先程までの喧騒は何処かへと消え失せていた。静まり返った室内で存在感をアピールしているものといったら、戒のすぐ手前でぶつぶつと呪文のような言葉を呟き続ける荒汰の声と、部屋中に広がる
馨しいイグサの香りくらいのものであった。
ここはマンションからは遠く離れた郊外に立つ、蓮条邸の一室である。普段戒が過ごしているマンションのリビングなどとは比べ物にならないほどの広さを有した、だだっ広い和室の中心にはぽつんと布団が敷かれており、そこには苦しそうに顔を歪めた蓮条が横になっている。
荒汰が蓮条の隣に座り込み始めてから、既にもう数時間が経過している。確か事の発端は昼前くらいに起きたのだと思うが、既に日は落ち、窓の外はすっかり闇に包まれていた。
待つ事にもすっかり慣れてしまった。暗闇の中で揺らめく燭台の明かりをぼんやりと眺めながら、戒は先程までの怒涛のような喧騒を思い返していた。
今朝は携帯の着信音で目が覚めた。寝ぼけ眼でぼんやり眺めた携帯のディスプレイには、あの不吉な番号が羅列されていた。電話の主からは“今、五階に居る”と、容赦の無い
訃報。荒汰と二人、慌てて飛び起きて階段を駆け下り、階段のすぐ近くの扉の開いた部屋に飛び込んだ。そしてその部屋の奥で、首と足だけになった女性の遺体と、すぐ側で昏倒している蓮条を見つけた。
血に染まった室内を目の当たりにして戒はまたも意識を失いかけたのだが、蓮条の身を案じる気持ちがかろうじてそれに勝ってくれていたらしく、今回ばかりは気を失わずに済んでいた。蓮条を助け起こし、とにかく必死で息があることを確認した。警察に連絡したのはだいぶ後になってからだった。いや、自分が気が付いたときには既に、下の階で捜査を行っていた警官が駆けつけて来ていたような気もする。とにかくその混乱の中で荒汰が“病院に連れて行かれると困るから”と、蓮条家に一報を入れたのだ。
それからは早かった。蓮条を病院に連れて行こうとする救急隊員を止めようと手をこまねいていた所に、どこからか電話連絡が入ったかと思うと、救急隊員どころか警察までもがおとなしくなり、黒塗りの大きな車に乗った蓮条家の使用人たちの迎えが到着した。
一連の出来事といい、この広い屋敷の存在そのものといい、改めて蓮条の特殊な家柄について思い知らされたような気がしていた。噂には聞いていたものの、それはどこか遠い世界の絵空事のようにしか認識できていなかったという事だろう。
「失礼致します」
室内に人の話し声が響いたのは何時間振りの事だっただろうか。声が聞こえた方を振り返ると、戒の後ろの襖がゆっくりと開き、黒髪を結い上げた和服の女性が顔を出していた。正座したまま女性が静かに一礼すると、続けて荒汰も詠唱を止めて女性の方を振り返った。
「邪魔立てを致しまして申し訳ございません。わたくし、誠獅郎坊ちゃまのお世話係をさせていただいております、桜澤と申します。篠崎様、坊ちゃまのご容態はいかがでしょうか」
憂いを含んだ表情で荒汰をまっすぐ見つめる桜澤と名乗った女性は、いかにも清楚な日本女性といった風格を漂わせている。男やもめの研究施設を出て男子校に通い、普段あまり女性と接触する事の無かった戒にとって、彼女は対極とも言える存在だ。戒は何やら妙な焦燥感に駆られるような、とても居心地の悪い感触がしてならなかった。
「お世辞にも
良えとは言われへん状態です。もう少し僕の力で進行を抑えはしますけど、元凶を何とかせん事にはいつまで経っても治りませんさかい」
「そうですか――てっきりわたくしは坊ちゃまにやっとお友達が出来て、楽しく遊んでおられるのだとばかり思っておりましたのに」
桜澤は哀しそうに目を伏せ、声を震わせていた。
「こんな事になるのなら、坊ちゃまのお怪我の事をもっと早くから気にするべきでした。深くお尋ねしようとすると、気を悪くされるようでしたので」
「そ、そんなに落ち込まんといて下さい」
桜澤が着物の裾を目頭にあてがうと、慌てた様子の荒汰が近寄って、励ますように肩に手を置いた。
「お気遣い感謝致します。誠獅郎坊ちゃまは最近、篠崎様と神代様のお話ばかりをされていましたの。とても楽し気でいらっしゃったので、その事を思うと辛くて――」
「もうしばらくしたらある程度容態は落ち着くと思います。そうしたら必ずこちらから討って出るようにしますさかい、心配せんとってください」
荒汰の力強い言葉に心を動かされたのか、桜澤は瞳を潤ませたまま微笑むと、深々と頭を下げた。
「どうかお願いします」
いろいろな意味ですっかり盛り上がってしまっている荒汰と桜澤を目の前にして、戒はより一層居心地の悪さを感じていた。実は戒には、桜澤がやってくる以前から荒汰に提案したい事があったのだが、完全に切り出すタイミングを失くしてしまっていたのだった。
「あ、あの――ちょっといいかな」
話の流れをどこで切ればいいものか。迷った挙句、戒は唐突に切り出していた。荒汰と桜澤の視線が一気に集中したのを感じ、戒は
些か緊張を覚えていた。
「俺、マンションに戻ってもいいかな。ここに居ても何も出来ないし」
「お前、独りで戻るつもりか?」
やや不服そうな荒汰の声。桜澤も心配そうにこちらを見ている。
「俺達が元凶を見つけて何とかせんと、また向こうで同じような事が起こるかもしれへんのやで?」
「だからだよ、荒汰」
少し口調を荒げる荒汰を宥めすかすように言って、戒は先程からずっと考えていたある可能性について説明を始めた。
「犯人の今までの行動パターン、覚えてるよな? 最初の殺人は三階の渡り廊下。次は四階、今日は五階。それ考えると、次は――」
「六階で殺人が起こるって言いたいんか」
「そうだよ、六階には瑛時が居るだろ。あいつを独りにしておくのは危ないし、な?」
「まあ、それはそうやけど――」
難しい顔で頭を掻き、悩むこと数分。荒汰は深い溜め息と共に、決断を下していた。
「わかった、けど条件付きや。何かあったら必ず連絡する事と……手、出してみ」
「何?」
荒汰は首を傾げた戒の手に、易々と女の握り拳にも収まってしまいそうな程の、小さな小さな折り鶴を乗せた。
「これ、小っこいけど絶対失くすなよ。俺の力を封じ込めたお守りみたいなもんや」
優しく微笑んで、荒汰は戒の頭をポンと叩いた。掌の折り鶴からは、微かにフルーティな香りが漏れている。名前は忘れてしまったが、荒汰がいつも愛用している香水の匂いだ。潰してしまわないようにそっと握り、戒は静かに頷いた。
「神代様、お気をつけて。ご無事をお祈りしております」
三つ指をつき、桜澤が頭を下げた。人からこんな態度を取られたのは初めてで、戒は困惑していた。どう対応していいものかと悩んだが、戒はとにかくこの世で最も不得意な作り笑いを浮かべる事しかできなかった。
「あの、大丈夫です。格闘だったら俺、荒汰ぐらいならボコボコに出来ますし」
「まあ」
「お、おい――何言うてんねん、お前」
着物の裾で口元を隠し、桜澤がクスリと小さく笑った。荒汰も一緒に笑っていたが、いまいち本心から笑っているようには見えない。
釣られて自分の口元が自然に緩むのを感じながら、戒は立ち上がり、踵を返した。
「神代様、警察が坊ちゃまを疑っているようです。ある程度はこちらも手を回しておりますが、一緒に行動していた貴方にも疑いの目が向いているかもしれませんので、どうかお気をつけくださいまし」
去り際に告げられた桜澤の忠告を胸に、戒は蓮条家を後にした。
財布を持ってくるのを忘れた戒が電車で帰れないことに気付いたのは、蓮条家の敷地を出てすぐの事だった。たまたまポケットのたくさんついたカーゴパンツを履いていたこともあり、どこかに小銭が入っていないかと確認したのだが、そんなに虫のいい話は転がってはいなかった。またあそこに戻るのは何となく気が引ける。荒汰はきっと既に、蓮条のための施術を再開している事だろう。
以前、蓮条は自宅から学校までは徒歩で登校していると言っていた。蓮条に出来て自分に出来ない事はないだろうと軽く考えて挑戦してみたのだが、いざ実践してみようと思うと、静かな夜に一時間の距離をひたすら歩くというのはかなりの根気を要するものだった。おまけに携帯電話も充電切れが近いようで、気を紛らわせるようなものを何も持っていない。
途中たまたま通りかかった蓮条家の使用人の車が自分に気付いて拾ってくれなければ、戒は今も尚、暗い夜道をとぼとぼと歩いていたに違いなかった。警察の目を気にする意味もあり、目的地よりも手前で車から降ろしてもらい、戒はようやくマンション前へと辿り着いた。
立入禁止と書かれたテープが、正面玄関前にこれでもかというくらい張り巡らされている。その前にはやはり、制服を着た警官が仁王立ちで立ちはだかっていた。どう足掻いても警官との接触は避けられないようだ。
蓮条との繋がり以前に自分の素性の事を考えると、警察にあれこれ聞かれるというのはあまり得策ではない。ここにやってきた一年前、荒汰の社会的な立場を利用してある程度画策をしてはいるのだが。戒はどうしたものかと電柱の影から玄関の様子を伺った。
「あ、戒ー! こっちこっち!」
自分の緊張感とは裏腹に、玄関の方から呑気な呼び声が聞こえてきた。見ると、建物の中からいつの間にか現れた紅流がこちらに向かって思い切り手を振っている。
「え、瑛時……」
一応気配を消して観察していたつもりだったのだが、何故こんな能天気な奴に気付かれたのだろうとショックを受けながら、戒は渋々紅流の元へ近付いた。
「ん、君は?」
当然の如く、警官が怪訝な表情でこちらを睨んでくる。あろう事か、紅流は警官の隣でニコニコと手を振っていたのだ。
「あ、あの」
咄嗟にはリアクションを取る事が出来ず、戒はしどろもどろになりながら口をパクパクさせていた。
「おまわりさん、この子がさっき話してた子です」
「ああ、君の彼女だっけ?」
二人が何を言っているのか理解できない。頭が真っ白になるのを感じながら、戒はひたすら瞬きをするしかなかった。
「そうそう、僕の事心配してくれて逢いに来てくれたんですよー。よく出来た彼女でしょ? すっごく可愛いし」
「そ……そうだな」
仄かに顔を赤らめる警官を見て、俺は男だと言いそうになった口を、紅流の掌が素早く塞いでいた。モゴモゴと曇った声を発する戒の耳元に、紅流がそっと耳打ちをする。
「こうでもしないと、簡単には部屋に戻れないよ? 警官がウジャウジャ居るからね」
「き、君達。こんな所でイチャついてないでさっさと部屋に戻りなさい」
決まり悪そうに咳払いをした警官が、二人をぐいぐいとマンションの中へ押し込む。
「はいはい、しっかり鍵掛けて寝ますから。覗かないで下さいね、おまわりさん」
顔を真っ赤にして何やら叫んでいる警官を尻目に、二人はタイミング良く到着したエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの扉が閉まり、一旦外の喧騒とは完全に離断される。そして紅流の部屋のある六階へ降り立った瞬間、二人は再び一気に押し寄せた喧騒の渦の中に投じられる事になる。そこはやはり大勢の警官がうろついていた。数だけなら入口よりもかなり多いようだが、廊下にひしめく警官達の中に、昨日自分の部屋に聞き込みに来た中年警官は居ないようで、誰も戒を呼び止めようとするものは無かった。紅流は通路を進むたび次々と振り返る警官達に愛想を振り撒きながら、戒の手を引き、すいすいと人の波を通り抜けていく。もしかしてここに居る警官全員に、自分は紅流の恋人だと説明済みなのだろうかと考えると、複雑な気持ちになった。何か言おうとした時にはもう、戒は紅流の六〇二号室に引っ張り込まれてしまっていた。
「ちょ、ちょっと待てよ。俺とりあえず自分の部屋に戻りたいんだけど」
戒は戸惑いながらやんわりと紅流の手を振りほどいていた。
「やめといた方がいいよー。ここから上は本当に警官だらけだし、下手に出歩くと声をかけられちゃうよ。どうも警察の人、次はこの階で殺人が起こるんじゃないかって思ってるみたいなんだよね。僕もここ出る時苦労したんだから」
「それで俺を彼女にしたのかよ……」
呆れて溜め息をつくが、紅流に全く悪びれた様子は無い。
「篠崎君も居たら、心配してついてきた君のお兄さんだって言うつもりだったんだ」
「何だそれ、バレバレだろ」
冷静に突っ込んではみたものの、何だか無性に笑いが込み上げてくる。
考えてみれば、手間が省けて良かったのかもしれない。自分の本来の目的は紅流の様子を見る事だったし、一年前の画策によって、自分は社会的には男として存在している事や、遺体を短時間でバラバラにするという殺人の手口から挙がってきそうな犯人像を考えても、非力な女であると思われていた方が都合がいい気がした。その分、嘘がばれた時の対処はかなり面倒なものになりそうだったが。
「蓮条くん、どうだったの?」
「ああ。命にかかわるような事はなさそうだけど、まだ当分動けないと思う。荒汰だけ置いて、取り敢えず俺だけ帰ってきたんだ」
「そっか」
紅流は浮かない顔でじっと戒を見つめている。
まさか蓮条の詳しい様子を話すわけにもいかず、彼にはただ“蓮条は事件に巻き込まれて怪我をした”とだけ伝えてある。一瞬、苦しそうな蓮条の寝顔が脳裏をかすめ、戒は思わず表情を曇らせてしまった。
「昨日、蓮条君の家の人が僕の一階の部屋にあった荷物を全部運んでくれたんだ。生活に必要なものは揃ってるから、大丈夫だよ。さあ、上がってよ」
そう言って再び戒の手を引いた紅流は、すっかり辛気臭くなってしまった戒を気遣うように、努めて明るく振る舞っているようであった。
招き入れられるままにリビングへと足を踏み入れる。紅流の普段の様子からすると、何となく派手な色彩に溢れた部屋を想像していたのだが、部屋の中にあるものはオフホワイトや木目調の落ち着いた色合いのもので統一されており、至ってシンプルであった。
「綺麗な部屋だな」
お世辞でも何でもなく、戒は思ったままを口にしていた。ニッコリと微笑んだ紅流に促され、ソファに座らされる。おそらく引っ越し直後で購入したてなのだろうが、このソファにはまだ戒の部屋で使われているもののような座り癖がついておらず、何となく身の置き所のない感じがした。
「何か飲む? 戒って普段何飲んでるの?」
ダイニングキッチンの方から紅流が声を掛けてくる。
「俺はココアかな」
「そうなんだ、可愛いねぇ。ココアなら買ってあるから、作るね。えーと……」
何が可愛いのかよく分からなかったが、真剣な様子でキッチンの収納棚のあちこちを開けてココアを探し始めた紅流を見て、戒は何となく声を掛けるのをためらっていた。
何気なく見ていたゴミ箱の中に、インスタントココアの袋が突っ込まれていることに気が付き、戒は静かに立ち上がった。
「ん? あれ、ココアじゃないのか?」
何事かとキッチンから顔を出した紅流が、ゴミ箱の方に近寄ってくる。
「あ、あれ?」
「お前、ココア嫌いなのか? て言うか、嫌いなのに買ってきたのか?」
「え、僕……甘いものは大好きなんだけど」
紅流の口調はどこか歯切れが悪い。よく見てみればココアの袋は新品のようで、封すら切られていない。不思議に思いながらゴミ箱からそれを取り出すと、他にも新品の紅茶やインスタントコーヒーが捨てられている事に気付く。
「これ、要らないなら貰うぞ? 勿体無いだろ」
「でもそれ、ゴミ箱にあったやつだよ?」
「いいよ別に。汚れそうなものとは一緒になってないし」
ためらう事なくゴミ箱から飲み物を救出していると、次はその脇に大きな買い物袋が置かれているのに気付く。何となくそれも覗いてみると、中にあったのはワインや焼酎。酒ばかりが入れられていた。
「お前、酒飲むのか?」
「えっ――」
紅流は何故こんなにも慌てているのだろう。おそらくそれは大して特別な事ではないはずだ。法律違反とはいえ、酒くらいみんな家では隠れてこっそり飲んでいるものだと、時々隠れて煙草を吸っている荒汰が言っていた。
「お酒は、飲めないよ」
紅流の表情は暗い。何か傷つけるような事でも言ってしまったのだろうかと、気を揉んでしまうほどだ。戒はそれ以上の詮索は止める事にして、とりあえず手にしていたココアの袋を無理矢理紅流に掴ませた。
「淹れてくれよ。好きなんだろ、ココア」
「う、うん」
慌てて再びキッチンへ向かう紅流。しばらくまた部屋の観察を楽しんでいると、そのうちに甘い香りが鼻腔をくすぐり、淹れたてのココアがテーブルに置かれていた。
「お待たせ」
隣に座った紅流の笑顔に、いつもの明るさは無かった。昨日の様子から考えて、当然今日も何か良からぬ事を考えているのではないかと思っていたのだが、紅流はただ黙ってココアを啜っているだけで、話しかけてくる様子も無かった。
「お前、今日は何やってたんだ?」
何気なく呟いた戒の問いに、紅流はびくりと全身を震わせて反応していた。衝撃的なものを見たかのようなその表情からは、明らかに動揺の色が見える。
「ど、どうして?」
「いや、別に。話題が無かったから言ってみただけだけど」
「そっか」
先程のゴミ箱の一件といい、この部屋に来てからの紅流は明らかに様子がおかしい。今まで戒にとって彼は、偶然このマンションに居合わせた普通の転校生であるという認識しかなかったのだが、どうもそれだけでは片付かない何かがあるような気がしていた。
「あのね、僕――」
それまで見た事がない程悲痛な表情を浮かべる紅流。マグカップを覆い隠すように持った両手が、微かに震えていた。
「僕、時々自分が誰なのか分からなくなる事があるんだ」
「どういう事だ?」
えらく哲学めいた話だと思った。抽象的すぎて、全くピンと来ない。しかし戒は、震える紅流がこれ以上怖がらないように、出来る限り柔らかい口調を心掛けていた。
「さっきのゴミ箱の事だけど。あそこに捨てられていたものは、確かに僕が欲しいと思って買ってきたものに間違いないんだ。でもそれはゴミ箱に捨てられてる。代わりに、買った覚えのないお酒が置いてある。でも僕が買い物をしていたのは事実で、財布にはちゃんとお酒を買った時のレシートが入ってる……そういう事がよくあるんだ。だからほんとは、今日僕が何をしてたかなんて、完全にはわからないんだ」
待てよ、こういう話には聞き覚えがある。医学に関する話だったと思うのだが。
戒は脳の奥底にしまわれた記憶を呼び起こそうと、精神を集中させていた。
「これって、夢遊病とかってやつなのかな。それとも――」
「いや、夢遊病の患者は無意識の中で行動してるから、せいぜい家の中を歩き回るくらいの事しかしないはずだ。中には食事したりする患者も居たりするみたいだけど、そもそも会話が成り立たないからそこまで複雑な行動は取れない。おそらくお前の言う事が本当だとすると、それは――」
ここまで言って、戒は狼狽していた。更に悲壮感を露わにして自分を見つめている紅流に気付いたのである。どうも集中力が高まると、他人を思いやる感情が欠落してしまう。
「ごめん。俺は医者じゃないから、詳しい事はわかんないけど」
「いいよ、別に。君が言いたいのって、“
解離性同一性障害”ってやつでしょ。自分の中に、複数の人格が居るっていう。いわゆる、多重人格ってやつ」
「うん、まぁ」
自分はとてつもなく残酷な事を言ってしまったのだろうか。紅流の沈みきった表情を見ていると、そう思えて仕方が無かった。
「この街に来たときに自分である程度調べたんだけどね、解離性同一性障害って、小さい頃のトラウマが原因で起こるとかって言うよね?」
「うん」
話を進めていいものか決めあぐね、戒は押し黙っていたのだが、紅流は構わず話そうとしてくれているようだった。
「僕、小さい頃の記憶って殆ど無いんだ。ううん……それどころか、今まで生きてきた記憶自体が、そもそもあんまり無い」
「え?」
紅流は両手で頭を掻きむしるようにしながら、苦悩していた。彼を勇気付けるような特別な言葉を必死に探してみるが、気の利いた言葉など一つも思い浮かばなかった。
「正直に言うと、何で僕がここに居るのかもよく分からないんだ。気が付いたらこの街に居て、このマンションに居た。バイトしながら貯金を切り崩して生活してるんだけど、何で貯金があるのかもわからないし、いつからバイトしてるのかも分かんないんだ」
俄かには信じられない話だが、作り話にしてはやけにリアリティがあるように思えた。乱れた髪形を気にする余裕もない様子の紅流は、憔悴し切った目つきで爪を噛んでいる。
「僕の中では僕という人間はずっとこうなんだけど、今君と話しているこの人格が、ある日突然もう一人の僕の人格の中に完全に飲み込まれてしまったらって思うと怖いんだ。最近記憶がない事がすごく多くなってきてるし、もし人格を全部支配されちゃって、君の事も何もかもわからなくなってしまったとしたら僕は――」
仕舞いには涙を零して嗚咽を漏らす紅流を見ても、相変わらず言葉は見つからないまま。どうしていつもこうなのだろうと、戒は自分自身が歯痒かった。
「もし今の記憶がいつかは消えてしまう期限付きの記憶なんだとしたら、僕が今生きてる意味なんか無い気がするんだ――」
「そんな事あるわけないだろ」
戒は強い口調で無意識に紅流の言葉を遮っていた。これ以上聞いているのが辛くなったのかもしれないと思った。小さく体を震わせた紅流は、我に返ったように顔を上げ、赤く充血した切れ長の瞳を丸くしてこちらを見ている。
「お前が俺の事を忘れたとしても、俺がお前を忘れるはずないだろ。今確かに生きてるのに、生きてる意味がないなんて言うな」
紅流がこんなにも弱さを曝け出しているというのに、恐怖で涙を流しているというのに、何故か優しい言葉を掛けようとは思えなくなっている自分が居た。心の中に沸々と湧き起こってくる怒りの感情を抑えるように、戒は目を閉じ、小さく息をついた。
「それに――世の中には、覚えてない方がずっと幸せな事だってたくさんあるよ」
「え?」
「俺は少なくともそうだった」
ソファの背もたれに体重をかけ、戒は肩の力を抜いていた。
「俺の小さい頃の記憶なんか、ろくでもない事ばかりだった。自分の意思とは関係なく強要されるばっかりで、自由なんて、何も――」
ぼんやりしながら全てを語りそうになってしまっていた自分に気付き、戒は自嘲していた。紅流の背負う孤独感は、自分とよく似ている。だからつい、話す必要の無い事までうっかり口にしそうになってしまったような気がする。
「ごめん、話す意味ないよな」
「ううん、そんな事ないよ」
戒と同じように後方に体重を預け、真っ直ぐに戒を見つめ返してきた紅流は、幾分落ち着きを取り戻したようである。
「小さい頃の事は、断片的にしか記憶がないんだ。一番印象に残ってるのは、いつも殺風景な狭い部屋に居た事かな。暗くて狭い部屋で、僕はずっとそこに閉じ込められてたような気がする」
「あんまり無理に思い出そうとしなくていい。別にお前の事をこれ以上詮索するつもりもないし」
おそらくそれは紅流にとってはとてつもなく厭な記憶だったに違いない。自らが、自らの精神を歪ませてまで押し込めた記憶というのは、十中八九そういうものだ。戒にとって、血の
紅に対する記憶がそうであるのと同じように。
「やっぱり君は僕の思った通り、特別みたいだ」
すっと目を細め、紅流は心底嬉しそうに微笑んだ。
「君と一緒なら、僕は寂しくないかもしれないな」
紅流の細い指が、戒の頬をゆっくりと撫でた。続いて、彼の宝石のように碧い瞳が間近にまで迫ってくるのを感じたものの、戒にはそれを回避しようというような気は、全くもって起こってはこなかった。
「君なら、もう一人の僕の事も受け入れてくれるよね?」
「どうかな。今のお前だって、第一印象は相当だったからな」
「酷いなー、そういう言い方」
口元が少し息苦しくなる。頭の先が痺れるような感覚があり、戒はしばらくの間、その甘い感覚に成す術もなく身を任せていた。
ああ。これはたぶん、さっき俺が考えていた“良からぬ事”だ。紅流はもしかしたら、最初からこの良からぬ事を実現する目的で自分をここに連れてきたのではないかと、もしそうなら力いっぱい否定してやろうと考えていた。しかし、今となってはすっかりその考えも様変わりし、もしかしたら自分は彼に惹かれているかもしれないとさえ思えてきていた。
「ん――」
室内に響き渡った甘い声が自分自身の喉から漏れたものだと気付くのには、数瞬の時間を要していた。紅流の顔が遠のき、気が付けば、いつの間にか戒の体はソファに横になるような格好で仰向けにさせられている。
「瑛時?」
馬乗りになった紅流と目が合う。紅流は、瞬き一つする事なくこちらをじっと見つめている。戒は自分の心の奥底まで見透かされているような気分になり、思わず目を反らしていた。
「な、何?」
沈黙に耐え切れなくなり、戒はわざと声のボリュームを上げていた。耳元が熱を帯び始め、思考回路がオーバーヒートしそうになっている。
「いや、戒って肌が白いなあって思って」
「それ、変なのか?」
「ううん、全然」
初めは真面目顔で話していた紅流だったが、戒がぽつりぽつりと言葉を発していくうち、次第に表情が緩み始める。
「何か、食べたら美味しそうだよねぇ。まあ僕、今から違う意味で君の事食べちゃうつもりなんだけど」
「食べるって、お前なぁ」
悪戯っぽく笑った紅流を目の当たりにして、強張った戒の表情も自然と
綻んでいた。二人してクスクスと笑い合っていると、いつの間にやら先程までの緊張はすっかり消え失せてしまっていた。
「じゃあそういう事で、仕切り直そうか」
「うわっ!」
ひとしきり笑った所で紅流はおもむろに立ち上がり、軽々と戒を抱きかかえていた。
「わー、やっぱり戒って軽いんだねぇ。ちょっと向こうへ移動しようね」
「ど、どこ行くんだよ!」
予想外の出来事に惑乱し、戒は手足をばたつかせて抗おうとする。
「どこって、ベッドに決まってるでしょ。背が高いから僕、ソファでするの苦手なんだよね」
戒が返す言葉も無く黙り込むと、紅流は満足そうに頷いて、軽やかな足取りで隣の部屋へと移動する。
反動で少し体が浮き上がるくらい乱雑にベッドに降ろされ、戒は反射的に目を閉じてしまっていた。堅く閉じた目を片方ずつ慎重に開いていくと、再び戒の上に覆い被さった紅流の姿は、息がかかるほど眼前にまで迫っていたのだった。
目を閉じなければいけないと思った。そうしなければ、彼の瞳の魔力にあてられて、どこまでも堕とされてしまうような気がした。
「ん?」
しかし、その瞬間が訪れることはなかった。紅流は何故か戒を見下ろす体勢のまま、凍りついたように動かない。不審に思った戒が上半身を起こしたとき、紅流は突如として両手で頭を抱え、苦しみだした。
「頭が、痛い――」
「だ、大丈夫か?」
素早く紅流の下をすり抜けた戒は、悶え苦しむ紅流の顔色を覗き込んだ。大量の冷汗で額を濡らし、血走った眼を見開いた紅流は、明らかに普通の様子ではない。
「クスリ――薬を――」
激しく呼吸を乱しながら、紅流はベッドのすぐ脇にある棚を指差していた。棚の上には、既にいくつか穴の開いた錠剤のアルミケースと、水の入ったグラスが置かれている。戒はすぐに紅流を仰向きに寝かせて素早くアルミケースから中の錠剤を取り出し、水と一緒に自分の口に含むと、迷う事無くそれを紅流の口の中へと流し込んだ。
薬の効果が表れるまでには、数分とかからなかった。紅流の苦痛に歪んだ表情はみるみるうちに柔らかくなっていき、不規則だった呼吸は次第に一定のテンポを保つようになっていく。やがてうっすらと目を開けた紅流に、戒は静かに微笑みを返していた。
「少しは落ち着いたか?」
「戒、ごめん……」
どうやら、彼の意識はかなり不安定になっているようだ。薬の副作用なのかもしれない。眠りにつく寸前のようにうつらうつらとしながら、紅流はひたすら戒の名前と謝罪の言葉を口にしている。
「気にするな、もう寝ろよ。俺も近くで寝るからさ」
「うん」
安堵の笑みを浮かべ、紅流は寝息を立て始めた。
数分経って紅流の体を揺さぶってみるが、全く起きる気配は無い。深い眠りについたものと認識した戒は、グラスと錠剤をもとあった場所に戻そうとして、ふと足を止めた。
そういえば、何の薬を飲んでいるんだろう。何となく気になってアルミケースのパッケージを確認した時、戒の背筋に冷たいものが走った。
パッケージには“ケルス製薬”の文字があった。薬品名にはピンと来なかったのだが、その社名を見逃すはずもない。殺戮兵器に仕立て上げるためだけに自分を生み出し、利用した憎い組織。愛しい存在であったはずのあの人を殺した、忌むべき集団。それは戒にとって最も忘れ難い、
敵とも言える存在であった。
何故こんなものがここにある? 一体これをどこで手に入れた? お前が閉じ込められてた場所って、まさか――
自らの中に黒い何かが湧き出てくるのを必死に堪え、後ろのベッドで寝息を立てる紅流を見やる。紅流は当然、安らかな表情で眠るばかりだ。弱さを曝け出した紅流の悲痛な声が脳裏に響き、急激な脳の温度上昇に歯止めをかけていた。
何を考えてるんだ、冷静になれ。早鐘のように脈打つ心音を抑えるように胸を撫で、戒は深く息を吐いた。
「別にこんな薬、巷に横行してたっておかしくないだろ。それに霊気の欠片すら感じないコイツが俺と同じような目に遭ってたなんて、あるはずがない」
言い聞かせるように独りごちて、戒はもう一度深く息を吐いた。
ケルス製薬は、表向きはごく一般的な薬品の製造を手掛ける製薬会社である。自分が向こうに居た時に飲まされていたような特殊な薬品はごく一部で、その大半は一般の医療機関に卸されるようなポピュラーな薬品ばかりだ。最近はコンビニの医薬品コーナーに並んでいる事すらある。紅流がこの会社の薬品を飲んでいたとしても何ら不思議ではない。小さい頃の記憶だって、断片的に聞いただけだ。どこかに閉じ込められていた記憶があると聞いただけで自分と同じ境遇だと判断するなんて、いくらなんでもナンセンスだ。それにあの研究所に居た当時、自分と同じような存在が他にも居たなんて一度も聞いた事が無い。
何度も反芻する事でようやく落ち着きを取り戻した戒に、急激な疲労感が襲い掛かっていた。どうせ使い方は同じだし、こっそりシャワーを借りようかなどと考えていたのだが、今となってはどうでも良かった。
ぐっすり眠ってしまっている紅流を起こさないように注意しながら室内を歩き、何があってもいいようにと部屋全体を見渡せる位置に腰を据える。部屋の隅の壁に体重を預け、戒は仮眠を取る事に決めた。
寝室は警官達の居る廊下とは反対側にあるせいか、とても静かだった。うっかり深く眠ってしまわないよう何度も体勢を練り直しながら、戒はしばし、まどろみの中に意識を投じた。
君なら、もう一人の僕の事も受け入れてくれるよね?
寂し気に言った紅流の言葉が、夢の中にまで響いてくるような気がしていた。