ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
chapter1:fanatic love
#0 prologue
 湿った風が髪を撫で付ける。
 真っ黒な雨雲が街を覆い、時折鋭く雷鳴が轟いていた。雨が近いらしい。
「やっと見つけた……」
 そこからは街中を見渡す事が出来た。
 数多くの由緒正しい寺社が建ち並ぶ中に、近代的な高層ビルが同居している。神楽坂(かぐらざか)市は、古と現代の入り乱れた独特の雰囲気を持つ街だった。
 その街で一番の高さを誇るビルの屋上に、彼は居た。
 激しい暴風をものともせずに、フェンスの上に腰掛けて街を見下ろしている。
「古傷が命令するんだよ、アイツを殺せってね」
 硝子のように透き通った碧眼を光らせて、彼は唇を舐めた。
「だけど、これはどういう事だ? 街に着いた途端に君の居場所が判らなくなった。気配は確かに感じるのに……」
 誰かを愛おしむように、彼は街に向かって手を伸ばした。
「待っててね、必ず見つけ出してあげるから。君を殺すのはアイツらじゃない。この僕だけだから」
 そう言って、彼は首元の傷跡を撫でた。

 夜の(とばり)の中を走り回っている。
 いつ終わるとも知れない追い掛けっこが、既に小一時間も続いていた。
「くっ……」 
 神代戒(くましろかい)はかなりの深手を負っていた。左手の肩から肘の辺りにかけて、熟れた柘榴のような傷跡が顔を見せている。既に左手の感覚は無い。
 異形の獣が狂ったように疾走している。
 戒を追い掛け回しているのは銀色の毛並みを持った狼だ。
 体格はライオン程もあり、首からは頭が二つ生えている。大きく裂けた口からはダラダラと涎を垂らしていて、鎌のように鋭く反り返った牙が、恐ろしい形相を際立たせていた。
「くそ……」
 口から飛び出すのではないかと思えるほど、心臓が激しく暴れていた。
 両足も自分の意志とは無関係にガクガクと震えている。気を抜けばすぐにでも転んでしまうだろう。
 それでも走るのを止める事は出来なかった。止まった所で、その先に待ち構えているのは死のみであると、戒の本能が理解していた。
 双頭の狼がけたたましく吠え、戒の首筋目掛けて飛び掛かった。
 咄嗟に体を捻ったのが功を奏し、刺さったのは頸動脈からはだいぶ外れた左の肩胛骨付近。
 あまりの激痛に声も出なかった。しかしその激痛が、逆に脳内麻薬で(もや)がかかったようになっていた戒の頭を冴え渡らせた。
 左半身に渾身の力を込める。
 筋肉まで達していた銀狼の牙は、あたかも一瞬にしてコンクリート詰めにされたかのように、収縮した筋肉に押さえ込まれ、引き抜けなくなっていた。
 その事態を予想もしていなかったのか、銀狼は数瞬の間、牙を引き抜く事に気を取られた。
 痛みに耐える訓練も捨てたものではなかった、と戒は思った。
 すっと両目を閉じ、一呼吸置く。
 再び戒が両目を見開くのと同時に、身体中に電撃の(つた)が走った。
 びくん、と大きく痙攣して、黒焦げになった狼が泡を吹いて脱力した。
 左半身の力を抜くと、重力に引かれた狼の牙が、戒の皮膚をこそげ落としながら抜けた。
 自分で引き抜いた方が肉体への損傷は少なかったのかもしれないが、戒にはもはや自力で動き回る事が出来る程の体力など残されてはいなかった。
 膝から崩れ落ちた戒は、ここがどこかのマンションの屋上である事にようやく気付いた。
 民家の屋根伝いに夜の街を飛び回りながら逃げ続けていた。闇雲に走り回っていたせいか、ここがどこなのか全くわからない。
 アスファルトの上に広がったおびただしい量の血液を見つめながら、一体どれくらいの血を流したんだろうと考える。
 確か人間は、血液の全量の三分の一を失うと死ぬんだよなぁなどと、他人事のように考える。
「死にたくない」
 死ぬ事など、生き続ける事に比べたらどんなに楽な事だろうと思っていた。
 しかし、実際こうして向き合うと、とてつもなく不安で恐ろしかった。
「死にたくない……」
 頬を伝った涙は、皮肉にも自らの鮮血で洗い流された。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。