幕間③ 髪の色(前)
「お前、もしかしてその髪は、脱色したのか」
「ん?ああ、これは2年前に染髪したんだ。」
ニコが、自身の前髪を触りながら答える。
「…前は、黒髪だったのかい?」
「ああ、そうだ。」
やっぱり。俺は、ニコには聞こえないぐらいの小さな声で呟いた。
その言葉の本意は喜びだったようにも、不安だったようにも思える。
ニコは、俺の本心など露ほども知らず、きょとんとした顔で言う。
「でも、何であんたがそんなこと聞くんだ?」
そう、この反応が返ってきて当然なのだ。
安堵にも似た絶望を覚えながら、俺は「何でもない」と返した。
ニコは俺のことなど、憶えているはずがない。
…ああ、そうだ。
その頃の俺はまだ、『私』だったのだ。
☆☆☆
私がその青年と出会ったのは16歳の春、いわゆる家出女子高生、だったときだ。
女子高生といっても、本当は年齢的なものだけだ。実際は高校になんて入れるわけがなかった。
私の両親は、柄の悪い人だった。若くして私を産み、育てることを放棄し、虐待した。よくもまあここまで無事に生きていたもんだな、と今になって思うときがある。
・・・要するに、その虐待が原因で、私は家出したんだ。当時私は、ピッチピチの中学生だった。
以来、私は『エンコー』というものを繰り返しながら、それなりに寝床を確保して暮らしてきた。
そんなある日のことだった。
いつもと何ら変わりなく、私は生きていた。
いつものように路地裏に男を誘い込み、食事付き一泊の確約を貰う。その後に、その男の家で情事を済ませてハイ終わり、という一日を過ごす、私にとってはごく当たり前の計画である。
それなのにその日、私の計画は破綻した。
その青年の、登場によって。
私は男を路地裏に連れ込み、迫っているところだった。
この男も、ちょろい。…まあ、元よりそういう男のみを狙って計画を実行しているのだから、当然といえば当然でもある。
男は目の色を変えて、私のことを舐め回すように眺め始めた。こうなれば、後はもう一押しだ。
「おい、そこのあんた、何してるんだよ!」
その時、不意に声がかけられた。随分と若い声だ。
声が聞こえた方を向くと、少年っぽさが抜けきっていないような顔立ちの青年が、路地の入り口に立っていた。
艶やかな黒い髪。きりっとした目の下に、濃く深い隈ができている。細い身体にまとったベージュのコートには、「地球防衛軍」という刺繍の施された腕章が着けられていた。
青年は、コートのポケットに手を突っ込んで、やけに肩の力を抜いて私の隣の男を睨みつけていた。その様子は、気だるげにも見える。
「何って、決まってるじゃねえか」
言わないとわかんねえのか、子供だな。男はそう言って、青年に向かって下卑た笑いを浮かべる。
「やっぱり、そうか。」
青年は全く表情を変えずに、少しだけ頷いた気がした。
そして、跳ぶ。
「!?」
青年が軽くとんとんとステップを踏んだかと思うと、足取りのわりには相当重そうな膝蹴りが、私の隣の男の腹にめり込んでいた。
私の隣から、押しつぶされたような呻き声が聞こえる。
「強姦魔は処罰の対象だ!治安を乱すな、面倒臭い。」
その青年は、男が主犯格だと思っていたらしい。思い出したように私の方を振り返ると、「何ぼーっとしてるんだ、とっとと行けよ」と言った。
「何…何勝手なことしてくれてんのよ!」
堪えきれずに、私は怒鳴った。青年が、驚いたように目を見開く。状況が掴めていないらしい。
握りしめた拳が震えた。
「もうちょっとだったのに!この男に留めてもらえないなら、私は、私は今夜、どこで眠ればいいのよ・・・っ」
目の前でちらついていた暖かな寝床が、ふっと闇の中にかき消されたようなものだ。
その時の気候は、春といってもまだ寒く、外で一晩を明かすには辛いものだった。
「…あんた、もしかして」
青年は少し考え込んでいる風だったが、やがて顔を上げて呟いた。
「家出少女とかいうやつか」
なるほど、若そうに見えても頭の回転は速いらしい。さすがは地球防衛軍、先ほどの身体能力といい、全体的な能力は高いようだ。
「わかってんなら、あなたが何とかしてよ」
青年の身体を壁に押しつけるようにして、詰め寄る。上半身を当てるようにしながら睨みつけると、青年は少し唇を噛んで目をそらした。
「……だったら、今晩は俺の家に泊まるか」
何だ、こんなものか。さっきまで大口を叩いておいて。
「何よ、あなたもからだが目当てなの?」
「なっ…違えよ、誰があんたみてえな子供を相手にするかっての!」
青年は、顔を真っ赤にして私を突き飛ばした。…これではどちらが子供だか分かったものではない。それにしても、この青年は随分と、初心らしい。
「…それじゃあ、何も払わないでいいから、泊まってけって言うの?」
私が問うと、青年は尤もらしく頷いた。私はそれを見て、長いため息をつく。
「信じられないわ。何度そうやって騙されてきたか…。それならばまだ、対価を払って泊めて貰う方がよっぽど安心よ」
私は青年に背を向け、路地の外へと歩き出す。
こんな雄としての根性の無い奴に、これ以上構っていられない。夜の冷え込みが襲う前に、次の標的を探さなきゃ。
「…おい、待てよ!」
路地の角辺りで、青年が私に声をかける。
青年はつかつかと私に歩み寄り、肩を掴んだ。掴むといっても今度は、先ほど突き飛ばしたときのような荒々しさはなく、そっと添えるだけのようなものだった。
「なによ、まだ何かあるの?」
中途半端とも取れるその態度に苛立ちながらも私はぶっきらぼうに言う。
青年はそれには何も答えず、胸ポケットからくしゃくしゃの封筒を取り出して、私に突きつけた。
私は一瞬それが何なのか分からずに、目をぱちくりさせながら青年の顔を伺った。
「今日、給料日だったんだ。有り難く貰っておけよ。」
「え……?」
青年はそれだけ言うと、私を残してさっさと歩いていってしまった。
「これ……お金」
封筒を開けると、有名な歴史人物の印刷された紙幣が数枚、顔を覗かせた。
これだけあれば、かなり良い宿に泊まれる。質素な宿なら、食事付きで何日でも泊まれる。
「本当に…」
あの青年はいったい、何者だ?
私が考え込んでいると、封筒を持つ手に、急に影が落ちる。驚いて顔を上げると、いつのまにか目の前に、立ち去ったはずの青年が立っていた。
その表情は初対面の時と変わらず、口元は引き締められ眉間にも軽く皺のよった仏頂面だ。…この青年は、愛想笑いすらもしない性格なのだろうか。
「あのな、一つ言い忘れてた。」
「まさか返せって言うんじゃないでしょうね。」
無表情な青年に、悪態をつく。本当はこんなことが言いたいんじゃないのに。少しだけでも、「ありがとう」って言いたいのに。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、青年は淡々と続ける。
「違う違う、そうじゃないって。さっき突き飛ばしたときの感触で分かったんだけどな、あんた本当に細すぎだぜ。その金で、栄養のあるちゃんとした食べ物を買うんだ。いいな」
「えっ…う、うん」
「言いたかったのはそれだけだ。じゃあな」
大真面目な顔で何を言い出すのかと思えば、私が細い?栄養のある食べ物を買え?
「…何よあれ、バッカじゃないの」
私なんかの心配をして、どうするっていうのよ。
無表情で、だけどかなり初心な人。それなのに決して私をいやらしい目で見ない、初めての人。
とてもとても……優しい人。
「………変な奴!」
顔が火照ってくるのを感じた私は、冷たい空気を肌に受けながら首を振った。
その日の食事はすごくおいしくて、お腹がいっぱいになった。
それでも私の胸の中は、何だかもやもやと霧がかかっているようだった。
あの青年に、もう一度会えたら。
「今度は細っこいなんて失礼なこと、言わせないんだから!」
素直に礼を、言えるだろうか?
ぼふんという音を立てて、私はふかふかの寝床に飛び込んだ。