あんぱんマン伝説
明治初期創業・木村屋のあんぱん普及の背後に、清水の次郎長の活躍があった(あんぱんマン伝説)」など深くて渋い歴史的エピソード満載。意外性のショットガン。本格歴史エンターテーメントのエッセイ集第2弾!!
第1話「大救出」
酔いどれ天使。静かなる決闘。
野良犬。醜聞。羅生門。白痴。
七人の侍。生き物の記録。どん底。
隠し砦の三悪人。悪い奴ほどよく
眠る。用心棒。椿三十郎。天国と
地獄。赤ひげ。
映画監督・黒沢明は、15作品に
俳優・三船敏郎を使い続けた。野性味、
豪胆、反骨。半分ふてくされた表情で、
胴太抜を腰に差し、悪人をぶった斬る
素浪人を演じたなら、右に出る者は
ないだろう。
その三船敏郎が主演した映画に、
「太平洋奇跡の作戦キスカ」という、
1965(昭和40)年東宝の作品がある。
監督は丸山誠治。特技監督・円谷
(つぶらや)英二。この映画は、1943
(昭和18)年に実際に行われた救出作戦
を再現した物語であり、三船の「反骨と
豪胆」が十二分に発揮された作品と
言える。
ロシア・カムチャッカ半島と、北米
アラスカ半島とを島々で結ぶアリュー
シャン列島。日本軍は1942(昭和
17)年6月、ミッドウェー・アリュー
シャン作戦においてアッツ島とキスカ島
を占領し、それぞれ2400名と
5200名の守備隊を上陸させた。
しかしミッドウェー海戦で大敗北を
喫した日本軍は、米軍の反攻によって
じりじりと劣勢に陥ってゆく。翌年
5月、トーマス・キンケード中将
率いる1万2千の米軍北太平洋艦隊が
アッツ島に上陸。29日、山崎保代
大佐以下2500名の守備隊は全滅
(玉砕)した。
アッツ島の東方、キスカ島5200名
の将兵にも同様の危機が迫った。米軍は
レーダーで日本艦隊を監視し、90隻
近い艦船で海上を封鎖。アムトチカ島に
航空基地を建設し、空からの哨戒も行い
ながら、キスカ島上陸に備えていた。
これに対し日本軍大本営軍令部は、
キスカ島守備隊の救出は困難であると
して、玉砕を提案した。見殺しにせよと
いうのである。海軍北方軍第五艦隊を
指揮する河瀬四郎中将が「一兵たり
とも無駄死にさせてはならぬ」と、
軍令部長に食い下がった。そしてついに、
救出作戦の許可を得た。
とは言え、10数隻の艦隊を率いて
警戒厳重な敵陣に乗り込み、5200名
もの人間を救出しようというのだから、
成功率は極めて低い。救援軍全滅の確率
のほうが高いと予想された。河瀬中将は
この作戦指揮の為に、海軍兵学校で同期
の木村昌福少将を、南方ラバウルから
千島の第一水雷戦隊(一水戦)司令長官
として呼び寄せた。「ヒゲのショーフク」
とあだ名されたこの人物こそ、主役・
三船敏郎の役どころである。
北緯55度。キスカ島は年中雪と氷に
閉ざされた、長さ40km幅10km
の島である。夏でも氷点下の事があり、
濃い海霧に覆われる事が多い。
「日本古来の霧隠れの忍術でゆく。」
木村少将は今回の「ケ号作戦」の命運
を、濃い海霧に託した。
7月7日。木村少将は一水戦旗艦
「阿武隈」に乗船し、軽巡「木曽」、
駆逐艦「島風・綾波・大波・五月雨・
白雲・薄雲・朝雲・響・若葉・初霜」、
高速油槽船「日本丸」という、快速船
13隻を従えて、千島列島・幌筵
(ほろむしろ)島を出港した。
7月11日、キスカ島南西500海里
まで接近。しかし霧が晴れてきた。進む
か退くかの判断に迫られた。
「引き返す。また来よう。」
木村少将は作戦を中止し、帰港した。
「キスカの目前で引き返すとは、
何たる腰抜け。」
第五艦隊の将校たちは、木村少将に罵声
を浴びせた。
木村は1891(明治24)年12月、
鳥取生まれでこの時41歳。海兵41期
118名中107番と、成績優秀とは
いかなかった。朝凪や帆風といった小型
艦艦長を長く務め、船の事なら隅から隅
まで知り尽くした現場のたたき上げだっ
た。半分ふてくされた表情で部下と将棋
を指し、「精神論だけで戦さに勝てる
か、馬鹿どもが」と風評を受け流し
ながら、霧を待っていた。
7月19日、「幌筵からアリュー
シャンに霧発生。当分晴れる模様なし」
と、気象班から報せが届いた。22日
夕刻、軽巡「多摩」と海防艦「国後」
を加えた一水戦隊16隻が、再び出港
した。濃い霧の中、全艦無灯火での
隠密航行である。艦と艦がぶつかる
事もたびたびあった。
7月25日、米艦隊はキスカ島南西
200海里に集結。レーダーに日本艦隊
をとらえ、1千発余の砲弾を射ち込んだ。
ところがこの攻撃は、近くの島を艦隊
と見誤っての誤射だった。この頃一水
戦隊は、キスカ島西側を航行中だった。
この海域は、潮流が速く岩礁だらけ
の難所だった。木村少将は曲芸のような
操船術で、右に左に船を蛇行させながら、
29日キスカ湾に突入した。守備隊
は救援艦隊を見て泣き崩れたという。
峯木十一郎陸軍少将以下2400名、
秋山勝三海軍少将以下2800名の
キスカ島守備隊は、12隻の大発
(上陸用舟艇)に分乗し、僅か55分で
撤退を完了。8月1日、無事帰還した。
8月15日。米軍2万9100人、
カナダ軍5300人が軍艦100隻で
キスカ島上陸作戦を敢行。莫大な砲弾
を射ち込んだ後に上陸し、彼らが
見たものは、無人の島に日本軍が
残していった3匹の犬だけだった。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第2話「ほたる」
1937(昭和12)年12月5日。
樫村寛一3等航空兵曹は、中国・南昌
爆撃の途上、壮絶な空中戦に遭遇した。
樫村機は敵機と接触し、左翼三分の二が
もぎ取られた。
しかし樫村は、巧みな操縦で台湾の
基地に帰還。この片翼生還の離れ技の
報を知った米内海軍大臣は、「至大
至剛、至玄至妙。先般南昌空襲に
おいて片翼を失いたるまま困難なる
飛行を続け、無事基地に帰還したる
行為は、軍人精神の発露として激賞
に値するものなり」と、最大級の
賛辞を贈っている。当時のパイロット
たちは、プロペラを手で回してでも
生還せよ、という精神を叩き込まれ
ていた。
時移り、1941(昭和16)年
12月8日。日本はアメリカ・イギリス・
オランダ・オーストラリアなどに対して
宣戦を布告し、ハワイ真珠湾、マレー
半島、フィリピン、香港、ボルネオ、
セレベス、スマトラ島などに一斉
攻撃を開始した。
日本軍は開戦から半年で、ビルマや
インドネシア、フィリピンから太平洋
全域を領有するに至った。日本国民は
大勝利に熱狂した。しかし1942
(昭和17)年6月5日のミッドウェイ
海戦大敗北により、戦局は一変する。
日本連合艦隊は、赤城・加賀・蒼龍・
飛龍の空母4隻と、重巡三隅・最上
を失い、艦載機285機と数多くの
エースパイロットを失ったのである。
続くソロモン諸島沖海戦でも、空母
や重巡、航空機171機を失い、ガダル
カナル島、アッツ島、タラワ島、
マキン島、マーシャル諸島などの日本
守備隊が次々に玉砕(全滅)していった。
1944(昭和19)年6月6日。
連合国軍はヨーロッパでのノルマンディ
上陸作戦に呼応して、サイパン・グアム・
テニアン占領作戦(マリアナ作戦)を開始
した。この戦いで日本海軍は、空母7・
航空機395機を失って壊滅的打撃を
うけ、各島守備隊は玉砕。日本本土は
B29の爆撃射程圏内に入った。
10月17日。マッカーサー中将
率いる米艦隊は、フィリピン中央部
レイテ島上陸作戦に入った。これに
対して日本は、戦艦大和・武蔵などを
率いる栗田艦隊をレイテ湾に突入させる
「捷一号作戦」で対抗した。
10月19日。第一航空艦隊司令長官・
大西瀧治郎中将は、マニラのマバラカット
飛行場の第201海軍航空隊本部にいた。
大西は201空副長の玉井中佐に対して、
次のように言った。
「捷一号作戦勝利の為、零戦に
250キロ爆弾を抱かせて体当りを
させてはどうか。」
大西は追いつめられていた。圧倒的
戦力の米軍に対し、手持ちの戦力は零戦
34、天山3、銀河2、一式陸攻1、
偵察機1しかなかった。勝算など無い。
むろん大西とて「特攻は統率の外道で
ある」事は、十分承知していた。
せめて爆撃機が50機あれば、特攻
などという作戦を立てずに済んだの
かもしれない。
大西は特攻を提案した時点で、自らの
死も覚悟していた。豪胆な軍人である
大西だが、特攻を口にした時は顔面蒼白
だったという。
玉井中佐は即答を避け、第10期甲種
飛行予科練習生(予科練)の搭乗員23名
に相談する。全員賛成した。
「是非もなし。」
この日この時、関行男大尉を指揮官
とする24名のしんぷう神風特別攻撃隊
が誕生したのである。
「敷島の 大和心を人問わば
朝日に匂ふ 山桜花 」
歌にちなんで敷島隊、大和隊、朝日隊、
山桜隊と名づけられた特攻隊は、翌年
8月15日の終戦までに、2891機
(有人ミサイル・桜花57、母機60を
含む)が出撃し、3724名が戦死した。
600名以上の隊員と手を握り合って
出撃を見送った大西中将は、8月16日
未明に自決した。
海軍は鹿児島県の国分第二、串良、
鹿屋に、陸軍は知覧と万世に特攻基地
があった。彼らは、薩摩富士と呼ばれる
開聞岳(922m)を眼下に見て日本に
別れを告げ、南海上の米艦隊に体当り
攻撃を行った。いずれも20歳前後の
見習士官たちだった。
このうち知覧基地には、「ホタル」
の話が語り継がれている。1945
(昭和20)年6月5日夜、宮川三郎
軍曹は行きつけの富屋食堂で、明日の
出撃を前にして遺書を書いていた。
「俺、死んだらホタルになってここに
戻ってくるよ。」
宮川は、知覧の特攻隊員たちから
「おかあさん」と慕われていた、富屋
食堂の鳥浜とめにそう言った。とめは
1902(明治35)年生まれで、当時
43歳。昭和4年に食堂を開業し、
娘と共に特攻隊員の世話をしていた。
宮川は新潟の長岡工業学校を卒業後、
仙台航空機乗員養成所でパイロットに
なった男だった。翌6日に出撃し、
南海に命を散らした。その夜9時頃、
富屋食堂には、遺書を書いている
特攻隊員が7〜8名いた。彼らの
頭上に一匹のホタルが現れ、天井に
止まった。宮川の言葉通り、彼が
ホタルになって戻ってきたのだと
誰もが思った。
「たましひの たとえば秋の
ほたるかな 」
芥川龍之介の死に際し、俳人の
飯田蛇笏が詠んだ句である。人1人の
魂は、か細げな蛍火の哀切に似ている
のかもしれない。終戦時、太平洋の
夜空には、数百万の蛍火が乱舞して
いたという幻想がよぎるのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第3話「善意で人を殺す」
私自身の善意というものを、具体的
行為に置き換えて考えてみた。献血
ならオーケーだ。安全だし、人の為に
役立つ善い事をしたという気分に
なれるし、無料の健康診断という
お得感もある。
だが骨髄バンクへの登録となると、
少し話が違う。白血球の型を調べて
登録し、白血病の患者さんに適合
すれば骨髄液を提供するのが骨髄
バンクのシステムである。いざ提供
となると、全身麻酔をして腰骨に
ボールペンのような針を13ヶ所
に刺して、骨髄液を1リットル程
抜かれる。4日の入院を要する
大掛かりなものとなる。
ごくごく稀にではあるが、全身
麻酔で植物状態になったり死に
至る麻酔事故もあるという。こう
聞かされては、文字通り腰が引ける
親兄弟や友人に白血病の人がいれば、
麻酔事故の不安や入院の煩雑さなど
軽々と乗り越えられるのだろうが、
身近に危機が迫っていないと、情け
ないほど善意のテンションは低い
ものらしい。善意の出し惜しみなど
するなよと、自らを戒めよう。
しかし善意から出た行為の全てが
善き行いかというと、どうもそうと
ばかりは言えないようだ。1989
(平成元)年11月4日午前3時頃、
横浜市磯子区の坂本堤弁護士宅に、
オウム真理教の新実智光、村井秀夫、
早川紀代秀、中川智正、岡崎一明、
端本悟の6人が侵入。堤さん(33歳)
と妻のさとこ都さん(29歳)、長男
龍彦君(1歳)を絞殺した。
後の裁判で新実は、この時の様子を
次のように語った。
「右の気道と左の気道を押さえて、
エネルギーを中央気道に通した。
世俗的に言えば頚動脈を絞めた〜
いわゆるチベット仏教でいうポワの
儀式をした」
ここで語られるポワとは、オウム
真理教教祖・麻原彰晃(本名・松本
智津夫)が説く教義で、最終解脱者で
ある自分が他者の魂を転生させる
目的で生命を奪う場合、殺人には
ならない。魂を解放するポアである、
というものだった。
新実や村井ら麻原の高弟たちは、
この教えを素直に信じ、魂の解放を
行う実践者として善意で坂本一家を
殺害したのだった。弟子たちにとって
麻原は絶対の存在だった。確信犯の
新実は続けて語る。
「熱心に誠意をもって、自分自身が
ポアされることになっても、喜んで
実践したいと思う」
人は特定の信念なり信条なりを自分
で真実と認めると、ひたむきに信じ
続ける習性があるらしい。その信条が
いかに奇妙なものであっても、めったな
事では変化しない。こうした洗脳状態は、
オウム真理教の信者や教祖の麻原が特別
だから起こるわけではないようだ。
明治時代から第二次世界大戦まで、
全ての日本国民は教育勅語や軍人勅諭
を、学校や軍隊で暗記させられていた。
勅語とは天皇の御言葉に等しい。当時
天皇はあらひとがみ現人神であり、
日本人にとって絶対の存在だった。
軍人勅諭で日本軍は天皇の軍隊で
あると説いたうえで、戦陣訓で具体的
指針を示した。曰く「陣地は死すとも
敵に委すことなかれ」。日本軍は
戦陣訓に忠実な軍隊だった。1943
(昭和18)年にアメリカ軍の大反攻
作戦が始まると、アッツ島、アドミラル
ティ諸島、タラワ島、マーシャル諸島、
エンチャビ島、マキン島、エニウェトク
島、メリシン島の日本軍守備隊は、
陣地を死守して玉砕(全滅)していった。
戦陣訓曰く「生きて虜囚の辱
を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと
なかれ」。捕虜になるくらいなら死に
なさいというのである。6月6日、グアム・
サイパン・テニアン島を占領する「マリアナ
作戦」が実施された。日本軍は7月6日に
南雲・斉藤中将が自決。守備隊は7日と
8日に「天皇陛下万歳」を叫びながら敵陣
に斬り込む「万歳突撃」を敢行して玉砕
した。
この時サイパン島では、約4千人の
日本人非戦闘員が、島の北端に追いつめ
られた。「生きて虜囚の辱を受けず」の
精神は、日本人女性の脳内にも深く刷り
込まれていた。野戦病院では、看護婦が
患者に青酸カリを与え、全員服毒自殺。
マッピ岬の断崖から、多くの者が身を
投げた。車座になって手榴弾で爆死する
グループ。わが子を殺して後を追う母親
など、凄惨な現場となった。
この悲劇は硫黄島、沖縄へと続く。
何も女性や子供までが自決しなくても
と思うのは、戦陣訓を刷り込まれていない
戦後教育を受けた者の感覚なのだろう。
作家・司馬遼太郎は、講演で次のように
延べている。
「私は兵隊に行くときにショックを
受けました。まず何のために死ぬの
かと思ったら、腹が立ちました。
いくら考えても、自分がいま急に
引きずり出され、死ぬことがよく
わからなかった。自分は死にたく
ないのです。国家とは何だろうと
思いました。死ねという国家は、
国家であるはずがない」
今ならばひどくあたり前の言葉と
して受け止められるが、戦時下の日本
で「死にたくない」などと言おうもの
ならば、「非国民・国賊」と罵られ、
「卑怯者」と蔑まれていた事だろう。
正気と狂気の境界線は、かなり難しい。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第3話「ゲゲゲのゲ」
夏はなぜか怪談の季節である。
怪談話の達人である某講釈師の
話によると、美人が化けて出ると
「幽霊」、そうでない人が化けて
出ると「お化け」と呼ぶのだそう
である。「幽」という文字は、
かすかにという意味がある。闇
深き深夜、青白き薄衣の美女が
かすかに現れれば、背筋も凍る
というものだろう。
目に見えない世界にも、さまざま
な分類・名称がある。妖怪は現実
世界に近く、割とイメージしやすい。
金権腐敗で逮捕された「妖怪デロ
デロバー」といった感じのあの
政治家や、薬害事件のあの教授や、
宗教的テロのあの教祖を思い浮か
べればいい。下品で醜悪で気持ち
悪い。陰気で湿っぽくてカビ臭い。
そんな世界の住人らしい。
魑魅魍魎や物の怪
(もののけ)は、妖怪とはおもむきを
異にする。ちみ魑魅とは、和名で
「スダマ」。棲み潜む魂という
意味で、自然界の石や樹から生じた
人面の怪物だという。原産地は中国
である。魍魎も似たようなものだ。
人間界で使用されている道具が、
長い年月を経て変化した
のが物の怪である。一反木綿や
塗り壁、唐傘お化けなどは、
物の怪世界の住人だろう。
魔という概念は、ギリシャ語で
中傷者・密告者を意味する「ダボロス」
から派生したものだと言われている。
古代インドのサンスクリット語では
「マーラ」。修行を妨げる悪霊の事
で、仏陀を色仕掛けで悩殺しようと
したお姉さんたちも「魔界」の住人
という事になる。
キリスト教世界の「魔」は
「デーヴィル」。ヘブル語で敵対者
を意味するサタンと呼ばれたり、
悪魔(神を凌ごうとする過信者の親玉)
ベエルゼブル、あるいはルシフェルなど、
異端者として地獄に落とされた者たち
が住む世界である。
日本語の「霊」とは、死んだ人々の
魂の事を指す。生前、ただならぬ怨み
を抱いたまま死ぬと、その魂は
「怨霊」となる。
「魂魄この世にとどまりて、
怨み晴らさでおくべきや」
と、生前自らをいじめた怨みの対象者
を、呪い殺そうとする、あの世とこの
世の間をさまよう世界の住人である。
ちなみに「魂」とは、天に帰るべき
陽の魂で、「はく魄」とは地に帰る
べき陰なる魂の事である。そして、
天皇や公家貴族、武将や文人など、
身分制度で上級とされる者の魂魄を
「みたま」と尊称し、「御霊」
として祀ったのである。
時の権力者が、対抗勢力の陰謀に
よって失脚や暗殺という事態に陥ると、
死して後も怨霊にされてしまう事が
多い。645(大化元)年に、中大兄皇子
(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足
(なかとみのかまたり)らの、いわゆる
大化の改新によって斬殺された蘇我入鹿
(そがのいるか)もその1人である。
入鹿の首は胴体から飛び上がって、
帝の御簾に食らいついたと噂
された。入鹿の怨霊は、皇族・朝臣を
次々に呪殺していったという。
大体において、攻め滅ぼした側が
怨霊を恐れて、寺や神社を建立する。
学問の神様・菅原道真も、当時の
大怨霊だった。彼は藤原時平一派に
よって失脚し、903(延喜3)年に
筑前国(福岡県)大宰府で59歳の生涯
を終えた。5年後、時平一派の
藤原菅根が雷雨の中で急死。続いて
時平も病死。時平の妹を母にする
保明新王も、21歳の若さで急死した。
保明新王の死は、923(延喜23)
年だから、道真の死から20年も経過
している。だが当時の人々は、天変
地異や疫病などの不幸を、道真の
怨霊と関連づけた。930(延長8)
年、京都御所清涼殿に落雷があり、
大納言藤原清貴と右中弁
平希世が即死。ししんでん紫宸殿
にも落雷があり、蔵人や女官が死亡。
そのショックから、醍醐天皇が病死
するに及んで、怨霊道真への怖れは
ピークに達した。942(天慶5)年
に北野天満宮を建立し、道真を主祭神
として祀るに至るのである。
御所落雷事件の930年から、北野
天満宮建立までの間に起こったのが、
「承平・天慶の乱」である。坂東では
平将門が、常陸国(茨城県)・上野国
(群馬県)・下野国(栃木県)の国府を
攻め落とし、瀬戸内海では海賊を率いた
藤原純友が反乱を起こして暴れ
まわっていたのである。
平将門は、いとこの平貞盛・藤原秀郷
連合軍に攻められ、940(天慶3)
年2月、下野国で乱戦の末戦死する。
だが将門の無念の思いは、新たなる
怨霊となってこの世にとどまる事に
なる。
その後も、1156(保元元)年の
保元の乱に敗れて讃岐国(香川県)に
流され、日本最大の怨霊となった
崇徳上皇や、1221(承久3)年の
承久の乱に敗れ、隠岐島へ流された
後鳥羽上皇など、次々に無念の思い
を抱いた怨霊が登場してくる事になる。
この世とは、それほど未練の残る世界
らしい。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第4話「妖女伝説」
何十億もの公金を横領し、惚れた
女に貢ぐ。そんな事件に対し、
「馬鹿な事を」と思う反面、男には
大なり小なりそのような性向があるの
ではないかという、苦々しい気分に
させられる。
次に起こる興味は、男を狂わせた女
とはどんなだろうかというものである。
この女なら無理もないと男に同情を
寄せるか、御冗談でしょうと冷笑したく
なるか、複雑な心情の起伏が生じる。
江戸時代から昭和33年に至るまで、
吉原(台東区千束)には時の政府公認
の遊郭があり、上級遊女を「花魁
(おいらん)」と言った。なぜ「おいらん」
なのかというと、狐や狸は尾で化かす
けれど、遊女たちは手練手管
(てれんてくだ)を用いて男を化かす
から、「尾いらん」なのだそうだ。
いき粋な事を言う奴もいるものである。
なぜ狐や狸が人を化かすのかよく
わからないが、歴史には妖女や怪女
と共に「妖狐」と呼ばれる存在も語り
継がれている。その代表が、白面
金毛九尾の妖狐で、よわい齢数千年
と言われている。
紀元前1100年頃、中国「殷
(いん)王朝は、初代湯王から28代を
経て、紂王が帝位に
あった。紂王は、地方から美女50人
を献上させていた。その中に、冀州
(きしゅう)領主・そご蘇護の娘「寿羊
(じゅよう)」という、16歳の少女も
含まれていた。実は本物の寿羊は、
妖狐に血を吸われて死に、体を乗っ取ら
れていたのだった。
紂王はこの娘を寵愛し、姐妃
という名を与えた。姐妃は紂王をそそのかし、
池を掘らせて酒を満たし、木には肉を
吊るし、家臣に後宮の美女を与え、
連日連夜乱交の宴を催した。酒池肉林の
故事である。
諫言する者に姐妃は怒り狂い、残虐な
刑で殺させた。人間を銅板で丸焼きに
して、その肉を遺族に食べさせたり、
毒蛇やさそりが充満する穴の中に
裸女を投げ込んだりさせた。姐妃は、
そうした光景を見て興奮する娘だった。
紂王自身、決して暗愚ではなかったが、
殷王朝640年の天命は尽きた。
周の武王の軍に攻められ、紂王は自害し、
姐妃は周の軍師・太公望呂尚
(たいこうぼうりょしょう)との妖術戦に
敗れ、南天に飛び去ったと言う。
妖狐は次に、南インド・マカダ国に
「華陽夫人」となって現れた。
英明だった班足太子が彼女を溺愛する
ようになると、悪逆非道な行為が目立つ
ようになった。僧1千名を「破戒僧」
であるとして猛獣の餌食にしたり、
諌める家臣をことごとく斬殺した。
華陽夫人の正体を妖狐と見破ったのは、
名医・耆婆だった。金鳳山の
薬王樹という神木の霊力によって、
妖狐は何処かへ飛び去り、班足太子
は正気に戻ったという。
735(天平7)年4月、妖狐は吉備
真備が帰国する遣唐船に、
玄宗皇帝の娘・若藻という名
で密航し、日本に渡ってきた。諸国で
人を狂わせた妖狐は、鳥羽天皇
(在位1107〜1123)に「玉藻前
(たまものまえ)」として寵愛される事
になる。鳥羽帝は、後に日本三大怨霊
の一となる崇徳院と、源頼朝から日本一
の大天狗と称される後白河法皇の父で
ある。
鳥羽天皇は38歳で法皇となり、
院政を行なっていたが、玉藻前との
房事過多によって衰弱していった。
時の陰陽師・安倍やすちか泰親に
正体を見破られた妖狐は、九尾の狐
の姿に戻り、北天の空へ飛び去って
いった。
妖狐は下野国(栃木県)那須郡の
那須野ヶ原に在って、旅人を襲って
食い殺していた。那須の領主・那須
八郎宗重は、安倍泰親より加茂大明神
の神鏡を借り受け、妖狐の霊力を
封じたのだが、数十年を経て再び暴れ
出した。
今度の大巻狩には、安房国(千葉県)
の三浦介義純や、上総介
広常の軍勢も加わった。妖狐は彼ら
源氏の荒武者によって射止められ、
ついに巨石に変じたのだという。
「殺生石は温泉
の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ
ほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂
(まさご)の色の見えぬほど重なり死す」
と、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の中
で、那須湯本にある、妖狐・玉藻前が
巨石に変じた「殺生石」を見物した時
の様子を記している。
石の周囲からは、亜硫酸ガス・硫黄・
硫化水素などの火山性有毒ガスが
噴出し、虫の死骸が重なっていた。
謡曲「殺生石」や歌舞伎などで、
玉藻前は当時から有名な妖女だった。
実際に虫の死骸を見た芭蕉は、「妖女
の毒気の恐ろしさよ」と、身震いした
のだろう。
ちなみに殺生石の妖狐は、その後
会津・示現寺(じげんじ/福島県耶麻郡
熱塩加納村)の玄翁和尚に
よって成仏したとされるが、そこは
したたかな妖狐の事。ひょっとしたら
今頃、南米あたりに渡って、またぞろ
悪さを働いているのかもしれない。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第5話「何か妖怪」
物質を構成する最小粒子といえば
原子である。最も軽い水素原子は、
原子核と1個の電子から成り立って
いる。大きさは10の−8乗センチ
程の球状体なのだが、仮に原子核を
1cmとすると、電子はそこから
半径1km先の軌道を周回している事
になるのだという。国会議事堂を
中心にすると、軌道の内側に永田町
や霞ヶ関の町がすっぽりと収まって
しまうのである。
私はこの例えをかねがね不思議に
思っていた。原子核と電子の間には
何があるのかと。科学者は「何も無い」
と答えていた。物質とは案外スカスカな
ものなのだと。では何もないという
「何も」とは、一体何がないのか?
天文学者はこの「何」を、ダーク
マター(暗黒物質)と呼んでいる。質量
はあるらしいが目には見えず、他の
物質とは重力以外のどんな形の相互
作用もないのだそうだ。何だかよく
わからない物質らしい。
ところが物質とダークマターを
合計しても、宇宙全体の23%に
しかならないのだという。この宇宙
には、これまた何だかよくわからない
「ダークエネルギー」なるものが充満
しているらしい。物質とダークマター、
ダークエネルギーを合計すると、
やっと宇宙全体の96%になるという。
要するに、現在我々人類が認識して
いる物質宇宙というのは、無限エネル
ギーの海に浮かぶ「ひょっこり
ひょうたん島」のような世界なの
だろう。現在の科学で、何だかよく
わからないエネルギーの方が多いと
判明した事は、これまで科学的でない
という理由で排除・抑圧されてきた
世界に、再び復権のチャンスが訪れた
事になる。
それは人類のイマジネーションの世界
に棲み、人類の歴史と共に存在してきた
善神や霊獣、悪魔や妖怪、精霊や妖精
といった存在である。古代ギリシャ
世界において、神々は人間と共にあり、
文学や美術で精彩を放っていた。悪魔
は西欧文明の影として、今でも毒の香
を放っている。
日本も古来より、諸天善神・
百鬼夜行入り乱れる、なかなかに
バラエティ豊かなイマジネーション
大国だった。闇の喪失と科学の横暴
によって、一時息をひそめていた
ものの、どっこい彼らはしぶとく
生き残っている。
妖怪の代表といえば河童で
ある。記録によると彼らは、627
(推古35)年に中国から大挙して九州
にやって来た、渡来系妖怪という事に
なっている。熊本県の球磨川に棲み
ついた彼らは、やがて9千匹にまで
増え悪さを働くようになった。虎退治
で有名な肥後藩主・加藤清正は、河童
の天敵である猿を集めて彼らを攻撃。
追いつめられた河童は和議を受け入れ、
この後は水天宮の使いとして水難除け
の神になったのだそうだ。
稲荷神社で正一位として祀られて
いる狐は、中国(周)で北斗七星の化身
とされる霊獣だった。加えて狐は、
古墳や墓地の穴を棲家にしていた為、
死霊や祖霊の化身と考えられるように
なった。由緒正しい霊獣のはずの狐
だが、どうも人を化かしたり人に憑く
のが好きないたずら者、奸智にたけた
ひねくれ者でもあるようだ。
544(欽明5)年に美濃国(岐阜県)で、
狐が女に化けて男と結婚し、一子を
もうけるという記録がある。狐は女に
化けるのが得意技なのである。現代で
もネオン輝く森で、狐に化かされたと
泣いている男たちの噂は絶えない。
同じ化けたり化かされたりする
動物に狸がいる。九州に河童が
渡ってきた頃、陸奥の狸は人間に
化けて歌を詠んだという。当時、
辺境・異界の地とされていた
みちのくの山野に棲む狸でさえ歌を
詠むという、日本文化の奥深さは
ただごとではない。
この狸が女に化けると、
「寝ぶとり」という妖怪になると
いう。昼間は清楚でスリムな美人なの
だが、寝る時になると体が部屋
いっぱいに広がり、大いびきを
かくため、大抵の男は逃げ出すと
いう。
「好きだの惚れたのと言っても、
しょせんは外見よ」という狸の皮肉な
笑いが聞こえてきそうである。
かつて多くの男たちを熱狂させて
いたアイドルタレントが、時を経て
見るも無残に膨張した姿を見た時
など、無常の悲哀を感じつつ、思わず
「寝ぶとりの仕業か?」と疑って
みたくなるのである。
妖怪は人間を害したり、いたずら
したりするものばかりとは限らない。
「だから何なの?」と、思わずつっ込み
たくなるような、奇妙なる存在も数多く
いるのである。
たとえば「墓みがき」。江戸時代、
伊予国(愛媛県)に始まり、江戸府内に
まで広まったという噂話。夜中、白衣
の男女が熱心に墓石を磨いていると
いう、ただそれだけの目撃談である。
確かに想像すると気味悪いが、それで
どうしたというわけでもない。
あるいは「ぬっぺほふ」。夜中に
死肉の塊がほっつき歩いているだけ。
見た人間はさぞかし驚くだろうが、
特に害はないそうだ。「小豆洗い」は、
山中の小川でショキショキと小豆を
研ぐ音をたてる妖怪なのだそうだ。
彼らは「科学的でない迷信」と、
青筋立てて否定するほどのものでは
ないし、存在を証明しようではないか
と意気込むほどのものでもないだろう。
何となく奇なる面白さを持つ存在である。
イマジネーション世界というのは、受け
入れてこそ豊かに広がるもののようで
ある。おっと、今「ぬらりひょん」が
訊ねてきたみたいだ。お茶でも出そうか・・
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第6話「狂れ心」
毎年恒例の演目というものがある。
12月14日と言えば「忠臣蔵」だし、
年末になるとベートーベンの「第九」
がある。渋いところでは、NHK・
FMで年末必ず放送される「バイロイト
音楽祭」がある。
晩年のワーグナーが活動拠点にした
「バイロイト祝祭劇場」が完成したの
は、1876年の事だった。この劇場
への全面的資金援助をした人物が、
「狂王」と呼ばれたルートヴィヒ2世
である。
彼は1845年8月25日、スイス
とオーストリアの国境に近いミュンヘン
郊外・ニンフェンブルクに生まれた。
18歳で王位を継承し、第4代
バイエルン国王になった。長身で端正な
顔立ちが、国民に人気だった。
国王になって最初の命令は、
「ワーグナーを捜し出せ」というもの
だった。15歳の時、楽劇「ローエン
グリン」を見て以来、ルートヴィヒは
ワーグナー世界に心酔していた。
その頃ワーグナーは、借金取りから
逃げ回っていたが、幸運にも国王の
使者に発見され、別荘と多額の現金が
与えられ、「ニーベルングの指輪」の
作曲を依頼されたのである。ワーグナー
にとってはまさに、「地獄で仏」
だった。
やがてルートヴィヒは、ノイシュ
ヴァンシュタイン城の建設を命じる。
中世の城跡に、狂王の夢が築かれて
いった。城の内部は、トリスタンと
イゾルデ、ローエングリン、ニーベ
ルンゲンの指輪など、ワーグナー
世界の主題でもある中世騎士伝説の
壁画で埋め尽くされた。
次に彼は、キーム湖の中島(ヘレン
インゼル)に、ヴェルサイユ宮殿を
模したヘレンキームゼー城を建設。
鏡の間も居間も、王の儀礼用寝室も
執務室から馬車までも、これでもかと
言わんばかりの華麗な黄金装飾で
飾られていった。
続いてロココ風宮殿・リンダー
ホーフ城を建設。狂王の内部では
この後、ビザンチン風宮殿や中国風
宮殿の建設計画が肥大していたと
いう。それは自己破滅的な浪費だった。
バイエルン王国の財政は崩壊した。
この頃ビスマルクはドイツ統一を
目指していたが、狂王は政治に無関心
であり、自分の為だけにシラー、
シェイクスピア、イプセンなどの
演劇を上演させていた。孤独だった。
1883年にはワーグナーも死に、
狂王はますます内なる世界に閉じ
こもるようになった。
ワーグナーの死から3年後の
1886年6月。狂王は臣下から、
重症の精神病であるとして退位を
要求された。狂王は激怒するが、
翌日にはシュタルンベルク湖で死体
として発見される事になる。暗殺
だとも自殺だとも言われている。
41年の狂おしい生涯だった。
狂王が残した3つの城は、華麗に
して無残な夢として後世に残った。
バイロイト音楽祭も、人類の文化遺産
として継続している。全ては狂王の
夢の所産である。
「狂」という字は、日本古語で
「たぶれ」と読む。狂王は大いなる
狂れ心を生きた者であった、と用いる。
そもそも芸術などの創造・建設という
ものは、狂れ心無くしては生まれない
のかもしれない。
狂れ心とは、内なる氾濫。計算ずく
の小ざかしさを洗い流し、創造への熱情
が洪水となって溢れ出す、一種の
「狂気」なのだろう。その狂気は、
哀しくもあり美しくもある。
ふり返って我が国を見渡してみよう。
東大寺の大仏建立を命じた聖武天皇
(在位724〜749年)なども、
かなり狂れ心を感じさせる。だが国家
という公的目的がある為、狂王の如き
哀切の美が感じられない。
では世阿弥作の謡曲「融」
に登場する、左大臣・源融(822〜
895年)はどうだろうか。源融は、
中国のどうてい洞庭湖をイメージして
大沢池を掘らせた
嵯峨天皇の皇子である。源融もまた、
京・六条坊門南に「河原院」という
庭園をつくり、大池を掘らせた。その
池に難波の海から毎月海水を運ばせ、
塩を焼かせた。奥州・塩釜の浦を
イメージした庭園だった。近くを
流れる鴨川の水ではだめだったのだ。
そのあたりのこだわりが、詩的に
狂れている。
塩釜の浦とは、陸奥国府・多賀城
(宮城県多賀城市)の北に広がる海で、
日本三景の一である松島に隣接して
いる。陸奥の歌枕である「塩釜の浦」
に映る月、渡る松風のうら寂しさが、
平安貴族の詩情をかきたてたのだろう。
融は河原院の池に舟を浮かべ、酒宴に
興じた。みちのくは遠い異国であった。
それはかなわぬ恋慕の狂おしさに通じて
いた。
「恋しや恋しやと 慕へども嘆けども
かひもなぎさの裏千鳥 音をのみ
なくばかりなり(謡曲「融」より) 」
やがて河原院は荒廃し、源融の夢も
恋慕も時の彼方へ去ってゆく。だが人の
世の夢と恋慕は、狂おしく続いてゆく。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第7話「松」
日本は松のくにであると、「この
国のかたち」の中で司馬遼太郎が
述べている。静岡県の名勝地・三保の
松原には、天女が舞い降りたという
「羽衣の松」がある。このように、
伝説や歌枕と共に親しまれている
「名のある松」は、全国に数多くある。
「松の事は松に習へ、竹の事は竹に
習へ」と言ったのは、俳聖の松尾芭蕉で
ある。また「野にいで出よ。野から学べ」
と語ったのは、芭蕉と同じ伊賀上野に
生まれた、書家の榊莫山である。
莫山先生と芭蕉を尊敬する私は、
それではと、野に出て松から学ぶ事に
した。
仙台市の四里程南に、岩沼という
旧宿場町がある。奥州街道(国道4号線)
と浜街道(国道6号線)の追分(分岐点)で
あり、竹駒神社の門前町でもある。竹駒
神社は日本五大稲荷の1社であり、武隈
(たけくま)稲荷明神とも言う。創建は
平安時代の承和9(842)年と、かなり
古い。うか穀霊のみたま倉稲魂という、
難しい名の農業神を祀っている。
現在、境内中央にデーンと建つ彫刻
だらけの古びた唐門は、天保13(18
42)年の建築だから、元禄時代に当地
を訪れた芭蕉は、これを見ていない。
芭蕉が見たのは「武隈の松」である。
武隈の松は、竹駒神社境内北側の外郭
にある。根元から二股に分かれている
様子から、「二木の松」の別名がある。
「今はた 千歳のかたちととのほひて、
めでたき松のけしきになん侍りし」
と、300年前にこの松を見た芭蕉が
「奥の細道」で、1000年前の姿を
偲ばせるめでたい松だと述べている。
芭蕉はこの松の事を「歌枕」として
知っていた。たとえば平安時代の漂白
歌人・能因法師(988〜?) の歌
━ 武隈の松はこのたび跡もなし
ちとせを経てや 我は来つらむ
(後拾遺和歌集) ━
能因法師がこの地を訪れたのは、
竹駒神社創建の150年後の事である。
この時すでに、武隈の松は古樹・名木
として多くの歌に詠まれ、有名だった。
陸奥守・藤原元善が植え、野火で
焼けた後、源満仲や橘道貞が植え
継いできた松だった。
ところが実際に来てみると、陸奥守・
藤原孝義なる者が木を伐らせ、名取川
の橋杭にしてしまって跡形もない
じゃないかと、嘆いているのである。
かくして藤原孝義は、松の木一本
伐らせたばかりに、1000年後まで
こうして語り継がれる悪人になって
しまった。
芭蕉は「古人も多く旅に死せるあり」
として、自らも古人の如く漂白の旅に
出ようと、奥の細道冒頭で語った。
その古人とは、能因法師であり西行
だった。芭蕉は芦野の里(栃木県那須郡
那須町芦野)の「清水流るるの柳」の
前に立つ。その柳は500年前に、
西行が木陰で涼を求めた柳だった。
「西行もこの場所に立ち、この柳の
木陰で涼んだのだ」と、芭蕉は感激
する。500年という時の隔たりを
超えて、ある種の一体感が生まれた
のだろう。
私もまた、芭蕉と300年の時を
隔てて、武隈の松の前に立った。そして、
ずっしりと密度の濃い幹に触れてみた。
その瞬間、松の霊気が私の全身を
貫いた。
樹齢100年以上の古樹には、必ず
神気・霊格が宿ると語ったのは、
樹木医の草分け・山野忠彦である。松は
総じて瞑想的な樹木だが、奥州の大地に
しっかりと根を張った「武隈の松」は、
1000年を1日として生きている
ような瞑想者だった。私と芭蕉と松と
奥州の地霊が、渾然一体となったような
眩暈に襲われた。
それは言葉として表現出来ない「直覚」
だった。なるほど、松の事は松が
教えてくれる。それを体験したければ、
私同様の「粋狂」で、古樹を探して
会いに行き、手で触れて対話してみると
よい。古樹との間に、親密な友情が
生まれる事だろう。たぶん。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第8話「あんぱんマン伝説」
徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜
(よしのぶ)は、1867(慶応3)年
10月14日、朝廷に大政を奉還し、
12月9日には天皇を中心とする
新政府が誕生した。
翌年正月3日、旧幕府軍と新政府軍は
鳥羽・伏見で激突し、大阪城に在った
徳川慶喜は、朝廷に弓引く事恐れ多いと、
幕府軍艦「開陽丸」で江戸へ脱出。
徳川家の菩提所である東叡山寛永寺
大慈院で、蟄居謹慎した。
新政府軍は錦旗を掲げて
ひたひたと東進。東海道軍の総大将・
西郷隆盛は、2月に駿府(静岡市)に
入った。
「私の恭順の意思を伝え、西郷に江戸
総攻撃を思いとどまるよう説得出来る
使者はいないものか」
と、慶喜は家臣・高橋泥舟に意見を
求めた。
「旗本・山岡鉄太郎なる者がおります」
と、泥舟が言った。
1836(天保7)年江戸に生まれた
山岡鉄太郎は、この年32歳。黒門町
の浅利道場で師範代をしていた。父は
六百石の旗本で、母は常陸国(茨城県)
鹿島神宮社人・石原岩見の次女である。
石原は剣聖・塚原ト伝の末裔と称して
いた。
山岡は、江戸で暴れまわって勝海舟の
もとに幽閉されていた薩摩藩士・
益満休之助を道案内にして、
駿府へ向かった。命がけの大役だった。
彼一人に、徳川慶喜の首と江戸市民の
生命財産の安否がかかっていた。
新政府軍の刺客に狙われる可能性も
高かった。
益満は箱根で体調を崩してダウン。
3ヶ月後の5月22日に28歳の若さで
死亡しているので、仮病ではなかった
ようだ。山岡は単身、沼津・吉原・蒲原
と進み、薩?峠登り口にさしかかった時、
狙撃された。山岡は油井(由比)の浜に
ある茶店「望嶽亭」に逃げ込んだ。
亭主の松永七郎平は、山岡を匿う一方、
ある男に助力を求めた。男の名は山本
長五郎、47歳。またの名を清水次郎長
と云った。
次郎長は、大政・小政・増川の仙右衛門・
国定の敬次郎・当目の岩吉・お相撲常と
いう子分6人と共に山岡を護衛し、由比
から清水までを舟で進み、駿府伝馬町の
旅館「松崎屋」まで無事送り届けたので
ある。これ以後、山岡と清水一家との
情義は終生続く事になる。
3月9日、山岡は西郷と会見。4月に
行われる、旧幕府全権・勝安房守海舟
との会談への道筋をつけた。西郷・勝
会談によって江戸総攻撃は中止され、
徳川慶喜は駿府へ移される事になった。
慶喜に従って、旧幕臣の多くが無禄
のまま駿府・遠江・三河(静岡県・愛知県)
に移住してきた。山岡は清水一家と共に、
旧幕臣救済策として、三方ケ原台地
や牧の原台地の開墾事業に尽力した。
やがて荒地は茶畑などに姿を変えていっ
た。
山岡は静岡と改称された、駿府の
徳川慶喜をたびたび訪れた。土産は
いつも「木村屋のあんぱん」であった。
山岡と木村屋の関わりは、浅利道場に
始まる。
そもそも木村屋のあんぱんとは、
1817(文化14)年生まれの木村
安兵衛が考案した事に始まる。木村は
武士として、江戸市中取締監察隊長の
職にあった。維新によって失職した
木村は、東京府授産所という、いわゆる
職業訓練所に勤め、パン作りを学んだ
のである。
その木村の妻・ぶんの弟・貞助が、
水戸藩の「天狗党事件」に連座して藩
を追われ、江戸に出た。その時通って
いた剣術道場が浅利道場だったので
ある。
当時のパン種には、甘酒やホップ種
を用いていた。木村は米糀(酒種)を
採用した。酒種は糖分を用いても発酵力
が盛んであり、冷えても柔らかさが
保たれたからである。明治7(1874)年
に銀座4丁目に新店舗を出店した頃には、
現在食べられている「酒種あんぱん」の
味が完成されていた。
上品な甘味のあん、日本酒のほのかな
香りを保つパン生地、塩漬けの桜(八重
桜)の花びらの三味一体。徳川慶喜は
「うまい」を連発しないわけがない。
かといって、多忙の山岡の土産だけを
待っているわけにはいかない。そこで
清水次郎長が登場する。彼が慶喜の
雑用係として、木村屋のあんぱんを
届けたのである。
一方山岡は、明治5(1872)年6月
から、宮内省侍従番長として明治天皇に
仕えていた。結果として明治天皇にも、
木村屋のあんぱんが献上される事にな
るのである。
山岡は「鉄舟」と号した。高橋泥舟・
勝海舟と共に、幕末三舟と称される。
禅を極め、「無刀の位」という境地に
至った剣豪でもある。山岡邸には北辰
一刀流の千葉周作や、歌舞伎の市川
団十郎、伝説の落語家・三遊亭円朝など、
多彩な人物が出入りしていた。
山岡は円朝の落語を所望した翌朝の、
明治21(1888)年7月19日、
腹膜炎で死亡した。53歳だった。
清水次郎長はその日の昼、死の報せ
を受け、直ちに100人の子分を従え、
清水を出立した。縞の合羽に三度笠、
手甲脚絆の装束で、腰には山岡が
贈った木刀を帯びていた。
22日。どしゃ降りの雨の中、山岡
の葬儀が行われた。武州・高萩の万次郎、
甲州・津向の文吉、小金井の小次郎など、
清水次郎長と盃を交わしていた関八州の
親分子分200人に先導された棺は、
四谷の山岡邸から谷中の全生庵へと
進んだ。5000人の一般弔問客の
中には、72歳になった木村安兵衛の
姿もあった。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第9話「パン」
現在ごく普通に「パン」と呼ばれて
いる食品が、ポルトガル語であると
知っている人はどれ程いるだろうか。
英語のブレッドではないのである。
この辺に、歴史の奥深さがある。
ポルトガルといえば、1543(天文
12)年に種子島に漂着したポルトガル
人がもたらした、「鉄砲伝来」が有名
である。もう一人の重要人物は、
イエズス会の宣教師、フランシスコ・
ザビエルである。ザビエルは1546年
7月に、マレー半島のマラッカの地で、
弥次郎という日本人と出会う。
弥次郎はもともと、薩摩国(鹿児島県)
の貿易商だったが、35歳の時誤って人
を殺して国外へ逃亡。悔い改めて洗礼を
受け、パウロ・デ・サンタフェと称して
いた。ザビエルは弥次郎を道案内兼通訳
として、トーレス神父、フェルナンデス
修道士らと共に、中国船「海賊号」で
薩摩国に上陸。領主・島津貴久に会って
キリスト教の布教許可を得るのである。
ポルトガル人は鉄砲とキリスト教の他に、
パンとワインを日本に持ち込んだ。織田
信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗など、
当時の諸大名はいずれもワイン党で
あった。パンや牛肉も食べた。
だがパンとワインは特に、江戸時代
「御禁制」となる。それはキリスト
教の禁令と結びついている。パンは
キリストの肉であり、ワインは血で
あるという教えの為である。徳川
三代将軍・家光は、隠れキリシタン
がパンの代用にしそうな饅頭まで禁止
している。
ザビエル布教の当初、宣教師たちが
インドのゴアからやって来る事から、
「天竺宗」や「南蛮宗」と呼ばれ、
仏教の異なった宗派だと思われていた。
異国的な物珍しさも手伝って、
豊臣秀吉がキリスト教を禁教にする
頃には、75万人程の信者数に膨れ
上がっていた。
禁止の理由は諸説あるが、ポルトガル
船による奴隷の売買や、キリシタン信徒
による神社仏閣の破壊、長崎「教会領」
の要塞化などの政治的理由によるもの
と推測出来る。
天下を継承した徳川家康は、最初
キリシタンに寛容だったが、キリシタン
大名・有馬晴信の贈収賄事件をきっかけ
に態度を硬化させ、1612(慶長
17)年4月にキリシタン禁教令を出し、
大弾圧を開始するのである。
やがて日本はイギリス、スペイン、
ポルトガルと国交を断絶し、平戸の
オランダ商館を長崎の出島に移して
鎖国を完成させた。パンは出島で
細々と作られるのみとなった。
そして200年が過ぎた。1840
(天保11)年、イギリスと清国の間に
アヘン戦争が勃発した。イギリスは
優秀な銃砲で清国軍を破り、香港を獲得
する。いずれ日本も清国同様、
「食い物」にされるのではないかと、
このニュースに憂慮する人物がいた。
幕府老中・阿部伊勢守である。
阿部は、西洋兵学の権威である
伊豆韮山代官・江川太郎左衛門を
呼んで意見を求めた。江川は韮山に
反射炉を設けて鉄砲をつくったり、
後に江戸湾に台場(砲台)を築いた
人物である。阿部はイギリス艦隊に
対していかに戦うかを問い、山岳
ゲリラ戦ならば勝ち目があるという
事で意見が一致した。
山岳ゲリラ戦には携帯食が要る。
日本には古来よりさまざまな兵食が
あった。乾燥マムシと黒大豆の粉を
酒で練った「楠木氏兵利丸」
や、白米・小豆・もち米・薬用人参
などの粉末を蜂蜜で練って蒸した
「義経兵糧丸」などである。江川が
選択したのは「パン」だった。
江川は友人の蘭学者・高嶋秋帆から、
長崎・出島のオランダ屋敷の料理人・
作太郎を、伊豆韮山の江川邸に呼び
寄せ、焼き窯をつくって兵糧パン
作りを始めた。
江川は試行錯誤を重ね、種として
冷えても柔らかさを保つ酒種(米糀)
の製法にたどり着いた。また後に
江川邸には、漂流の末アメリカに
渡っていた中浜万次郎(ジョン万次郎)
がやって来て、アメリカ風パンの製法
を伝授する。
江川は江戸に「江川塾」を開き、
全国130藩の門弟たちに、西洋兵
学と共に製パン技術を伝授した。
門弟の中には、長州藩の桂小五郎や、
薩摩藩の黒田清隆、大山巌なども含ま
れていた。彼らは各藩でパンを製造し、
兵糧として貯蔵した。
仙台藩から江川塾で学んだのは、
多田より頼あき顯・よりのり頼訥
兄弟だった。頼顯は30歳の若さで
夭折するのだが、弟・頼訥は皆伝を
受けて仙台藩に帰り、養賢堂の洋砲
教授になっている。この多田家の
末弟が、後に新宿・中村屋を創始
する相馬黒光の父、多田喜四郎
である。
多田家は代々、砲術をもって仙台藩
に仕えた家柄だったが、同時に
キリシタンでもあった。元和年間
(1615〜1623)、伊達政宗の
命により「類族にて」改宗証文を出し
浄土宗に転じたが、墓には「釣鉤
(つりかぎ)梵字」という隠れキリシタン
のマークが用いられていた。この点、
パンとキリシタンの因縁の深さを
感じないわけにはいかない。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第10話「お茶」
しみじみとした初冬になった。こういう
季節こそ、お茶の話がよく似合う。
そもそも我が国に「茶」という飲み物が
伝来したのは、いつの頃であったのか。
むろん諸説ある。
記録に残る人物として、空海
(774〜835)がいる。
「窟観の余暇、時々印度の
文を学び、茶湯坐し来って、たちまち
震旦の書を閲す。
(弘仁5(814)年閏7月・性霊集
巻4)」と、インドの経典をひもとく
余暇に、茶を喫してしみじみしている
空海がそこにいる。
弘仁年間、空海が嵯峨天皇に献上した
茶は、「舶来の仙薬」として宮中の
貴族の間で流行した。嵯峨天皇は畿内
に茶の栽培を命じ、献納させている。
だが茶はあくまでも貴人が用いる薬で
あり、一般に広く浸透するには至らな
かった。
時移り、鎌倉時代。二代将軍・源頼家
が、二日酔いで苦しんでいた。ちょうど
そこに現れたのが、臨済宗黄龍
派の禅風と茶を宋より持ち帰った
明庵栄西(1141〜1215)だった。
栄西は頼家に、一碗の茶を献じた。
二日酔いの不快がおさまった。
当然「これはよい」という事になった。
京の建仁寺や博多の聖福寺など、禅寺で
茶の栽培が盛んになっていった。そう
なると、禅に帰依していた武士の間に、
喫茶の習慣が広まってゆく事になった。
喫茶去という、禅の公案が
ある。去とは去るという意味ではなく、
意味を強調する助詞だという。
「まあ、お茶でも飲んでいきなさい」と
いう意味である。この普通の言葉が、
じょうしゅう趙州(778〜836)と
いう中国禅の高僧から発せられると、
何やら途方もない奥深さを感じさせる
ものとなる。趙州は相手が誰であろうと、
「喫茶去」と言った。
「諸君、おわかりかな?」
わかってもわからなくても、とりあえず
お茶を飲もう。いやいや、二日酔いの後
がよいかな?
かくして武家社会に浸透していった
茶の文化は、足利尊氏が登場する頃
には、「茶寄合」や「闘茶」という
流行にまで発展していた。茶寄合は、
茶を喫して連歌を詠み合うという、
穏やかな文化サロンだった。
だが「闘茶」となると、話は穏やか
ではない。闘茶とは、茶の産地や銘柄を
当てるゲームで、その賞品がすごかった。
唐物の茶道具や砂金、美女などが乱れ
飛んだ。闘茶をも催した中心人物に、
婆佐羅大名と呼ばれた近江
守護・佐々木道誉や、足利尊氏
の執事・高師直などが
いる。鎌倉末から南北朝への大動乱の
時代、明日はどうなるかわからない。
「この世は夢ぞ、ただ狂へ」とばかりに、
派手な享楽を楽しむ風潮が背景にあった。
人の美意識や価値観は一様ではない。
闘茶などという婆佐羅な茶など下品
だと、苦々しく思う者がいても不思議
ではない。その代表的人物が、村田珠光
(じゅこう)である。彼についての正確
な資料は伝わっていない。江戸期に
成立した「本朝茶祖珠光伝」によると、
珠光は和州南都(奈良市)中ノ御門に、
1422(応永29)年頃、村田杢市検校
(もくいちけんぎょう)の子として
生まれたとある。11歳の時、興福寺
配下のしょうみょう称名寺に入り出家
する。だが20歳の頃、出家生活が嫌
になり漂泊の身となり、30歳頃禅僧
となり京・大徳寺の真珠庵に住すとある。
大徳寺と言えば臨済禅の総本山であり、
真珠庵には一休宗純(1394〜1482)
が住していた。「わび茶」は一休の禅風
より興ったと言える。婆佐羅な茶に
対しては、一休の狂雲であろう。わび茶
とは、無一物中無尽蔵という禅の境涯に
通じている。
村田珠光の弟子に、泉州・堺の豪商・
武野紹鴎がいた。彼は和歌
や連歌にも通じた教養人で、ここから
今井宗久・宗薫、津田宗達・宗及、
千利休といった堺の商人、細川幽齋や
佐久間信盛といった武士が、「わび茶」
の弟子となっていった。
今井宗久とは、武野紹鴎の女婿で、鉄砲
と火薬を商って巨利を得る。織田信長の
台頭を背景にして、堺町衆を束ねる地位
に就く。千利休も、信長に認められた
茶人の1人だった。
わび茶を大成した千利休(1521〜
1591)は、豊臣秀吉・秀長、蒲生
氏郷、細川忠興、古田織部、織田有楽齋、
荒木村重、高山右近といった、当時の名だ
たる大名を「弟子」にしていた。
一般に、豊臣秀吉は佐々木道誉の
再来を思わせる「婆沙羅」な成金
趣味で、その代表が大阪城の「黄金の
茶室」だと思われている。ゆえに、
わび茶の利休と対立したのだと。だが
実情は少し違う。利休が内心どう
思っていたのかを窺い知る事は出来
ないが、少なくとも黄金の茶室を
つくったのは利休自身なのである。
千利休が豊臣秀吉から切腹を命じ
られた真因は、石田三成による政治的
陰謀によるところが大きい。
「内々の儀はそうえき宗易(利休)に、
公儀の事は宰相(秀吉の弟・秀長)に」
と秀吉が言うほど、利休は信頼され、
秀吉政権の中枢にいた。それゆえの
失脚だった。
徒手空拳の身から、関白太政大臣と
いう最高位まで登りつめた豊臣秀吉も、
千利休が切腹した7年後の慶長3
(1598)年8月、62歳の生涯を
閉じる。
「露と落ち 露と消へにし我が
身かな 難波のことは 夢のまた夢」
と、無常の我が身を嘆き、侘びた辞世を
詠んだ。人間の成功も挫折も、どこか
物悲しい。それは、ひと碗の茶の渋味の
ようでもある。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第11話「木の匠」
奈良県いかるが斑鳩の法隆寺と
いえば、聖徳太子(574〜622)
が607年頃、斑鳩学問所として創建
したのが始まりだと言われている。
だがこの建物は焼失し、天武天皇の
680年頃から金堂、五重塔、回廊、
中門という順で再建されていった。
つまり法隆寺は、今からおよそ
1300年前の建物という事になる。
世界最古の木造建築群とし、ユネスコ
の世界遺産に登録されている。私も
修学旅行で訪れ、1300年という
時間が目の前に存在するというリアリ
ティに、眩暈に似た感覚を覚えた。
それは歴史の面白さを体感した原点
でもあった。けれど「この建物を
造りたい」などとは、思ったこと
すらなかった。
しかし世の中は広いもので、法隆寺
を見てこれを造ってみたいと思う人も
いる。宮大工の西岡つねかず常一や、
弟子の小川三夫という人である。同じ
建物を見ても、感じ方や発想がこれほど
違うのはなぜなのかを考えると、
「前世」が違うのだろうと思うしか
なくなってくる。西岡や小川は、前世
で一度番匠(大工)として法隆寺に
関わっていたのだろうと。
西岡常一は1908(明治41)年に、
奈良県の宮大工・西岡家に生まれ、
1934(昭和9)年から1954
(昭和29)年まで行われた、法隆寺
の解体大修理にたずさわった。本人
はこれを「天運」だという。時代の
巡り合わせだと。
法隆寺には最古の飛鳥建築から、
天平・藤原・鎌倉・室町・江戸の
建築様式が全て揃っていたからである。
各時代の日本建築の特徴を学べた
幸運に巡り合ったわけだ。
弟子の小川三夫は1947(昭和
22)年、栃木県矢板市に生まれた。
宮大工とは何の関係もない家だった。
修学旅行で法隆寺五重塔を見て、
これを造ってみたいと思った御仁で
ある。高校卒業後西岡に弟子入りし、
法輪寺三重塔や薬師寺金堂などの
再建修理に参画する。
こうした職人さんが語る話には、
智慧の深さや滋味があり、「なる
ほどなぁ」と感嘆してしまう事しきり
である。たとえば、宮大工の世界に
代々伝わる口伝で、「木を買わず
山を買え」という言葉があるのだ
そうだ。山には当然ながら、東西南北
というものがある。山の南側の木は、
細いけれど強い。北側の木は、太い
けれど弱い。そうした性質の木を、
建物の東西南北に合わせてそのまま
使えというのである。
ひと口に木と言っても、育つ環境
はさまざまである。強風の地では左右
に捻れ、大きな伽藍の心柱などに用い
られる樹齢2000年前後の檜
に至っては、人を寄せつけない岩盤に、
根が岩を割って生育しているのが常
だという。こうしたくせの強い木ほど
耐用年数も長く、水分が多く嵐の
少ない環境で育った素直でくせのない
木は弱いのだそうだ。
しかし、弱いから、あるいはくせが
強いから、曲がっているから「だめだ」
というのではない。強い木は柱や桁、
梁などの骨組みに用い、弱い木は長押
(なげし)や天井、化粧板に用いれば
よいのである。
西岡は云う。
「性根というもんは、直せるもんや
ないんですわ。やっぱり包容して、
その人なりの場所に入れて働いて
もらうんですな。曲がったものは
曲がったなりに、曲がったところに
合う所にはめ込んでやらんといかん
ですな。
(木のいのち木のこころ・草思社) 」
古代建築は総じて、1本1本の木
の長さや太さ、曲がり方が違っている。そ
れをうまく組み合わせて使っているの
である。適材適所とは、まさにこういう
事なのだろう。自然の摂理を生かしきる
「匠の業と智慧」は、実に奥深い。
槍鉋の話もその1つだ。
現代では木材を電気鉋で削る。つるっと
して一見綺麗に仕上がる。しかし雨
などに濡れると、すぐに黒くカビて
くる。ところが古来より使われている
「槍鉋」で削ると、水が切れてカビも
生えない。これは木の目に従って、筋に
従って削るからなのだそうだ。槍鉋は
「木を生かす」為の道具だったのである。
鉄筋コンクリートの建物は、およそ
100年の寿命と言われている。便利
で手軽で面倒がないのは確かだ。しかし
電気鉋に象徴される合理主義・効率第
一主義だけの文明は虚しく脆い。同じ
ものを食べ、同じものを着て、同じよう
に考える。画一化されたのっぺらぼう
の人間からは、東京の小川をコンクリート
で塗り固めるような醜悪さが生まれて
くる。
地震国・日本にあって、1300年前
からすっと建っている法隆寺五重塔か
ら、学ぶべき事はまだまだありそうだ。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第12話「壇ノ浦」
前太政大臣・平清盛が没した
4年後の、1185(元暦2)年。旧暦
3月24日は、新緑の5月中旬。当時
赤間ヶ関と呼ばれていた関門海峡・
彦島の海域に、平家の軍船約500隻
が集結していた。
平家の総大将は、清盛の二男・内大臣
宗盛だが、温和な文官の為、軍事の指揮
には不向きな男だった。宗盛は2月
21日に屋島の戦いで源義経軍に惨敗し、
平家全軍は長門国(山口県)の国司・知盛
の本拠地・彦島に退いたのだった。
清盛の4男・権中納言知盛はこの時
34歳。平家軍の副将として戦略を練り、
全軍を指揮していた。平家の中で最も
武士らしい男だったという。一の谷の
戦いで、16歳の息子・知章
を失っていた。
そもそも平家は、清盛の祖父・正盛の
代から綾・錦・伽羅・麝香・仏具・書籍
などを扱う日宋貿易で富を蓄え、勢力
を拡大してきた巨大海運商社のような
性格を持っていた。得意先には京の貴族
の他、奥州平泉の藤原氏がいた。平家は
播磨・淡路(兵庫県)、阿波(徳島県)、
讃岐(香川県)、備中(岡山県)、周防・
長門(山口県)を知行国として、瀬戸内
から九州にかけての海上交通の支配権
を確保していた。
屋島と赤間ヶ関という本拠地は、
瀬戸内海という袋の両端に位置している。
この両端さえ封じておけば、中身である
湊や水軍衆という制海権は、全て平家に
帰属する。それゆえ、屋島を放棄した
事の意味は重大だった。袋の一端が開き、
中身がどっとこぼれ出たような事態に
なったからである。
その中身とは、塩飽諸島の塩飽水軍、
伊予国今治(愛媛県今治市)の河野(三島)
水軍、因島の村上水軍、豊予海峡の
真野水軍などである。彼ら瀬戸内水軍衆
が、紀伊国(和歌山県)の熊野水軍に呼応
して、源氏方に合力したのである。
源義経率いる源氏船団約300隻
は、3月19日に周防国大島湊に
集結。23日未明には長門国下関沖
の、満珠・干珠島付近にまで進出。
その動きは平家軍の物見によって、
即刻知盛にもたらされた。
]
「明日は決戦」と意を決した知盛は、
全軍で彦島から押し出し、豊前国
(福岡県)田野浦辺りに船団を配した。
急流のはやとも早鞆の瀬戸を挟んで、
源平両軍が向かい合う形となった。
知盛は8歳の安徳天皇と生母の
建礼門院徳子、知盛の母・二位の尼
時子らと共に和布刈神社に
参拝して戦勝を祈願。翌早朝、全軍
の将兵に向かって大音声を発した。
「天竺・震旦にも、日本
わが朝にもなら双びなき名将・勇士
といへども、運命尽きれば力及ばず。
されども名こそをしけれ。東国の
者どもによわげ弱気見ゆな。いつの
ために命をばをしむべき。これ
のみぞ思うこと。」
平家船団の先陣は、九州一の弓取り
として名高い、豊前国遠賀郡の山賀
兵藤次秀遠率いる山賀水軍と、菊池
三郎孝康率いる菊池水軍である。
北九州の地は、清盛の弟・頼盛が
太宰大弐として赴任して以来の繋がり
である。当地の原田種直や坂井種遠
を家人として掌握。松浦水軍の渡辺
高俊は、清盛の信任を得て日宋貿易
の中軸を担う事になる。彼らが平家
船団の第2陣である。
第3陣は阿波民部しげよし重能
率いる阿波水軍と、平家最強の男・
能登守教経らを従えた平家一門の船団
である。知盛は、いかに大局的に劣勢
といえども、この海戦に限って言えば、
敗れるとは思っていなかった。九州の
水軍衆は、誰もが巧みに船を操り、
日頃の潜水の技を生かし、船底に
潜って穴をあける事も容易に出来た。
潮流や天候に熟知した海の荒くれ者
たちだった。一方源氏の将兵は、
船酔いして満足に弓をひけぬ者多し
と聞いていた。しかも海戦域は、
潮流の変化が激しい早鞆の瀬戸なの
である。
潮流は一日に2度、大きく変化する。
夜明け頃、潮は響灘から周防灘へ向け
て東流を始め、昼頃最も急流となる。
やがて流れは弱まり、午後3時頃
反転して西流し始める。その流れが
最も速まるのは、日没近くの午後6時
頃である。
知盛は東流が最速となる正午頃、
鶴翼の陣形を組み、源氏船団めがけて
一気に押し出した。短時間のうちに
全滅させようという作戦である。
だが源氏軍もまた潮流を読んでいた。
楯を亀の甲羅の如くにして矢を防ぎ、
平家の挑発に乗らず、逃げまくった。
そして潮流が西流する午後3時を
待った。
この時形勢を逆転させたのは、
平家方の阿波水軍が源氏に寝返った
からだとされているが、吾妻鏡の
捕虜に「民部太夫しげよし成良」の
名がある事から、裏切りはなかった
のかもしれない。
ともあれ潮流反転と共に、源平の
形勢もまた逆転した。平家軍は
じわじわと彦島方面に押し戻され
ていった。長門国と豊前国の陸地が
800メートル程まで接近する辺り
を壇ノ浦という。この地点には、
和田義盛ら3町(324m)の遠矢を
放つ源氏屈強の陸戦隊が、平家船団
を待ち構えていた。平家軍の将兵は、
次々に強弓に射抜かれ、海中に身を
投じていった。海中には血の匂いで
集まったサメが群れていた。
夕刻、中納言教盛、修理
太夫経盛、小松中将資盛、
左馬頭行盛が次々に入水。
これを見届けた知盛もその後を追って
入水した。平家武者は誰一人切腹
していない点、興味深い。安徳天皇は
二位の尼に抱かれたまま、東に
向かって伊勢神宮に別れの言葉を述べ、
西方浄土へ向かって念仏を唱えた後、
入水した。
総大将・宗盛と清宗父子は捕らえられ、
後に斬首。端武者850人は、生かして
おいても面倒なりと、その場で首を刎ね、
海中に投棄した。ここにおいて、貿易
立国を目指した平清盛の悲願は虚しく
海中に没し、軍事大国への歴史が幕を
開ける事になったのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第13話「禅とは・・・」
日本人にとって「禅」は、割合なじみ
深い宗派である。同時に、わかっている
ようでわかっていないのも、禅の特徴の
ようである。
禅とは、古代インドのサンスクリット語
で「ディヤーナ」、パーリ語で「ジャーナ」
と呼ばれていた。ディヤーナとは、思考
のプロセスや感情の起伏を超えて、静寂
の中に入る「境地」を指し示す言葉と
して用いられていた。それが中国語で
「チャン」と呼ばれ、日本で「ゼン」に
変化したのである。
禅の初祖は、釈迦十大弟子の1人、
マハーカーシャパ(摩訶迦葉)だと
言われている。ある時釈迦が、朝の
法話の時間に、一輪の花(薔薇とも蓮
とも言われている)を手にして現れた。
釈迦は一言も語らず、花を見つめたまま
だった。弟子たちはそれが何の意味
なのかわからず、オロオロするばかり
だった。そんな中ただ1人、マハー
カーシャパだけがにっこりと微笑した。
釈迦は彼を呼び寄せて花を与え、この
朝の法話を終えた。
エピソードとしては、これだけの話
である。禅の世界では、このマハー
カーシャパの微笑みを「拈華微笑
(ねんげみしょう)」と呼んでいる。
そして「釈迦から迦葉に、一体何が
伝授されたのでしょうか?」と、
2500年にわたって問われ続けて
いるのである。なるほど、言葉を
超えた理解が特徴の、禅の始まりに
ふさわしい。
こうして禅は、沈黙と笑いから
始まった。そして、これを理解出来た
人から人へ、全体から全体へと伝承
され、インド禅28祖の法灯が成立
した。この28人目の人物こそ、中国
に禅を伝えたボーディダルマ(菩提達磨)
である。
ボーディダルマとは、あの赤くて
丸いギョロ目のダルマさんの事である。
実在した人物だが、詳しい事はあまり
よくわかっていない。南インドの
バラモンの家に生まれ、プラギャターラ
という女性によって得度を受け、中国
へ禅を伝えるよう命じられたと言われ
ている。
梁の大通元(527)年9月。
ダルマは海路、中国の広州へやってきた。
当時の中国は「魏晋南北朝」と呼ばれた
ややこしい時代で、ダルマは南朝
「梁」の武帝に謁見した。武帝は
熱心な仏教信者で、精進料理を食べ、
常に経を唱えているという人物だった。
その武帝がダルマに問うた。
「朕、即位以来寺を造り、写経事業を
行い、僧を保護すること挙げて記す
べからず。いかなる功徳があるか?」
と、自慢顔で語る武帝に対して、
ダルマが答える。
「無功徳。」
ダルマは誰に対しても、気休めの
言葉を用いない。禅は効率ではない。
何かの功徳を期待して行なうような
事は、本当の功徳ではない。太陽は
ほんねん本然のじしょう自性によって
燃焼しているではないか。花は誰かの
為に咲いているのかと、ダルマは
言いたかったのである。
ダルマは梁の武帝のもとを去り、
洛陽の南にある嵩山少林寺を訪れた。
この寺は、ダルマと同じ時期にインド
に生まれた仏陀禅師の為に、北魏の
孝文帝が建てた寺だった。
「面壁9年・・・」
という、ダルマの伝説はこの寺で
生まれた。「壁の如く静まる」という
ダルマの瞑想が、いつしかこのような
伝説を生んだのだろう。
ダルマとはそもそも、「本性」という
意味である。火は熱く氷は冷たい。それ
が火や氷のダルマである。人間のダルマ
とは、無自己・静寂・慈愛だと言う。
この本性が花のように自ら輝いている
状態を「無心」と言うのである。
ダルマはこの寺で、神光慧可
(487〜593)という弟子を得る。
彼がダルマ禅を継承し、中国禅宗の
二祖となる。また、通訳僧・曇林は、
ダルマの教えを漢文にまとめ、
「菩提達磨略弁大乗入道四行」を
著した。
慧可は三祖・僧さんに、僧さんは
四祖・道信(580〜651)に、道信
は五祖・ぐにん弘忍(601〜674)
に、弘忍は六祖・慧能(638〜713)
へと、ダルマの法灯を伝えていった。
この六祖慧能の言動は、弟子たちに
よって「六祖壇経」にまとめられ、
禅は「学習」するものではないと
される中、貴重な「参考書」となった。
ダルマという山奥の清水は、六祖
慧能あたりから川となり、数多くの
天才僧を得て、下流域を潤す大河へと
成長してゆく。日本で馴染み深いの
は、曹洞宗開祖の洞山良介(807〜
869)と、臨済宗開祖の臨済義玄(?〜
866)だろうか。洞山の法脈からは
道元(1200〜1253)が、臨済の
法脈からは一休宗純(1394〜
1481)や、はく白隠慧鶴
(はくいんえかく/1685〜1766)
が出る。
禅は鎌倉時代の武士階級に支持され、
剣道・茶道・作庭・書画や各種文芸
などに、その精神が色濃く反映されて
ゆく。ダルマ禅が究極的に花開いた
のは、他ならぬこの日本なのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第14話「人は情の下に棲む」
(大原孫三郎伝)
「えー、人として、若い時分には
一度や二度はしくじる事がありまして、
男としては、大抵は御婦人のためだ
そうでして・・・」
落語に「唐茄子屋」
という話がある。たいけ大家の
若旦那が吉原遊郭に入り浸って
遊んだあげく、親から勘当されて
一文無しになる。金の切れ目が
縁の切れ目。吉原でちやほやされて
いたはずが、誰からも相手にされ
なくなる。川に身を投げて死のうと
したところを、縁者の八百屋に
助けられ、心を入れ換えて真面目
に働く事を約束。天秤棒を肩に、
唐茄子を売り歩く、と
いう粗筋である。
江戸が東京と改まり、日清戦争も
おさまった1897(明治30)年。
大家の若旦那が一人、浅草の街を
歩きながら途方に暮れていた。この
若旦那、岡山県倉敷町の有力企業・
倉敷紡績の跡取り息子で、姓は
大原、名は孫三郎。この年の1月
18日に単身上京し、6月に東京
専門学校(後の早稲田大学)に籍だけ
は置いていた。
孫三郎、学校は嫌いだった。要
するに、親元を離れて東京に出て
来る為の口実に、学校を利用した
わけである。だからもっぱら、浅草
の寄席と吉原遊郭に通い続けた。
寄席と遊郭は若いうちに通え、など
とは学校では教えないだろうが、人間
の「情」を練るにはいい道場になる
だろう。落語には、奥の深い人情話が
山ほどある。色と欲に絡む人間模様や、
微妙な心遣いを味わえる。また、吉原
は社会の矛盾の吹き溜まりのような
場所だ。貧しい親を養い、兄弟姉妹の
薬代を稼ぐ女たちがざらにいた。
わがままなお坊ちゃま・孫三郎が世間
を知るにはいい機会だったのかもしれ
ない。
とは言え、孫三郎の遊びは「ケタ
はずれ」だった。そのあげく、作った
借金が、元金と利息合わせて1万5千円。
当時の芸者の玉代が、2時間の平座敷で
45銭。吉原で1円もあれば、けっこう
な遊びが出来た。当時の超エリート
だった大学卒業の銀行員の初任給が
35円だから、ざっとその28年分に
あたる。250円で小型漁船が一隻
買えた。時に孫三郎17歳。秋風が
身にしみた。
孫三郎は、自分が資産家の家に
生まれた事を嫌い、貧富の差の激しい
社会に怒りを抱いていた。おまけに
任侠精神の厚い、親分肌の性格ときて
いる。吉原女郎衆の身の上話を聞き、
身請けか、それに相当する援助をして
いたのかもしれない。ともあれ孫三郎
は、倉敷に連れ戻されて謹慎。借金は
父・孝四郎がケリをつけた。この時
孫三郎は、自分が何を成すべきなのか
わからずにいた。
ここで少し、大原家の事に触れて
おこう。倉敷に隣接する岡山市は、
江戸時代、備前・池田藩31万5千石
の城下町として栄えたが、倉敷は徳川
幕府の天領、すなわち直轄地として
代官所が置かれていた。備前・備中
(岡山県)・讃岐(香川県)などの天領から、
倉敷に米や綿が集められ、大阪や江戸に
運ばれた。蔵の町は、こうして出来
上がった。
江戸時代の大原家も、農家から綿
などを買い集める綿問屋として財を
成していった。やがて明治政府の
「富国強兵・殖産興業」の号令のもと、
紡績業は国の基幹産業となる。倉敷
紡績は、1888(明治21)年3月
4日に設立され、大原孝四郎が社長
に就任。この年、孫三郎は2歳だった。
3年後には倉敷銀行が設立し、孝四郎
が頭取を兼務した。
孫三郎は謹慎中、たまたま友人から
贈られた冨田高慶著作の「報徳記」を
熱心に読んでいた。江戸時代後期、
農村を主体とする社会改革事業を
成した二宮(金次郎)尊徳の一代記で
ある。彼は「唯心所現」を思想の中核
にして、それを実践した。つまり、
自己の意識変革を第一に置き、その
現れとして外側の社会変革が実現する
という思想である。
「俺の天職とは何か?」
孫三郎は、焼けた砂の上でのたうち
まわるような、迷いの中にあった。
孫三郎19歳の1899(明治32)年
7月。一人の男との出会いが、孫三郎
の迷いの霧を晴らす事になった。石井
十次、32歳。この時石井
は、岡山孤児院院長の職にあった。
石井は幕末の1866(慶応2)年に、
宮崎県で生まれた。石井は明治維新の
余熱がおさまらない環境に生まれ育って、
少年の頃から政治に熱中。「岩倉具視
(ともみ)を暗殺すべし」と放言して、
50日の牢獄生活を体験している。
獄中、西郷隆盛から教えをうけた人と
同室になり、「敬天人愛」に深く共鳴。
生涯の座右の銘となった。17歳の時、
岡山医学校に入学。キリスト教を知って
洗礼を受けた。
血の気の多い青春時代を過ごした
石井の話に、孫三郎はすっかり魅了
された。石井が21歳の時、四国遍路
へ向かう途中の女巡礼に出会った。病気
の夫と末の子供を小豆島で失い、上の
二人の子供を連れて途方に暮れている
状況だった。16歳で結婚していた
石井だったが、女巡礼の様子を見るに
見かねて、何のあてもないまま、上の
子を引き取って養育する事を決めて
しまう。
これがきっかけとなり、石井は医学
の道から孤児救済の道へと方向を変え
てゆく。救済というよりは、むしろ教育
への情熱が優先していたのかもしれない。
岡山孤児院はこのようにして生まれた。
孫三郎はスポンジが水を吸い取る
ように、石井の思想を吸収していった。
聖書を何度も読み、石井と聖書について
語り合った。また、孤児を生み出す背景
にある社会について、深く洞察して
いった。一人の人間が「善」に目覚める
と、他の多くの者の光明になると言った
のは誰だっただろうか。ともかく孫三郎
は、石井によって開眼した。
「1902(明治35)年1月1日この
5年間の事を顧みれば、実に恥ずかしく
感ぜざるをえない。しかるに昨年は
20世紀の第1年において、余の心霊上
におおいなる改良を加えさせ賜うた。
この20世紀は、余にとって改革の
世紀であると思う。つつしんで神の御心
にそって、余の一心を改革に捧げんと
思う。この5年間、父母が毎年の元旦
を迎えられる所感は如何であったで
あろうか。余の乱行時代と、妻を与え
られてから迎ふる今日の元旦とは如何。」
結婚して、心身ともに生まれ変わった、
孫三郎22歳の時の日記である。そして
さらに続く。
「3月15日。余がこの資産を与えられ
たのは、余の為にあらず。世界の為で
ある。余はその世界に、与えられた金を
以って、神の御心により働く者である。」
石井から「教育」の重要性を説かれた
孫三郎は、最初の事業として「日曜講演」
を企画した。当時の各界著名人を倉敷に
呼んで講演を依頼し、その速記録を印刷・
配布したのである。この「倉敷日曜講演」
には、新渡戸稲造・大隈重信など、政界・
財界・学界・ジャーナリスト・文化人
多数が招かれ、大正14年まで24年間
続く事になる。聴衆の中には、当時
岡山一中に在学していた岸信介の姿も
あった。
1906(明治39)年、26歳の孫三郎
は、父・孝四郎の引退にともなって、倉敷
紡績の社長および倉敷銀行の頭取に就任
した。孫三郎は社内人事を刷新して、
若手・中堅社員を登用。工員の福利施設
の大改革に着手した。
当時の紡績工場は24時間のフル操業
で、「女工哀史」と呼ばれた労働環境に
あった。倉敷紡績の千人をこえる女子
工員は、寄宿生活で十二時間交代制
だった。寄宿舎の内部は万年床の大部屋
で、衛生状態の悪さが腸チフスや結核など
の伝染病を発生させる原因ともなっていた。
孫三郎は疾病災害保険制度を導入し、
工場内に保育所を建てた。さらに8年
がかりで、広大な敷地に寄宿舎と診療所
を新設した。孫三郎は寄宿舎新設に
あたり、次のように述べている。
「この寄宿舎を建てるのに、最初は衛生
を主にしていたのですが、さらに考え
を進めて計画を改めました。それは、
今までのように多人数が一つの部屋に
おっては、何事も自分の家におった時
と様子がちがって、居心地も悪く種々
様々な苦情も自然に起こりやすい。
したがって早く家へ帰りたいと思う
ようでは、会社の利益はともかく、
皆さんの不利益だと思いまして、一つ
の部屋に多くの人を居れぬう、なるべく
自分の家と変わらぬよう設備して、
少人数の者が居心地よく、むつまじく、
家族的に寝起きすることのできるよう
にしたいという考えを持って、この
寄宿舎を建てたのでございます。
新寄宿舎には、裁縫室も建ててあり
ます。学校もこの中に建てるつもりで
あります。また、各部屋の間の庭には
花壇を設け、四季の花を植え、いつでも
花を見て楽しむことが出来るようにし、
食堂も立派なものに建て替え、お休み
などには皆集まって楽しく芝居やお話
をして遊べるように、舞台も備え付ける
計画であります。 要するに会社は、
皆さんの居心地をよくし、病人もなくし、
無駄な金は使わせないで、皆さんの父兄
に送金も多くでき、貯金もできるだけ
沢山できるようにしたいと思っています
から、皆さんは仕事や勉強に精を出し
て、幸福な寄宿生活を過ごしていただき
たいと思います。」
この頃孫三郎は側近に、「社会の為
に大原家の財産を潰そうというのが、私
の理想なのだ」と語っていたという。
この当時、大原家に限らず資産のある
商家はみな田畑を持ち、多くの小作人
をかかえていた。孫三郎は「報徳記」
で読んだ二宮尊徳の農村復興事業に、
自らの天職を重ねていった。
1906(明治39)年、大原家
小作米品評会という形でスタートした、
孫三郎の農業問題に対する取り組みは、
やがて大原農業研究所に発展してゆく。
ここで成された研究成果は、現在でも
脈々と流れている。たとえば園芸部
では、マスカットやコールマンなどの
温室栽培を研究し、「温室ブドウ岡山」
の基礎をつくってゆく。大久保重五郎
は水蜜桃の新種・いわゆる「大久保水蜜」
をつくり、岡山の特産品となる。
病理部では、シイタケ・ヒラタケの
人工栽培の基礎を確立し、昆虫部では、
果樹や稲などの害虫駆除に対し、数多い
研究成果を残した。戦後、大原農業
研究所は岡山大学の付属研究所として
生まれ変わり、現在に至っている。
一方、石井十次の岡山孤児院は、
1200人を収容する世界有数の大孤児院
になっていた。1905(明治38)年秋、
関東・東北地方は大凶作となった。農村
では夜逃げ、行き倒れ、親子心中、娘の
身売りが続発。何とか切り抜けている
人々も、木の芽や松の皮で飢えを凌ぐ
ような惨状となった。石井は、こう
した状況が改善されるまで、子供たち
を無制限で一時収容するという声明を
発表した。孫三郎はもちろんの事、
皇室や日米キリスト教団体がこれを
支援した。
その後石井は、故郷・宮崎の地に、
土地を開墾しながら「自然教育」を行う
分院を開設。後半生はこの地にあって、
理想の教育を目指した。1914(大正
3)年1月30日、石井十次は48歳の
若さで急死した。死の前日、石井は機嫌
良くお気に入りの「どどいつ都々逸」の
文句を口ずさんでいたという。
「鮎は瀬にすむ 鳥ゃ木にとまる
人はなさけの下にすむ」
孫三郎は、石井の精神と事業を継承
した。石井は大阪市浪速区日本橋
日東町に、孤児たちの保育所と夜間
学校を開いていた。ここは当時、大阪
の有名な貧民街だった所である。
孫三郎はこれを、財団法人・石井
記念愛染園として、孤児救済と教育
事業の拠点とした。
さらに孫三郎は、孤児を生み出す
社会問題に目を向け、大原社会問題
研究所を、大阪市天王寺区伶人町に
設立した。この土地はかつて、聖徳
太子が「施薬院」を設けて、難民の
医療救済にあたった場所の跡地で
あった。孫三郎はこの場所がいかなる
土地かを知っていて、意図的に求めた
のだった。
また、孤児たちの親の多くが梅毒
で死亡している事実に注目。この点
から、公衆衛生教育と予防の研究が
なされ、医学・農学・労働学・科学
などの専門書約5万冊の収集が行われた。
研究所の総工費が15万円であるのに
対して、ヨ―ロッパで買い求めた書籍代
は4万円である。
孫三郎は、基礎的な研究を充実させる
事と、具代的な実践を車の両輪のように
考えていた。医療・公衆衛生・予防の
研究はやがて、病院の建設という形に
発展してゆく事になった。
孫三郎が工場内の診療所を、一般市民
に開放する総合病院にすることを決めた
のは、1918(大正7)年11月の事
だった。病院の設計と、1万2千坪の
用地買収には3年をかけた。孫三郎は、
荒木寅三京都帝国大学総長らに相談して、
東洋一の病院にする事を決めて、自ら
設計の総指揮にあたった。
このような経緯を経て出来上がった
倉敷中央病院は、滋賀県近江八幡の結核
診療所、アメリカのロックフェラー病院、
ドイツのハンブルグ熱帯病院など、
当時のすぐれた病院の長所をすべて
取り入れた設計になった。
ブーゲンビリアやフェニックス、
バナナなどを植えた熱帯植物園を2ケ所に
つくった。トイレは水洗。スチームの暖房。
二階建ての場所にはエレベーター。窓枠・
天井・壁などは、すべて丸みを持たせて
直角がなく、冷たい感じをなくした。壁
などの色彩にも万全の配慮が成された。
病気で不安と心細さをかかえている
患者の、心の癒しにまで気を配った設計
であった。
1923(大正12)年6月2日、内科・
外科・産婦人科・眼科・耳鼻咽喉科・
放射線科から成る総合病院として、倉敷
中央病院はスタートした。同時に、看護婦
養成所が開設された。現在の倉敷中央看護
専門学校である。設立に際し来賓の後藤新平
は、「天地皆春」と大書して病院に贈った。
「本院は平等主義にて治療本位とす。
すなわち、完全なる診療と懇切なる
看護とにより、進歩せる医術に浴せし
むることを院是とす。ゆえに営利を目的
とせず、研究に主眼を置かず、また慈善
救済に偏せず、これがため入院料に等級
を付せず、看護設備を充実し、弊害多き
職人的付き添い人を置かざることを原則
とし、従業員に対する心付贈物などの
厳禁を励行せり。」
現在この倉敷中央病院の廊下には、
大原美術館所有の作品の複製が多数展示
されている。患者と家族たちは、熱帯
植物園と共にこれらの作品を楽しむ事が
出来る。むろん散歩の出来る体力さえ
あれば、近くに本物を見に行ける。
孫三郎は石井十次の女婿で画家の
児島虎次郎に、美術品の購入を依頼した。
児島は、孫三郎が最も信頼していた
友人の一人だった。彼はヨーロッパを
巡り、モネ、マチス、エル・グレコ、
ゴーギャン、ロートレック、ルノアール、
モジリアニ、ピサロ、ロダンなどの作品
を精力的に買い求めた。これらの作品
は、1930(昭和5)年に設立された
「大原美術館」で公開された。
孫三郎は社会福祉の事業家として、
企業の経営者として、あるいは文化人と
して、多角的に考え、かつ実行した。
彼は柳むねよし宗悦が提唱した民芸運動
にも深い理解を示し、河井寛次郎、浜田
庄司、バーナード・リーチらとの交友を
深めた。それはやがて、東京都目黒区
駒場に、「日本民藝館」設立という形で
実を結んでゆく。1936(昭和11)年
の事である。
孫三郎は、太平洋戦争が激しさを
増した1943(昭和18)年1月18日、
狭心症の発作に倒れ、息を引きとった。
この日は奇しくも、46年前に単身東京
に旅立ち、吉原御乱行に至る記念日に
あたっていた。孫三郎62年の生涯
だった。
彼は生前、長男の総一郎に対し、
手紙の中でさまざまな教訓を語って
いる。
「人間そのものが、その人すべての財産
である。その他のものは、幸いするもの
ではなくて、かえって禍するものである。
いわゆる修養すること、生きる意義が
あるよう、各自の自覚を要することで
ある。」
「万物皆師の心得が必要である。自己を
信ずる個性の拡張や訂正も大切である
が、積極的にぶつかってこそ発見・発明
があるので、苦難・苦労の内より幸福
が生まれ、光明が与えられるものである。
いわゆる安全の道は、進歩も工夫も
ないのである。」
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第15話「星の時計」
「悠久を思ひ 銀河を仰ぐべし」
と、雄大にして一風変わった句を
詠んだのは、四国・松山が生んだ
俳人の高浜虚子である。人は夜、
星空を見上げ、その移ろいゆく様を
観察してきた。月が満ち、やがて
欠ける。日が昇り、日が沈む。
冬が過ぎ、春から夏、そして秋へ
と、刻々に姿を変えてゆく。大自然
が変化してゆく様子に、人は
「時間」という概念を見つけ
出した。
今から約3万年前の旧石器時代、
ヨーロッパのケイヴマンという
洞窟人は、骨に月の周期の記録を
刻みつけていた。月が満ち欠け
する時というのは、太古の昔から
大きな「時」の単位として重要な
意味を持っていたのだろう。
またアフガニスタン北東部の、
コヒスタン山地の洞窟からは、
今から1万年前に描かれた星図が
発見されている。神々が住むと
いう星の世界を観察する事に
より、人はさまざまな法則を
発見してきた。農業で種蒔く
時期を知るのも、航海が進む
べき方向を知るのにも、星は
重要だった。
今から約6000年前の紀元前
4000年頃。現在のイラク南部
のチグリス・ユーフラテス川下流
地方に、都市文明としては人類
最古の「シュメール文明」が華
開いた。シュメール人は円を
360度に分割し、1年を12ヶ月、
1日を24時間(昼12時間・夜
12時間)、1時間を60分、
1分を60秒と定めた。
数学が得意な彼らは、分数や
累乗、平方根・立方根の算出や、
2元・3元方程式なども解いて
いた。また、夜空の星々を星座
に分けて名を与え、惑星を正しく
配置した太陽系図を作成し、
太陽までの距離を明記している
から驚きである。ユダヤ人は今
でも、シュメールの暦を使用
している。
話は少し逸れるが、シュメール
文明から始まるものとして、
二院制議会、通貨、税制、学校
教育などがある。失業者や社会的
弱者を保護する法律があり、医学
ではアルコール消毒で白内障の
混濁部分を除去する手術が行われ
るなど、高度な医療技術が存在
した。現代文明の基礎は、
シュメール文明に始まると言って
いいだろう。
このシュメール粘土板の計算書に、
「195兆9552億」という、
とんでもない数が書かれたものが
ある。ニネベのアッシュール
バニパル王図書館から出土したので、
「ニネベの聖数」と呼ばれている。
1975年にフランスの宇宙工学者・
モーリス・シャトランが、この
天文学的数字の謎を解読した。それ
によるとこの数字は、地球の公転
時間が72年で1度遅れるという
「歳差運動」にかかわるもので、
1周2万5920年の240回分
という数字だった。だから何なのだ
と言われそうだが、恐るべし
シュメール天文学・・・なのである。
シュメール文明と並ぶ、古くて
高度な文明だったのが「インダス
文明」である。2002年インド科学
技術省の発表によると、北西インド・
グジャラ―ト州カンベイ湾海底から、
モヘンジョ・ダロそっくりの都市遺跡
が発見された。今から9500年前の
ものとされるため、ひょっとしたら
シュメール文明のルーツなのかも
しれない。
古代インドのバラモン教典
「シダーハンタ・シロマニ」には、
ツルチという時間の単位が登場する。
1ツルチは0.3375秒である。
さらに「ブリハス・サカサ」という
文献に至っては、1ビカラ=24秒
からパラ、タトパラ、イマ、カシタ
と分割してゆく。1カシタは3分の
1億秒ということになる。この数値は、
原子核の素粒子・ハイパロンやメゾン
の寿命とほぼ同じなのである。
何のために・・と誰もが思う。
古代に核戦争があったのではないかと、
ひそかに語られている。古代インドの
大叙事詩「マハーバーラタ」には、
巨大な火球の爆発(カピラの閃光)の
後、強風と衝撃波があり、髪が抜け、
吐き気と衰弱の後に皆死ぬ・・という
記述がある。常識ある日本人ならば
すぐに、「広島・長崎」に投下された
原爆の様子に酷似している事に気が
つく。
かつて古代に大戦争があった。人々
はその土地がどこかも示した。マヤ人
が「死の王国」と呪ったアメリカ
南西部。エジプト人が日没の国と
呪ったサハラ砂漠。そしてインダス川
流域。オーストラリア中央部。ゴビ砂漠。
そう、現在それらの土地はすべて砂漠
地帯なのである。
さて、話を星の時計に戻そう。古代
世界で大きな時計と言えそうなのが、
イギリス南部・ソールズベリー平原
にある「ストーンヘンジ」だろう。
今から約5000年前に建造された
巨石時計で、平均25トンの石を
60個用いて造られている。石の配置
が夏至や冬至の日の出や月の入りなど
を正確に示す事から、天体観測に
用いられていたのは、まず間違い
ないところだ。
けれど、エジプトのピラミッド
などもそうだが、巨石だと持ち運び
が出来ない。もう少し軽量化した
計測装置があれば便利だろうにと
考える人間がいてもおかしくはない。
そんな歯車装置を作り出したのは、
古代ギリシャの人々だった。
ギリシャ・アテネ国立考古学
博物館所蔵の、大小30個の組み
合わせによる金属製の「歯車装置」
は、今から2000年前の紀元前
80年頃の、太陽と月に関する計算
を行う、時計ともコンピューター
とも言える機械だった。歴史という
のは、調べてゆくと何が出て来る
かわからないものだと思う。
そういえばマヤ文明には、現代暦
と16.28秒しか違わない太陽暦
や太陰暦のほかに、金星暦・木星暦・
土星暦・天王星暦・海王星暦が存在
するという。星の宇宙も謎だらけ
だが、古代文明の世界も謎だらけで
ある。ともあれ今夜も、星空は
美しい。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第16話「和時計」
古代中国は、神秘的・霊的宇宙観
とともに始まる。太極、陰陽に分かれ、
五行(木火土水金)の要素から、五行の
陰陽である十干(丙丁庚辛壬癸・・・)
が生ずるという、易経的・道教的
宇宙観である。特に北天の中心にある
北極星と、それを補佐する北斗七星は
重要で、信仰の対象でもあった。
宇宙の中心にある北極星(紫微星)は、
四方(東西南北)を治め、四時(朝昼晩夜)
を分け、四季(春夏秋冬)を移す「天帝」
だった。こうした思想は、そっくり
そのまま日本に移入された。627年
皇位継承をめぐる争いとなった壬申の乱
で大友皇子(後の天武天皇)は、中央に
北斗七星、周囲に星宿や干支が描かれた
「式盤」という道具を用いて戦いの吉凶
を占い、味方の軍を勝利に導いたと伝え
られている。
その天武天皇の5年(676年)、
中務省内に陰陽寮
が設置された。陰陽博士1人、陰陽師
(おんみょうじ)6人、陰陽生
(おんみょうしょう・学生がくしょう)
10人のほか、天文博士1人、
天文生10人。時間を管理する漏刻博士
2人、守辰丁(しゅしんちょう・助手)
20人という構成メンバーだった。
漏刻とは水時計の事である。守辰丁
たちが、時間になると鐘や太鼓を打ち
鳴らして時間を報せたというわけだ。
漏刻という水時計は、かなり高い
精度だったようで、奈良時代から戦国
時代頃まで日本の「時刻」だった。
機械時計が西洋から伝来するのは、
スペイン人宣教師・フランシスコ・
ザビエルによってである。1551
(天文20)年に周防国(山口県)の大内
義隆に献上した「自鳴鐘」
という置時計である。
続いて1611(慶長16)年、
スペイン領フィリピン総督・ドン・
ロドリゴから徳川家康に贈られた、
ぜんまい式の「らんたん時計」が渡来
する。鉄砲伝来から1年後に国産化に
成功した日本人が、「自鳴磐」
という西洋からくりを造れないわけが
ない。
現存する和時計の最古のものは、
1673(寛文13)年につくられた
ものだが、実際はもっと早くから作製
されていたものと思われる。この
「時計屋左兵衛」の和時計は、鉄製の
歯車で文字盤は漆の手書きという、
なかなかに渋い造りのものだった。
江戸時代。器用な日本人は、
さまざまな時計を作製する。中には
軽量小型化された万歩計「飛脚時計」
なるものも開発する。1755(宝暦
)年に、和製レオナルド・ダビンチと
言われた平賀源内が製作。その機能は
腕時計の自動巻きの原型とも言われて
いる。卵型のボディは、幻の電子ペット
「タマゴッチ」に似ている。
時計といえばスイスという事になる
のだが、和時計もなかなかどうして
なのである。明治時代、天皇から
贈られた懐中時計を持つ事は、エリート
の象徴だった。この時計は精工舎
(服部時計店)製だった。精工舎は
1929(昭和4)年に、「一九型
セイコーシャ・鉄道時計」を発売。
日差3秒以内という精度を実現する
のである。
精工舎は、関東大震災で工場が
焼け落ちたのを機に、長野県諏訪の
地に工場を求め、東洋のスイスを目指す。
1959(昭和34)年5月、諏訪精工舎
と名を改め、ひそかに次世代時計の研究
にとりかかる。水晶時計で
ある。
水晶に電気を流すと、正確に振動する。
この振動を時計の針の運動に変えれば、
機械時計の10倍の精度が得られると、
理論的にはわかっていた。だが実際
時計にするとなると、さまざまな問題が
立ちはだかっていた。
1964(昭和39)年の東京
オリンピックの時には、クリスタル・
クロノメ―ター951という、世界初
の水晶時計を発表する。平均日差0.2
秒の高精度ながら、重さ3キロ。
果たしてこれが、腕時計になるのか?
水晶時計の小型化は不可能と言われて
いた。
ところが、それからわずか5年後の
1969(昭和44)年12月25日、
水晶発振式腕時計「セイコークオーツ
35SQ」が発表されるのである。
設計者は栗田正弘。外径35ミリ、
厚さ5.3ミリ。時計業界ではこの
日を「クオーツ元年」と呼んでいる。
時計史の革命だったのである。
時計の中身は水や砂、歯車やゼンマイ
から、IC、液晶、銀電池などに姿を
変えていった。精度は日差10万分の
1秒にまで進化している。しかし、
これだけ時計の精度が向上したという
のに、時間というものは楽しい時には
速く、辛い時にはのろのろと進むものの
ようである。人間とは、いつの世でも
わがままで、複雑な感性を持つ生き物
のようである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第17話「星占い」
古来より夜空に輝く星々は、神々
の住まう領域だった。神々は大自然
の法則を支配し、国や人間個人の運命
を左右する存在だった。人々は星々の
動きを観察し、目に見えぬ運命という
ものを捉えようとした。
今から6千年前に栄えたメソポタミア
のシュメール文明では、すでに太陽と
の距離が明記された惑星図が存在し、
アヌ(天王星)やエア(海王星)も認識
されていた。さらに天球や天頂、黄道
12宮の概念が創出され、星座名も
決められた。
大英博物館には、紀元前7世紀の
古代アッシリアの墓から出土した、
機械で研磨された水晶製のレンズが
保管されている。望遠鏡の登場は17
世紀というのが定説だが、ひょっと
したらシュメール文明でも望遠鏡が
使用されていたのかもしれない。
そのシュメールで語られていた
「ギルガメシュ叙事詩」は、旧約聖書
に登場するノアの大洪水の原典だと
言われている。そこで語られる大洪水
の原因は、太陽神シャマシュと月神
シン、金星神イシュタル、火星神
ネルガルなどの惑星が交合した結果
だという。
人々は星々の動きと、現実の出来事
との間に因果法則があるのではないかと
考え、星々(神々)の性格と角度から
吉凶を占った。占星術のホロスコープ
という概念は、天文学や神話・神学と
表裏の関係にあった。
メソポタミアの地は、シュメール
からアッカド、アッシリアと各民族
に受け継がれ、紀元前625年には
カルディア人の新バビロニア王国が
建国された。当時、宗教や天文学など
を含むカルディア占星術を極めた
賢者は「MAGIの叡智(聖なる哲学)の
所有者」として尊崇された。この
MAGIというカルディア語が、MAGIC
(魔術)の語源である。
占星術は科学と違って、なぜという
問いに明快に答えられない事もある。
例えば金星神は、シュメールのイナンナ、
バビロニアのイシュタル、ギリシャの
アフロディーテ、ローマのビーナスと、
歴代「愛と美の女神」である。同様に
火星は軍神、水星は商業や通信を司る
神々なのである。なぜなのかは不明と
しか言いようがない。
ゆえに物事を合理的に思考する
タイプの科学者からは、「占星術
など邪道だ」と厳しく批判された。
古代ギリシャの物理学者・アルキ
メデス(BC287〜212)や、
数学者のピタゴラス(BC582〜
497)がその代表である。
加えて占星術で用いるホロスコープ
は、古代から現代に至るまで一貫して、
地球を中心に据えた「天動説」の世界
である。しかし近代ヨーロッパで
「地動説」を唱えたポーランドの
コペルニクス(1473〜1543)は
意外にも占星術に好意的だった。
地動説を考察し、惑星の3法則を発見
したドイツのケプラー(1571〜
1630)は、占星術師が本職だった。
万有引力の発見者・イギリスのニュートン
(1642〜1727)も、かなり熱心
な占星術研究家だった。
さて、占星術に登場する星々だが、
シュメールやマヤの神話や天文学で
天王星・海王星・冥王星が登場する
ものの、基本的には太陽と月と5惑星
(水星・金星・火星・木星・土星)に
よって占っていた。
天王星が近代科学によって発見
されるのは、1781年3月13日、
ドイツ生まれのフレデリック・ウイリ
アム・ハーシェル(1738〜
1822)によってである。彼はイギリス
に渡って教会のオルガン奏者として生活
しながら、自作の望遠鏡で天体観測を行う
という、なかなかの粋人だった。
地球から32億km彼方のこの星は、
ボーデによってギリシャ神話の天空神・
ウラノスの名が与えられる。占星術
ではみずがめ座の守護星となり、象意
は「変革と反逆」。確かに自転軸が
90度横倒しになっている奇妙な星で
ある。「天文学・原子力・光・航空」
を司る。1986年1月、ボイジャー
2号が青緑色に輝く姿をとらえたわけ
だが、シュメールでは「マシュ・シグ
(明るい緑色の星)」と呼んでいた。
それから65年後の1846年、
イギリスのアダムス、フランスの
ルベリエとガレが、ニュートンの法則
を用いて44億9700万km彼方に
海王星を発見。ギリシャ神話の海神
ポセイドン(ネプチューン)の名が
与えられた。占星術ではうお座の
守護星となり、神秘と芸術の星と
して「液体・ガス・薬品」を司る。
1989年8月、ボイジャー2号が
海王星に到着し、天王星よりやや
小さいアクアマリンに輝く姿を地球に
伝えてきた。シュメールでは天王星の
別名を「カッカブ・シャナムマ
(海王星と生き写しの星)」と言う。
海王星発見からさらに69年後の
1915年、アメリカの天文学者・
パーシバル・ローウェルは、海王星の
外側に惑星Xがあると予言した。
それが観測によって確認されたのは
1930年の事。アリゾナのロー
ウェル観測所のクライド・トンボー
によってであった。
太陽から59億km彼方にある月
より小さいその星は、ローウェルの
頭文字PLにちなんで、ローマ神話の
冥界の神・プルートの名が与えられた。
冥王星である。二重惑星のような衛星・
カロンは、冥界を流れる三途の川の
渡し守の名である。占星術ではさそり座
の守護星となり、象意は「消滅と刷新」
宗教や死の問題を司る。
シュメールで冥王星は、土星の衛星
「ガガ」だった。今から40億年程前、
天王星の自転軸を横倒しにした地球程
の大きさの天体が、太陽系を暴れ回り、
ガガは深淵に落とされたというので
ある。宇宙にも謎は多いが、シュメール
神話もかなり謎である。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第18話「冥王星」
「♪いいえ私はさそり座の女♪」と、
美川憲一が妖艶に歌う。「♪さそりの
毒は後で効くのよ♪」と、さそり座の
女は何やら恐ろしそうである。西洋
占星術で言うさそり座は、10月24日〜
11月22日生まれの人々で、黄道
12宮の中の8番目。フランス革命で
断頭台の露と消えたマリー・アントワ
ネット、モナコ王妃のグレース・ケリー、
画家のマリー・ローランサンや女優の
ビビアン・リー、キャサリン・ヘップ
バーン、松井須磨子、大原麗子や由美
かおるなどがさそり座の女の代表で
ある。なるほど「深くて濃い」かも
しれない。
さそり座の守護星は冥王星。1979〜
1999年までは海王星の内側を回って
いたが、基本的には太陽系最遠の惑星と
して、59億km彼方の軌道を
約247年かけて公転している。
この惑星の動きを占星術で用いる
ホロスコープに置き換えると、冥王星
は250年ごとにホームグラウンドで
あるさそり座に帰ってくる事になる。
今回は20世紀末の1984年に入座し、
21世紀初頭まで同座する。占星術では
250年に1度の大改革の象意とされて
いる。確かに時代は激変している。しかし
何がどう変化し、どこへ向かおうとして
いるのかという疑問はある。冥王星から
のメッセージを読み解いてみるとしよう。
前回冥王星がさそり座に同座した
のは、1737〜1761年前後の
頃。イギリスで紡績機の発明が
相次ぎ、産業革命が始まった時期に
あたる。
冥王星の象意は「消滅と刷新」。
それまでにはなかった新技術によって、
国際政治を含む社会生活や人々の意識
が劇的に変化する状態を示している。
18世紀中頃、ワット(1736〜
1819)が開発した蒸気機関という
「種」は、冥王星がいて座を運行する
次の時代に、蒸気機関車と蒸気船の
発明へと「結実」してゆく。原料の
石炭と鉄の生産確保が国家的課題と
なり、大量生産・大量輸送・大量
消費の時代を招来して現代に至る
のである。
前々回の15世紀末から16世紀
初頭は、まさに「消滅と刷新」の
時代だった。コロンブス(1446〜
1506)の米大陸発見と、ヴァスコ・
ダ・ガマ(1469〜1524)の
インド航路発見。マゼラン(1480〜
1521)船団の世界周航という
大航海時代。スペイン人のコルテス
(1485〜1547)とピサロ
(1470〜1541)は、メキシコ
とペルーにおいて、アステカ・
インカ文明を滅亡させている。
イタリアではレオナルド・ダ・
ビンチ(1452〜1519)、
ミケランジェロ(1475〜1564)、
ラファエロ(1483〜1520)らの
天才が活躍した、ルネサンス最高潮の
時期。ポーランドのコペルニクス
(1473〜1543)は地動説を唱え、
従来の宇宙観を根底から覆した。
面白いことに、古代ギリシャで地動説
を唱えたアリスタルコス(BC310〜
230頃)も、冥王星・さそり座の時期
の人物である。紀元前後はエジプト女王
クレオパトラが自殺して、古代ギリシャ
系の文明が終焉を迎え、それに代わって
ローマ帝国が台頭。イエス・キリストが
刑死して、「死と復活」のキリスト教が
始まるのである。
大航海時代とルネサンスを招来した
技術的革新は、羅針盤と火薬と活版印刷
である。これはいずれも10世紀末から
11世紀始めに中国で発明されたもの
で、十字軍時代に結成されたテンプル
騎士団が、東方貿易によってヨーロッパ
世界にもたらしたものである。
テンプル騎士団は、東方貿易で得た
巨富を国王に貸すほどの実力を持ち、
城と修道院を兼ねた本部がフランス
国内だけで1万余と言われる。彼ら
は貸し金庫システムや複式簿記などの
近代経理技術を用い、航海術、測量、
建築、兵器に関する最先端技術を保持
していた。神曲の作者としてルネサンス
のさきがけとなったダンテ(1265〜
1321)もこの団員であり、ダ・ビンチ
も「シオンのノートルダム騎士団」と
いう秘密結社の大修道院長だった。
こうして250年サイクルの歴史を
検証してみると、確かに冥王星が
さそり座に同座する時期というのは、
「消滅と刷新」が始まる節目らしい。
前回は産業革命に始まり、アメリカや
中南米諸国の独立など国民国家建設へ
と続き、帝国主義の利害が激突した。
高層ビルや高速道路に象徴される
物質文明が繁栄した250年だった。
1984年以降の今回は、その国民
国家と物質文明が「消滅と刷新」の
対象なのかもしれない。1992年
WWWが発表され、インターネットの
ホームページ開始。1994年ネット
ショップ開設。1995年ウィンドウズ
95発売。2001年インターネット
常時接続ADSL本格開始。地球人類が
全ての情報を共有し、バーチャルな
(非物質)摩天楼が構築される情報通信
革命である。
ネット社会では、国境を前程とした
社会制度や、問屋や代理店などの仲介
マージンを発生させる流通システムは
そぐわないのだが、なかなか急激に
消滅するものでもないだろう。この
新技術は、まだまだ始まったばかりで
ある。時代の推移を見守りつつ、
ゆったりと星空を眺める事にしようか。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第19話「アブラハム」
旧約聖書によると、ノアの大洪水
によってそれまでの文明は全て滅び、
生き残ったノアの息子、セム、ハム、
ヤペテが人類文明を再創造してゆく
事になる。
セムは箱船が漂着したトルコの
アララト山から東に向い、ユダヤ人・
アラブ人・シリア人・トルコ人・
中国人など、有色アジア人種・
モンゴロイドの祖となった。
ヤペテはアーリア人・アングロ
サクソン人・ギリシャ人・スラブ人・
ペルシャ人など、白人系コーカソイド
の祖となった。
ハムの子カナンは、酔って寝て
いたノアの裸を見てしまった為に、
どういうわけか呪われてしまう。
ハムの子孫はアフリカ諸国で、黒人
ネグロイドの祖となった。
セムの孫エベルの子孫全体を
「ヘブル人」と呼ぶ。旧約聖書の
大半はヘブル語で書かれている。
このエベルの子孫に、今回の主役・
アブラハムがいる。アブラハムの孫・
ヤコブの子孫全体をさして
「イスラエル人」と呼ぶ。彼らは
後に、カナンの地にイスラエル王朝
を築く。王朝はBC930年に北王国
イスラエルと南王国ユダに分裂するの
だが、ユダ王国の子孫を「ユダヤ人」
と呼んでいる。
さて、アブラハムである。彼は
一体いつ頃の人であったのか。聖書
考古学のオルブライトはBC2200〜
2000年頃。他の多くの学者はBC
2000〜1500年頃としている。
シュメール文明に詳しい作家のゼンリア・
シッチンは、聖書の記述による算出を
試みた。
BC963年ソロモン王が王位に
就き、治世4年目にヤハウエ神殿の
建設に着手。11年目に完成し、
480年ぶりに祭儀を行う。祭儀は
BC1433年。イスラエルの民が
エジプトで奴隷として400年仕え
ていたので、BC1833年エジプト
着。ヤコブの旅路は130年で、
彼はイサク60歳の時の子供。イサク
はアブラハム100歳の時の子供で
あるから、アブラハムの生年はBC
2123年となる。
アブラハムはカルディアのウルで
生まれた。ペルシャ湾に近い、古代
シュメール王国の首都である。ウル
第一王朝はBC2500〜2350年
で、シュメール文明の全盛期。アブラ
ハムはおそらく、ウル第三王朝の頃を
生きていたと思われる。
当初彼はアブラムという名だった。
これはシュメール語で「父なる神に
愛されし者」という意味だという。
妻のサライは「王女」の意味。これら
の名は、シュメール王室に関わりが
深い事を示唆している。
やがて父のテラとアブラム一族は、
ウルを出てメソポタミア北西部の
シュメール国境の町・ハランに移り
住む。さらにアブラムは、「ハラン
を出てカナン(パレスチナ)へ行く
ように」と神に命じられる。アブラム
は一族を率いてハランを南下し、
死海の西・カナンへ。さらに南下
してネゲブへと移動する。
シュメールのウル第三王朝は、
BC2000年頃セム系アモリ人
とエラム人の進入によって滅亡
するのだが、アブラムの相次ぐ
移住の背景には、王室内部の
不安定な政治情勢や国際情勢が、
密接に関わっていたものと思われる。
さらにアブラムとサライ夫婦は
「アブラハム・サラ」と、アッカド語
風に名を改め、それまでの月神シンの
信仰を捨て、カナンの神々の最高神
「エル・シャダイ=ヤハウエ」に
改宗しているのだから、カナンに
帰化して一族を存続させる苦労が
どれほど大変だったかが偲ばれる。
ところでサラは、子を産まなかった。
そこで彼女に仕えていたエジプト女・
ハガルに、代わって子供を産んで
くれるようにと頼んだ。こうして
生まれたのが、長男イシュマエルで
ある。彼はアラブ人の祖となった。
サラが側室を与える行為に関して、
チグリス川東の「ヌジ」から、当時
の結婚や養子縁組などの生活習慣に
関する、約2万枚の粘土板が、
アメリカ東方研究所チームによって
発見された。アブラハムの名はないが、
聖書の記述は史実であろうと裏づけ
られた。
カナンの神はアブラハムに、サラ
に子供が産まれる事を予言し、
続いてソドムとゴモラの町を天の火
で滅ぼすという荒業をやってのける。
そして予言通り、サラはイサクを
産むのである。アブラハムはこの時
100歳だった。
この常識外れの年齢をどう受け止め
るのか。月が満ちて1歳、月が欠けて
1歳、ひと月で2歳、1年で24歳年
をとる24倍年。1年で12歳年を
とる12倍年。春と秋の祭りに年を
とる2倍年などの風習があった事を、
参考までに付記しておく。
ところが神は、奇跡のように生まれた
イサクを「モリヤ山に行って燔祭
(はんさい・生けにえ)として捧げなさい」
と、アブラハムに告げるのである。
アブラハムが苦悩の末イサクを刃物で
殺そうとした時、「お前の神に対する
忠誠心はわかった」として、雄羊を
代わりに捧げるようにと言うのである。
そこまでやるかと言いたくなるほど、
苛酷な神である。このイサクを捧げた
大きな一枚岩の所に建っているのが、
旧エルサレム市街地にある「岩の
ドーム」である。
ともあれイサクの子孫は祝福され、
アブラハムはユダヤ教・キリスト教・
イスラム教共通の父祖となるのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第20話「イエス・キリスト」
12月になると日本国中、クリスマス
モードに突入する。ならばここはひとつ、
イエス・キリストの周囲を散策してみる
のもよろしかろうという気になった。
イエスがいつ生まれたのか、今と
なってはあまり重要とは思えない事柄
だが、12月25日というミトラ教の
冬至祭りの日などではなかっただろう。
マタイによる福音書第2章によると、
東から来た博士たちは「ベツレヘムの星」
を見て、キリストが生まれる事を知った
とある。
この星はいかなるものであったのか。
むろん諸説ある。一説では、紀元前
7年9月15日、木星と土星が魚座で
重なったものだという。真偽の程は
不明だし、だからどうしたと言われても
「うーむ」と唸るしかない。
イエスという人物の風貌がどのような
ものだったかについては、少し興味
深い資料がある。ローマのユダヤ代官・
ポンティウス・ピラトのサインがある
「尋ね人布告」という文書で、ユダヤ人
の歴史家・ヨセフス(AD37〜100)
が著作に残したものである。
「この頃、これを人間と呼ぶことが
許されるならば、魔術的力を持つ人間が
出現せり。この人物を一部ギリシャ人は
神の子と呼べり。しかしこの人の弟子
らは、真の予言者と呼べり。この人物は
死者をよみがえらせ、すべての疾病を
癒すと言われたり。この人の性格と形は
人間なり。普通の外見、大人、皮膚
あさぐろく、背低く3キュービット
(約153センチ)ほど、せむしで、
顔長く、鼻長く、両の眉くっつきたり。
それ故、同人を見ると恐がる人もいたり。
髪の毛まばらで、これをナイリタス人に
ならい真ん中から分けていたり。あご
ひげほとんどなし(コリン・ウィルソン著
「世界残酷物語(上)青土社刊」)
この文書の筆者は、イエスを目撃し、
何ものなのかと疑問を持ちながらも、
外見を見たままに描写しているようだ。
偏見や観念的記述は見当たらない。
もしこれが本当なら、イエスは
「一本眉」だった事になる。一本眉
とは、池波正太郎著「鬼平犯科帳」に
登場する盗賊の通り名を、つい連想
してしまう。罰当たりだろうか。
外見がどうあれ、イエスが奇跡的
能力で病人を癒し続けていた事は間違い
ない。イエスに癒され、イエスを支持・
崇拝した人々は、アム・ハーレスという
一般民衆だった。
イエスが登場する以前、モーゼの
律法は神官層であるサドカイ派と、
律法学者のパリサイ派が保持していた。
両派は特権階級であり、神に選ばれた者
だと信じていた。律法もろくに知らない
アム・ハーレスの如き連中は、単に
選ばれない者ではなく、呪われた
存在だった。ユダヤ社会の政治的
実権は、パリサイ派のシモン・ベン・
シャタッハが握っていた。
そこにイエスが現れ、山上から
アム・ハーレスに向かって、「天国に
おいてあなたがたの受ける報いは大きい」
などと、パリサイ派の解釈を根底から
覆してしまう。イエスは存在そのもの
が革命だった。特権を否定された
パリサイ派の宗教貴族が、怒らない
わけがない。イエスはいつ誰に殺され
ても、おかしくなかったと言える。
案の定、イエスはパリサイ派の
祭司長や律法学者に嘲弄され、
ローマ総督・ピラトによって政治的
反逆者の罪名を与えられ、十字架で
磔にされた。イエスは両腕の尺骨と
ぎょう骨の間に釘を打ち込まれ、
両足を重ねて釘づけにされた。
出血はあまりない。呼吸困難と血液
循環不全に陥り、その結果「窒息死」
に至る。福音書によると、この間
6時間余り。途方もない苦痛であった
だろう。
イエスの刑死は、紀元30年頃と
なっている。紀元30年にはエジプト
で、プトレマイオス朝の女王・
クレオパトラが自殺している。
エジプトはローマの属領となった。
古代ギリシャ世界が終わり、
キリスト教世界が始まる象徴的な
年となった。
イエスに関する最古の文書は、パウロ
の書簡であるとされている。パウロは
ユダヤ教徒として、初期キリスト教徒
を弾圧した人物である。だがシリアの
ダマスカスへ行く途中雷電に打たれ、
イエスの絶対的支持者になったという、
極端な人物である。
そのパウロ書簡「テモテへの手紙・
ヘブライ人への手紙・テトスへの手紙」
は、どうやら完全に偽者らしいと判明
した。「エフェソの信徒への手紙」など
も真偽が疑わしいという。
パウロ神学の根幹である「原罪」や、
十字架上での贖いとしての死とかは、
偽手紙を作成した者たちの思想である
可能性が高いという。やれやれ、
ややこしい話である。こういう時は
「原罪なんて知らないもんねぇ」と、
日本人に戻る事にしよう。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第21話「ケルト巴」
新潟県佐渡島の音楽集団「鼓動」。
その大太鼓には左三つ巴紋が描かれて
いる。太鼓は宇宙と響きあう神器で
あり、巴は生々流転する命の渦巻きの
象徴である。
巴紋の起源は、応神天皇の238年
に新羅から加羅を経て渡来した秦氏が
創建した、宇佐八幡宮の神紋だった。
それが全国の八幡宮で用いられる
ようになったのである。他にも鹿島神宮・
香取神宮・熊野本宮大社・熊野速玉大社・
熊野那智大社などが巴紋を神紋として
いる。
さらに起源を遡ると、新羅が交易
していたローマ帝国領に至る。ドナウ
川流域ルーマニア平原のダキアから、
新羅王室に贈られた宝剣に「ケルト巴」
と呼ばれる三つ巴紋が刻印されている。
ケルトの渦は、7世紀アイルランド
修道院の「ダロウの書」や「ケルズの
書」にも見られる、ケルト精神の中枢
である。
ケルトとはローマ帝国以前、ヨーロッパ
全域を支配していた先住民族だった。
ギリシャ人が異文化集団
を総称してそう呼んだもので、単一の
民族名ではない。ハンガリアのダルダニ族、
イタリア北部のボイイ族、スイスのヘル
ウェティイ族、フランス中部のハエドゥイ
族、南フランスのウォコンティ族、
ブルターニュのウェネティイ族、
イギリスのイケニ族など、多様な部族
集団だった。
そもそもは、馬の原産地とされる
黒海北岸のキンメリア族が、隣国
スキタイ人に圧迫され、トルコの
アナトリア高原や、西のハンガリア
平原に移住したのが始まりとされる。
BC800年頃には、東ヨーロッパ
に鉄の武器を使う「ハルシュタット
文化」を形成する。
彼らは金髪で背が高く、羊毛製の
マントを着て、チャック柄の
おしゃれなズボンをはいていた。
金属メッキしたバックルや、洗練
されたデザインの装身具を身に付け、
女性はマニキュアや頬紅などの化粧
をしていた。
広大な畑には大麦・小麦・ライ麦・
オート麦・えんどう豆・インゲン豆
などを栽培し、牧草地には牛・羊・
山羊・豚・馬などを家畜として飼育
していた。普段は自家製のビールや
蜂蜜酒を飲み、祭りなどには輸入物
のワインを飲んだ。豚肉をハムや
ベーコンに加工し、チーズやヨーグルト、
バターなどの乳製品を作り、鹿や猪、
野鳥や熊の肉も食べた。川や湖や海の
あらゆる魚介類を調理したし、豊かな
森には野生の果物や木の実も豊富に
あった。石鹸も作り、樽をつくる、
木材加工技術にも優れていた。
交易品はハルシュタットの岩塩や、
鉄と青銅のインゴット、陶器や毛織物。
これらを地中海産のワインや金銀琥珀、
ガラス製品などと交換した。交易ルート
としてドナウ川・ライン川・ローヌ川・
ロアール川・セーヌ川などが用いられ、
航海術に優れたフェニキア船団と協力
して、遠くアフリカやインドとの貿易
も行った。
ケルトには独自の精神文化が存在
した。ここで再び三つ巴が登場する。
3は古代世界における神聖数で、
ケルトでは3人の地母神や3面頭の
神が在る。彼らは魂の不死を信じて
いた。この世で肉体は滅んでも、
魂は新たなる肉体を得て転生する。
この生々流転の象徴が「3つの
渦巻き」なのである。
彼らは木にも動物にも虫たち
にも、ありとあらゆるものに聖霊
が宿ることを鋭敏に感じ取り、
聖霊たちと交感した。大河の源流に
ある泉は特に重要で、母なる地母神
の力を宿した聖所だった。地母神は
牡牛に化身した。
大岩や巨樹も聖なるものだった。
南フランス・オーヴェルニュ地方の
ピュイ・アン・ヴァレには、2つの
巨大な奇岩がある。ここはロアール川
の源流に位置するケルトの聖地だった。
奇しくもその岩は、熊野の神倉神社の
御神体「ごとびき岩」を連想させる。
日本でも縄文杉や羽衣の松、薄墨の
桜など、樹齢数百年の古樹は御神木
であり、泉には弘法大師空海の信仰
などが重なる。ケルトの信仰は日本人
にとってわかりやすく、直接精神の
深い部分で響き会う。三つ巴紋は、
そうした絆の象徴なのかもしれない。
ケルトの神話や精神を統括し、
指導教育しているのが「ドルイド」
と呼ばれた僧たちだった。彼らは
瞑想によって宇宙の創造主と交感
する能力を持つ祭司であり、学者・
思想家・教育者であり、政治的
助言者や裁判官の立場にもあり、
薬草の知識に長じた医者であり、
詩人・音楽家・芸術家・占い師
でもあった。
ドルイドの天文学・自然科学・
医学の知識は、BC2965年
前後にイギリスのストーンヘンジ
を築いたと言われるミノア人
(クレタ人)の叡智を受け継いだ
ものである。ミノア人も魂の不死
を信じ、渦巻きをその象徴とした、
牡牛を地母神として祀る人々で
あった。
紀元後、ローマ帝国とキリスト教徒
が勢力を拡大し、ゲルマン人の大移動
などもあって、ケルトの人々は
アイルランド、ウェールズ、スコット
ランド、フランス・ブルターニュ地方、
スペイン・ガリシア地方へと追いやら
れる。薬草や癒しの知識に長じていた
ドルイドの女祭司を、キリスト教徒は
魔女として抹殺していった。ドルイド
の精神や感性は魔術かオカルトと
低俗視され、彼らの高度な文明は
「野蛮人の先史文明」として歴史の
闇に葬り去られた。そして現在ケルト
の聖地には、キリスト教徒の大寺院が
建てられている。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
第22話「バール神」
1969(昭和44)年6月12日
読売新聞に、天竜川中流域の静岡県
水窪町で、紀元前600年頃と推定
される、文字が刻まれた石(水窪石)
が発見されたと報じられた。解読の
結果「バルーツ(女神)ガシヤン(男神)
に奉る」と書かれていることが
わかった。
バルーツとは、フェニキア民族の
根拠地・シリア地方の自然神バール
の女性形同一神である。フェニキア
という名は民族の守護神・フェニックス
(不死鳥)に由来するのだが、ガシアン
は鳥=主神という意味である。
同様の文字は、アケメネス朝
ペルシャの円筒印章やパキスタン
岩絵、インド洞窟画、中国岳神図、
朝鮮石壁文字、さらには北米東海岸・
ニューハンプシャー州ミステリーヒル
碑文からも発見されていて、当時の
フェニキア人の足跡が偲ばれる。
フェニキア人はBC1500年頃、
アルファベットを実用化した事で知ら
れている。ユダヤ人や有色アジア人種
と同じセム族で、自らはカナン人と
称していた。カナンとは、東地中海の
シリア・レバノン・イスラエル北部の
海岸地帯を指す。
彼らは海の遊牧民と言われる
海洋交易民族で、トルコのビザン
チオン(イスタンブール)、ロードス島、
キプロス島、シチリア島、クレタ島、
ギリシャのアテネやスパルタ、
北アフリカ・カルタゴなど、地中海
全域に根拠地を建設し、スーダンの
金やレバノン杉などを交易していた。
外洋航海の技術や知識は、クレタ流
と言われる。BC2000〜1700
年頃に栄えたクレタ文明のミノア人も、
優れた海洋民族だった。ギリシャの
歴史家・ヘロドトスは、フェニキア人
が紅海を発して南の海を航行し、
3年目にヘラクレスの柱
(ジブラルタル海峡)を回って再び
エジプトに帰ってきたと、アフリカ
大陸周航の事実を記している。
またフェニキア人は、当時スペイン
やフランスに居住していたケルト人と、
鉱山開発や貿易を通じて協力関係に
あった。ケルト人は、ドナウ・ライン・
セーヌ・ロワール川などの河川を利用
した交易集団でもあった。フェニキア
船団は、ケルト人やユダヤ人、エジプト人
やギリシャ人などが混在する多民族混成
旅団だった。
しかし彼らには共通の信仰があった。
セム語で「主」を意味する牛の神バール
である。クレタのミノッソス、エジプト
のイシスも牡牛に象徴される。ユダヤ王
ソロモンの玉座には、黄金の仔牛アモン
が刻まれ、ゾロアスター教のミトラ神
の原型もバール神である。何故牡牛なの
かはよくわからないが、源流は伝説の
アトランティス文明にあるとも言われ
ている。
さて、こうした事をふまえた上で、
再びBC600年頃の静岡県水窪町
に話を戻そう。当時は大和朝廷初代・
神武天皇が即位したとされる頃で、
出雲・丹後・大和の王朝がゆるやか
に連合していた、弥生時代中期で
ある。水窪という地は、縄文の頃
から黒曜石の産地として知られて
いた。
おそらくフェニキア線団員は、
現在「糸魚川・静岡構造線」として
知られている断層線に沿って、金銀
銅鉄などの鉱脈を探していたの
だろう。鉱山師は川筋の鉱物を見て
あたりをつけ、鉱脈を探すという。
水窪石は、その為の願かけだったの
かもしれない。
水窪から天竜川を源流まで遡ると、
信濃国諏訪湖がある。この周辺は
良質な粉鉄(こがね・砂鉄)の産地
だった。出雲神話で大国主命の国譲り
に反対した息子の建御名方神
(たけみなかたのかみ)は、建御雷之
男神との
相撲に負けて諏訪へ逃げるわけだが、
当時から出雲国の重要拠点だったの
だろう。
鉄が日本史に登場するのは
2〜3Cの古墳時代だが、紀元前
1800年頃からトルコのヒッタイト
で使用されていたわけだから、
フェニキア人たちが知らないはずは
ない。アムートゥという鉄は、
エジプトとの間で金の5倍、銀の
40倍の価格で取引されていた。
お宝を探し当てたフェニキア人
たちが、諏訪に住みついたと想像
してみたくなる。諏訪大社南方に
守屋山という名の山があるが、
創世記22章の「アブラハムが
モリヤ山で息子イサクを生け贄と
して神に捧げた」という、ユダヤ的
なエピソードを連想させる名前で
ある。
出雲王朝は、BC1046年に
牧野の戦いで周に滅ぼされた殷王朝
亡命難民が主要な構成員であり、
日本に弥生時代の稲作文化や銅剣・
銅鐸文化を招来したと思われる。
殷はシュメール古拙楔形(こせつ
せっけい)文字に似た甲骨文字を
創始し、亀甲占いを行う。なるほど
出雲地方には亀甲神紋が多く、
亀甲占いは皇室の秘事と聞く。
殷はBC2070年に成立した、
南方系龍蛇信仰の「夏」を
滅ぼし、BC1600年に成立した
国だが、道教神話では夏以前の神話時代、
石の巨人・磐古、蛇身の女神・
にょか、牛の角を持つ炎帝神農の元始
三皇に始まるとされる。この炎帝神農
こそバール神であり、古韓国語では
スサという。牛頭天王
の別名を持つ「スサノオ」である。
なぜ殷王朝にオリエント・地中海
世界のバール神なのか。殷族とは本来、
アーリア系イン族とされる。加えて
シュメールのウル第3王朝がBC
2024年に滅亡した事と、かなりの
関係があるように思われる。神話では
易経と文字の発明は伏羲の役に
なっているが、崑崙山を越えて来た
シュメール文明の末裔たちが創始した
のではないかと。
殷は天地自然の神々を信仰し、
王を支える武士団が存在し、殉死の
風習があった。周に殉死はない。
一族の旗印は白。周は赤。民族の
守護神は、フェニキア人同様に鳥
(鳳凰)だった。