、何者だ?」
 もしかしたらこの男は、自分を手当てしてくれたのかもしれない。よく見れば、自分の全身にはしっかりと包帯が巻かれている。それも、素人が勘を頼りに、といった感じではない。しかも、これだけの大怪我をした人間を目にした時、一般人なら普通は病院に連れて行こうと考えるのではないか。彼が敢えてそれをしなかったのは、それなりの考えがあってのことなのかもしれない。単にそこまで配慮が回らなかっただけだとしたら、元も子もない話なのだが。
「俺か? 俺は高校生や。春休みやさかい、今は学校には行ってへんけど」
 高校生? コイツが?
 疑わしい気持ちを臆面も無く表情に出し、戒は訝っていた。
「その顔、思いっきり疑っとるっちゅう顔やなぁ。一応本当の事やねんけど」
 苦笑いを浮かべ、男はポリポリと頬を掻いた。
「何もお前を捕って食おうっちゅう考えはないんや。もうちょっとフレンドリーに接してくれるとありがたいんやけどな」
 何と表現したらいいのか、とにかく男は掴み所のない雰囲気だ。まともに話していても埒があかない。あまり使いたくはない方法だったが、こうなれば言わざるを得ない状況を作り出す以外にないだろう。
 体の内側に意識を集中させ、右手の指で左の掌の上を探る。指先に手応えを感じた戒は、そのままそれを手繰り寄せるように一気に引き抜くと、瞬時に男との間合いを詰めていた。
「本当の事を言え。言わなければ首を落とすぞ」
 取り出した刀の刃を男の首筋の数センチ横で寸止めし、戒は短く呟くように言った。おそらく剣圧によるものなのだろうが、男の首筋には既に薄く紅い筋が引かれている。
「陰陽師って言うたら、わかるか?」
 しかし男に臆した様子はない。瞬きもせず視線を合わせたままの状態で、ぼそりと一言呟いていた。
「ああ、わかる」
 男の反応に満足した戒は、男から刀を遠ざけた。
 おそらく今の反応からすれば、男は戒が本当に首を落とす気が無いことを悟っていて、わざと動かなかったのだろう。何者かからの奇襲を受けた時、それなりに力のある者が、反射的に動きたくなる衝動を抑えてその場に留まるという行為には、それなりの覚悟が要るはずである。おそらくこの男が自分に危害を加える気がないという発言は本当なのだろう。
 再び意識を集中し、刀を鞘である自分の左腕に収める。戒は本能的に退路を確保するように、開きっ放しになった窓を背に男の方を振り返った。
「お前のその強い霊気は、とりあえずこのウチの中に居れば消してやれるように細工しといたさかい、そう簡単には追手に見つかる事もないやろ。まあ怪我が治るまではゆっくりせえや」
 またしても無警戒な様子で男がつかつかと歩み寄ってくる。一瞬にして先程の警戒態勢に戻った戒は、身を固くして男を睨み付けた。
「近寄るな!」
 後退る戒を無視し、男は窓際からは一番遠いベッドの端に腰掛けた。
「何で? ここ俺の部屋やし、座るとこはここに一つしかないねんから、しゃーないやん。お前、名前は? 俺は荒汰や。篠崎荒汰」
 荒汰と名乗った男は何故かニッコリと微笑んでいる。身を屈めてこちらをしげしげと見つめる姿は、こちらの焦る様子を観察しながら楽しんでいるように見えた。
「戒」
「カイ?」
「神代戒」
「そうか」
 自分の話の真偽がどこにあるのかもわからないというのに、荒汰は心底嬉しそうに笑っていた。
 戒にとって先程の行為は、ただ自分を呼称するための情報を与えただけに過ぎないのだが、それだけで目の前の男はみるみるうちに機嫌を良くしたようだった。
 鼻歌を歌いながら別室に消えたかと思うと、数分後、彼は大きなトレーにたくさんの料理を乗せて戻ってきた。
 小さなサイドテーブルに所狭しと並べられた料理はどれも見たことが無いものばかりで、その芳しい香りにあてられ、思い出したように活動し始めた戒の腹部が、一刻も早くそれを自分のものにしたいと、響くような音と共に自己主張を始めていた。
「こ……これ、お前が作ったのか?」
「俺の趣味、料理やねん。さあさあ、冷めへんうちにどーぞ」
 先程の警戒した様子からは打って変わって、料理に釣られあっさりとベッドに腰掛けた戒の様子にご満悦の荒汰は、何の迷いも無く戒のすぐ側に腰掛けていた。
 二人の距離が明らかに先程とは違って短い事も、既に気にならなくなっていた。今はただ“この美味しそうな料理を思う存分楽しみ尽くしたい”という単純な欲求だけが、戒の意識の全てを支配していたのである。
 程なくして、その欲求は最高の形で満たされる事となる。
「うまい……」
 安っぽいお世辞を並べ立てるつもりなど、毛頭無かった。しかし、とにかくその一言に尽きるような気がしていた。
 食べるという事に関して、ここまで感動を覚えた事など無かったと思う。今までもずっと何かを食べながら生きてきた事には間違いないのだが、記憶に残るものなど一切無かったというのに。
「おー、そら良かった。作った甲斐あったわ」
 あっという間にテーブルの上を食器だけにしてしまった戒を見て、満足そうに白い歯を見せる荒汰。それに釣られて、戒もうっすらと微笑んでいた。
 この料理は何ていう名前なんだ? 何をどうやったらこんな風に出来るんだ?
 聞きたい事はたくさんあったのだが、満腹感で満たされた戒に、急激な眠気が妨害工作を行っていた。
「眠い」
 もっと他に言いようがあったのかもしれないが、失血しているせいもあってか、戒の体に蓄積された疲労は半端なものではないようだった。言われた荒汰は特に気を悪くしたような風でもなく、手際よく空の食器をトレーに乗せて立ち上がった。
「じゃあ戒、俺は向こうのリビングで寝るさかい、お前はその高級ベッドでゆっくりしとけや。あー、気にせんでええ、怪我人はゆっくり休んどったらええんや」
 別に何も気にするような事など無かったのだが、荒汰はお構い無しに終始愛想を振り撒きながら、部屋を後にした。
「独りは心細い? 添い寝しよか?」
 閉まりかけた扉がまた突然開き、荒汰がニヤつきながら顔を出した。戒は一瞬肩を硬直させるが、その意図が分からず、無表情を崩さないまま口を開く。
「いい」
「あっそ」
 何がそんなに可笑しいのかと質問したくなるほど、荒汰の笑顔は輝いていた。
 あんなによく喋る男を初めて見たような気がする。荒汰の居なくなった部屋に残ったのは、夜風にそよぐカーテンの擦れる音だけだ。
 今は四季で言えば春の期間ではなかっただろうか。長い間季節感など感じることの出来ない場所に閉じ込められていたせいか、これぞという確信があるわけではないが、春という言葉には、寒さも暑さも感じない快適な季節だというイメージを抱いていた。日が差していないとはいえ、春の夜がこんなに肌寒いものだとは思いもしなかった。
 窓を閉めようか。
 おそらく、しばらくの間は逃げる時の想定など必要無い気がした。ゆっくりと窓を閉めた戒は、ぽっこり膨れた腹部をさすりながら、再び布団の中へと潜り込む。
 その甘い誘惑に抗う事無くまどろみの中に意識を投じると、数秒とかからないうちに、戒は深い眠りに落ちていた。

 翌日の朝。気分は最悪だった。
 激しい喉の渇きと頭痛、幻覚――最も耐え難いのは、後から後から湧き起こってくる、後悔と自責の感情。
 原因は分かっている。自分がいつも服用していた薬の“離脱症状”というやつだ。戒が定期的に服用している薬の中には、自らの霊的な力を安定させる効果のある薬の他に、戦地で大量虐殺を行う事への不快感や恐怖感を緩和させるための、強い抗精神作用のある薬も混じっていた事は理解していた。そして自分が、その薬に依存しているということも。
 当然のことながら、研究所を抜け出す時には、いちいち薬を探している余裕などなかった。心のどこかでは“何とかなるだろう”という思いがあったことは間違いない。しかし、いざ直面してみると、これ程までに耐え難いものだったとは――
「お――おい、大丈夫か? 傷が痛むんか?」 
 荒汰は近くで必死に呼び掛けているようだったが、その言葉の意味までは、今の薄ぼんやりとした意識の中では理解できなかった。
 心配そうに自分を覗き込む荒汰の後ろに、自らの手で蹂躙してきた星の数ほどの命達が、戒に向かって呪いの言葉を浴びせているのが見える。
 それが現実のものではないという事は、充分すぎるほど理解していた。しかし、その幻覚が発する言葉は、現実よりもリアルに戒の心の深いところまで響いてくるような気がしていた。
「戒、しっかりせえ!」
 一瞬強く光を放った荒汰の霊気が、戒の意識の深淵に直接流れ込んでくる。春の日差しのような眩しい光は、とても温かく、とても心地良かった。
 いつの間にか、荒汰が自分の腕を強く握っていた。触れ合った肌から伝わってくるのは、体温だけではない。荒汰の限りなく正に近い波動が戒の体に張り巡らされ、心が癒されていくのが分かった。恐ろしい幻覚は跡形も無く消え去り、優しい現実が少しずつ輪郭を取り戻していく。
「落ち着いたか?」
 荒汰の掌から、白い光が零れている。
 どうやらこの温かい霊気は、荒汰が意図的に流し込んでくれているもののようだ。
「俺――」
 弱々しく首だけを荒汰の方に向けた戒の目から、熱い雫が零れ落ちた。
 夜闇のように真っ暗な戒の心を静かに照らすその光は、まるでこれまでの血塗れた罪を全て洗い流してくれるかのような、希望に溢れた色を宿していた。
「俺は、たくさん人を殺したんだ」
 気が付くと、戒は今までの出来事をぽつりぽつりと荒汰に話し始めていた。本当の意味で敵なのか味方なのかもわからない、出逢って間もない人間に、である。それは、自分がこの世に生まれ落ちた事によって失われた数多くの生命への、贖罪のつもりだったのかもしれない。
 正直なところ、見ず知らずの人間にこんな事を話したところで、受け入れられるとは全く思っていなかった。しかし、全てを話し終えた後も、荒汰が戒の側を離れる事は無かった。
「そうか――辛かったな」
 淋しそうに笑った荒汰は、空いた右手で戒の頭をふわりと撫でた。
「お前に触れられていると、嫌な幻覚が全く見えなくなるんだ」
 全てを曝け出した後の安心感からか、戒は再び中空をふわふわと漂っているような感覚に陥っていた。完全にその浮遊感に身を委ねてしまったら、おそらく自分はまた夢の中へと引き戻されるのであろう。しかし、戒にはまだまだ話したいことがたくさんあった。
「ほな、克服できるまでずっとここに()ったらええ」
「でも――」
 荒汰から溢れる光が眩しすぎるような気がして、戒はその視線を真っ暗な天井へと移していた。その視界から外れた後も、穏やかな光は残像となってチカチカと宙を舞っている。
「このまま一緒に居たら、今度はお前の――荒汰のこの力に依存してしまうかもしれない」
 残像がゆっくりと闇色の天井に溶けていくのを見届けると、戒は再び荒汰を見ていた。
「薬に依存する事で人殺しを続けてきた俺が、その悪夢から逃げるためだけにまた誰かの力に依存して、のうのうと生きるなんて――それはとても罪深いことなんじゃないのかな」
 自分でも驚くほど、馬鹿げた事を言っていると思う。その答えを出す事が何の意味も成さないことも、理解している。
 どんなに罪深くても、自分は生きたいと願っている。生きて幸せを探し求める事に依存しているのだ。たとえその罪が誰にも赦してもらえないものなのだとしても。
 しかし、何故だろう。今目の前に居る荒汰にだけは、それを受け入れて欲しいという気持ちが募っていた。
「人間は、それぞれに業を背負って生きとるもんや。贖罪のために依存する事が罪なんやとしたら、俺は――」
 一瞬荒汰の表情が曇ったように見えた。言葉を飲み込むようにつぐんだその口で、彼は一体何を語りたかったのだろう。
「とにかく今はそんな面倒臭い事は考えるな。お前は心と体の傷を癒す事だけを考えろ、ええな?」
 荒汰の温かい手が戒の頬に触れた瞬間、戒の意識を繋ぎ止めていた細い糸は、音も無く弾け飛んだ。
「おやすみ」
 夢に落ちる瞬間、戒の全てが、あの温かな白い光に包まれたような気がしていた。

 閉じられた瞼の上からでも感じる、柔らかい光。
 しかし、瞼を閉じたままではその光を感覚的に捉える事は出来ても、視認する事は出来ない。
 いち早くそれをハッキリ見たいという欲求が生まれる。懐かしい光にもう一度触れたいと願っている。
 ああ、早く目を覚まさなければ――急激に視覚が感覚興奮を起こしていた。
 あの時と同じ天井、景色、香り。傍らには荒汰が居る。
 既視感(デジャ・ヴ)によって狂わされた感覚が、徐々に現実味を帯びていく。
「戒! 気が付いたんやな――良かった、ホンマに――」
 荒汰の両目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
 いつ何時も溢れる笑顔と自信を絶やす事の無かった荒汰が、泣いている。嗚咽を漏らし、むせび泣いている。
「荒汰――」
 意志と感覚の伴わない体を無理矢理起こし、戒は荒汰の頭をふわりと撫でた。
「心配かけて、ごめんな。辛い役目を負わせて、すまなかった」
 言うが早いか、戒の体は力強く抱き締められていた。それは寝起きの体にはかなり堪えるほどの力加減だったのだが、今の戒にとっては心底愛おしく感じられた。
「これからも、ずっと一緒だ」
 精一杯の力を込めて荒汰の背中を抱き返す。戒の鼻腔を、フルーティな懐かしい香りが心地良く刺激していた。






《ギルティ・ディペンダンス 第一部・完》
ここまで読んでくださった方々、執筆中に様々なアドバイスを下さった方々、本当にありがとうございました!
皆さんのおかげで、三日坊主の私がついにここまで辿り着く事が出来ました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです♪

『ギルティ・ディペンダンス』の本編第一部のお話はここでお仕舞いとなります。
この後、二つほど番外編をアップする予定ですので、そちらも是非併せてお読みくださいませ。

本編にはまだわざと残してある伏線もあって、たっぷりシナリオを練った後、確実に続編を執筆するつもりでいますので、宜しければまたご愛読頂けたら幸いです。
しばらくは、更新をストップしていた他の作品の執筆に取り掛かる予定ですが、近いうちにまた戒達の物語をお届け出来る日が来るかと思います。

それではその時まで、御機嫌よう♪
ご意見・ご感想などお待ちしております!






+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。