Snow Blindness
一面に積もった雪、空は青々とし、太陽が道路を照らし光が反射する。その反射により、眼の角膜・網膜に起こる炎症で眼が見えなくなる状態を雪盲という。
「香織、好きだよ」
あの冬の晴れた日。その雪盲の中で、ヒロがくれた一言が私達の始まりだった。
「携帯のカメラ、レンズ割れてるよ」
カサカサと落ちる葉を踏みながら、後ろを歩いていた亜由美が、私の携帯を手に持ち言った。私は彼女の方を振り向き、昨日染めたばかりのブラウンの髪を触りながら答える。
「あぁ。うん。知ってる。でも撮る時にヒビ入ったりしないの」
携帯を返してもらおうと手を差し出すと、亜由美はこっちに向かってくるも携帯と私の顔を交互に見直す。
「えっ? てか携帯変えたばかりじゃん」
亜由美は私の携帯を裏表にひっくり返し、傷が付いている場所を確認していた。そして、傷が裏側にしか付いていない事を知ると、納得のいかないような顔をして駆け寄ってくる。その眉間の皺の彫り具合はいつもに増して深かった。
「どうしたの? これ」
「別に。この前ヒロと喧嘩した時に投げつけられただけ」
差し出した携帯を私はさっと手にすると、肩をすくめるようにしながら平然と言う。そう、こんなの日常茶飯事なのだ。新しい携帯だからとか、彼氏のヒロには関係ない。
「こんなこと言いたくないけどさぁ、あんたら本当どうかしてるよ。もうすぐ付き合って一年になるんでしょ?」
亜由美はまた今日もどこかのおばさんのように、クドクドと説教を始める。もうそれも聞き飽きた。亜由美の説教は右から左へと流れていく。私の耳には止まりはしないのだ。
「いいんだよ。これで私達はバランスが保っているんだから」
つん、としながら言葉を返す私の横腹に、亜由美のパンチが入る。これも日に日に、力を増して冗談とは言えない痛みが身体に残るようになってきた。
「そんなんでバランス保ってどうすんのさ」
亜由美がそうやって心配してくれていても、私達は何も変わらない。ヒロはしょうがない人で、私はそのしょうがない人から離れる事が出来ないのだ。
亜由美と並んで話していると、携帯がカラフルな光を放ち振動した。ヒロだ。亜由美と帰ることは伝えているのにどうしたんだろう。
「はい」
電話の向こうはやけに静かで、それは不自然なくらいだった。家の中でもテレビの音や部屋で聞いている音楽の音が聞こえて来ると言うのに。私は立ち止まり、歩道の端へと寄るともう一度、電話の向こうのヒロに声をかける。
「もしもし? ヒロ?」
様子がおかしい。私がいくら声をかけても、一向に返事はなくただ電話が繋がっているだけだった。不思議な顔をして私を見る亜由美に、私も首を傾げ状況が掴めない事をジェスチャーする。
「もしもし? ヒロ? 用ないなら切るよ」
寝ぼけてでもいるんだろう、と電話を切ろうとした時、僅かだけど声がした。携帯を持つ手にぎゅうっと力が入る。聞こえてきたのは、ヒロの野太い声ではなかった。
「ヒロくんじゃないしぃ」
それは、くすくすと笑いながら人を馬鹿にしたような女の声だった。あぁ、そうか。ヒロが寝ぼけているんじゃなくて、寝ているヒロの横でヒロの携帯を勝手に触っている女がいるのか。まだ、何か言っていたような気もしたけれど、私はそれに構わず電話を切った。
「ヒロ、どうした?」
隣にいた亜由美は気遣うように話かけてきた。また眉間に皺がよっているけど、これは怒っているのではなく、心配している顔だ。多分、亜由美はもう気付いている。私はごまかすためにわざと笑う。
「ふふっ。寝ぼけてたみたいだよ」
「そうなの? 早く行ってやんなよ」
どうして、男って浮気をするんだろう? どうしてそれを上手に隠せないのよ。もう何度目だろう? 私はこれをどうして許してしまうんだろう。
「そうしよっかナ。待ってるぽかったし……顔、見たくなってきちゃった」
見たいのはヒロの顔じゃなく、ヒロの浮気相手だ。うん、と背伸びをして大きく欠伸をした。空へと両手を思い切り伸ばすと何かを掴むように手のひらをぎゅっと握る。闘ってやろうじゃないの。
「何でもいいけど、香織。仲良くしなよ? ヒロと」
別れ際、私の肩をポンと叩きながら亜由美は言った。分かってんのか、分かってないのか。私はうんと頷くと、亜由美とは逆方面へと歩き出す。ヒロの家まではここから十分もかからない。
子供達がよく野球をしている、さほど大きくもない公園を横切ると、小さな駄菓子屋が角にある。そこを右に入り少し歩くとヒロの住むアパートが見える。きっと、あの女はまだいるのだろう。
鞄の中から、ヒロの部屋の鍵を取り出し、部屋の前まで行く。ヒロの部屋は一階の角部屋で、隣の一軒家が邪魔をして日光があまり入らない。窓を開けると、隣の家の汚い壁がこんにちはと言わんばかりに立っているのだ。
鍵穴に鍵を差し込み半周回すと、カチャンと音を立て鍵は開く。そのまま躊躇いなくドアを開けると見慣れたスニーカーと、知らないパンプスが隣同士並んでいた。間を割るように、私は靴を脱ぐとずかずかと廊下を歩きリビングの扉を開ける。
「えっ!」
最初に声を出したのは、さっき電話してきただろう女だった。太いアイライナーをひいている目を見開き、そのまま静止してまさか、と言いたいような顔でこっちを見ている。ヒロから貰ったのか片手に持ったままの煙草、灰皿。どうやら事後なのか、これからだったのか髪型、化粧はくずれていなかった。まぁ、ヒロが寝ているんだから事後だろうけど。
「な、なんなのぉ」
漸く出た言葉がそれか。そんなのどうでもいいや、と私は女を素通りしベッドに横たわっているヒロの元へと行く。食べっぱなしのままのテーブルに放置されている酒とピザ。床に散らかっている酒のつまみ。きっと朝まで飲んでいたんだろう、ゴミが散乱していた。
「ヒロ」
気楽そうに寝ている私の彼氏は服を着ていた。大抵、事を済ませば朝まで何も着ずに寝るのだけれど。もう一度辺りを見回すと、二人で飲み食い出きる量じゃない空き缶や煙草の灰が目に入る。きっと飲み会でそのままここに泊まったのかもしれない。
「ん……。ん? 香織?」
目を擦り私の姿を確認すると、ヒロはゆっくりと身体を起こす。着替えもせずそのまま寝たのか、いつものスウェットではなく私服のままだった。
「ヒロくんっ」
ヒロに助けを求めようと、甘ったるい声を出したその女は、いつの間にか吸っていた煙草を灰皿に押し当て、何もなかったようにこっちに近づいてきた。
「ヒロ、先約いるみたいだけど。私は帰った方がいいの?」
壁に寄り掛かりながら私は聞いた。腕を組み、冷静を繕いながら顎をあげて、女を指す。ヒロは悪びれる様子もなく、髪をかきあげ私の問いに答える。
「別に、朝まで飲んでた友達だし。香織が来る前に帰るって言ってたから泊めたんだよ」
辺りをキョロキョロしているヒロに、私は煙草を放り投げる。これこれ、と言わんばかりの顔をしながらヒロは煙草をキャッチした。そして私においで、と手招きをして私の手を引く。
「浮気だって疑ってんの? ただの友達だって。なぁ?」
ヒロはそうでもこの人はそうじゃないだろう。私の頬に触れたヒロの手は汗ばみ、あまり気持ちのいい感触ではなかった。なぁ、と同意を求め、ヒロは立ち尽くしている女を見た。彼女の顔は見る見ると変わり、先程の電話の勝ち誇った時の声がまるで嘘のように思えた。
「ヒロくん。カヨ今日は帰るね。またね」
慌てながら、床に落ちていた荷物を拾うと、彼女はあたふたと部屋を出て行ってしまった。ヒロはじゃあな、と声をかけるだけで、ベッドから動こうとはしなかった。
「本当に何もしてねぇって。香織」
後ろから抱き寄せ、私の頭を撫でると機嫌取りのようなキスをしようとした。私はこの前の喧嘩と、さっきの亜由美の言葉を思い出していた。唇があと僅かで触れそうな時に、とうとうそれを口に出してしまう。
「私の時は、男友達とメールするだけでも怒ったのに」
一週間前。0時を過ぎた頃に私の携帯が鳴った。丁度、ヒロと二人で、部屋でまったりしていた時で、私が携帯を見る前にヒロは私の携帯を取り上げた。
「ちょっと! 何すんのさっ」
ヒロはとても束縛が激しく、私が男の人と話をするだけで不機嫌になる。そう、まるで子供みたいな人だ。嫌がる私を押さえつけ、ヒロは携帯を開くと受信したメールが誰からなのか確認した。
「誰こいつ?」
専門学校の友達だった。別にやましい事なんて何もない。それでも睨みつけるような目で私を見るヒロを見て、あぁまたか、と溜息をつく。
「学校の友達だよ。何も無い。返して携帯」
ヒロに噛み付いたって譲歩してくれるような人じゃない事はとっくに分かっているのに。引き下がらず、しつこく言ったことが間違いだったのかもしれない。
「俺の知らない男とメールなんかしてんじゃねぇよ!」
そんなつもりなんて毛頭ない。だけど、ムッとする私を見たヒロは、更に気を悪くしたのか部屋の壁に携帯を投げつけた。投げつけた衝動から電池パックが外れ、カメラのレンズにはひびが入ってしまった。
「……」
携帯を拾い電池パックを戻すと、私は電源を切り鞄の中へと片付けた。どっちが悪いとかじゃなく、こんな風にしか気持ちを表現できない彼が不憫でならなかった。
「ごめん、香織」
縋りつく彼に抱きしめられ、いいよ、私が悪いんだよと言うしかなかった。
好きだから手放す事を出来なくて、こうして私に触れるヒロが愛しくて仕方ない。
「香織、好きだよ」
喧嘩の後、ヒロは必ず優しくなる。その優しさに、幻を見てしまい現実が見えなくなっているような気がしてる。
どうして私達はこうなんだろうと、下から彼を見上げながら揺れる身体で何度も考えていた。
少しの沈黙の後に、頭に鋭い痛みが走った。さっきまで優しく撫でていてくれたはずのヒロの手が凶器に変わったのだ。
「いたいっ! ヒロ! やめてよ!」
昨日染めたばかりの綺麗なブラウンの髪の毛が、ヒロの指の間に何本か見えた。両手で押しのけると反動で私は尻餅をつく。テーブルがずれ、置いてあった飲みかけの缶が倒れ、中身が勢い良く零れる。顔を上げるとそこには形相を変えたヒロが私を見ていた。
「おまえ、俺を疑ってんのかよ?」
テレビも付いていない静かな部屋に、ヒロの怒鳴り声が響く。いくら鉄筋とは言え、こんな大きな声を出してしまったら、隣の部屋にはきっと聞こえてしまっているだろう。さっきまでいたあの女を見て、誰が疑わずにいれるんだろう。でも、私が言ってるのはそこではない。
「疑ってなんていないよ。ただ、私の時は友達とメールしただけでも怒ったじゃない」
喚くヒロに対して私はいつも冷静だった。テーブルに灰皿を投げつけたヒロは、それでも気が収まらなかったのか、床に置いてあった私の鞄を力一杯に蹴った。こうなってしまえば、ヒロの怒りが自然と収まるまで待つしかない。
「私達、もうダメなんだと思う」
あれから何時間が経ったのだろう。沈黙の続く荒れ果てた部屋の中で、私は静かに口を開いた。何度も何度も思っていた。本当にこれでいいのかって。でも私を好きでいてくれるから、何をされても許す以外に方法がなかった。
「何いきなり」
煙草を吸いながら、寝転がり足を組んで天井を見つめたままのヒロは特に気にも留めていない様子だった。テーブルの上は零れた酒と、投げつけた灰皿の中の灰が混ざり、とても見るに耐えないものだった。それを私は片付けながら続けた。
「だって、やっぱり、こんなのおかしいよ」
認めたくなかった事実。亜由美の言葉。好きだけでは保つことの出来ない二人のバランスを、どうにかしようと努力してきた。けれど、私達は何も変わることが出来ない。目の前にある物が次第にぼけて滲んでしまう。こんな事で泣きたくない。私は必死に堪えていた。
「おかしくないだろ。普通だって」
私の鼻をすする音に、要約事の重大さを理解したのか、ヒロは身体を起こし私の方を向いた。銜えていた煙草を灰皿に置くと、私の頭を抱き耳元で囁く。
「俺は香織が好きなんだよ。おまえ以外好きになる人なんていない」
この言葉を聞くと、私はこのしょうがない人から離れる事が出来ない。このほんの何秒の優しさに全てを捨ててでもとさえ、思ってしまう。
「……香織、好きだ」
私の頭の上でいつもの様に動くヒロを見ながら、私は泣いた。
どうすれば楽になるのかわからないから。私にはその答えを出す事がどうしても出来ないから。とっくに答えなんて出ているのに。
一面に積もった雪、空は青々とし、太陽が道路を照らし光が反射する。その反射により、眼の角膜・網膜に起こる炎症で眼が見えなくなる状態を雪盲という。
あの冬の晴れた日。その雪盲の中で、ヒロがくれた一言に私は苦しんでいる。
あの雪盲の中で言われたせいで、本当の愛をどこかに見失ってしまったから。