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狐火三部

狐火

作者: 黒雛 桜

――あれがいまだに夢だったのか、現実だったのか、あたしは思い出せない。


「怪我、だいじょうぶ?」

 隣の席の、稲瀬佐紀いなせさきが無表情にそう言った。眼鏡の奥の赤味がかった瞳は、相変わらずあまり感情を映してくれない。

 彼は本当に心配してくれているのだろうか。いや、それだけではない。彼は本当にごくふつうの高校一年生で、クラスメイトで、隣の席の、目立たない生徒なのだろうか。

 つかさは頬のガーゼにそっと手を触れた――。


 *


 佐伯さえきつかさが自宅から近い青陵せいりょう高校に入学して、二か月が過ぎたころ。


「ねえねえ、つかさ、隣のクラスの小池君に告られたってマジ?」

「ちがうって、番号交換しただけだし」

「うっそぉーあやしいー!」

 休み時間には中学からの親友や、新しくできた友人たちと楽しくじゃれあったり、それなりに充実した高校生活を送っていた。

 はじめは妙にソワソワしたセーラー服も、いまやすっかり馴染んでいる。

「もー、ほんとだってば! それにさぁ、あたし、あーゆう冷めたカンジのやつって苦手だし」

 無意識に髪へ指を伸ばす。ふとショートカットの自分に気づいて、その手を引っ込めた。

 長かった髪は入学前に心機一転、バッサリ切ってしまったのに、髪の毛を指に絡める癖はまだ抜けそうにない。


 四時間目の予鈴が鳴る――。


「あーあ、すごく好きになれるひと、できないかな……」

 つかさがしょんぼり言うと、前の席に座る小林美羽(みう)がいたずらっぽく笑った。

「だって、つかさのハードル高いんだもん」

「えーっ、背が高くてスポーツ得意でさわやかで優しくて話し上手で、イケメンがいいってフツーでしょ?」

 美羽はクスリと目元をゆるめてから、困ったような仕草で人差し指をくちびるに押しあてる。

「うーん、フツーはそうそういないよね」

「だから悩んでんじゃん……あーあ、漫画みたいな恋してみたいなぁ」

 美羽のクスクス笑いにつられて、つかさもいっしょに肩を揺らした。


 昼休みには、女子も男子も仲の良いグループを作って昼食をとるのは、世の常だろう。

 つかさは入学当初から、美羽をふくめて、いつも五人で行動している。その中でとくにリーダーを決めたわけではなかったけれど、大体にして渡邊愛わたなべあいが取り仕切っていた。

「ねえ、もうちょっと前の方ででお昼食べない?」

 アイの唐突な提案に、つかさはきょとんと目を丸めた。ほかの三人も同様に彼女を見る。

「なんで?」

「なんでって、つかさの席の近くじゃ、ジミーが視界に入ってきてウザいじゃん」

 同意を求めるように、アイが全員の顔を見回したとき、つかさは隣の席でひとり本を読むクラスメイトに目を向けた。

 稲瀬佐紀いなせさき

 通称、地味男ジミー

 黒髪に黒縁眼鏡、クラスの誰とも接点を持たない、かなり影の薄い男子生徒。

「きもーい」

 蔑むような笑いを口元に浮かべて、アイが言った。

「たしかにぃー」

「影薄すぎて見えてなかったかもー」

 マリナとリカが侮辱の色をはらんだ甲高い声で笑う。五人で机をすこし寄せているとはいえ、つかさの隣の席なのだから、ジミーに聞こえていないはずがない。

「べつによくない? だって、ジミーって、害ないじゃん」

 つかさのその否定的発言に、アイはくちびるをへの字に曲げた。

 つかさには、いてもいなくてもなんら影響のない稲瀬佐紀を、かまうほうが理解できない。影が薄かろうが、地味であろうが、それがどうだというのだろう。

 そういえば、ジミーと一言でも話したことがあっただろうか?

「まあ、べつにどこで食べてもいいけどさ」

 アイの言葉を最後に、五人はまたお弁当をつつきながらおしゃべりを再開した。


「ね、美羽」

「なーに?」

 バスを待つ美羽に、つかさはぼんやり声をかけた。これからデートの美羽は、鏡に向かって返事をした。

 化粧をしなくても彼女はじゅうぶん可愛いのだけれど、臨戦態勢に入ったいまや、より攻撃力が増している。

「あたし、ジミーと話したこと、まだ一度もないかも」

「みうはあるよ」

 大きな目をパチパチさせて、美羽がほんのすこし自慢げに言った。

 つかさは驚いて目を見開く。

「消しゴム拾ってくれたの。歴史の授業のとき。落としちゃって、探したけどみつかんなくて。そのとき、稲瀬君が」

「えっ、あたし知らないよ」

「だってつかさ、寝ちゃってたもん」

 美羽は楽しそうに、ゆるいパーマのかかった髪を揺らした。

「しゃべった?」

「ちゃんと、みうの名前知ってたよ。小林さん、って声かけてくれたんだ」

 つかさは入学から二か月経った今も、物静かな女子のグループや、大人しい男子のグループなど、接点が少ないクラスメイトの名前を覚えられないでいる。

 稲瀬佐紀は隣の席だから知っているにすぎなかった。

「そうなんだ……意外」

「つかさもしゃべってみたら、印象変わるかもよ? だって、稲瀬君、結構イケメン(・・・・)なの、知ってた?」

 親友はまたもやいたずらっぽく笑って、到着したバスにぱっと乗り込む。

 甘い、バニラの香りを残して美羽は行ってしまった。バスはあっという間に坂を下って見えなくなった。

「どーしよ……美羽の目、絶対クサってるよ……」

 イケメンという単語と、ジミーの地味な容姿は、どうまちがっても、つながるとは思えない――。


 翌日、つかさは一時間目の授業から、隣の席を意識して見るように心がけた。

 というのも、美羽の目に分厚いフィルターがかかっているのか、それとも自分の目が節穴なのかを、はっきりさせようという魂胆である。

 最後列のため、あまり人目が気にならないことも、つかさにとって幸運だった。


「……なに?」

 五時間目の授業が終わって、ほとんどのクラスメイトが下校していくなか、唐突に稲瀬佐紀が声をかけてきた。

 不審の目でつかさを見る。

「えっ?」

「……おれになんか用?」

 対するつかさは不意打ちを食らって、不審者よろしく目が泳いだ。

 返答に困ったつかさが、酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせていると、稲瀬佐紀はやおら鞄をつかんで教室を出て行ってしまった。

「……びっくりした……! いきなり声かけてくるんだもん……」

 ジロジロ見ていたことに早くから気づいていたのなら、ずっと居心地の悪い思いをさせてしまっただろうか。

 くちびるをとがらせ、隣の席を見た。


 その日を境に、つかさの稲瀬佐紀へのひっそりとした観察――いや、有り体に言えば、ストーカー行為が始まる。



「最近どお?」

 歴史の和泉(いずみ)先生から中間テストの出題範囲が発表され、教室内から不満の声が上がったときだった。

 美羽が意味ありげに顔を寄せてきて、そう尋ねた。もちろん、ジミー観察の進捗(しんちょく)についてである。

「……あんまよくないよね」

「一か月も張りついたわりに、仲良くなれてないみたいだもんね」

 まさに図星だった。

 つかさの方から話しかけてみても、生返事ばかりが返ってくる。

 じつは学校外では友人がたくさんいて、ふつうに冗談を言ったり、ふざけたりするのかもしれないと考えて、ワクワクしながら尾行をしたこともあった。

 もちろん、そんな予想外が起こるはずもなく。

「あたし……ただのストーカーじゃん?」

「訴えられたら負けちゃうね」

 美羽のフンワリした笑顔が悪魔のように見えた。

 授業の終わりを知らせるチャイムが鳴って、生徒たちは教科書をしまいながら、さながら朝の小鳥たちのように、一斉におしゃべりを始めた。

「じゃあみんな、中間テストで先生をがっかりさせないでくれよ」

 アイが「はーい」と声高に返事をする。

 三十代半ばとはいえ、王子様の雰囲気をかもしだす学校で唯一のイケメン教師に、女子なら誰だって好意的だし、従順だ。つかさのクラスで、そのもっともたるは、アイである。


「稲瀬、手伝ってもらっていいかい」

「はい」

 四時間目の歴史が終わって、残すは担任のホームルームというさなか、和泉先生が稲瀬佐紀に声をかけた。

 ただプリントを集めて職員室へ運ぶ手伝いなのだろうけれど、一か月ジミーを観察した中で、この歴史の教師とだけ、短い会話をしていることがわかった。

 仲がいいのだろうか、もしかしたら知り合いだろうか、などと考えてみたけれど、稲瀬佐紀はいつもの無表情のままだったし、ほかの生徒のように気軽に話したり、というわけでもない。ただ、確実に言えることは、稲瀬佐紀との距離は、和泉先生の方がつかさよりも近い、ということだった。


 なんか、くやしいな。


「じゃっ、つかさと美羽、また明日ねー!」

「うん、部活がんばってね、アイ」

 バレー部のアイと階段で、マリナ、リカとは廊下で別れた二人は、ユウウツ気味に肩を落とした。なにせ、あと二週間で中間テストが始まってしまう。

「つかさ、図書館で勉強しない?」

「いいね、美羽といっしょならやる気でるよ!」

「佐伯」

 ウキウキしていた背中に、少しツンとした男子の声が刺さる。同時に、ガシャンと、何かの落ちる音が廊下に響いた。

 振り向けば、隣のクラスの、小池裕人こいけひろとが立っていた。

 やや斜めに構えたところがあり、クラスのボス的存在――つまり、俗にいう一軍男子というやつだ。彼の後ろでニヤニヤしている二人の友人も一軍ということは、周知の事実である。

「なんか用?」

「メールしたんだけど、読んだ?」

 小池がふっと口元をゆがめる。それは、つかさを不快にさせるにはじゅうぶんな態度だった。

「まだ返してなかっただけ。ごめんあたし、これから美羽と行くとこあるから、今日は遊べないから」

「あらーっ、ヒロ振られてやんのォー」

「つかさちゃん、手キビしー」

 小池の友人たちが下品に笑う。いや、ただ大声で笑っただけにしても、それはつかさのかんに障る笑い方だった。

「今までさぁ、誘っても一度もノってくれたこと、なくない?」

 小池が間をつめる。冷たい視線が少し上から降ってきて、つかさは一歩、退いた。

 そのとき――。

「どけてくれない」

「ハァ?」

「足、どけてくれない」

 けして大きくはないけれど、きっぱりとした、声。

 稲瀬佐紀だった。

 つかさと小池のあいだを割くように、いつの間にか稲瀬佐紀が幽霊のようにぼうっと立っていた。

「うっわ……マジビビる。なんか用かよ」

「おれのペン、踏んでるんだけど」

 全員の視線が小池の足に向いた。その言葉どおり、ボールペンは上履きと床に挟まれて、沈黙している。

「あはは、さっきオレがぶつかったやつだ」

 小池の友人のひとりがケラケラ笑う。この様子では、まったく悪いとは思っていないらしい。

「どんくせーやつ」

 拾ったペンを、そのどんくさい男子の胸にぱしっと叩きつけて、小池はきびすを返した。


「ありがと、ジ――稲瀬」

「……べつに、自分のペン拾うためで、佐伯さんがどうってわけじゃないけど」

 稲瀬佐紀は無表情にそう言って、かばんにボールペンを放るとつかさと美羽の脇を抜けて廊下を進んだ。

「また明日ね、稲瀬君」

 美羽がにこっと笑って声をかける。すると、彼はほんの少し首を動かし、「また明日」、そう言って去っていった。

 美羽の誇らしげな顔が、つかさにはとてもつなくうらやましく映ったのは、言うまでもない。


 翌日からつかさは稲瀬佐紀に対するストーカー行為を、一切封じた。もちろんそれは彼への罪悪感や感謝の念――というわけではなく、一か月の無駄にやっと気付いたからだった――。


 昼休み、つかさは意を決する。

 すこしばかり抜ける旨をアイに告げてから、隣の席に決然とした表情で向き合った。

「ね、稲瀬。お昼いっしょに食べてもいい?」

「えっ……」

 あの表情の乏しい稲瀬佐紀が、ぎょっと目を見開く。

 近くで見ると、目の色はかなり明るく、赤に近いようにも思えた。

「……べつに、好きにしたらいいけど」

「そうする!」

 ニッと笑って、つかさはお弁当の巾着を開けた。

「ねぇねぇ、稲瀬って甘いもの、好き?」

「……ふつう、だけど」

「じゃさ、昨日のお礼になんかお菓子作るよ! なにがいい?」

 ミートボールをほおばりながら、ぐいぐい迫ってくるつかさに、稲瀬佐紀は思うようにはしが進まないらしい。ブロッコリーがポロリとこぼれ落ちた。

「昨日も言ったけど、自分のペン拾っただけだし……」

「でも助かったもん!」

 からっと笑うつかさに対して、隣の席の男子はどんより曇った表情を浮かべている。そこには甚だしい温度差――真夏日と真冬日ほどのものがあった。

「ガトーショコラ? マカロン? あ、シュークリームとかがいい? あたしねー、意外となんでも作れるよ!」

「……手作りは、特別な人に渡したほうがいいと思うけど」

「おっ、言うねー。でもあたし今好きな人いないし、いいじゃん、ねっ!」

「いや、本当に遠慮する……」

 草食動物を執拗に追い回す、肉食獣さながらの構図がそこにあった。


 いつもならひどく閑寂な教室の一番後ろの、隅の席がにわかに騒々しくなる。


 つかさにとって、これが最初の一歩だった。


 五時間目の選択授業で、つかさは合唱曲をそっちのけにして、稲瀬佐紀と色々話した――もちろんつかさが一方的ではあるが――ことを、美羽に聞かせることで夢中だった。

「でね、本はあたし全然わかんないんだけど、いろいろ読むんだって! でね、好きなお菓子はどら焼きなんだって、アニメのさぁ、『トラえもん』みたいだよね!」

「よかったね、つかさ」

 自分のお気に入りを友人も気に入ってもらえた、そんなくすぐったいような仕草で、美羽がフンワリ笑った。

「うん」

 つかさが照れたようにはにかむと、反比例のように美羽の表情がすぐにかげる。そしてそっと耳打ちをした。

「あのね、つかさ、お昼に抜けたでしょ? そのとき、アイが……ちょっと……」

「ちょっと?」

「うん……あんまりいい顔しなくて。アイって、稲瀬君のこと、よく思ってないみたいでしょ?」

 美羽の下がった眉に、つかさはすぐさま合点する。

「つまり、稲瀬と仲良くしたあたしが気に入らないわけか」

「……うん」

 アイとは高校に入って知り合い、仲良くなった間柄だった。けれど、似たような少しきつい性格のためか、意見が真っ向からぶつかることも少なくない。

 それでも、とくに問題なく日々を過ごしていたのだけれど――。

「べつに、アイの顔色うかがってお昼食べてるわけじゃないし。明日もあたし、稲瀬と食べるし!」

「ん。ならいいんだ」

「そこ!」

 鋭い声が教壇から飛んできた。音楽の遠藤先生が鬼のような形相でつかさと美羽をにらみつける。

「そんなに堂々とおしゃべりができるなら、ソロで歌ってもらいますよ!」

 こんなだからアラフォーになっても結婚できないんだと、つかさが美羽にこそっと耳打ちをした。

 クスクス笑いあう二人の、小学生からの絆が揺らぐことは、ない。


 翌日から昼食に美羽も加わり、稲瀬佐紀はあからさまにうんざりした顔で豆パンをかじった。

 昨日のはなしで、つかさ曰く「稲瀬は楽しそうだった」らしいが、今この反応を見る限り、そうではないらしい。美羽の頬が引きつる。

「ごめんね、なんか、迷惑だったらみうたち離れるよ」

「べつに、なんとも思ってないけど」

 稲瀬佐紀の表情と言葉が一致してない。

 にもかかわらず、つかさは「ほら!」と胸を張った。

「じゃオッケーでしょ! それとも、カワイイ女子二人に囲まれて恥ずかしいとか?」

 ひとり盛り上がるつかさを残して、美羽はいたたまれない表情で箸を取り出す。稲瀬佐紀は無心でパンを口に運んでいるようだった。

 その横で、アイが露骨に舌を打ったことに、つかさは気づいていない――。


「つかさ!」

 放課後、突然アイから呼び止められて、つかさはきょとんと目を丸めた。マリナやリカが先に帰って、日直の美羽が職員室へ出向いていたときだった。教室に残っているのは、つかさのほか、数名のクラスメイト。

「なに?」

「あのさぁ、いつまで地味男ジミーと友達ごっこしてるわけ?」

 イライラとした口調が、教室の空気にピリッと緊張感を走らせた。

「べつに誰と仲良くなろうが、いいじゃん。それに、稲瀬、やなやつじゃないし」

「それ、マジひくよ? あんなキモいのとよくしゃべれるよね」

 アイの嘲笑が、つかさの琴線に触れる。

 何かのスイッチが「カチン」と音を立てて、頭の奥に響いた気がした。

「……キモくねーよ」

「はぁ? マジでいってんの?」

「アイ、思ってんのは自由だけど、口に出して、言うなっつーの」

 すごみを利かせて一歩近づけば、アイはわずかにひるんで一歩後退した。

「……ウチらより、ジミーのほうがいいなら、もう仲間に入ってこないでよ?」

 互いに数秒にらみあって、アイのほうから鼻を鳴らして立ち去ってゆく。

 完全なる決別。

 だが、つかさに後悔など、ない。

 職員室から戻ってきた美羽に、五人グループが解散した経緯を伝えると、彼女はさほどショックを受けた様子はなかった。

「みうはグループとか、そうゆうの、気になんないし。わざわざ固まって行動しなきゃいけない理由も、ないしね」

 つかさは美羽といるときの、この空気感がとても好きで、自分もふんわりした気分になることがままあった。小林美羽は、周りから天然、と言われがちだけれど、じつは誰よりも公平で自分の信念で動く、しっかりとした意思を持つ女の子だということは、親友のつかさがいちばん理解している。

「あたし、美羽のそーゆーとこ好きだよ。このフンワァーってオーラは、美羽にしか出せないもん」

「えー、なにそれ?」

 二人がキャッキャとはしゃいでいたとき、剣のある声が飛んできた。

「そこの女子二人。ずっと待ってたんだけど」

 教室の扉の前で、無表情をさらに無表情にして立つのは、稲瀬佐紀。

 放課後、中間テストの勉強を図書館で一緒にやろうと散々駄々をこねて、稲瀬佐紀を玄関ホールで待たせていた。それをふたりはすっかり忘れていた。


「ごめんってばー、そんなに怒んないでよぉ」

 図書館までの道のりを、稲瀬佐紀は無言で歩いていた。そのあとを追うように、つかさと美羽がつづく。

 途中、美羽が肉まんを食べたいと言い出して、コンビニで時間をロスすること、十分。ふつうは十五分で図書館にたどり着くのだが……。

「みうの肉まんのこと、怒ってる?」

「……怒ってない。ただ、今日は五時までしかいれないって言ったこと、覚えてる?」

「あー……、忘れてた!」

 てへっと笑ってごまかすつかさは、ひんやり冷たい視線を浴びることになる。

 そして稲瀬佐紀は、また黙々と歩き出した。

「ねえ、なんで五時まで? 用事あるの? デート? ねえねえねえ」

「今日、剣道のお稽古の日なんだとおもうよ」

 美羽がつかさの袖をつんと引っ張って言った。

「剣道?」

「そう、稲瀬君、剣道習ってるんだって。学校では部活に入ってないけど」

 なぜか得意げにニッコリする美羽。

 いったいどうやったらあの地味――いや、寡黙な男子から情報を聞きだせるのだろう。


 図書館で理解できたことは、稲瀬佐紀がとてつもなく頭が良い、ということだけで、つかさも美羽も、数学1に出てくる応用問題に頭を抱えるばかりだった。



「稲瀬ってさ、頭良いのになんで青陵せいりょうにしたの?」

 テスト一週間前になって、すべての部活が活動禁止になった放課後。

 図書館は混雑するだろうと、もうひとつの穴場である、校内の図書室で勉強する運びになった。

 本日デートの美羽は、不参加である。

 しんと静まり返る図書室で、つかさは素朴な疑問から切り出した。

「なんで、って……家と近いから、だけど」

「えっ、でも、そんな頭良いなら潮桜ちょうおうのほうがいくない? 超進学校だけど、こんな中くらいの高校より――」

「どこでもよかったんだ」

 稲瀬佐紀が吐き捨てた言葉は、なにかをあきらめたように、聞こえた。

「そお……」


 誰もいない図書室の居心地は最高だった。テスト前ということを除けば。

 午後の太陽はぽかぽかとあたたかく、隣に座る友人は寡黙で無駄なおしゃべりがない。

 つかさは知らず識らず、うとうと頭を揺らしていた。


「――だから、ヘンに気にする必要ないって」

 少し声量を抑えた、男の子の声。

「ちゃんとうまくやってる。リンカが一番わかってるだろ」

 聞いたことのある声だというのに、まったく別人のようにも聞こえる。

「どのみち、こちら側(・・・・)にはあと二年半……卒業するまでなんだ」

 まるで、卒業後に「どこか」へ行ってしまうようなニュアンス。

――もしかして、だからいつも、ひとりでいるのだろうか。

「はいはい、気をつけるよ――ありがとう」

 くすくす笑うやさしげな声に、つかさはゆっくり目を開けた。


 目の前に、今まで見たことがない笑顔があった。

 親友の笑顔とはまたちがった、とても、とてもやわらかな――。

 稲瀬佐紀と、目が合う。驚いているのだろうか、赤い目がより鮮やかな赤へ――。


 なに、いまの。


――『だって、稲瀬君、結構イケメン(・・・・)なの、知ってた?』

 美羽の言葉が脳裏にフラッシュバックした。

 いつも無表情の稲瀬佐紀がどんなふうに笑うかなんて、想像したこともなかった。

 むしろ、屈託なく笑う地味男ジミーなんて存在しないと、思っていたのに。


 なに、いまの、笑顔。


 稲瀬佐紀はふいっと顔をそらして、いつもの無表情を貼り付けている。

 急激につかさの体温が上昇した。


 どうしよう、なに、これ。


 心臓が、何かに叩かれているようだ。

『誰としゃべってたの?』 

 そう聞いてみたかったけれど、突然の動悸どうきと息切れに襲われて、うまく言葉が出てこない。


 そのあと、何時にどうやって自宅へ戻ったかは、思い出せなかった。


 つかさは知ってしまったのだ。

 稲瀬佐紀という、教室の隅に座っている平凡で目立たない男子生徒の、誰にも見せることのない、顔を。



 中間テストはあっという間に過ぎ去り、赤点を免れたつかさも、夏休みをじゅうぶん遊びに費やすことができた。

 正直、稲瀬佐紀と面と向かっても、心臓がバクバク鳴りださないか不安ではあった。でも、また話がしたくて、あの笑った顔が見たくて、二学期が待ち遠しかった。

「それは、恋ですね」

「恋、ですか」

 夏休みの最終日に、美羽がカキ氷をつつきながら、きっぱり宣言した。昔からある小さな駄菓子屋のカキ氷は、毎年二人で食べる夏の風物詩である。

「ね、みうが言ったとおりでしょ?」

「じゃあさ、美羽はあいつが笑ったとこ、見たことあったの?」

 首を横に振る美羽のポニーテールが揺れた。

「でも、稲瀬君、わざと眼鏡してるし、わざと目立たないようにしてるな、って」

「メガネ?」

「そう、たぶん……ううん、絶対目がいいよ。あれ、ダテ眼鏡だもん」

 くすりとくちびるを持ち上げる美羽は、確信を持っているようだった。

 つかさはもう彼女にどういったいきさつでその推論に至るのかを、聞くまいと誓う。いつだって美羽は一枚上手なのだから。

「じゃあさ、なんでわざわざ目立たないようにしてるんだろ……」

「さあ? それはいつか、つかさが直接聞いたらいいよ。がんばって!」

 がんばって、のあとにたくさんのハートを付けて、美羽はうれしそうにカキ氷をほおばった。

「恋かぁ……あのジミーに、恋かぁー……」

「ほらっ、漫画みたいな恋したいって、言ってたでしょ?」

 つかさの複雑な心境をまったく酌む様子もなく、親友はまだハートを飛ばし続けていた。


 夏休みが明ける――。


 二学期が始まって、つかさにとって大きな変化があった。

 それは、アイとの関係だった。

 クラスの中で唯一思い通りにならないつかさに対して、アイは攻撃を始めた。


 月曜日のけだるい一時間目、科学の授業中。

「全員に試験紙はわたりましたね。では――」

 科学担当の古村先生が実験を進めるなか、つかさは驚いて向かいの席を見た。

「アイ、あたしの分は?」

「はぁ? 自分で持ってくれば?」

 同じ班になったアイが全員分の試験紙を持ってくる係のはずだった。ところが、アイは薄笑いを浮かべて、そう言った。――たったそれだけで、何を意味するのかがわかる。

 もちろんそれだけでは終わるはずがない。

 二時間目も、なぜかクラスの女子たちから、グループ作業でいっしょに組むことを、やんわり断られた。それに、体育のバスケットボールの授業でも、二人にだけ、パスが回ってこない。


 こんな地味で陰険な攻撃が、夏休みが明けてずっと続いて、正直うんざりしていた。それでも、つかさは昼休みになれば、嫌なことも一切忘れられた。


「そのー……えーと……稲瀬は、夏休み……そのー……」

 言葉に詰まりながら、アスパラガスの肉巻きを何度も何度もフォークで突き刺す。

 あの図書室の一件以来、稲瀬佐紀に対してはしどろもどろで、話しかけることもままならない状態だった。当の稲瀬佐紀は怪訝な表情を浮かべて、そんなつかさを眺める。

「えっとね、つかさは稲瀬君が夏休み、どっかに行ったり、どんなふうに過ごしてたの? って聞きたいの」

 しかも、美羽の助け舟がなければ会話が成立しない。

「どこにも。家の手伝いとか……」

「い、家……!」

「家事とかじゃなくて?」

「おれの家、花屋やってるからたまに店番とか」

「は、花屋……!」

「ふうん、意外だね。稲瀬君に花ってあんま想像できないかも」

 まるで稲瀬佐紀と美羽の二人だけで会話をしているようだった。もちろんつかさもそばにいるはずなのだが……。


 三人で一緒に過ごすこの時間だけが、つかさの気持ちをほっと和ませてくれていた。


「これが世に言うハブってやつか」

 玄関ホールでつかさがぽつりと言った。それに振り返った美羽は少し悲しそうに、そうだね、と笑う。憂いをまとう彼女は少し大人っぽくて、同姓のつかさも思わずドキッとしてしまった。

「じゃあまた明日ね、いってらっしゃい」

「うん、また明日ね、つかさ」

 デートに向かう美羽を見送って、つかさも下駄箱からローファーを取り出した。

「佐伯」

 突然呼ばれて振り返った先には、小池裕人が一人で立っていた。

「ちょっといい?」

 たびたび来るメールにそっけなく返信したことだろうかと、ほんの数秒黙考したつかさは、おとなしくうなずいた。

 人通りの少ない中庭へ続く渡り廊下。そこで小池はつかさと向き合った。

「なに? 今日は用事があるんだけど」当然のように嘘をつく。

「ん……あんま時間とらせねーよ」

 いつもとちがって、今日の小池は妙にしおらしく感じた。普段ならもっと強気に迫ってくるというのに――。

「……オレさあ、佐伯に軽くみられてると思うけど……」

 緊張めいた沈黙が、ふたりの間をそろりと通過する。

「……本気なんだ」

「……え?」

 小池の突然の告白に、つかさの目が点になった。

「……えっ?」

「オレ、本気で佐伯のこと、好きなんだ」

 小池がまっすぐつかさの目を見つめた。

 いつもの斜めに構えた態度は微塵みじんもない。

 数秒の沈黙が、数分にも感じられる。

 やっとつかさがしぼりだした言葉は、本心からの、一言。

「……ごめん」

 その瞬間、小池のくちびるがわずかに震えた。目を伏せるときの悲しそうな表情が、彼の言葉は真摯なものだったと、つかさに思い知らせる。

「……ごめんね」

「……そっか」

 言った小池は、ふたたびくちびるを結びなおしてぱっと顔を上げた。

「好きなやつ、いるの?」

「……うん」

「まあ、誰かは言わなくても、なんとなく……わかる」

 隣のクラスの男子にもわかってしまうくらい、態度に出ていたのだろう。つかさの頬がさっと赤くなる。

「でも」

 強い語調、自信にあふれる眼光、そこにふだんの彼が戻ってきたように思えた。

「でも、まだあきらめねーから!」

 ふっと鼻で笑った小池はじゃあな、とひらひら手を振って渡り廊下をあとにした。

「えっ、えっ?」

 残されたつかさは、小池裕人の後姿が見えなくなるまで、渡り廊下に立ちすくす――。



 翌朝、教室に入って席に着くと、つかさはいつものように隣の席の稲瀬佐紀に「おはよう」と声をかける――はずだった。それが、つかさより早く着席しているしているはずの稲瀬佐紀が、今日に限って姿が見えない。

「美羽、稲瀬は? まだ来てないの?」

「まだみたいだよ。へんだよね……」

 美羽が不安そうにつぶやく。

 ホームルームの本鈴が鳴る直前、うしろの扉がスッと開いた。めずらしく、ギリギリの時間に稲瀬佐紀が登校してきたのだ。

 しかし、その顔を見てつかさは息をのむ。

「どうしたの、その顔……!」

 頬にできた黒っぽいあざと、切れたくちびるに残る、固まった赤黒い色。

 妙な胸騒ぎがつかさの身体をすばやく駆け抜けていった。

「渡邊さんとは、もう前みたいにしゃべらないの?」

 その言葉に、つかさはハッと目を見開く。

 あまり他人に興味を持たない稲瀬佐紀が、この事実を――アイと仲たがいをしたことを知ってしまった。そして、その原因が自分だと、おそらく知ってしまった。

「……その怪我、誰にやられたの」

 この質問にも、彼は答えない。


 それ以降も、稲瀬佐紀は口を閉ざしたままだった。


 唯一の楽しみだった昼休みは、この日を境に一変した。

 いつもなら置物のように席に座っている稲瀬佐紀が、昼には姿を消してしまう。つかさを避けているということは、一目瞭然だった。

「あーあ、嫌われちゃって、いい気味!」

 そんな子供じみた嫌味でさえ、今のつかさにとって平手打ちに等しい。

――アイのせいで、こんなことになってるのに。

――なんで、あたしが稲瀬に嫌われなきゃなんないの。

 悔しくて、悲しくて、切なくて。

 背中に美羽の手がやさしく添えられたとき、はじめて、つかさは自分の目頭が熱くなっていることに気づいた。

「つかさのこと、嫌いになったわけじゃないと思うよ」

 やさしく抱きしめるような、そんなあたたかい美羽の言葉に、涙がこぼれそうになる。こくっと小さくうなずくことが、精一杯だった。


 稲瀬佐紀との距離は、わずか六十センチ足らずだというのに、ひどく遠く感じられた――。



 午前授業しかないそんな土曜日の放課後、音もなく教室を出て行った稲瀬佐紀を追いかけて、つかさは玄関ホールでやっと上着の袖をつかんだ。

 当の稲瀬はつかまれた袖にちらと目をやって、つかさを冷めた目で見すえる。いや、本人にすればいつもどおりの表情なのだろう。

 けれど、つかさにはそれがひどく冷たく映った。

「なんで避けるの?」

 震えそうになる声を必死に隠して、つかさは眼鏡のレンズの向こうにある、明るい目を見て言った。

 無表情からは、なんの感情も読み取れない。

「ねえ、あたしとしゃべんなくなればアイと元通りになって、それで解決って思ってる?」

 その無表情から、『もう構わないでほしい』そんな言葉を浴びた気がした。

 もっと稲瀬と話がしたい、いつもみたいに「おはよう」と言ってほしい、誰も知らない稲瀬の笑った顔が、見たい。

 たったそれだけのささやかな願いは、もう、叶わないような気がした。

 堰が切れたように、感情が氾濫する。

「……そんな簡単じゃないよ! 友達いない稲瀬にはわかんないんだよ!」

 叩きつけた言葉がはねかえって、自分自身の頬をぶったような衝撃に、つかさはわれに返った。

 稲瀬佐紀が目を伏せる。

「あ……」

 制服の袖をつかんでいた手から、力が抜けた。

 完全に、声が震えた。

「ご、めん……」

「佐伯さんが謝ることないよ」

「あたし……そういう、つもりじゃ――」

「いや、本当のことだから」

 そう言った稲瀬佐紀は、つかさの前から静かに去っていった。下校していく生徒の波に、あっという間に溶けていく。

「……もう、やだ」

 ひざの力までも、ぬけていく。

「……あたし、バカだ……。好きな人に八つ当たりとか……しかも、あんなひどいこと……」

 玄関ロビーの支柱に背を預けて、しゃがみ込んだつかさの頬に涙がつたう。


 心臓に刃を突き刺したような鋭い痛みを、稲瀬佐紀も感じているだろうか。


 

 教室の隅の席の男子生徒は、ふたたび、ひとり本を読む。誰ともかかわることなく――。


 つかさと美羽への嫌がらせはいまだ続くし、小池から頻繁ひんぱんにお誘いメールが届くなか、季節は文化祭へ近づいていった。

 秋の一大イベントではあったけれど、稲瀬佐紀から避けられるようになってしまったつかさは、どうにもやる気がわかなかった。しかも、謝る機会を失ったまま、すでに一か月も過ぎている。

 放課後はどの学年のクラスも、出し物の準備で忙しくしていた。

「あーっ、つかさ、さぼってる!」

「だって疲れたんだもん」

 美羽が頬を膨らませて教室に登場した。

「カフェ係のみうがこんなにがんばってるのに!」

 ジャージ姿で、長い垂木を重そうに運ぶ美羽を見ていると、男ならば思わずきゅんとしてしまうところだ。美羽ほど肉体労働の似合わない女子はいないだろう。

「美羽も休憩すればいいじゃーん」

 悪びれもせず、つかさは窓枠に肘をついてぼんやりグラウンドを眺めた。遠くの空は朱を差している。

「あっ」

 視線を落とすと、花壇のそばに腰掛ける二人の男子生徒が目に入った。小池とつるんでいる友人たちだ。

 たださぼっているだけなら、まだ可愛げがあったのに、よりによってタバコを吸って休んでいる。

「そこーっ、見つかったら停学になるぞーっ!」

 つかさが叫ぶと、それに気づいた二人は三階の窓を仰ぎ見て、つかさちゃーん、と手を振った。

 反省の色はないらしい。


 文化祭まで残すところ一週間。

 その間も、つかさと稲瀬佐紀の間には微妙な空気が流れていた。

 つかさのクラスの出し物はメイドカフェで、ほとんどの生徒は放課後、カフェのセットを作ったり、買い出しや食器磨きなどの裏方作業に徹している。

 むろん、稲瀬佐紀もその裏方のひとりだ。

「稲瀬は、なにしてんの?」

「色塗ってるけど」

 それなりに気合を入れて声を掛けたというのに、返ってきた言葉はまるで業務連絡のよう。久々の会話は一言で片ついてしまった。

「うん……見ればわかるけど……」

 ベニヤ板で作ったカフェの白い壁に、バロック調に似せた模様を描く作業のはずが、気味の悪い呪文が連なっていた。

 目を疑う美的センスに――これは人選ミスというやつだ――、つかさは軽く頭を振った。

 これ以上は言うまい。いや、避けられている以上、あまりしつこくして余計嫌われてしまうことを恐れているから、つかさはそれ以上、なにも言えなかった。

「あー……あたしは作業終わったから、他のクラスぶらぶらしてくるね」

 会釈のようにうなずいた稲瀬佐紀の後姿を、名残惜しげに見つめてから、ため息をついてつかさは教室を出た。

 それからまもなくのことだった。

 偶然聞いてしまったのだ。

 男子トイレのそばの階段で、男子生徒たちの話を。

「てゆーか、ヒロ、進展ないならあきらめればいいじゃん」

「やだ」

「たしかに美人だし、狙ってるやつ多いけどさぁ、ありゃ無理でしょ」

「うるせーな」

 小池裕人と、その友人二人だとすぐに悟ったつかさは、男子トイレの陰にぱっと身を隠した。小池の好意に応えられないからこそ、あまり会いたくないと思ってしまう。

「せっかく協力してやったのに」

「余計なことしてんじゃねーよ。べつにあいつがいようがいまいが、関係ねーし」

 小池のイライラした口調が、つかさの胸をざわめかせた。

 いったい何の話だろう。

「でもさぁ、あいつ、地味男ジミーが離れれば止まると思ったんだけどなー」

「あはは! 女子ってマジで陰険よなー」

 馬鹿笑いが響いて、その瞬間つかさはすべて気づいた。稲瀬佐紀がある朝、顔に怪我をして登校したことも、その日を境に突然冷たくなったのも、一緒に昼食をとらなくなったことも。

「お前らが勝手なことするから、佐伯が元気なくなったんだよ!」

 つかさはふらふらと立ち上がった。ちょうどトイレから出てきた同じクラスの田中がぎょっと驚くのもよそに、あてどなく歩きはじめる。


――「『お前なんかと仲良くしてるせいで、つかさちゃんはハブられてんだよ!』って言ったときのあいつの顔、殴られたみたいにビビッてたんだぜ。殴ったとき無表情だったのにさぁ」


 その言葉は錆びたナイフそのもので、胸に突き刺さったまま、鈍い痛みを与え続ける。

「あたしのためにわざと冷たくしたり、避けたりなんて、ちっともうれしくない……」

 気づかないうちに、涙が、こぼれていた。


 つかさの中のどんよりした気分が晴れないうちに、とうとう文化祭が幕を開けた。

 時刻は一般開放の三十分前。

 大道具係のつかさにもはや出番はなく、一階から三階まで、各クラスの出し物を眺めて歩いているときだった。

 例の小池の友人――名前は最近知ったのだけれど、長身のほうが後藤、茶髪のほうが綾野という――たちがあわてて階段をくだっていく。

「なにしてんの? もうすぐ一般の入場、はじまっちゃうよ!」

「松田に捕まる前に逃げんの!」

「つかさちゃんまたねー!」

 生活指導の松田先生のどなり声が、三階から遠吠えのように響いた。二人の通ったあとにタバコのにおいがして、思わずため息をこぼしそうに、なった。


 十時ちょうどになって、一般客が校門からぞろぞろ校舎へ向かってくる様子を、つかさは一階の廊下の窓からぼんやり眺めた。

「あーあ、高校に入って初めての学祭、ひとりぼっちか……稲瀬といっしょに出店まわりたかったなぁ」

 本音をこぼしたとき、ふと妙な焦げ臭さを感じてグラウンドへ目をやる。

「出店の焼き鳥とかかな……?」


 それから十分も経たないうちに、事態は急変した。

「三階から火が出てる! 火事だ!」

 誰が叫んだのかはわからない。でも、悲鳴や怒号があがるのに、さほど時間はかからなかった。

 校内には火事を知らせるサイレンと、避難を促すアナウンス。

 炎は三階の東側、文化祭の物置部屋のある方向から出たらしい――誰かがそう言った。

 煙はまるで意志を持った生き物のように、駆け足で一階まで迫ってきている。

 あたりに響く老若男女の悲鳴、生徒たちを確認する教師の叫び声。

 避難場所のグラウンドにたどり着いたつかさは、美羽やアイがいないことに、ようやく気がついた。

「うそ……美羽? どこにいるの、美羽!」

 まだ三階に取り残されている生徒がいる。その絶望的な言葉がどこからか聞こえてきた。

 カフェスタッフ係は、まだ、教室だ――。

 生徒たちの波に逆らって階段を目指した、その時。誰かに腕をつかまれて、つかさの足が止まった。

「佐伯! なにやってんだよ!」

 クラスメイトの狩野良太郎かのうりょうたろうが怒鳴るように叫んだ。

「美羽が、アイたちも、まだ教室に――」

「お前まで巻き込まれんだろ、早く避難しろ!」

 普段の狩野から想像もできない剣幕で、人波に押し戻される。けれど、狩野の親切心を裏切ることになっても、三階にいかなければならない。

 見捨てていけるわけがない。消防車のうなり声は、まだまだ遠いのだから。

――救助を待っていたら、助からないかもしれない。

 狩野に止められた中央階段を離れて、つかさは一番端の、東階段を駆け上った。

 二階はすでに炎が伝播していて、あらゆるものを飲み込もうとする生き物のように、うねっている。なぜこんなに炎の勢いが強いのかなど考える余裕もなく、ただ、恐怖に足がすくんでいた。

――怖い……。

 煙のせいなのか、恐怖からくるのかはわからない。けれど、涙がボロボロとこぼれた。

「助けないと……」

 それでも、必死に膝を起こした。近くの女子トイレに駆け寄り、そこでバケツの水を頭からかぶる。

 自分を奮い立たせるものが何なのかは、わからない。けれど、震えるからだを叱咤して、炎の前に立つ。口をふさいで一歩、踏み出した。


 三階は炎の海だった。この階に人が残っているなら、生きていることは絶望的に思えた。

 黒煙が、容赦なくつかさを襲う。

「ゲホッ、ゴホッ!」

 追い討ちをかけるように、真横の教室が爆発を起こした。

 扉もろともつかさは吹き飛ばされ、コンクリートの壁に激突する。

 煙と痛みにもうろうとする中、つかさはだれかの輪郭を見た。

「……稲、瀬……?」

 それは、黒髪だった。眼鏡はしていない。

 侍のような和服――袴姿が浮かぶ。腰には、刀だろうか。なのに、どうしてかその人物を稲瀬佐紀だと、認識した。

 『稲瀬君、剣道習ってるんだって』――美羽の言葉を、思い出したからなのかも、しれない。

 あるいは、見下ろす瞳が赤いように見えたからかも、しれない。

「リンカ、わかってる……」

 聞き覚えのある声が、そう言った。

 ぼやけた姿の横に、ゆらゆら揺れる炎のようなものが、一瞬、見えた気がした。かすむ視界では、本当に一瞬だった。

 袴姿の人物は、それに話しかけているようにも見える。

――人魂……いや、狐火、っていうんだっけ……?

こちら側(・・・・)でコレイの姿にならない約束は、ちゃんと覚えてるよ。けど、どうしても、今回だけは……」

 ふわっと身体が軽くなって、お姫様のように抱きかかえられているのだと、つかさは鈍くなった思考で理解した。

 力強く、それでいてやさしく抱きかかえるその人物のぬくもりが――おだやかな鼓動が心地よい。

 心臓が、ドキドキ高鳴る。

 頬が、耳が、いや全身が、熱い。

「いなせ……」

 ひやりと冷たいタイルの感触を最後に、つかさの意識は薄れていった。


 意識を失う直前、離れていく後姿に、奇妙なものを見る。

 狐の尻尾のようなものが、揺れていたのだ。



 目を覚ましたとき、つかさは救急隊員の手当てを受けてグラウンドに横になっていた。

 男性隊員はてきぱきと消毒しつつガーゼを貼って、二つ三つ、つかさに問診をした。意識がもうろうとする中で、発作的に美羽を思い出した。

「三階にいた、みんなは、無事ですか!」

「ああ、三階に残っていた生徒は全員、無事だったよ。軽い火傷と、かすり傷はあったけど」

 彼はつかさを心配させないように、というよりも、むしろ安堵した表情でそう言った。

「われわれも本当に信じられないくらいだ。到着した時には、どういうわけか、火が、消えていてね」

「……あの、あたし、どうやって助かったんですか?」

 救急隊員の誰かが助けに来てくれたのだろうか、もしかしたら、目の前の隊員だろうか。

 彼はつかさの肩に手をぽんと置いて、さわやかな笑顔を浮かべる。

「男子生徒が、きみを抱えてきたんだ」

 つかさは目を見開いた。

 たったそれだけしか聞かされていないのに、なぜか稲瀬佐紀の姿が、目に浮かぶ。


 美羽と無事再会したのは、それから四十分後のことだった。



 授業の再開の連絡を受け取ったのは、驚くことに、火事があってから一週間後という早さだった。

 どういうわけか、あれほどの火災だったというのに、校内は思いのほか被害が少なかったらしい。

 窓ガラスが数枚割れ、カーテンが焦げたり、教室の扉が一か所吹き飛んだくらいで、壁や天井は魔法で修復されたかのように、ススのひとつもついていない。

 「奇跡としか言いようがない」と、消防隊員が首をひねりながらインタビューを受けている映像を、つかさは授業再開の朝、ニュース番組で目にした。けれど、火事の原因が生徒のタバコの不始末だったということは、教室に入る前に体育館で行われた朝礼で発表された。

 この一週間で見るからにげっそりした校長には、約四百名いる生徒の中から犯人を見つけることができなかったらしい――。


「おはよう」

 教室に入って、いつものように隣の席に声をかけた。最近なら目もあわせずそっけなく「おはよう」と返ってくるだけなのに、それが今日は違った。

「怪我、だいじょうぶ?」

 隣の席の、稲瀬佐紀が無表情にそう言った。眼鏡の奥の、赤味がかった瞳は、相変わらずあまり感情を映してくれない。

 彼は本当に心配してくれているのだろうか。いや、それだけではない。彼は本当にごくふつうの高校一年生で、クラスメイトで、隣の席の、目立たない生徒なのだろうか。

 つかさは頬のガーゼにそっと手を触れた。

「うん……もうほとんど治ってるから」

「そう。よかった――佐伯さんが、無事で」

 ほんの少し、稲瀬佐紀がほほえむ。


 つかさだけに向けた、ほかのだれも知ることのない顔。


 たくさんの疑問のこたえよりも、今はそれだけでじゅうぶんだった。

 なによりもつかさがほしかったものは、稲瀬佐紀の、笑った顔なのだから。

 いささかの疑念を焼き払うような熱が、からだの芯から広がる。


「……ありがとう、稲瀬」


「あの時助けてくれて」という言葉は、今は胸の中に閉じ込めておこう。



――ねえ、稲瀬。お礼に、手作りのお菓子を渡しても、許されるよね?





このたびは最後まで本作にお付き合いくださり、ありがとうございました。


本作は短編三部構成になっていて、二部「驟雨」、三部「火色」へつづきます。興味がございましたら、どうぞよしなに。

ちなみに、登場人物等は「手宮町シリーズ」とリンクしたものとなっております。


目を通してくださったみなさまへ、心から御礼申し上げます。

そして、伽砂杜さま、すてきな企画に参加させてくださってありがとうございました!


お菓子&お返し企画

http://spikeofgold.web.fc2.com/okasiokaesi/top.html



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[一言] こんにちは。 さっそく拝読させていただきました。 つかさちゃんがめっちゃ可愛いです。 美羽ちゃんもふんわりとした中に芯の強さも見えて、とっても素敵なお嬢さんなのですが。 つかさちゃんの…
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