渾身の力で振ったバットは空を切り、私の体は扇風機の如くバッターボックスでくるくる回りました。
「……あら」
思わず私は声を漏らしました。
「バッターアウト! チェンジ!」
主審の甲高い声が澄み渡った青空の中へと溶け込みます。
これで3の0、未だヒット無しです。
私、広橋忍はがっくりと肩を落とし、ベンチに引き返しました。
私は玉子焼き高校というふざけた名前を持つ、この学校の野球部に所属しています。
ソフトボール部ではないです。
それとは別の、女子野球部。
部員は少なく、1、2、3年合わせてちょうど9人です。
その中で一番へたくそなのは多分、いや、間違いなくライトの、この私です。
守備に自信が無いうえ、特にバッティングが壊滅的にヘタなのです。
今行われているのは、うちの男子野球部との練習試合。明日から始まる夏の大会に備えた、最後の調整のつもりです。
だけど肝心の練習相手が弱くて、全く相手になりません。
私が言えたことじゃないですが。
ちなみに全国でも女子野球部は少ないので、いきなり全国大会から始まります。
「残念だったね、しのぶちゃん……」
意気消沈した私を励ましてくれるのは、私と同じ一年生、セカンドを守る吉野さんです。
彼女はバッティングや守備が上手くて、上位打線の一角を担っています。髪は短髪で、すらりとしたスポーツ向きな体型を持つ人です。
「う〜ん。吉野さんみたいにガンガン打ちたいな」
私は笑って返事をしました。
吉野さんは3番セカンドがほぼ定位置。
それに対し、私は9番ライト。
ああ、打てる人が羨ましい。
「さあ、最後の回抑えるよ」
吉野さんたちは私より一足早く、自分たちのポジションへと着きに行きます。
大丈夫。勝てる。
私はライトのポジションに向かいながら自分の心にそう言い聞かせます。
マウンドに『あの方』がいる限りは。
あの方の第一球。
とてつもなく早い球が、ミットに収まります。その轟音は、ここまで聞こえてくるほどです。
マウンドに立っているのは、亜武乃まるさん。
173センチという長身を持ち、その左腕から繰り出される速球は、プロ並みの速さです。人望も厚く頼りになるキャプテンなので、一部からはお姉さまと慕われています。アイドルのような顔立ち、抜群のスタイル、そして野球の実力を兼ね揃えたまさに完璧超人。亜武乃さんが走る時は黒の長髪が風になびいて、とても綺麗なのです。
私は後ろを振り返りました。玉子焼き高校の野球場は、プロ野球球場のようにバックスク リーンに球速が表示されるのです。
「ひゃ、152キロ……」
私は思わず呟きました。速い、速すぎる。
亜武乃さんはいつもどおり、最後まで手を抜いていません。それどころか序盤よりさらに速くなっています。
もう超高校級とかそんなレベルじゃない。私がどれだけ練習を積み重ねても一生超えられない存在。
それが、亜武乃まるさん。
気が付いた時には、すでにアウトカウントが二つ点灯していました。おまけにストライクカウントも2つ。相手バッターは9番。しかも第3打席目なので、これを抑えれば27人で試合を終わらせる完全試合です。
亜武乃さんは第3球目を投げます。もちろん相手がやけくそ気味に振ったバットに掠ること無く、鮮やかにミットに収まりました。
私は再び振り返ります。この日のマックス、154キロがスクリーンに表示されているのが見えました。
最後の一球は、全力投球でした。
「ストライクバッターアウト! ゲームセット!」
結局この日は0対14、圧勝かつ完全試合という最高の形で勝利を飾りました。
「お姉さま! お疲れ様です!」
「お姉さま! 本日の投球も素晴らしかったです!」
他の部員たちが、ベンチに腰掛けている亜武乃さんの元に集まります。
「皆さんがしっかり点を取ってくれたおかげ。文字通り、みんなで掴んだ勝利なのですわ」
亜武乃さんは目が眩むほどの笑顔を浮かべ、穏やかな口調で言いました。
彼女は、頼りがいのある素晴らしいお姉さん。
だけど、私は少し亜武乃さんが苦手なのです。
なぜなら――
「ちょっと、忍ちゃん?」
怒らず、猫を撫でるような優しい声で、亜武乃さんは私の名前を呼びました。
「はっ! はい!」
私は上擦った声で答えました。
亜武乃さんは腰を上げ、ベンチの端っこに座っている私に近づいてきます。
実に嫌な予感がします。
「貴女、今日の試合一度も安打を放ってなくてよ? チームの一員として活躍してくれないと困りますわ。なので今度の試合までに、どう? みんなに内緒の……」
亜武乃さんは私の顔をじっと見つめています。すごく距離が近いので私は同様を禁じえません。
「個人じゅ・ぎょ・お♪」
リズムをつけて呟き、最後に耳に息を吹きかけられました。
「ひゃうッ!」
私は怯まざるを得ませんでした。
そう。
この人はちょっと変わっているんだと思います。それで、ちょっと男性より女性の方が好きなだけ……。
私の思い込みかもしれませんけど、日々警戒しています。
しかし、この野球部にはこんな危ない状況を救ってくれる人がいます。
「よし、私も力になってやろう」
それが彼女、門倉静香さんです。
この野球部のキャッチャー、しかも4番を勤めています。髪はポニーテールで、眼鏡を掛けています。キャッチャー体型と呼ばれるずんぐりむっくりではなく、むしろ痩せ型です。こちらも166センチとまた背が高いが、体つきは同学年の亜武乃さんとは対照的で鉛筆のような体型です。それなのに試合ではホームランをバンバン打つ、不思議な人です。私が亜武乃さんに絡まれそうになると、いつも亜武乃さんの気を引いてくれます。
「あら、静香さん。では捕手をお願い致しますわ」
「任せろ。お前の球、受けさせてもらう」
もう日が暮れそうですが、これから私の特別授業が始まります。
ああ、今日は見たいテレビがあったのに。
お母さんにテレビ撮っといての電話をかけ、私は特別授業に挑みました。
午後5時。すでに夕暮れ時です。
私はバッターボックスに、亜武乃さんはマウンド、そして門倉さんはキャッチャーゾーンと実戦形式の練習です。
他の部員たちは皆帰ってしまいました。結構薄情です。
「広橋、感謝しろよ。まあ、あいつだけではお前の身が危ないからな……」
確かに、色んな意味で私の身が危ないです。
「は、はい。付き合って頂いてありがとうございます」
「まあ気にするな。それよりあいつ、投げる気満々だぞ」
私が前を向くと、左腕をハムスターの回し車の如くぐるんぐるん回している亜武乃さんが私の視界に飛び込んできました。
試合を終えたばかりなのに、本当に元気な人です。
「忍ちゃ〜ん! 行きますわよぉ〜」
そう叫ぶと亜武乃さんは第1球を振りかぶり、左腕を勢いよく前に出します。
「えいッ♪」
そんな可愛らしい掛け声とは裏腹に、飛んで来た球は140キロを軽く超えるほどの直球でした。
風を切り裂いて飛んでくる、まるで弾丸のような威力を間近で体験しました。
やがてミットに球が飛び込む音が、私の耳に響きます。
私はバットを出す、いや、球を目で追うことすら出来ませんでした。
その球を見た私は天を仰ぎ、心の中で呟きます。
無理。
あんなの、打てるわけありません。
「……まあ、打てと言うほうが無理だろうな」
門倉さんは球を亜武乃さんに投げ返しました。座った姿勢からでもしっかり真っ直ぐ正確に届くので、やはり肩もすごく強いです。
「だが、バットを振らないと当たる可能性はゼロだ」
門倉さんの眼鏡が、夕焼けで怪しく光りました。
ボーっとしていることに気がついた私は、再び体勢を立て直し、バットを構えます。
まだ集中しきっていませんでしたが、亜武乃さんは第2球を投げてきました。
私も負けまいと、バットを出してみました。
「えぃィ!」
もちろんバットが出たのは球がミットに収まった後で、ボールに掠りもしませんでした。
実に無様な空振りです。のんびりとした投げ方なのにもかかわらず、飛んできたのはさっきと同じほどの威力を持つ球で、少しインコース側に来た位しか変化はありませんでした。
「ちょっと亜武乃さ〜ん! もっと軽く投げてください! 全然打てません!」
打てないのは私のせいなのに、つい亜武乃さんに対して声を荒げてしまいました。
「それなら、軽く投げて差し上げますわ。よろしくて?」
亜武乃さんは怒ることなく返事してくれました。やはり温厚で優しい人です。
だけど、本当に遅く投げてくれるかは信用できません。
なぜなら、亜武乃さんは試合でも手を抜かない人ですから。
私は再度バットを構え直します。
だけどあれだけ速い球を前にしては、どうしても逃げ腰気味になってしまいます。
亜武乃さんは相変わらずゆったりとした投げ方で、3球目を投げました。
ああ、やっぱり本気です。球に隙が無い。
何処をどう遅くしたのかまったく分かりませんでした。
「てぃっ!」
無謀だと分かっていたのに、バットが自然と出たのです。でもボールすら見ていないので、到底当たるとは思いませんでした。
だけど、
バットを伝って、ボールが当たる感触がしたのです。
「あ……当たった……?」
思わず呟いてしまいました。
私の打ったボールは亜武乃さんの右、一塁線に力無く転がって行きました。
それに向かって亜武乃さんは疾走、すばやく捕球しました。一応、試合を想定した練習なので私は一塁に向かって走りました。しかし捕球した後も亜武乃さんは立ち止まることなく、そのまま私の方へと突っ込んできたのです。
驚いた私は亜武乃さんを避けようとして引き返しましたが、手遅れでした。
「た〜っちですわ♪」
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
亜武乃さんの、相手の体をベタベタ触るセクハラタッチの餌食になりました。
もちろん公式戦でこんなことはやりませんが、練習の時、しかも私ばっかり被害に合うのです。
「やっ! やめてください亜武乃さんっ!」
私は思わずその場にへたり込んでしまいます。それでも亜武乃さんは私の後ろから抱きついてきました。
「あ、忍ちゃん、いいニオイですこと……」
私の髪を撫で、くんくんと匂いを嗅いできます。
「そこッ! 何をしているッ!」
腹を立てた門倉さんがこちらに歩み寄ってきます。
助けに来てくれたのでしょう。
だけどちょっぴり顔を赤らめている気がするのは、気のせいでしょうか。
亜武乃さんは私に抱きつくのを止め、今度は門倉さんに近づいていきます。
それに驚いたのでしょうか、門倉さんはちょっとたじろいでいるようでした。
「静香さん、そんなにぷりぷり怒っちゃだ〜めですわ」
そう言いながら門倉さんとの距離を縮めていきました。
「貴女も試合で疲れているでしょう。そのカラダ、大事にしないといけませんわ」
と言って、門倉さんの肩をつんつんとつつきます。
「でも、そんなに一生懸命なら貴女もやってく? ――私の個人授業」
「あ、いや、でも私は広橋の……」
すると門倉さんは突然私のほうを見て、こちらに走ってきました。しかしその表情はどこか焦っているように見えます。
「ど、どうしたんで」
「広橋、私は帰らせて頂くっ!」
突然のリタイア宣言をされました。
「……って、待ってくださいよ! 私とあの人だけじゃ……」
「大丈夫だっ! もともとはお前のための特訓だし、どうやら私の出る幕は無い様だっ!」
とにかく早口で捲し立てられました。
「では失礼するッッッ!」
私の目を見ぬままそう言った刹那、彼女の姿はバックネットの裏へと消えていきました。
う〜ん、逃げられました。
私は呆然と彼女を見送った後、恐る恐る後ろを振り返りました。
視界に飛び込んできたのは、うふふんと笑ってこちらを見つめる亜武乃さん。
「……二人きり、ですわね」
そのおしとやかな笑顔も、今はやけに怖いです。
「貴女にはバッティングフォームからやり直して差し上げますわ。もちろん手取り足取り……」
私はなんとか球場から脱出しようと思いましたが、荷物をすべてベンチに置いてあるので、立ちはだかる亜武乃さんを避けて荷物を手に入れなければ逃げることは出来ません。
「をほほほほ、逃がしませんわよ」
亜武乃さんは私に向かって一直線に走ってきました。それはまるで獲物を発見した猛獣のようです。
私はとにかく外野側に疾走します。
「きゃーっ! 助けてーっ! へるぷみーーーっ!」
しかし誰も駆けつけてくれません。現実は非情です。
参考資料として、私の足は100m走、15秒66です。
亜武乃さんは100m走、11秒フラット。
結局、私は8秒くらいで捕獲されてしまいました。その際に躓き、私はうつ伏せに倒されてしまいました。
「こんなところ、誰も助けに来ませんわ。おとなしく練習して下さるかしら」
「もうくたくたですよ〜。見逃してください」
「だ・め♪ 観念なさい」
彼女の両手が私の体にするすると……。
「――ッ! いい加減にしてくださいッ!」
その瞬間、私はついカッとなって、亜武乃さんを突き飛ばしてしまいました。
「毎回毎回私に抱きついて、邪魔なんですよッ!」
亜武乃さんは両手を地面につき、ただ私の顔を見上げています。
しかし、私は彼女の表情の変化に驚きました。
涙を、流しているのです。
どうやら、泣かして、しまっ、た、ようで……。
「わーっ! 亜武乃さん! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「……貴女、私のこと嫌いで?」
亜武乃さんは泣きながら、小さい声で喋り始めました。
「どうしてですの? ただ私は貴女を公式試合で活躍させたいだけなのですわ……。それなのに、それなのに貴女は……」
亜武乃さんは手を顔に押し当て、嗚咽を我慢しながらただただ泣いていました。
――こんなにも真剣だったなんて。
私は、この人の好意に気づけなかったのです。
そう考えると、私の体に罪悪感の塊が重く圧し掛かってきました。
「……私、皆のために頑張ります。だからバッティング、教えてくださいっ!」
なので、一生懸命練習して亜武乃さんの期待に応えようと思いました。
「じゃあ個人授業、始めますわ〜♪」
………………あれ?
この人、泣いていた気がするんですが、今はなぜか晴れ晴れとした笑顔に変わっています。
「やっぱり女優スキルは使えますわね」
彼女がそう呟いた時、ふと思い出しました。
亜武乃さんは文化祭のとき、演劇部に演技力を買われ、主役をやっていたのです。
――つまり、演技だったのです。
すっかり彼女の涙にだまされました。さすが涙。さすが女の武器。
「じゃあ、こっちにいらっしゃい。うふふ……ココロもカラダも預けて結構ですわ……」
亜武乃さんはくいくいと手招きしています。
なんか語弊を生み出すような話し方ばかりする人ですが、私はもう開き直ることにしました。
明日の試合も無活躍だと、試合後にまたシゴかれるからです。
私は、亜武乃さんに打撃の練習を付き合ってもらうことにしました。
「つ、付き合うだなんてそんなまだ早いですわ……」
「私の描写文にまで入ってこないでくださいっ!」
♪
翌日。
ついに公式戦初日に突入しました。
雲一つ無い、全てが青色に染まった空。実にいい天気です。
しかし季節は夏、今は涼しくてもこれからどんどん気温が上昇していくと考えると、どうしても嫌な気分にならざるを得ません。
そもそも女子高校野球大会は男子の野球とは違い、かなりマイナーです。
なので第一回戦が大都市の市民球場で行われるにもかかわらず、観客が少ないです。
現在、入場時間が来るまでの間、ずっと球場外で待機している最中です。朝早くに家を出たので、移動中のバスの中で私は眠たい目を擦っていました。途中、何度も寝そうになりましたが3番セカンドの吉野さんが9番ライトの私を何度も起こしてくれました。
それでも、私の欠伸は止まることを知りません。
私の体内時計では、まだおねむの時間なのです。
「しのぶちゃん、大丈夫?」
吉野さんは私の顔を覗いてきます。彼女の上目遣いには時たまドキッとさせられるものがあります。
「あ、うん。もうちょっとで目が覚めるから」
「忍ちゃん、しっかりしてくれないと困りますわ。昨日の個人授業が無駄になりましてよ」
亜武乃さんに叱られました。
それと同時に、他の部員たちの睨むような視線を感じました。おそらく『個人授業』に反応したんでしょう。
彼女の左手には、バスに乗ったときからずっと、変化球の握りを確認するかのように硬球が握られています。本当に気の早い人です。
昨日の夜もわくわくしてあまり眠れなかったそうです。
全く、遠足じゃないんですから。
「あ……、ですわ」
亜武乃さんの腕時計が八時を指しました。それを確認すると彼女は顔を上げ、全員に伝えます。
「では、そろそろ球場に入りますわよ」
「はい、お姉さま!」
ほぼ全員が返事を返しました。『お姉さま』の所まできちんと声が揃っていたので、若干不気味でした。
亜武乃さんを先頭に移動を始めます。
その際に、門倉さんが私のそばにやってきて、周りに聞こえない程度の声で囁きました。
「広橋、昨日、亜武乃に何されたんだ?」
「え、何ってただの『個人授業』ですけど……?」
すると彼女の眼鏡が昨日と同じように、今度は早朝特有の眩い日光で光りました。
「だからその『個人授業』の内容……な? 順を追って丁寧にゆっくり隅々まで聞かせてくれ」
「ひぃぃっ!」
油断していました。
まさか、こういうのが嫌いだと思っていた、この人に絡まれるとは。
門倉さんははあはあと息を乱して私の肩に両手を置き、目をじっと見つめます。
私は心の中で無難な回答を模索しました。
「ご想像にお任せしますッッッ!!」
――この位しか思いつきませんでした。
そう言い放つと彼女は黙り初め、あごと唇に指を当てるというベタな探偵ポーズをとり始めました。
本当にご想像にお任せされています。
その様子を眺めていると、突然門倉さんは鼻を押さえ始めました。そして、私に顔を見せないようくるっと背中を見せました。
「どうしたんですか門倉さ、……まさか」
そのまさかが的中しました。
「気にするな、ただ鼻から出血しただけだ」
私は即座にポケットティッシュを差し出します。いったい何を想像したのでしょうか。
「……はっ! 門倉さん! 私たち置いてかれてますっ!」
気がつけば私たちの周りには、ハエ1匹いませんでした。
「しまったっ! 漫才をしている場合ではないっ! 急ぐぞ!」
……絡んできたのはあなたからですよ?
そんなことを思いつつも、声に出して言えない先輩思いな私。
市民球場、一塁側ベンチ。
私は勢いよくそこのドアを開き、部屋に飛び込みました。
「すいません! ちょっとトラブルがあって」
「あら、遅いですわ。二人とも」
ベンチに座っていた亜武乃さんはすでにユニフォームに着替えており、準備が整っています。
他の部員たちは一足先にグラウンドでキャッチボールを始めていました。
「貴女がいないと練習できなくてよ」
亜武乃さんは少々不機嫌気味に門倉さんに対して言いました。
「……、すまない」
門倉さんは頭を下げ、私に謝りました。
「だけど……」
亜武乃さんは、門倉さんの目の前に歩み寄ってきました。
「……!?」
彼女は戸惑う門倉さんの両頬に、両手を当てました。
「貴女の身に何かあったのかと、心配しましたわ」
そう囁いた彼女は、少し涙目でした。本気で心配していたのでしょう。しかしそれが悩殺力を増す火種になったのです。つーか私の心配は何処にいったんですか?
「あ、ああ、恩に着る」
さすがの門倉さんも動揺を禁じえず、紅葉のように赤く染まった、季節外れの顔を伏せました。
「さ、練習、始めますわよ♪」
私のほうを売り向いたときには、完全に笑顔に変わっていました。
恐るべき彼女の魅力に、私は脱帽せざるを得ません。
「じゃあ忍ちゃん、最後の仕上げですわ」
昨日の個人授業と同様、私はバッターボックスに立ちました。
「へぇ、1日で変わるもんだな」
捕手の門倉さんがぼそっと呟きました。
「ふぇ? 何がですか〜?」
つい情けない声で尋ねてしまいました。まだ完全に眠気が吹っ飛んでいないようです。
「雰囲気だ。昨日までへっぴり腰だったのにな。(ここから小声)やはり個人授業の影響が……」
「妄想はやめてくださいっ!」
先手を打っておきました。これでまた鼻血を出すこともなくなるでしょう。
「あの、忍ちゃん。そろそろ投げますわよ?」
亜武乃さんは、私をなだめるように言いました。
「すっ! すいませんっ! お願いしますっ!」
私は構え直します。亜武乃さんが指摘した細かい修正点を考慮した打法なので、あまりしっくりきません。
亜武乃さんの第1球。今日も彼女の球はノビがあり、絶好調です。
私はしっかりタイミングを計ってバットを出します。
「てぃっ!」
掠ったボールは、バックネットのちょうど真後ろに当たりました。
「やるじゃないか広橋。やはり変わったな」
門倉さんが賞賛の声を上げました。
ただのファールですが、空振りではなかった。
しかも150キロ超の豪速を誇る、亜武乃さんの球に触れたということが成長した証です。
「ふふ……」
なんか亜武乃さんがマウンド上で微笑んでいる気がします。
「忍ちゃん……」
投球を止め、私に近づいてきました。少し運動したからかもしれませんが、その笑顔は少し艶やかでした。
ちょっと、色気が増したような気がします。
「忍ちゃん……貴女、ぐんと成長していますわ。昨日教えたこと、すっかり貴女のモノになっていますわ……」
すると私の体に密着し、手を回しました。まさかセクハラモード、突入ですか?
「免許皆伝ですわッ!」
「ひゃんっ!」
突然のことなので、私はつい驚きの声を出しました。
ぎゅっと。
亜武乃さんは私の体を抱きしめたのです。彼女はとても背が高く、羨ましいほどスタイルのいい体なので、彼女の胸に私の顔が埋もれてしまいます。
正直、呼吸困難になるほど苦しいです。
でも……何でしょう?
この、心を強く打つドキドキ感は。
この状況に慣れてしまったのか、それとも……。
「あっ! 亜武乃っ! 神聖な球場でそのような粗相を……」
門倉さんはご立腹のようです。
だけど、やっぱり赤面しています。
すると亜武乃さんが私を解放してくれたので、私は悶死から逃れることが出来ました。
「嬉しいんですの。忍ちゃんが一人前の選手になってくれて。本当に忍ちゃんは妹みたいな存在で……」
笑顔で、私の頭をくしゃくしゃと撫でています。
それ以上すると、私、何かに目覚めちゃいそう……。
「――好きなんですの。忍ちゃんのことが」
倒置法による告白。
せっかく開放してもらったのに悶死してしまうかも分かりません。
「亜武乃、それはまずいぞ、お、女同士で……」
彼女は冷静を装っていますが、眼鏡を上げる指の照準が定まっていません。
「あら、好きって言うのは友達としてですわ」
考えているのか、思考停止したのか。
門倉さんの動きが止まりました。
まるでライバルと戦って燃え尽きたボクサーのような、白黒な体に変化しています。
私は、そんな二人の顔を何度も見回しました。
『……試合開始、5分前です。選手の皆さんはベンチに戻ってください……』
私の周りに突如発生した静寂空間は、場内アナウンスによって切り裂かれました。
「静香さん、あわてんぼさんですね。うふふ〜♪」
口に手を当てて微笑み、気と足先にベンチに戻っていった。
「私は、汚れているのか……?」
門倉さんは、自問自答のスパイラルに陥っていました。
私は、そんな彼女をそっとしておくことにしました。
午前9時、一回戦、焼き鳥高校との試合。
「じゃあ、お互いに礼ッ!」
「よろしくお願いしますッ!」
元気のいい挨拶が球場に響き渡りました。
「……おりょ? あんたひょっとして……まるやん?」
ふと、焼き鳥高校の選手の一人が亜武乃さんに声を掛けました。背は亜武乃さんよりずっと低く、茶の短髪、さらに頭に鉢巻を巻いています。
「あら、田辺さん。ごきげんよう」
亜武乃さんは田辺さんとやらに頭を下げて挨拶しました。
「まるやん! 久しぶりやなぁ! また会えて嬉しいで!」
「ふふ、私もですわ」
会うなり仲良くしています。
「あの……、知り合いですか?」
私の問いかけに、門倉さんが答えた。
「お前ら一年は知らなくて当然だが、去年この焼き鳥高校と一戦を交えたんだ。そのときの相手のエース、それがあいつ、田辺遙だ。亜武乃と肩を並べるほどの実力の持ち主で、延長に入るくらいまで投げ合ったほどだ。その試合後、お互いの健闘を称え合ううちに意気投合したんだろうな。亜武乃と田辺はずっと仲がいいんだ」
そう話した後、門倉さんは先にベンチに戻っていった。
「いくら仲いいゆうても、試合では手ぇ抜かへんで。まあお互い頑張ろうや」
「ええ、お互いの健闘を祈って」
亜武乃さんと田辺さんの会話も終わり、私たちもベンチに戻りました。
試合開始直前になりました。
私たちは準備を整え、円陣を組みます。
「大丈夫ですわ。いつもどおりやれば、勝利の女神は私たちに微笑みますわ」
「はいっ! お姉さま!」
気がつけば、私もこの統率の取れた声の一部に入っていました。
たった9人の、私たちの夏が始まりました。
まずは相手チーム、焼き鳥高校の先攻です。
マウンドでは、亜武乃さんが軽い投球練習を行っています。
私は、ライトにボールが飛んで来ないことをひたすら祈っています。
「プレイボールッ!」
主審が告げた幕開けの一言が、こちらまで響いてきます。
亜武乃さんの第1球。
ゆっくりと足を曲げ、一気に左手を突き出す。
普段見慣れた、のんびりとしたフォームです。
だが、そこから生み出される速球は、140キロ後半。
相手バッターから見事な空振りを奪いました。
やはり非凡さは否めません。
「ストライックゥ!」
親友に出会えたからでしょうか。
今日の亜武乃さんはいつになく絶好調です。
「お姉さま! 最高でした!」
「本日も素晴らしい投球です!」
あっという間に、1、2、3番を三振に仕留めました。
「気を抜くなよ。いくら亜武乃が抑えても点が取れなければ意味が無い」
やはり門倉さんは冷静沈着です。ベンチに座って、眼鏡を拭いていました。
「……行って来い、神楽」
「おいっス! この神楽智美、皆さんの期待に応えるッス!」
私と同じ一年、1番ショート神楽さん。
元気よくベンチを飛び出した彼女は、バットを大車輪の如く回転させながらバッターボックスへと向かっていく。
「さあ、かかってこいっス!」
左バッターボックスに入り、バットを構えました。
マウンド上の田辺さんは、右腕をぐるぐると回しています。
何かの儀式でしょうか?
一通り儀式らしきものが終わった後、彼女は投げる体勢に入りました。
田辺さんの第1球。小柄な体格にもかかわらず、小さい腕から放たれた球はかなりの速度を持っていました。
ど真ん中に、鮮やかなストレートが決まります。
ですが、亜武乃さんの球ほど速く感じませんでした。
「よっしゃ! 球見切ったっスよ!」
神楽さんの大声が私の耳の中に突き刺さります。
だけど、その台詞は……。
結局神楽さんは2球目3球目と、カーブやフォークの変化球を使用され、見事三振で帰ってきました。
「……調子乗ってましたっス」
ああ、噛ませ犬フラグでした。
神楽さんは肩を落とし、ベンチへと引っ込んでいきます。
その神楽さんの落ち込んだ方をぽんと叩き、バッターボックスに向かうのは、
「2番センター、宮田です……」
彼女は私だけに聞こえるような声で呟いたので、ほかの人たちは誰も彼女が喋ったことに気づいていません。
宮田さんは2年生で、普段から何を考えてるかわからない、常に無表情な方です。笑ったり怒ったり、とにかく表情が変化したのを見たことは私の過去に前例がありません。
それにしても語り手である私の意表を突く発言。侮れません。
しかし、気がついたときには彼女は私の横で腰降ろしていました。
「あれ、宮田さん。打ちに行かないんですか?」
「……初球打ったら、ピッチャーの所に帰って行った……」
……彼女に野球の実力があるかどうかは定かではありません。
3番セカンド、吉野さん。
彼女のバッティングには期待できます。
一球目のストレートは見送りましたが、次の2球目。
田辺さんのカーブにタイミングを合わせ、見事レフト前にヒットを放ちました。やはり基本に忠実な、と言うか我が野球部に少ない、真面目な方。
ツーアウト一塁となります。
ここで四番キャッチャー、門倉さん。
彼女は両腕を伸ばし、ベンチから腰を上げました。
「……広橋、もう必要ないと思うが、バッティングの基本を見せてやる」
視線をマウンド上の田辺さんに向けながら、私に言いました。
バッティングの、基本?
その言葉を頭に入れ、門倉さんの打席をじっと食い入るように見つめました。
もしかしたら、門倉さんは天才バッターかもしれません。
彼女の打った白球は、球場の外の空間へと吸い込まれていきました。
田辺さんの初球。それもかなり速いストレートを、いとも簡単に場外へ……。
流石です。やることが違いすぎます。
門倉さんはベースを1周し、ホームを踏みました。
2対0。
あっという間に点が入りました。
そしてベンチに戻ってきて、私に向かって一言言い放ちます。
「な、簡単だろ?」
一発で惚れてしまいそうな破壊力を持つ言葉。
しかし、私の中の理性がそれを阻止しました。正直危なかったです……。
「静香さん、やはり凄いですわね」
亜武乃さんは拍手で門倉さんを迎えます。
「点を取るのが私たちの仕事だ。それより亜武乃、お前こそ点を与えるなよ」
「分かってますわぁ」
門倉さんの耳にふっと息を吹きかけます。
「……あ」
門倉さんは声にならない声を出し、膝をついて悶絶しています。
「耳だけは……やめてぇ……」
変に色っぽい声を出しています。
あまりこっちの世界ばかり見ると引きずり込まれそうなので、こっちは黙殺することにします。
あ。完全に忘れていましたが、5番ファーストのなんたらさんは三振のようです。
「うぉいッ! 打線の主軸なのにモブキャラ扱いですか!?」
なんか聞こえましたが、きっと空耳でしょう。
それから2、3、4回は、亜武乃さんと立ち直った田辺さんの投手戦により、2対0のまま試合が動きませんでした。なんだか天気もよかったのに、4回途中から急に雨が降り出しました。しかもその雨の勢いは徐々に強まってきています。
その雨が影響し、六回表にピンチを招きました。
この回も2つ、ぽんぽんとアウトを取ったのですが……。
「ボール! フォアボール!」
突然、亜武乃さんの制球が定まらなくなってきたのです。
門倉さんがタイムを取り、私たち全員をマウンドに集めました。
2アウト1塁2塁。
この試合初のピンチを迎えています。
「お姉さま! どうなさったんですか!?」
「お姉さま! 急にコントロールが悪くなったんじゃありませんか!?」
皆が亜武乃さんを心配します。
「……大丈夫ですわ。皆はしっかり守ってくれれば……」
「私は、知ってるよ。あんた、雨に弱いもんね。雨が降ると一気に制球が定まらなくなるんだよね」
そう言い放ったのは、5番ファーストのなんとかさんです。
確かに雨が振ると、投手のコントロールは著しく悪くなります。
亜武乃さんの指は細いので、なおさらです。
「皆、ごめんなさい……」
亜武乃さんは頭を下げ、皆に謝っています。
「馬鹿ね、何のために私たちがいるんだよ! 打たれてもいいから、真ん中に投げなさい! 後は私たちが何とかするから!」
5番ファーストの一般人Aさんは、亜武乃さんの肩を叩きます。
「ほら、皆も頑張りなさいよ! エラーなんかしたら承知しないからねッ!」
某いじめっ子のような台詞を口走りました。だけど今の5番ファーストホニャララさん、輝いています。
タイムを解き、試合を再開しました。
相手バッターは6番ピッチャー、田辺さん。
一見非力に見えますが、門倉さん曰く、要注意人物のようです。
亜武乃さんの第1球。
本当にど真ん中を意識して投げた為、急速は見違えるほど遅くなりました。ライトからでも分かるほどの落差があるのです。
当然その球は、田辺さんには通用しませんでした。
彼女は体を捻り、その反動で一気にバットを突き出します。
打球は、空高く舞い上がりました。
完全にホームランコースです。
あの小柄な体の何処にそんなパワーがあるのか、門倉さんの持つパワーと同様、謎です。
センター方向に飛んでいるため、私は諦めて打球の行方を目で追っています。
しかし、その視線の先に驚くべきことを発見しました。
フェンスの上で仁王立ちしている人物、宮田さんを発見しました。
ちなみに地面からフェンスの高さは、目測しただけでも2メートル以上あります。どうやって飛び乗ったのでしょう。
しかし、打球はその宮田さんのはるか頭上を越えていきました。彼女の行動は実に無意味、無駄に終わりました。
2対3、ついに逆転されてしまいます。
宮田さんは、フェンスの上でおろおろしています。どうやら降りられなくなったようです。まるでただのアホのようでした。
宮田さんを無事救出するまで試合は一時中断されましたが、再開された後も点数は2対3、あれからスコアは変わりません。
しかし、最終回の9回に奇跡が起こりました。
疲労の色が見え始めた田辺さんを攻め、2アウト満塁のチャンスを作ったのです。
一打出ればサヨナラ、その肝心のバッターは……。
9番ライト、広橋忍。
つまり、私だ。
私はバッターボックスに入り、バットを構えます。
一瞬、亜武乃さんに教わった調整点を全て忘れるほど、内心はものすごく緊張しています。
田辺さんの第1球。
残り少ない力を振り絞ったようなストレート。
頭の中では理解しているのですが、やはり体がついていかず、バットに当てることは出来ませんでした。
ワンストライク。
私はバットを何度か振って調整しましたが、心理的には何も変わりませんでした。
第2球。
ストレート狙いの所にカーブを投げられたので、タイミングを狂わされました。
もちろん結果は空振りです。
これでツーストライク。
――次が外れたら、終わり。
ベンチの皆が、私を応援してくれているようですが、今の私の耳には全く入ってきません。
それほど私は焦っているのです。
そして第3球目、
この心理状態では、とても打てる気などしません。私は、全てにおいて田辺さんに圧倒されていたのです。
「今ですわっ! 忍ちゃんっ!」
その時、ベンチにいる亜武乃さんの声が聞こえた気がしたのです。
速度など関係ない。
球種など関係ない。
ただ、来た球を打ち返す。
――それだけ。
降り注ぐ雨の中に、響く快音。
私の放った、泥で汚れた打球は雨雲の中に溶け込んでいきます。
しかし打球は、吹き荒れる強風にぐいぐいと押し戻され……。
やがて、センターのミットの中に、収まりました。
「アウト! ゲームセットッ!」
膝を突いて倒れる私の耳には、試合終了を告げる声しか気こえませんでした。
――私たちの全国制覇の夢は、志半ばで潰えてしまいました。
♪
試合が終わると、雨模様の天気が嘘のように回復して、今は再び青空が晴れ渡っています。
「あんたら、楽しかったで! また来年やろうな〜! 今度は、決勝とかがいいんやけどな」
田辺さんは私たちとの別れの挨拶を済ませると、焼き鳥高校の連中と合流し、帰って行きました。
「すっ! すいません皆さんっ! 私が打てなかったばかりに」
私は謝りまくりました。
すると、ある人が私の頭をくしゃくしゃと撫でてくれました。
「まあ、残念だったけど……。よく頑張ったな、広橋」
門倉さんでした。
彼女だけでなく、他の部員たちの顔も笑顔で満ち溢れています。
「ほらしのぶちゃん、元気だしなよっ!」
3番セカンドの、吉野さん。
「負けちゃったけど、楽しかったっスよ!」
1番ショートの、神楽さん。
「……また、来年」
2番センターの、宮田さん。
「来年の今頃は、あんたらがチームを引っ張るんだよ」
5番ファーストの、なんたらかんたらさん。
「うぉいッ! またかよ」
あとは、6番サード、8番レフトの亜武乃さん親衛隊の方たち。
「ちょっとっ! それは酷すぎでしょ!」
「仕方ないよ、お姉さま! ばっかり言ってたわけだし」
とにかく皆、溢れんばかりの笑顔でした。
「忍ちゃん……」
いきなり背後から私を抱きしめたのは、7番ピッチャーの亜武乃まるさん。
「最後の打球、感動しましたわ。だけど、やっぱりホームランをぶち込むほどにならなくてはバッターとしてやっていけなくてよ。どう? 私との『個人授業テイク2』は? 今度はじっくり隅々まで見て差し上げますわ〜♪」
「亜武乃っ! 貴様はまた後輩をたぶらかそうと……」
私たち全員を包み込むような、笑い声が起こりました。
来年でもいい。
2年後でもいい。
全国制覇の栄冠を掴むまで、私はいくらでも走り続けます。
私、広橋忍の挑戦はまだ始まったばかりです。
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