14.驚愕の事実 ─遥─
研究室をいつもより早めに出た遥は、車で本田邸に向っていた。最後に行ったのは三回生の時だったはずだ。ざっと三年ぶりということになるのだろうか。
先輩である本田雄太郎は大学卒業後、若者に絶大な人気を誇るメジャーな劇団に所属し、現在公演中の時代劇風レビューの舞台で準主役を演じるほどの役者に成長していた。今夜も公演があるので、本田は家にはいないだろう。
遥は祖父の和菓子屋の支店に寄り、季節の菓子をいくつか見繕って手土産にした。
本田邸の荘厳な門をくぐると、昔作りの洋館内にある天井の高いリビングで、しぐれが普段着姿で遥を迎えた。
気のせいか、少しやせた感じのするしぐれが、今しがた取り繕ったような笑顔を貼り付けて遥を室内に招き入れた。
「堂野君、急に呼び出したりしてごめんなさい。小百合ちゃんは今ちょっと出かけてるの……。今夜はどうしてもあなたに聞いて欲しいことがあって」
「奴のこと?」
遥は大きくため息をつくと、さも面倒臭そうに奴呼ばわりをする。たとえ大河内大輔が目の前のしぐれの彼氏であるとしても、容赦はしない。
しぐれには申し訳ないと思いながらも、いまだに大河内には素直に向き合えないのだ。
「相変わらずね、堂野君。でもまあ、あなたの考えてる通りかも。そうよ……大輔のことよ」
首をすくめておどけているフリをしていても、寂しそうな目だけはごまかしようがない。
「それで?」
遥は腕を組みなおしてしぐれに尋ねる。
「彼のこと相談できるのあなたしかいないもの。あなたとあたしの関係は、幸い、いつの間にか自然消滅ってことになってるけど、だからと言って大輔とのことを公にする気はないし……。もしそうなったらまたあなたに迷惑かけちゃいそうだしね」
遥は、なんで? と言うように不思議そうにしぐれを伺い見た。
「ふふ……。そんな顔しないでよ。だって、あなたと大輔は同級生でしょ? 幼馴染同士で彼女を……つまりあたしを取り合ったとか、心無い誹謗中傷が巻き起こらないとも限らないわ」
もうモデルの仕事も引退しているのだ。自分のことなど今更話題になるわけがないと高をくくっていた遥だったが、しぐれの言うことにも一理あると、ふと柊の顔を思い浮かべながら考えを巡らす。
もし大河内としぐれの関係が表面化することがあれば、遥と大河内を底辺とする三角形の頂点にはしぐれだけでなく柊も同じように存在するということにマスコミが気付くのではないかと懸念したのだ。
すでに身を引いている柊までもが中傷の対象になり得るのかと思うと、やはり心穏やかではいられない。
ここは秘密裏に大河内と付き合いを続けているしぐれの力にならざるを得ないと判断した遥は、しぶしぶ勧められたソファに腰を下ろした。
「で、なんの相談でしょうか? 言っときますけど、俺、恋愛経験なんて全くと言っていいほど何もありませんから、役に立ちませんよ……」
遥はイタリア製のたっぷりしたソファに大仰に身を沈めながら顎に手を掛け、そう言ってしぐれに前置きをした。
「よく言うわ。かつては同棲までしてた人が言う台詞とはとても思えないわね」
「しぐれさん……。それっていつの話ですか? 俺のことはどうでもいいですから、早く本題に入ってくださいよ」
柊のことは別れてから一年くらいたった頃に本田を通してしぐれにそれとなく伝えられていた。
そして遥がまだ充分に柊を思っていることにも、しぐれは気付いていたのだ。
「雄太郎が責任感じてるって言ってたわよ、あなたと柊さんのこと……。まさかここまで根が深いとは思って無かったって。すぐに元の鞘に収まるって信じてたみたい」
「いい加減にしてくださいよ。そんな話するなら、俺、もう帰りますよ」
そう言って、腰を上げかけた遥の肩を押さえつけるようにして、しぐれが引き止める。
「ご、ごめんなさい。調子に乗りすぎちゃったわね。お願いだから帰るなんて言わないで……」
なかなか腹を割ってこないしぐれに、遥は何か危うい空気を感じ取っていた。まさか、大河内としぐれが別れるとでもいうのだろうかと。
それは遥にとって一番恐れていることでもある。
大河内は大学を出た後、すぐに商社に就職した。それもあろうことかTY商社に。柊がロサンゼルスで世話になっている規子の夫が勤める会社だ。
規子は柊の母親の従姉妹で、彼女の夫である真木裕樹は遥の母親の親戚筋でもある。遥にとっても全くの他人の家ではない。
大河内がすべてを知った上でTY商社に勤めているだろうことはおおよその見当がつく。
つまり、なんらかの形で、この先大河内が柊と接点を持つ可能性があるということだ。
もししぐれと大河内がうまくいってないとすれば……。
大河内が、柊への思いを再燃させることもあり得る。
だが、まだしぐれからそうと知らされたわけではない。遥は祈るような気持ちでしぐれの言葉をじっと待った。
どれくらい沈黙が続いたのだろう。
さっきまでの勢いは瞬く間になりを潜め、しぐれは唇をかみ締めて何度も膝の前で組んだ指をもどかしそうに動かしながら、あたりに視線を泳がせていた。
そして意を決したように口を開いた。
「……別れようって。大輔に別れようって言われたの」
「ええ?」
「この秋、あたしの仕事が忙しかったのは認めるわ。でも、それはお互い様だったはず。大輔だって、やれ研修だ出張だって、東京にいないことが多かったんだもの……」
「すれ違い?」
形こそ違うが、遥は自分と柊もそうやって自由に会えないことがそもそもの別れの原因であったと、苦々しく思い起こしていたのだ。
「あたしたちね、あなたが思っているほど付き合いが長いわけじゃないの。堂野君に大輔を紹介してもらったあと、しばらくはただの友達関係だったのよ。同世代の女の子だと、そんなプラトニックな付き合いをしてる人も多いのかもしれないけど、あたしには結構新鮮だった。あなたも少しはこの世界を知ってるからわかるだろうけど、純粋に一緒にいるのが楽しくて会話だけで繋がっていられる男女関係って、今までに経験したこと無かった。男性との付き合いといえば、まず身体の関係ありきって感じだったもの……」
しぐれの口から語られる内容は、遥にとってかなり刺激的なものではあったのは確かだが、変にお茶を濁されるより、わかりやすくていいのかもしれないと思い直してみる。
しぐれの言わんとすることがストレートに遥の心に響いてくる。
だからといって皆がそうであるわけではないのだが、遥自身、女性モデルから誘惑されかかったことが幾度かあったのも紛れもない事実なのだ。
ところが当時、しぐれと付き合っているという触れ込みが効を奏したのか、しつこく迫られることはなく、あっさりと退散してくれたのは不幸中の幸いだったのかもしれない。
「あのね。昔、噂されてたこと、ホントなの。三十七歳の若手プロデューサーとの不倫ってアレ。別に彼に無理強いされたわけじゃないんだけど、あたしの中で、仕事と恋愛がごちゃまぜになっちゃって、それに……。雄太郎があたしから離れていくのが辛くて、現実から目を背けていたのね。それと、堂野君。あなたも異質だったわよ」
「えっ?」
突然自分に話題がふられると、とたんに遥は無意識であっても身構えてしまう。
「何もそんなに睨まなくても……。堂野君と偽りの恋人同士になった時、あたし覚悟してたのよ。あくまでも気持ちの上では偽りの恋人であっても、あなたに求められれば応じる気でいたの。男ってそんなものだと思っていたから。でもあなたってホントに真面目なんだもの。これっぽっちもそんな態度は見せないし、柊さんに一途って感じで、それは見事なまでの紳士っぷりだったわ。そしたらどう? 大輔も同じなんだもの。あなたたち外見は全く違うけど中身はよく似てるのよ。気付いてた?」
大河内の話題になると急にいきいきと瞳を輝かせ、よどみなく話し始めるしぐれに遥は戸惑いを隠せない。
それにしても、なんで大河内と自分が似てるんだ? と到底納得できない遥は、その点に関してだけはとてもじゃないが譲歩出来る状況ではなかった。
「もう、堂野君ったら、ちゃんと聞いてる? それでね、もう好きで好きでたまらなくなったあたしが、大輔が大学を卒業した時に告白したの。付き合って欲しいって。彼、最初はかなりとまどってたみたいだけど、女性に恥をかかせられないとか、いろいろわけのわからないこと言いながら結局返事をくれて、付き合い始めたってわけ」
その後も延々二人のエピソードを聞かされた遥だったが、しぐれの空元気もついにここまでだったのだろう。
大きく深呼吸をしたしぐれの口から驚愕の一言が発せられたのはその直後だった。
「大輔ね、アメリカに行ったの。大抜擢されて期間限定のロス支店勤務の辞令がおりて……」
「ロスだって? それ、本当なのか?」
遥は自分でもコントロール出来ないくらい心臓が高鳴り始めるのがわかった。走っているわけでもないのに、肩で大きく息をついてしまう。
「そうよ。本当よ。……あたしだって何も知らないわけじゃないわ。柊さんもいるのよね? ロスに……」
目に見えない運命の歯車が全く意図しない別の方向に回り始めたのを、遥は今確かに感じ取っていた。
まるで足元の床が突然抜け落ちて谷底に吸い込まれていくような映画のアクションシーンさながらの衝撃を、全身で受け止めていたのだ。
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