16.代償 ─遥─
「大河内、おまえ……」
「大輔……。それ、いったいどういうこと?」
遥の言葉を遮るようにして、しぐれの声が重く部屋に響き渡る。
しぐれは微動だにせず、テーブルの上の携帯をじっと見つめながら、もう一度繰り返した。
「いったい、どういうこと?」
幾分冷静さを取り戻した大河内が、しぐれを見て、淡々と語り始めた。
「さっき言った言葉どおりだよ。今は柊のことしか考えられない。彼女とは昨年の秋に再会して以来、ほとんど毎日のように会っている。彼女も僕と会うのを楽しみにしてくれているよ。しぐれ、堂野。言っておくけど、僕は遊び半分で彼女と付き合っているわけじゃない。ロスで偶然彼女に出会えたことに何か特別な意味があるんじゃないかとさえ思っている。こうなる運命だったってね。近々彼女に結婚を申し込むつもり……」
「やめて! 言わないで! それ以上、何も……言わないで……」
しぐれは懇願するように大河内に訴えかける。そして携帯を両手で握り締めると、真っ直ぐに顔を上げたまま肩を震わせて、涙を堪えるように唇をかみしめていた。
「大河内。それ、本当なんだな?」
遥は時折しぐれの様子を見ながら、大河内に尋ねる。
「本当だ。嘘だと思うなら真木部長に聞いてみてくれ。君と部長は遠縁らしいな。そして奥さんと柊も親戚だというし。相変わらず君達の縁の深さには驚かされるばかりだけど……」
「裕樹兄さんには聞くまでもないさ。俺はそんなこと尋ねる資格のない人間だからな……。大河内、おまえにこんなこと言えた義理じゃないけど……。柊は、たとえ別れた今でも、大事なかけがえのない俺の身内なんだ。おまえの気持ちはよくわかった。だから……だからあいつを……頼む。俺が果たせなかったことも、おまえならきっとできる」
「堂野……」
「彼女を幸せにしてやってくれとかそんな安っぽいことは言わないが、あいつの心の支えになってくれるのなら、それ以上は何も望まないよ。孤独は人の心を蝕む。俺はこの四年、身も心も施しようのないくらいボロボロになったよ。もちろん自業自得だから、誰も責められない。何かを得れば何かを失うのは自然界の摂理だからな。その点、柊は強いよ。すっかり立ち直ってるみたいだしな。あいつを救ったのはおまえなんだろ? 俺じゃなくて大河内、おまえだったんだ。それがすべての答えだよ」
遥は立ち上がり、血の気の無い青ざめた顔をして必死に平静を保とうとしているしぐれの肩に手を添えながらもう一度大河内を見た。
「だがおまえは最低だよ。俺と柊のことはなんとでも言ってくれていい。でもしぐれさんはどうなる? しぐれさんは、おまえと別れることに納得していないんだぞ!」
「堂野……。悪いけど、これは僕としぐれの問題なんだ。二人にしかわかり得ない。そしてそこには埋められない深い溝があるんだよ。だから今日会って、僕の本当の気持ちを伝えることで、理解してもらおうと思ったんだ。僕は謝らないよ。振られたのは結局僕だったと思ってるからね。これ以上一緒に居てもお互いが不幸になるばかりなんだ……」
「大河内。おまえが振られたってことにして、それがしぐれさんへの思いやりとかいうのなら、それはおまえが間違ってるぞ。しぐれさんはおまえを振ってなんかいない! おまえが柊のことをあきらめきれなかっただけなんじゃないのか? しぐれさんをずっと騙していたんだろっ!」
「辞めて! 堂野君」
大河内を責める遥を諌めるようにして、しぐれが声を荒げる。
「もういいの。それ以上言わないで。……これじゃあ、まるで、あたしがすごい嫉妬深くて嫌な女の見本みたいじゃない! 大輔。もういいわ。あなたの好きにしてちょうだい。堂野君、悪いけどM山スタジオまで送ってくれる? この後まだ少し仕事が残ってるの。ふふ……。あたしだってバカじゃないわ。大輔が誰を思ってるかなんてことはとっくに知ってたんだし。今のあたしには仕事が一番大切なの。こんなことくらいで泣いてもいられないし、幸い、涙なんかこれっぽっちも出てきやしないわ。それと……あたしが振って悪かったわね。でも……ありがと。あなたに振られたわけじゃないって……そういうことにしておいてくれるのね。仕事……」
仕事がんばってね……という最後の言葉は、遥より先に部屋を出ようとしていたしぐれの背中から、大河内に向けて投げつけられた。
遥は項垂れる大河内を部屋に残したまま、しぐれを追って急いで店の前の駐車場に向った。
遥の車に潔く乗り込んだしぐれは、助手席に座ってシートベルトをしたとたん両手で顔を覆い、どこでもいいから高速をぶっ飛ばしてちょうだい! と叫ぶ。それっきり何も話すことはなかった。
時折聞こえる震えるような吐息に、彼女が泣いているだろうことは簡単に想像がつく。
その痩せた華奢な肩を小刻みに揺らしながら、決して声を漏らすことなどなく。そして涙を指に滲ませることもなく……。
恐ろしいまでの女優魂を見せ付けられているようだった。
しぐれは心の中で泣いているのだ。
決して誰にも涙を見せることなどなく……。
遥は夕日を背に受けながら東に車を進めた。そして本田邸に車を滑り込ませる。
「しぐれさん。着きましたよ。M山スタジオの仕事の話嘘でしょ? ここで良かったのかな?」
「堂野君……。ありがと。でもね、仕事の話、本当なの……」
遥の心臓がドキッと跳ねる。自分の勝手な判断で本田邸にまで連れて帰ってきてしまったことに自責の念が押し寄せる。
今からMスタジオにもどるとなると、かなり時間のロスになる。間に合わないかもしれない。
しぐれはシートベルトをはずしながら、青白い顔のまま口元だけ微かに笑みを浮かべた。
「ふふふ。驚かせてごめんなさい。でもね、今日は仕事に行かない」
「いいんですか? 本当に?」
遥は、しぐれの真意を測りかねるように尋ねる。
「あたしね、今まで優等生だったの。それはもう、お利口すぎるくらい。一度くらいこうやって反抗してみたかった。ね……? 今日くらいいいでしょ? 行かなくったって神様も許してくれるわよね? あたし……あたし……」
次の瞬間、遥はしぐれを抱きしめていた。
こんなにも細くて、儚くて……。誰にもすがることなく、涙を流す方法すら忘れてしまって、ただ身体を振るわせるだけのしぐれを、黙ってこのまま放っておけるわけがなかった。
「しぐれさん……。こんな時はね、泣いてもいいんですよ。声をあげて泣いてもいいんです。男の俺でも泣きたいくらいなのに、あなたが我慢する必要はないですから……」
遥はしぐれの背中を優しく撫でてより一層力を込めて抱き締めた。
すると、それまで遥の顔の横にあったしぐれの頭が徐々に下がっていき、胸のところまで降りてくると、彼のジャケットを握り締めたしぐれが低くうめき声を上げた。
いつしか日が沈んであたりに夕闇が迫る。
本田邸の駐車場前にある大きな楡の木の下の車の中で、しぐれはようやく心のままに声をあげて泣き始めたのだ。
遥はしぐれを胸に抱きながら、泣きじゃくる柊をあやすように抱きしめた高校生になったばかりの若い日の遠い記憶を、不思議なくらい鮮明に思い出していた。
同級生になじられて、怯えるようにして泣いていた柊がどれほど愛おしかったか。
この手もこの目も、そして遥の身体中の細胞のひとつひとつが、彼女を形作る全てを克明に憶えていたのだ。
その時、思わず奪いそうになった濡れるような柊の真っ赤な唇も……。
でも、今遥の腕の中にいるのは柊ではない。
遥は何度も何度も自分に言い聞かせた。ただしぐれを慰めるためだけに抱きしめているのだと……。
そして、泣き疲れたのか、とろんとした目で遥を見上げたしぐれと視線を絡めた直後、もう気づいた時には、どちらともなく唇を重ね合せていた。
遥の心の中にいまだ棲みつく柊の存在をかき消すかのように、それは次第に激しさを増していくのだった。
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