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※この章には残酷描写が多数含まれています。苦手な方はご注意ください。
chapter1:fanatic love
#7 guilty depend"a"nce-1
 カーテンの隙間からうっすらと光が差している。熟睡しないように意識して眠った事など、しばらく振りだった。
 殆ど動く事も無く床に座っていたせいか、そこら中の筋肉が硬くなってしまっているような気がする。戒は目覚めてすぐに、全身を揺さぶりたくなるような衝動に駆られた。
 立ち上がっただけで、体のあちこちがミシミシ音を立てていた。とにかく気の済むまで伸びをしつつ、これ以上音を立てないように警戒しながら軽くピョンピョンと飛び跳ねてみる。今まで悪くなっていた血液循環が徐々に良くなっていき、体が温まってくるのを感じると、戒は隣のベッドの方に視線を移していた。
「あれ?」
 そこに寝ているはずの紅流が居ない。先に起きてしまったのだろうか。物音が聞こえたら、すぐ反応出来るように構えていたつもりだったのだが。
 やはり日頃から鍛えていないと、こういう感覚は徐々に衰えていってしまうのかもしれないな、などと少し危機感めいたものを感じながら、戒はため息をついた。
 頭が冴えてきた所で、思い当たった事がある。そういえば、携帯電話の充電は切れていないだろうか。確か昨日、蓮条家を出る頃にはもう切れかけていたような気がする。それからは一度も携帯電話を見ていない。充電が切れた後に荒汰から連絡があったりしたら、無用な心配をかけてしまっている所だ。戒は慌ててポケットから携帯電話を取り出し、覗いてみた。
 充電はまだ切れていない。荒汰からの着信もない。という事は、荒汰はまだ蓮条家に居るという事なのだろうか。
「あ、そういえば」
 ふと昨日の帰宅途中に携帯を見た時に、知らないアドレスから送られてきたメールを確認していなかったのを思い出した。メールを見ようとした瞬間に、蓮条家の使用人から声をかけられたのだが、どうせくだらない広告メールか何かだろうと思い、あまり気にかけていなかったのである。ここでなら充電が切れたとしても何とかなるだろうと思い、戒はその受信メールを開いていた。
 最も戒の注意を引いたのは、件名の所に書かれていた“蓮条”の名前だった。大方何かあった時のためにと荒汰が彼にアドレスを教えておいたのだろう。
 発信時刻は昨日の遅い朝――つまり、蓮条が意識を失うすぐ前の時間帯である。背筋に冷たいものが走るのを感じながら、戒は夢中でメールを読み進めていた。
『気になる事があるから、昨日の事件の発見者の部屋に行く。その後必ず連絡をするが、私が連絡を入れるまでは絶対に紅流と接触するな』
 メールには淡々とした調子でそう書かれていた。これだけでは疑問に思う事だらけだが、蓮条はその“気になる事”とやらを確認する過程で、犯人にやられてしまったという事だけはわかる。しかも、紅流と接触するなという記述。この言い回しでは、まるで――
 そこまで思考に耽った所で、戒の携帯電話が着信音を鳴らし始めた。単調で無機質な電子音が、不吉な予感を連想させる。ディスプレイに表示されたのは、紛れもなくあの不気味な声の主の電話番号だった。
 通話ボタンを押す指が震えている。一筋の汗が頬を伝っていく感覚を皮切りに、戒は意を決して指に力を込め、携帯電話を耳に当てた。
 感覚の全てを聴覚へと集中させる。一つの音も漏らさないようにと、戒はひたすら耳をそばだてた。
「う――うるさい! やめろっ!」
 聞こえてきたのはやはりあの不気味な声だ。しかし、その様子は昨日や一昨日とはまるで違う。まるで誰かと争い合っているかのような、焦燥に満ちた声音だ。電話の向こうで一体何が起こっているというのだろう。
「誰だ、お前」
 酷く渇ききった喉から、戒はようやく掠れた声を絞り出していた。
「戒、戒なの? 助けて! 僕――」
「瑛時? 瑛時か!」
 予想外に、電話の向こうからは酷く怯えたような紅流の声も聞こえて来る。
「戒――たすけ――」
 プツリと無常なノイズが混じるのと同時に、通話が切れた。
 どうする? あの声が犯人だとすれば、次のターゲットはまさか――
「瑛時――」
 どうも警察の人、次はこの階で殺人が起こるんじゃないかって思ってるみたいなんだよね。
 無邪気に微笑みながら言った紅流の顔が脳裏をよぎった。自分でも予測していた事態だ。そうならないために、自分はここに戻ってきたと言うのに。
「くそ! 何でなんだよっ!」
 激しい自責の念に駆られながら、戒は携帯電話のリダイヤルボタンを押した。今はこれくらいしかやれる事を思いつかない。
 急激に沸騰し始める脳細胞を何とか押さえ込もうと試みる。祈るように目を閉じ、戒は再び電話の向こうに意識を集中させていた。
「――え?」
 状況は変わらない。相変わらず無常な呼び出し音が鳴り続けているだけだ。
 しかし、妙な事が一つある。自分がリダイヤルのために通話ボタンを押したのとほぼ同時に、微かだが近くで携帯電話の着信音が鳴ったような気がしたのだ。試しに通話を切ってみると、それに呼応するかのようにその微かな着信音も切れ、再びリダイヤルするとまた鳴り響く。まさかと思いながら、戒は足音を消して廊下に出た。
 廊下の奥にはもう一つ部屋がある。その奥の部屋からは、明らかに先程の着信音が漏れていた。
 生唾を飲む音がやけに大きく聞こえる。戒は床へ慎重に携帯電話を置き、そのままゆっくりと奥の部屋のドアノブに指を滑らせた。
 この向こうに、一体何があると言うのだろう。昨日までは、かりそめのものであったとしても、確かにそこには平穏があったはずなのに。
 このまま部屋を通り過ぎて突き当たりの玄関から外に出れば、荒汰に連絡できるかもしれない。しかしその後、紅流はどうなる? 彼は戒に向かって助けを求めていた。電話の主がこの先に居る事はほぼ間違いないのに、救いを求める紅流を放り出して逃げる事などできない。
 開けるんだ、逃げるな。
 いつかのようにまた自分を奮い立たせ、戒は一気にドアノブを押し開けた。
 半ばドアをぶち破るような勢いで部屋へと侵入し、すぐさま背後の壁にピタリと張り付き、部屋全体を見渡す。
「瑛時――?」
 部屋の隅には怯えながら頭を抱える紅流が居る。そのすぐ側の床には、鳴りっ放しになった見慣れない携帯電話が落ちていた。そこにもう一つあるはずだと思っていた存在は、影も形も無い。
 まさか、逃げられた?
 警戒ついでに風呂場やトイレを覗いてみるが、誰も居ない。
 狐につままれたような感覚にとらわれつつ、戒はリビングで未だ怯え続けている紅流の元へと急いだ。
「大丈夫か、瑛時。怪我は無いか?」
 よほど怖い目に遭ったのだろうか。紅流はただ戒にすがりつきガクガクと壊れた玩具のように何度も首を縦に振るだけで、言葉を発しようとはしない。戒はなるたけ優しく声をかけようと努めた。
「ここには今は誰もいないみたいだけど――お前、誰か見たんだよな?」
 ガチガチと歯を鳴らして震え上がる紅流は、質問に答えようとはしなかった。
「ほ、本当に誰もいなかった? ちゃんと探してくれた?」
 焦点の定まらない目をギョロギョロと動かし、紅流はたどたどしい口調で言った。
 そんな紅流を落ち着かせようと、彼の黒髪をポンポンと叩き、戒は柔らかく返答する。
「ああ、誰もいなかったよ」
「本当に?」
「うん」
「ふーん、そうなんだ」
 氷細工のような凍てついた笑みを浮かべ、紅流はすっと顔を上げた。
 全身に鳥肌の立つ感覚。それと同時に紅流から発せられた不可思議な波動が、部屋全体を急激に覆い隠したような感覚があった。
 自分の中に眠っていた力がパチパチと弾け、全ての感覚が急激に研ぎ澄まされていくのを感じる。まるで長い間埃をかぶったまま使われなくなっていた細胞の一つ一つにスイッチが入っていくような、爽快感にも似た感覚だ。それはとても懐かしいような気がしていた。
「馬鹿だなあ、僕がここにいるじゃないか」
 紅流が、空気を切り裂くように右手で作った手刀を翻していた。
 本能的に死の危険を察知した戒は、大きく真後ろへと跳躍し、そのまま低く身構えた。
 しかしそれは一足遅かったようで、気付いた時にはもう、研ぎ澄まされた大鎌の一閃のような衝撃波が、戒のすぐ側まで迫ってきていた。
 駄目だ、避けられない!
 咄嗟に顔の前に両腕をかざし防御姿勢を取ったのだが、予想に反し、その鋭利な衝撃波が戒の元に届く事は無かった。
 両腕の隙間からかろうじて確認が出来たのは、金色の物体が盾のようになって自分を庇ってくれたという事。更に、その金色の物体と紅流の放った衝撃波が接触した瞬間、巻き起こった風圧が四方へと飛散し、部屋の窓ガラスや調度を次々と吹き飛ばし、天井にまで風穴を開けてしまったという事だ。
「さすがだねえ、やっぱり普通の人間とは反応が違う。そのムカつく鳥は、篠崎君の差し金かな? せっかく君の首をはねてあげようと思ったのに、逃げられちゃった」
 バラバラと降り注いでくる瓦礫の雨がようやく止んだ頃、前方から紅流の声が聞こえてきた。
 状況から考えて、視界を遮る煙の中から早く紅流の姿を見つけ出した方がいい事は分かっていたのだが、戒の注意は目の前の不思議な光景にすっかり釘付けになってしまっていた。
 戒の眼前には、金色の羽を生やした鷹とも隼ともつかないような鳥が立ちはだかっていた。反射的に胸ポケットを探ってみると、荒汰に貰ったはずの折鶴が跡形も無く消えていた。
 思い当たる事がある。おそらくこれは“式神”というやつだ。紙に力を吹き込んで生物の姿に変え、思いのままに使役するという、陰陽師特有の術だ。術者によって式神の形態は様々らしいが、自分が使うのは鳥の形をした式神だと、以前荒汰が話していたような気がする。
 式神は鈴の音のような鳴き声をあげると、ゆっくりと旋回しながら、そのまま吸い込まれるように煙立ち込める上空へと消えていった。
 同時に、視界を遮っていた煙が徐々に薄くなっていく。改めて部屋を一望してみると、壊れた調度品の全てが無理矢理寄せられたように壁際へ移動している。その壁にも所々に亀裂や空洞が生じていて、柱が剥き出しになっている部分まである。見覚えの無い家具の破片は、おそらく上の戒から落下してきたものなのだろう。戒はその中に上の階の住人の姿がない事を確認すると、安堵のため息をもらしていた。
「君と直接話をするのは初めてだよね」
 未だに濃い煙の立ち込めている部屋の奥から紅流が現れた。紅流は部屋の中央辺りに歩み出ると、挑発的な笑みを浮かべてこちらを見た。
「初めまして、僕はもう一人の紅流瑛時だよ。昨日“アイツ”が話してたでしょ?」
 汚れたシャツをはたきながら、“もう一人の”紅流はニヤリと嘲笑した。姿形こそ同じだが、彼の存在感そのものは、昨日まで一緒にいたあの紅流とは別人のようだ。何より今彼の周囲には、憎悪の感情そのものを具現化させたような、ドス黒い負の霊気が渦を巻いている。人格が入れ替わったというだけで、こんなにも人が様変わりする事があるのだろうか。戒は思わずジリジリと後退っていた。ダイニングキッチンが跡形も無く吹き飛ばされてくれていたおかげで、部屋は幾分見通しが良くなっていて、後方の壁までの距離にはまだ少し余裕がある。
「じゃあ――今までの殺人事件の犯人はお前なのか」
「そういう事だね」
 おどけたように肩をすくめ、紅流はにっこり微笑んだ。
「まぁ、僕にとっては殺人っていう体裁じゃないんだけど」
「どういう意味だ?」
 明らかな敵意を剥き出しにしながら、戒は紅流に鋭い視線を刺した。
「食事だよ、食事。君も毎日お腹が空くでしょ」
 無邪気な紅流の言葉が、戒の全身に戦慄を走らせた。“殺人”と“食事”の因果関係って何だ? それをストレートに解釈しようとしても、脳の処理速度が追いついてこない。
「食事って、まさかお前……遺体を喰ったのか?」
「だって、仕方ないでしょ?」
 挑発的な視線を投げ、紅流は血のように赤い唇を舐めた。
「定期的に人間の組織を体内に取り込まないと、僕という人格はもう一人のアイツに押し込められて消えてしまうんだよ。あんな弱い生物になり果てちゃうなんて、考えられない。君ならそれがどういう事なのか、分かるよねぇ?」
 そんなはずはない。そんなものは狂っている。しかしただ一つ、その狂った常識がまかり通る事があるとすれば、それは――
 戒は既に自分の中で一つの可能性に突き当たっていた。しかし、戒の全てがそれを否定しようとしている。認めたくない、受け入れたくない。かつては自分もそれと同じ生き物であったという事を。
「お前はまさか、俺と同じなのか……」
 質問に答えようとはせずに、紅流はただじっと微笑みをたたえていた。
「君は人を喰らったり、あるいはあの薬を飲み続けなくても、それほど自我を失ったりはしないし、能力の減少もないみたいだね。何たって、君は優秀な成功例だから。僕みたいな“失敗作”とは訳が違う」
 顎の先から汗が滴り落ちる。いつの間にか全身が冷汗でびっしょり濡れている。目元に入り込んでくる汗を拭いつつ、戒は徐々に紅流との距離を広げていた。
「もうわかってるとは思うけど、逃げたって無駄だよ。君は僕の世界の中に取り込まれてしまっているから。ここは君と僕のたった二人しか存在しない、亜空間の中なんだ。どこに行こうと、誰も居ない世界が広がってるだけだよ」
 紅流の言う事はおそらく嘘ではない。割れた窓ガラスの向こうに、大勢居たはずの警官達が一人も見当たらないのだ。仮に警官達が一時的にどこかへ移動しているのだとしても、これだけの騒ぎに誰も駆けつけてこない事が、既に不自然すぎる。
「ところで、蓮条君はどうしてるかな? ことごとく僕の邪魔さえしなければ、今頃ピンピンしてたはずなのに」
「やっぱり蓮条に火傷を負わせたのもお前の仕業だったのか」
「だって」
 困ったように頭を抱え、紅流は込み上げる笑いを堪えているようだった。
「僕が亜空間(ここ)でせっかく食事を楽しもうとしてたのに、蓮条君がいきなり敵意を剥き出しにして僕の事探そうとするから、驚いて獲物を落っことしちゃったんだ。それでイラッと来ちゃってさ。あの時は最悪だったなあ、人間はここのはらわたが一番美味しいって言うのにさ。胴体の部分だけ落としちゃったんだよねぇ」
 ポンポンと鳩尾(みぞおち)の辺りを指し示すように叩き、紅流は下卑た笑みを浮かべてペロリと舌を出した。
「あ、だから最初の時だけ体の残ってる部分が違ったでしょ? 我ながら、面白くない事しちゃったなーって。全部綺麗に揃えたかったんだけど、失敗しちゃったなあ」
 戒の頭の中で、這い寄る衝動を抑制するネジの一つが、音を立てて弾け飛んだような気がしていた。
 ゾクゾクと全身が総毛立つような感覚の後、激しい憎悪が怒涛のように押し寄せてくる。
「じゃあ、蓮条の携帯を使って俺に電話をかけてきたのは?」
「ああ、あれね」
 飽くまで穏やかな口調を崩さない紅流は、尚もニコニコと愛想を振りまいている。
「あれはたまたま拾って、思いついたんだ。ああやって怖さを煽った方が、僕にとっては都合がいいから。次はどこで食事するか分かるようにしといたのも、その方が怖がるかなあって思ったからなんだ。人間って、死の恐怖を感じた時だけ分泌される物質ってのがあってね、それがたくさん分泌された状態で死んでくれた方が、美味し――」
「もういい! 黙れっ!」
 腹の底から声が出ていたように思う。自分達が普段学校で同級生達と交わしているような、他愛の無い会話と変わらない調子で話し続ける紅流に、戒は心底嫌気がさしていた。
「昨日までの紅流はもうそこには居ないんだな」
 口にする事で、戒はそれを自分に言い聞かせようとしていた。
「そうだねぇ、アイツが表に出て来る事はもうないかもね。今の紅流瑛時の主人格は僕だから。人を喰らい続けることで、僕は本来の自分を取り戻したんだよ」
 それは途方も無く残酷な答えだった。今目の前に立っている紅流は、もはや“人”と呼べる存在ではない。昨夜目にした、孤独に怯え苦悩する姿が、彼の“人”としての最後の姿だったなどとは――突き付けられた現実は、あまりにも残酷すぎた。
「ごめんな、瑛時――」
 そこに残ったのは後悔だけだった。その上、今自分の胸の中に湧き起こっている感情も、到底納得のいくものではなかった。
「お前はもう一人のお前を受け入れて欲しいって言ったけど、俺はお前という存在を殺したコイツの事を、赦すなんて出来そうもない」
 目頭が熱くなり、一筋の涙が戒の頬を伝った。それを拭う事もせず、戒は真っ直ぐに紅流を見据えていた。
 左の掌に右手の指先を当て、精神を集中させる。ぐちゃり、と一瞬鈍い音がして、指先が掌に吸い込まれる。指先が何か硬いものに触れるのを感じると、戒は迷う事無くそれを引き抜いていた。
「やっと本気を出す気になったんだね。でも、君に僕を殺す事なんて出来るのかなぁ」
 心底嬉しそうに紅流が笑う。戒の左手の中から現れたのは、鈍色の一振りの刀であった。
「言っておくけど、手加減しようなんて考えない方がいいよ。どういうわけかアイツは君の事が好きみたいだったけど、僕は君の事を殺したいほど憎んでいるからね。君と馴れ合う所を見せられるのなんかまっぴらだったけど、君により深い苦しみを味わわせるとしたら、こういう展開の方がいいかなって思ったから、アイツを泳がせてやったんだ」
「俺は――」
 思わず刀を持つ手に力がこもる。そして戒は自嘲した。少しでもコイツを斬る事にためらいをを感じていた自分が馬鹿だった、と。今目の前に立っているのは、紅流ではない。むしろ、彼の存在意義そのものを蹂躙する諸悪の根源でしかない。
 戒は迷わず刀を構え、逆巻く感情の波に身を委ねる事にした。
「お前を斬る事で、アイツの心を救ってやると決めた。だから、お前を殺す」
 言い終わるか終わらないかのうちに、戒は力強く床を蹴っていた。
 軽やかなステップで跳躍した戒は、振りかぶった刀を力任せに大きく振り下ろす。ほんの少しだけ肉の斬れる音がしたかと思うと、鮮やかな切り口を見せつけながら、紅流の右腕が宙に舞っていた。そしてすぐさま着地と同時にバックステップを踏み、元の位置へと舞い戻る。
 ゴトリと右腕が床に転がり、思い出したかのように数瞬遅れて傷口から大量の血液が噴き出していた。
 苦痛に表情を歪ませ、腕の付け根から溢れ出す血液を押さえながらも、紅流は尚、不敵に笑っていた。
「はは、ははは――やっぱりこの刀の斬れ味は格別だなあ。さすが昔僕の首をはねただけの事はあるよ」
「この“安綱(やすつな)”がお前の首をはねた、だと?」
 戒は再びゆっくりと刀を構え、訝った。
「そうだよ。その刀はあの時、僕の首をはねたんだよ。絶対に忘れない――僕の姿形がどう変わろうとも、絶対に」
 紅流が血まみれの手で首筋を撫でるような仕草を見せたとき、彼の周りを取り巻く霊気の色調が急激に変化したような気がしていた。
 そう、それは現実の色に例えるとすれば、極彩色の(あか)。戒の心的外傷(トラウマ)そのものである、血の紅が相応しい気がした。未だ小刻みに痙攣している斬り落とされた腕を拾い上げ、紅流はそれを肩の傷口へと近づけた。紅流の意図に気が付いた戒が動こうとした時にはもう、事は済んだ後だった。両方の切り口から神経の根のようなものが伸びてきたかと思うと、それは急速に絡まり合い、一瞬にして腕は元通りの姿に復元していた。
「君は覚えていないんだろうね? 何しろ君は、まだこの世に生み出されたばかりだったから」
 神経の働きの一つ一つを確認するかのように、復元した右腕の拳を握ったり開いたりしながら、紅流は言った。
「キラキラ光る大きなフラスコの中で、君は僕が隣に居たのを覚えてるかな? 君は可愛い女の子の姿をしていたけれど、僕は未だに人の姿を取る事が出来なくて、苦しんでいた」
 彼の言葉には、思い当たる節があった。それは、戒の中の記憶の奥底にしまわれた最も古い記憶だ。戒の意識の中に再び“幻視”が蘇っていた。
 あの時、自分はまだこの世に“生成”されたばかりであった。
 綺麗な透明の(はこ)の中に入れられた自分。函の周りを取り巻く、白い服を着た数人の人間。
 彼らは最初歓喜の声をあげて自分を見ていたのだが、それはいつの間にか激しい怒声と悲鳴に変わっていった。
「駄目です……生体Bは、もはや自力では存在を維持する事が出来ません。生成は失敗です! フラスコ内の全生成物を破棄します!」
「やめろ、早まるな! まだ手が無くなった訳じゃない」
 ああ。この声は、今なら分かる。この耳慣れた心地良い声の主は、慧護だ。
「おい、お前! 俺の声が聞こえるな? 聞こえるなら、あれを見ろ!」
 そのまま叩き割るのではないかというくらいの勢いで函を叩いた慧護は、戒の座り込んでいるすぐ脇を指差し、尚も怒鳴り声をあげ続けた。
 戒のすぐ側に横たわる“何か”は、赤褐色の泥の塊のような姿をしていた。それは時折人のような形態を取る事があり、しかしすぐさま、再びただの泥の塊のような姿に立ち戻り、せわしなくそれを繰り返しながら蠢いていて、まるで生きているようだった。
 否、それは確かに生きていたのかもしれない。見つめ続けるうちに、それは突然、戒に向かって這い擦りながら近付いてきたのだ。
「ひっ――」
 戒は声にならない悲鳴をあげていた。
 クルシイ――
 タスケテ――
 頭に響いた声は、この泥の様な何かの叫びだったのだろうか。
 考える間もなく、再び空気をつんざくような慧護の怒声が響いた。
「そいつはお前を取り込む事で実体化しようとしているんだ。そいつを殺すんだ! でなきゃお前が殺されちまうぞ!」
 イヤダ、タスケテ、コロサナイデ――
 どろどろした塊から細長い何かが伸びてくる。それはこの声の主の、助けを求めて伸ばされた腕のように見えた。
 呆然とそれを見守っていると、それはついに戒の青白い肌と接触する。接触部分の皮膚は一瞬にして融解し、患部に鋭い痛みが走った。
 このままでは殺されてしまう。嫌だ、死にたくない!
 気が付いた時には、体が動いていた。
 次の瞬間に戒の目に飛び込んできたのは、両手に収まった鈍色の刀と、粘液質な音と共に二分割された赤褐色の物体、粉々になって水晶のように輝きながら飛散する、函の破片。
 飛び散る破片をものともせず、側に駆け寄ってきた慧護の腕に抱かれた所で、戒の幻視は終幕を迎えていた。
 支えを失った刀が、重力に吸い寄せられ床と接触した音が聞こえ、戒は我に返った。
 これは“現視”だ。目の前には相変わらず冷徹な笑みを浮かべた紅流が立っている。
「まさか、お前、あの時の――?」
「ははっ! 思い出したんだ? まさか、記憶に残ってたなんて思っても見なかったよ」
 高らかに笑い声をあげ、紅流は何の躊躇も無く正面から戒に歩み寄った。刀を落としたままそれに気付く様子も無い戒は、ただ呆然とするだけで、あっさりと紅流の接近を赦してしまっていた。戒の眼前にまで迫ってきた紅流は、長身を屈め、俯く戒の顎を強引に掴んだ。
「僕はね……あれからあの場所に残った“赤い土”をもう一度抽出して、作り直されたんだよ。だけど君とは違って、僕は心の中に潜む闇を制御する事が出来なかった。手に負えないと判断した組織(アイツら)は、僕を始末しようとした。でも僕はあんな奴らに殺されるほど、弱くなんかなかった。処分できない事を理解した組織は、僕の力が弱体化するのを待つ事にした。だから僕は、その時が来るまでずっと暗い部屋に幽閉される事になったんだよ」
 そこまで言って、紅流はそれまで見せた事も無かった燃えるような怒りの眼差しをぶつけてきた。
「殺される日を待つためだけに生かされていた“僕ら”の気持ちがお前にわかるか? 僕はせめてアイツが苦しまないように、アイツと記憶を共有するのをやめたんだ。これから先は、苦しむのは僕だけでいい。だからもうアイツを目覚めさせる事は絶対しない。お前がアイツを救う、だって? あの時助けを求めた僕らを、何の躊躇も無く見捨てたくせに! 笑わせるな!」
 強い力で首元を掴みあげられ、戒はいとも簡単に投げ飛ばされていた。後方の壁に激しく背中を叩きつけられ、瓦礫の散らばった床にドサリと転がる。戒の全身を鋭い痛みが襲っていたが、すっかり戦意を喪失してしまった戒は、立ち上がる気にもなれなかった。
「絶望したかい? 自分がこれまでどんな大罪を背負って生きていたか、理解できたかい?」
 気が付くと、横向きに倒れた戒の目の前には、鈍色の刀を携え、蔑むような眼差しでこちらを見下ろす紅流が居た。
「ごめんな、瑛時。気が済むのなら、好きなように殺してくれ――」
「やっとわかったんだね。それなら僕も思い残す事無く君を殺す事が出来る」
 迷いの無い手つきで刀を振りかざし、紅流は静止していた。
「君を殺したら、僕が骨も残さず食べてあげる。君と僕は、元々同じ赤い土から生まれた一つの生命体だったんだよ。さあ、すぐに楽にしてあげる。もう一度僕と一つになろう」
「ごめん、みんな――」
 嗚咽にまみれた声で言い、戒は自らを抱きすくめた。
 刹那。
 激しく金属のぶつかる音が聞こえ、戒の眼前に火花が散っていた。
 驚きに目を見開いた紅流の他に、もう一つ気配がある。
「こ、荒汰――?」
 全身に光の衣を纏い、荒汰が刀を振り下ろした紅流と対峙していた。その光のまばゆさに、戒の両眼は一瞬の間、視力を奪われてしまっていた。
 やがて荒汰を取り巻く光の収束体が消え去った時、戒は初めて、荒汰の手の中にある紅流の一閃を受け止めていたものが、蓮条の愛刀“薄緑”である事に気が付いた。
「なーんだ、もう見つかっちゃったのか。鳥の式神がすぐ消えちゃったから、きっと位置を知らせに行ったんだとは思ってたけど」
 金属の擦れる耳障りな音がした後、紅流が刀を引いて真後ろへ飛び退いた。吐き捨てるように言って、紅流は面倒臭そうに頭をかいた。
「俺の大事なツレを、ようもこないにボコボコにしてくれよって。一生かかっても払い切れん額の請求書送り付けたるさかい、覚悟しとけ、ボケっ!」
 まっすぐに薄緑を紅流に向かって突き付けた荒汰は、憤慨しながら巻き舌で啖呵を切っていた。
「ちゅうか今から戒と話があるさかい、お前はそこでしばらく待っとけ、カスっ!」
 一方的に言われてきょとんとしていた紅流は、おどけたように肩をすくめ、手にした刀をおとなしく下ろしていた。
 優しく抱き起こされた戒が無言のまま呆けたように荒汰を見つめていると、荒汰は何を思ったのかいきなり戒の頭上にゲンコツを落としていた。ゴン、と鈍い音が響き、戒は反射的に物凄い勢いで頭に手を回していた。ズキズキと痛むそこには、ものの見事に瘤ができてしまっている。
「痛っ! いきなり何するんだよっ!」
「うるさい、ボケ! カス!」
「なっ――」
 荒汰が今までに見た事もないくらい憤慨するのを見て、戒は被害者意識を募らせていた。
 しかしそれも束の間、力強く荒汰がガッシリと自分を抱きすくめたのが分かると、自然とそのやり場の無い気持ちもどこかへ吹き飛んでいた。
「殺してくれとか、簡単に言うな。俺が必死こいてお前を守ろうとしとる意味が全部無くなるやないか――」
 荒汰の胸元からフルーティな香りがこぼれている。
 それは、荒汰の好きな香水の匂い。戒の心の奥底にまで届いて、いつも安らぎをくれる、心地良い香り。
 仄かな匂いがまるで精神安定剤のように、戒の傷ついた心を癒してくれるような気がしていた。荒汰の背中をぎゅっと抱き返した戒の表情は、一度は死地に直面していたとは思えないほど、柔らかくほころんでいた。
「荒汰、ごめん。もう言わないから」
「そうか」
 荒汰は優しく戒の背中を数回叩くと、それを合図に軽々と戒を抱え上げ、ガラス片の落ちていない綺麗な床を見つけてそっと下ろした。
「もういいの? いつまで見せられるのかと思った、その寸劇」
 待ちくたびれた様子の紅流が、呆れ顔でため息をついた。
「うっさい! お前は黙っとけ!」
 噛み付くように言って中指を立てた荒汰は、手にしていた刀をおもむろに戒の前に差し出し、無理矢理その手に握らせていた。
「少し前に蓮条が目を覚ましたんや。アイツの事はだいたい蓮条から聞いた。動ける体やないのに無理してついて来ようとしとったさかい、この刀だけは借りてく事にして、後はあの和服の姉さんに任してきた。さっきは偶然役に立ったけど、俺は刀の使い方なんか知らん。何かあった時のために、これはお前が持っとけ」
 荒汰の口振りはまるで、ここは自分一人で何とかすると言っているように思えた。心配になった戒は、紅流の前に歩み出ようとする荒汰を思わず引き止めてしまっていた。
「ちょっと待てよ、荒汰。お前、勝てる秘策はあるのか?」
「もちろんや」
 颯爽と振り返る荒汰。手にはいつの間にか愛用の独鈷杵(とっこしょ)が握られている。
「何ちゅーたって、俺は天下一の凄腕陰陽師やさかいな」
 自信満々の笑みを見せ、荒汰はウィンクを投げた。


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