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アオバの方程式が解けない

作者: 徳田雨窓

 高校のときの同級生だったアオバが死んだ――それは私にとっては突然の連絡だった。

 アオバからはつい一ヶ月ほど前にメールをもらったばかりだったからだ。

 いつものように、そのメールには方程式が書かれていた。

 その方程式を私はまだ解いていない。だから余計に驚いてしまったのだろう。


 高校時代、私はどちらかというとガリ勉メガネで、クラスでは根暗なやつだと思われていただろう。逆にアオバはクラスの人気者だった。友だちが多かったかどうかは分からない。ただ、私とアオバはどういうわけかなんとなく仲が良かった。

 放課後の図書館が私とアオバの遊び場だった。東京の大学に入りたくて勉強ばかりしていた私はともかくとして、アオバがどうして図書館に出入りしていたのかは分からない。ただ、私が参考書に区切りをつけると、アオバは決まって読んでいた本を閉じ、手元のノートに書かれた方程式を私に押しつけるのだ。

 オリジナルの、方程式問題。

 はじめはメガネな私へのちょっとした腕試しだったのかもしれない。アオバの成績は平均するとごく普通だったが、それでも数学だけは学年上位の常連だった。自分の得意科目で私のことをからかってみたかった、そんなところだろう。

 もちろん私はアオバの方程式をいつもその場で解いてやった。最初はやすやすと。しかしそれは次第に手強くなり、三年の三学期のころには相当なものばかりになっていた。受験問題なんかよりも。


 高校卒業後、私は上京した。そしてそのまま就職して、地元とは疎遠になっていった。

 アオバは地元の大学に進学したようだ……その後のことは詳しくは知らない。

 ただ就職したばかりの頃、一度同窓会とかで帰省したときに、アオバが結婚したと聞いてすごく驚いたのを覚えている。なんだか結婚には全く興味のなさそうな奴だったからだ。

 ……いや、違うな。

 私はアオバに結婚して欲しくなかったのだろう。きっと心のどこかでそう思っていたのだ。


 アオバにメールアドレスを教えたのはいつだっただろうか? 高校卒業のときだったか。それともそれより前か。

 ただ、高校を卒業した後も、アオバからはときおり方程式が送られてきた。

 文面はなく、ただ数字とアルファベットと記号が並ぶだけのメール。

 放課後の遊びの続きのつもりなのだろう。私もなんとなくそれを解いては送り返していた。そんな関係がぼんやりと続いていた。

 そういえば、数式が送られてこなくなったのはいつからだったろうか。

 アオバの結婚のことを伝え聞いたのと同じ頃だったかも知れない。

 私もその頃は慣れない仕事でいっぱいいっばいだったから、あまり気にしてなかったが……。


 ケータイを開くと、アオバからの最後の方程式が今もそこにある。

 何年ぶりだろう。ほんとうに久しぶりの方程式だった。

 しかもこれまでにないくらいやけに複雑な奴で、私もなんとなく解こうとはしたが、あまりうまくいかず結局そのままにしていたのだ。

 どうやっても最後に変数Uが残ってしまい、そこで答えが出ずに終わる。

 解けないものに返信するのも悔しいので、放っておくしかなかった。


 ――そのアオバが死んだという。

 今まで連絡などしたこともなかったような地元の同級生から、何通もメールが届く。

 私たちの中では、死んだのはアオバが初めてだからだろうか。

 ……いや違うな。

 人気者の突然の訃報。だからみんな驚いているのだろう。

 みんな、何かを誰かと共有したいのだ。そういう想いは私にも分かる。

 だから、東京にいる同級生で集まらないかという誘いに、私も参加する気になったのだろう。


 みんなはそれなりに地元のことを知っていた。友だちからの噂話、帰省したときに見聞きした話。兄弟のいる者は、そこでの話題からもアオバのことを伝え聞くことがあったらしい。

 ――結論から言うと、アオバはあまりうまくいっていなかったようだった。

 アオバからなにか聞いていないのか。そんな質問が私に何回も向けられた。どうやら高校のとき、私とアオバは付き合っていたと思われていたらしい。

 あの頃、アオバは私のいないところで、私の解いた方程式を自慢していたのだという。まるで自分のことを話すかのように、私がどれだけ素早く的確に方程式を解いたのかを、事細かに説明していたようだ。

 アオバにそんな一面があったことを、私はそのとき初めて知った。

 結局、私はアオバのことを何も知らなかったのだ。

 だから、私は同級生からの質問に何一つ答えることができなかった。


 夜の中で薄ぼんやりと、ケータイの画面が私の顔を照らす。

 解けない方程式。

 なんど試みてもUが残る。それ以外はXもYもきれいに答えにたどりつく。ただUだけが、最後まで消えようとしない……。

 ……『U』が、消えない?

 そのとき、ようやく何か分かったような気がした。

 もちろん分かったのは答えじゃない。その逆だ。そう。この方程式に答えはないのだと。

 つまりこれは方程式ではない。そうではなく、『解けない』ように作られた、何かだったのだ。

 アオバからの……最後の『メッセージ』とでも言うべきもの。そう考えるしかない。

 数々の変数と、幾重にも包まれた関数。それらを解きほぐすと、最後に『U』だけが残る。

 それを、その過程そのものを、アオバは私に読んで欲しかった。そういうことなのだろうか?


 だとすれば。

 アオバは私に何を伝えたかったのだろう? 私は、このメッセージをどう読めばいいのだろうか?

 もしかしてアオバは助けを求めていたのだろうか? うまくいっていなかった……私の脳裏を同級生たちのうわさ話が巡る。一ヶ月前、私がこのメッセージにすぐ気づいていれば、私はアオバを助けられたのだろうか?

 助ける? 私が? アオバを……?

 私にアオバの何を助けることができるというのだろう? 私とアオバはただの、放課後の遊び友だちじゃないか。アオバの人生、私がそこに口をはさむことなんてできはしない。

 違う。違う。違う。そうじゃない。

 私はいつの間にか、ケータイの画面に一粒の水滴が落ちていたことに気がついた。

 涙。私の頬からあごを伝う、なまぬるい滴。

 私は泣いていた。

 アオバの死を知ってから初めての涙。

 今までどこかしら虚構のように感じていたアオバのいない世界が、急に肌身に覆いかぶさるようにして私の心を握りつぶしていく。

 あのときもそうだった。アオバの結婚の話を聞いたとき。目の前が真っ暗になったような、なにもかもを失ったような感覚。

 そんなはずはないと、私がいつも私の中に押し込めていた感情。それが今はどうしようもなくあふれだす。


 好きだったのだ。アオバのことを。

 友だち以上になりたいと、心のどこかでは願っていた。しかしそれを口にするには、私はあまりにもメガネだった。

 かけがえのない放課後の、かけがえのないひととき。

 それを失うことを恐れていた。私がこの気持を口にすれば、アオバは去ってしまう。だったら黙っていればいい。方程式を作るアオバと、それを解く私。それで十分なのだと自分に言い聞かせてきたのだ。


 ケータイの中から、アオバの残した『U』が静かに私を見上げている。

 この『U』が何を意味しているのか。それをアオバに聞いてみたい。

 だがそのアオバはもういないのだ。この『U』に込められた想いの真相は、もう誰にも分からない。

 後悔に似た感情が、また私の目頭を熱くする。もっと早く。もっとちゃんと、私がこのメッセージに気づいていたのなら。そうすれば、アオバにその意味を聞くことができただろう。

 アオバはきっと笑いながら種明かしをしてくれたに違いない。それはきっと他愛のない、冗談のような会話で終わっただろう。二人であの頃を懐かしみながら、そしてまた方程式だけの関係に戻るのだ。

 いや。もしかすると本当は、この方程式自体には何の意味もないのかも知れない。解けない方程式に腹を立てた私が、アオバに連絡を取るだろうことを、アオバは待っていたのかも知れない。

 だとすれば、何もかもがすべて遅かっただけなのだ。間の抜けた私が、アオバの冗談を受け止めきれなかった……だからこの涙は私自身への罰なのだ。方程式にも、残された『U』にも、意味などなかったのだ。


 ……本当にそうだろうか?

 私はもう一度ケータイを強く握りしめた。

 だったらどうして『U』なんだろう? 他にも変数はたくさんある。それに普通、数学でよく使うのはXやYじゃないか。どうしてアオバはわざわざ『U』を選び、そして残したのだろう?

 私のイニシャルでもない。アオバの名前とも関係ない。地元の地名、町の名前もそうだ。

 『U』、『U』……『U』?

 私はいつしか『U』をなんどもつぶやいていた。

 両耳から私の声が『U』を運んでくる。その音が、一つの英単語を私に思い出させる。

 もしかして、そういうことなのか? ……いやしかし、それは私の思い上がりなんじゃないのか?

 もしもそうだとすればこれは、この方程式は、アオバから私への……ラブレターということになってしまう。


 最後に一つだけ残る『you』。

 『あなただけだった』……素直に読めば、そうなるじゃないか。

 それを口にした瞬間、私は頬が上気するのを感じて戸惑った。

 もしかしてアオバも……私のことを……? いや、そんなはずは。ならどうして……。

 ぐるぐると思考が左右に揺れる。自分で導き出してしまった答えに、私自身がうろたえる。

 どうしていいか分からず、私はなぜか焦りながらケータイの返信ボタンを押していた。

 そして数字を一つだけ打ち込むと、そのまま送信した。

 しばらくのあいだケータイは点滅し、そして静かになった。

 ……これで良かったのだろうか?

 送信済みの文面をぼんやりと見下ろしながら、私は一つ大きく息を吸い込んだ。


 『0』。

 遅くなってしまったが、アオバにこの答えは届くだろうか。


                     (おわり)


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