18.二度目の恋 ─遥─
「まあ、堂野君。よく来て下さったわ。雄太郎からあなたが来るって聞いて、首を長くして待ってたのよ」
伊藤小百合は、以前にもまして若々しく、キュートな笑みを浮かべながら、遥を出迎えた。
「こんにちは。ご無沙汰してます」
「お元気そうで何よりだわ。前にしぐれに会いに来てくださった時には、急用であなたにお会いできなくて、とても残念だったわ。ふふふ。実はね、私、来月から徐々に仕事を再開させようと思ってるの」
「そうですか。お身体の方は大丈夫なんですか?」
「ええ、すっかりね。もともとそんな重病じゃなかったんだから。ほとんどずる休みみたいなものよ。内緒だけどね」
小百合は、急に声を潜めて茶目っ気たっぷりに言う。
「これからもご活躍、期待していますよ。僕も四月から放送局勤務が決まっていますので、また機会があればご指導をお願いします」
「まあ、そうだったわね。それじゃあその時は遠慮なくビシビシ言わせてもらうわね。ふふふ」
まるでいつもと変わらない空気の流れる本田邸の本宅の応接間で、遥は伊藤小百合自らが淹れてくれたコーヒーを味わっていた。
「で、あなたもご存知のとおり、しぐれのことなんだけど……」
「はい。先輩から聞きました。本当に、部屋から出ないんですか?」
「そうなの。前にあなたがここにいた時使ってもらってた部屋に、ずっとこもったままなのよ。食事も一日に一度口にすればいい方で、私ですら、何日も顔を合わさない時もあるの。もう、心配で心配で。あの子の両親も昨日来たんだけど、結局会わずに帰って行ったわ」
小百合は包み隠さず、遥に今のしぐれ状況を伝える。もう後は、あなたしか頼る人がいないのよとまで言われ、遥自身も困惑を隠せない。
「何かね、駆け出しの若手俳優からも毎日のように電話がかかってきてて。それもあの子にはプレッシャーみたいなのよね。でも一番の原因はやっぱり大河内さんのことじゃないかしら。うちにも二人でよく遊びに来てて、とても仲が良かったのよ。なのに、どうして別れちゃったのか。若い人のことは私にはもう手に負えなくて……」
「わかりました。では、しぐれさんに聞いてみます。あの部屋ですね?」
遥は、多分会うのは無理よという小百合の助言を胸に、ダメもとで大学二年の時に居候させてもらっていたなつかしい部屋の戸をノックした。
「しぐれさん。俺です。堂野です。ちょっと尋ねたいことがあって。ここ、開けてください」
しぐれのいる部屋に向ってドア越しに、遥が声をかける。
あくまでも感情的にならずに、かえって普段よりも小さめの声で、ゆっくりと話しかけた。
「しぐれさん。聞こえてますよね? ……佐山のことが原因ですか? もしかして俺となにか関係してるんじゃないですか?」
遥が佐山の話を持ち出した時だった。ドアの向こうで変化が起きたのは。
ドアノブがゆっくりと回り、ドアが開いた。
そこは簡易なベッドと、ドレッサー代わりの机、クローゼットがあるだけの六畳くらいの洋間だ。
そして遥はドアのところに立っているしぐれを見て、その変わり果てた姿に絶句するのだった。
肩の下くらいで切られた髪はブラシをあてていないのだろう、艶もなく、まとまりのないまま無造作にあちこちがハネている。
化粧っけも全くない青白い肌は、到底雪見しぐれのそれではなかった。
「しぐれさん……」
「堂野君。来てくれてありがとう。あたし、とても人前に出られる格好じゃないけど、あなたに伝えておきたいことがあるの。どうぞ、中に入って……」
しぐれは抑揚のないか細い声で、遥を部屋の中に招き入れた。
遥の背後では、その一部始終を見ていた小百合が両手で口元を押さえ、嗚咽を漏らしている。
「堂野君。佐山がね、少し前からあたしに交際を迫ってるの」
遥はベッドに力なく腰掛けたしぐれの口から、ある程度は予想していたことを聞かされる。
「彼はね、あたしと堂野君が付き合っていたのはでたらめで、あなたには柊さんが、あたしには大輔がいたのを知っているって……」
それを聞いたと同時に、遥はピクっと眉を上げた。
「何となく、そうじゃないかな、とは思ってましたよ。佐山の奴、俺のことかなり根に持っていたから……。俺の所属事務所がしぐれさんの大手事務所に吸収されてから、余計にアイツの態度が硬化していったのも知っていたんだ。本来ならばアイツが手にする仕事がかなり俺に回ってきてたのもあって」
「そうだったの。あなたも苦労したのね?」
「ははは。でもね、しぐれさん。表面はニコニコして実は裏では何を言われているかわからないって人よりも、数段アイツの方が扱いやすかったのも事実ですから。あそこまで敵対心をむき出しにしてくれるとこっちもわかりやすいし、回りの人間もうまくフォローしてくれますからね。で、今度はあなたにちょっかいですか?」
しぐれはふふっと薄く笑うと、また視線を落とし、二度ほどため息をついてだるそうに話し始めた。
「ちょっかい程度ならあたしも放っておくわ。でも……。佐山は本気よ。付き合わなければそれなりの手段を取らせてもらうとまで言ってる。あなたとあたしのことはでたらめだったって世間に公表するつもりなのよ」
「しぐれさん、そんなの誰も相手にしませんよ。どっちみち俺達は自然消滅ってことになってるし、証拠だってどこにもない。だからしぐれさんはあんな奴は無視してればいいんですよ」
「だといいんだけど。でもね、ネットの掲示板で騒がれたのをきっかけに事務所サイドも動き出すかもしれないの」
「どういうこと? ネットの掲示板って?」
遥は、修士論文に多忙を極めるあまり、そういったところにまで気が回らなかったのだ。
仕事に携わっている時は、気になって時々チェックすることもあったが。
「ドラマのストーリーどおりにあたしと佐山が現実でも結ばれて欲しいとか、二人はお似合いだとか……そういうの。」
「ドラマの中の出来事と現実が視聴者の中で同一視されてしまったってこと?」
「そういうことなの。ドラマのイメージアップにも繋がるし、プライベートでもそうなってもいいみたいに事務所からも言われて……。あたしだって、何もかも忘れて、新しい恋に生きていければどれだけ気が楽になるか……。でも、無理なの! 到底無理に決まってる。佐山が好きとか嫌いとか、そんなんじゃなくて、もう誰とも恋なんてしたくないの! あたしが好きになった人は、いつもこの手の間からすり抜けていってしまう。どうして? なんでそうなるの? ねえ、堂野君答えて。」
「しぐれさん……」
「あたしが悪いの? なんでこんなに苦しまなきゃいけないの? 教えてよ! ねえ、堂野君、教えてっ……あああ……」
「しぐれさんっ!」
必死で保っていた精神の均衡がほんの少しバランスを崩したとたん、それはドミノ倒しのように次々と倒れてゆき、堰を切ったように悲しみが溢れ出す。
遥は、手を振り上げて大声でわめきながら暴れようとするしぐれを押さえるようにして後ろから抱きかかえた。
初めは抵抗していたしぐれも、次第に観念したのかおとなしくなり、遥の胸にもたれるようにして、時折泣きじゃくる。
しぐれの心が破綻をきたす一歩手前であることが遥にも見て取れた。
また新たにしくまれようとしている愛のない恋愛へのシナリオにしぐれが激しく拒絶反応を起こしているのだろうか。
それに、先日の大河内との別れが重なって、しぐれの胸の中は、想像もつかないほどの混沌を呈しているに違いない。
前のことといい、今回の佐山の件といい、腕の中で泣いているしぐれに遥は自責の念を感じていた。
不可抗力であるとはいえ、すべてに自分が絡んでいるのは否めない。
大河内のことにしても、柊を自分の腕の中にとどめてさえおけば、こんな結果にならなかったのだ。
遥は、ガラス細工のような今にも壊れそうなしぐれの細い肩に手を添えて前を向かせると、泣きはらした彼女の瞼にそっと唇を落とし、流れる涙を親指でぬぐいながら言った。
「ずっとそばにいるから。俺がしぐれさんのそばにいるから……。だから、もう泣くなよ。頼むから、泣かないでくれよ」
遥の二度目の恋は、涙の味がするしょっぱい口付けから始まったのだ。
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