17.口付けの定義 ─遥─
大学裏手の山林へと続く小径の端にあるベンチに腰掛けた遥は、手に缶コーヒーを持ったまま目の前の梅の木を眺めていた。薄紅の蕾が膨らみかけ、時折舞う小雪を物ともせず、春の訪れが近いことをひっそりと告げているようにも見える。
遥はあの日から何度も同じことを考えていた。柊が大河内と付き合っている。そして、大河内は柊との結婚すらほのめかしているという信じられない真実を……。
でも遥は今更自分にはどうすることも出来ないということもわかっていた。
混乱した意識の元、腕の中にいた震えるしぐれとかわした口付けは、遥にとっては予想外の結果だったのだ。
ただ、あの時はそうするしかなかった。いや、それでも生きていかなければいけない遥としぐれにとっては、お互いが存在していく意義を確かめるためにも、必要な行為だったと言わざるを得ない。
所詮、あの場限りのお互いの弱さの露呈でしかなかったのだ。そう。思いやりの現れだったのかもしれない。しぐれは遥に。遥はしぐれに。
ただあれからひと月経つが、しぐれと会うことも、メールすら交わすこともなかった。
だがそれは結果的に遥の気持ちを楽にさせてくれたのも事実だ。
たかが一度きりの口付けくらいで、二人の関係が劇的に変化するほど、しぐれも世間知らずではなかったということなのか。
遥はある決心をしていた。
論文も無事提出を終え、卒業式までの比較的時間のある今、ロスに向おうと決めたのだ。
もちろん柊を自分のもとに取り戻そうとか、大河内との間を引き裂こうとか、そういうことではなく、純粋な気持ちで真正面から柊に会い、今までの不義理を詫びるつもりだったのだ。
そして大河内との関係を祝福までは出来なくとも、二人の仲を認めるところまではなんとか自分の気持ちを消化し、整理していきたいと考えていた。
将来、共に人生を分かち合えなくなったとしても、柊とは親戚としての繋がりをこの先永遠に絶つことは出来ない。
蔵城家の家と土地があそこにある限り、柊を避けて暮らしていくことは不可能だ。
同じく柊も遥を永久に遠ざけることは出来ないのだ。
遥はお互いの間に横たわるわだかまりを取り除くためにも、今この時期に柊と話し合っておくことは重要だと感じていたのだ。
遥はすっかり冷え切ってしまった缶コーヒーを一気に飲み干すと、研究室の残務整理をするためにやおら立ち上がった。
「堂野先輩、どこ行ってたんですか? 探しましたよ!」
遥の所属する研究室のある建物の一階ロビーで、息を切らせながら後輩が声を掛けてきた。
「なんだ、井上」
「なんだじゃないですよ。本田さんとおっしゃる卒業生の方がお見えです。なんか、こう……背が高くって、髪なんかラメっぽく光ってて、それでもって、風に流されるような感じでワックスで固められてて、ピアスが……」
身振り手振りで来客の説明をする井上だったが、遥が途中で言葉を遮る。
「わかった。本田先輩だな。研究室にいるのか?」
「はい。堂野先輩が戻るまで待ってるって……」
「じゃあ、すぐに行くよ。井上、悪かったな」
遥にあこがれるあまり、決まっていた就職を蹴ってまで院に進学してきた井上は、遥の研究のよき右腕でもあったのだ。
そんな井上をねぎらい、急いで階段を駆け上がった遥は、本田の待つ研究室のドアを開け、懐かしい面影に再会した。
「ええっ! あれから仕事に行ってないんですか? 一度も?」
遥はひとしきり話し終えた本田に向って声を荒げた。
「ああ。それはひどいもんだよ。マスコミを避けるために家にかくまっているんだが、部屋に完全に引き篭もってしまって……。俺も舞台の方が忙しくて家にあまり帰れないから、お袋も困り果ててるみたいで。幸いドラマ撮りの方は穴を開けずに済んだみたいだが、単発の仕事は全部キャンセルした。四月からの映画のクランクインをどうするかで事務所サイドも困っているらしい。あいつが失恋したのは知っているけど、どうもそれだけじゃないみたいなんだな。なあ、堂野。おまえ、何か知ってるんじゃないのか?」
「一ヵ月ほど前に、しぐれさんの彼氏と……大河内と別れたことはご存知なのですね? 俺もそれ以外のことはわかりかねます。……何も聞いてませんが」
まさかしぐれと口付けを交わしたとも言えず、それにそのことが引きこもりの原因だとは到底考えられないので、遥も他に思い当たる節がないとしか答えようがなかった。
「お袋が言うには、共演した男から何度か電話がかかって来たというんだ。あいつの携帯に繋がらないからどうしたのかと心配してかけてくるらしい。しぐれがうちにいることを知っているってところが俺としても引っかかるんだが……」
最近しぐれが共演した男なら、考えられるのはただ一人。遥は、先週最終回を迎えた連続ドラマの共演相手を思い浮かべていた。
それは遥にとってはあまり思い出したくない相手ではあったのだが。
「先輩。もしかしてその電話の男、佐山って言ってなかったですか?」
「うーーん。そうだった気もするな。前まで共演してた、少し線の細い感じのいけ好かない奴だよ。そんな奴がしぐれを気遣って電話してくるってあたりが解せないんだけどな」
遥は確信した。あいつだ。佐山拓だと。
それと同時に、何か怪しい雲行きも感じていたのだ。
遥が事務所に在籍している間中、遥を敵視していた佐山のことだ。しぐれを通して何かよからぬ策でも講じているのではないかとの疑惑はぬぐえない。
絶対裏に何かがあると睨んだ遥は、その夜、しぐれに会いに本田邸に向ったのだった。
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