13.会いたい ─遥─
どこかなつかしいような甘い香りが徐々に遥の心を満たし、目の前の白い首筋にゆっくりと唇を這わす。
壊れてしまわないように、そっと。触れるかどうかのぎりぎりのところで。
そして、鎖骨のくぼみに辿りついた時、彼女はぴくりと身体を小さくよじる。ああ、とため息にも似た声を遠慮がちに発しながら。
耳のすぐ後ろからこめかみまでを撫でるように口付けると、潤んだ瞳を湛えた彼女を見つめながらささやくのだ。
愛している……と。
その瞬間、恥ずかしそうに頬を赤らめこぼれるような笑みを漏らした彼女に誘われるように唇を重ねる。
ぬれぼそった彼女の唇は幾分熱を持ち、時折漏れる吐息はどこまでも甘い。
はじめは優しかった手の動きも次第に激しさを増し、遥はついに自分自身を抑えきれなくなっていく。
ところが……。
今腕の中にいたはずの彼女が、突如姿を消すのだ。
その後は決まってあの場面に変り、全身の力をふりしぼって声をあげる。
「──ひいらぎっ!」と。
叫び声にも似た悲痛なまでの呼びかけに振り向いたその女性は、怪訝そうに首をかしげ、自分には関係ない叫び声だと気付くと、再び元どおりに歩みを進める。
振り向いた人は遥の知らない人。柊とは似ても似つかぬ、全くの別人なのだ。
遥はそうやって柊の名を何度も叫びながらようやく目を覚ます。
あの日。柊がシカゴに行ってしまった日から、毎日のように見る夢……。
空港で力の限り叫んだ柊という名に振り向いたのは、見ず知らずの女性だった。
あの時、遥も気付いていたのだ。たとえ後姿であったとしても、心から愛した女を、そう簡単に見間違うことなどあるはずがないのだと。
よく見れば髪の長さも色も、手の仕草さえ柊のそれとは全く違うというのに。
それでも彼女の名を呼ばずにいられなかった遥の心は、これ以上柊への想いを偽り続けることに、悲鳴を上げていたのかもしれない。
その日以降遥は、今までに感じたことのない激しい絶望感にたびたび襲われていた。
二人の思い出のアパートからも、生まれ育ったあの村からも。そして日本中のどこの地からも、柊はいなくなってしまったのだ……と。
いったい何のために生きているのか……。彼女のいない人生など、どんな意味があるというのかと自問自答を繰り返す日々。
ものごころ付いた時からいつも近くにいて、誰よりも負けず嫌いのくせに努力は大嫌いという、救いようのない性格だった柊が、どういうわけか愛しくて、どうしようもなく可愛くて……。
遥は小学校の高学年の頃にはすでにそれが愛であると気付いていたのだ。
はるか、はるか、と常につきまとわれて、口ではうざいと言いながらも内心嬉しかった子供の頃。
いつのまにか遥の知らないところで、別の男に興味を抱き始めた彼女に、言いようのない嫉妬心を抱き、悶々とした日々を送った中学時代。
まさしく遥にとっては最大の暗黒の時代だったと言えるあの青春のひとコマ。
それでも今の状況に比べればずっとましだった。
そこには、何が何でも柊を振り向かせてみせる、絶対誰にも彼女を渡さない、という確固たる意志が存在していて、ある意味、今よりもがむしゃらで必死に生きていたという自信があるから。
遥、すごいよ! の一言が欲しいあまり、嫌いだった勉強も苦手だった団体競技も、柊のためなら何だって頑張れたのだ。
清水の舞台から飛び降りる覚悟で、プロポーズした十五の秋。
死ぬ気で結婚を申し込んだにもかかわらず、いつもと変らぬかわいい顔で、うんと返事をしてくれた彼女に肩透かしを食った遥だったが、あまりの嬉しさとどうしようもない気恥ずかしさから、返事をもらった後は抱きしめてキスをすると前々から決めていたシナリオを実行できず、その日の夜、悔しさのあまり妹に八つ当たりしたことをふと思い出す。
春休みになればまた彼女は日本にもどってくる……。いや、遅くとも夏休みには絶対帰って来るだろうと思っていたことなど、遥は今になってみればその見通しの甘さに、自分を殴りたくなるほどの衝動に駆られているのだ。
その頃になれば柊も頑なな態度を改めて歩み寄ってくるかもしれない。その日まで、待とう。そうだ、きっと大丈夫……などと何を根拠にそんな風に都合よく考えていたというのか?
その年の夏が来る前に、柊は彼女の母親の従姉妹がいるロサンゼルスに居を移して、はや三年以上になろうとしている。
遥はその間、結局一度も柊と会うことはなかったのだ。
遥の母親は、それがどういうつもりなのかはわからないが、柊が一時帰国するたびに遥に連絡を入れてきた。
初めのうちは、暗に柊と会えと言われているような気がして、遥はわざと避けるようにして実家には近付かなかった。
本当は会いたくて会いたくてたまらないのに、まだ彼の心のどこかに変な意地が残っていて踏みとどまらせるのだ。
ところが遥はその後も何度か連絡をくれる母親に、どうもその逆ではないかと疑い始める。
柊が会いたくないと言っているので、自分を近づけないために母親が連絡をしてくるのだと。
もしそれが本当だとしたら。つまり柊がもうすでに遥のことはとっくに忘れ去っているとしたら……。
会うこと事態、何の意味も成さなくなる。
もし偶然にどこかで会うことがあっても、ただの親戚同士として、あいさつ程度の必要最小限の会話をし、他人のように振舞えと?
彼女がそれを望んでいるとしても、遥には到底出来ない相談だ。
遥は昨年大学院に進学し、今ではモデルの仕事もキッパリ辞めて研究論文の作成に余念がない。
教授には、まだ大学に残って研究を続けないかとも誘われたが、内定をもらった都内の放送局への就職のキップは、とてもじゃないが手放せそうになかった。
ようやく叶った夢を彼女に一番に報告したかった。
遥がどれほどの思いを抱いてこの仕事にあこがれていたのかを知るのは、他ならぬ柊だけだったのだから。
すでにそのことが耳に入っているだろう彼女からは、もちろん何も連絡はない。
それが全てを物語っているというのだろうか……。
大学の研究室の窓から、色付いた桜の葉を眺めながら柊への思いを馳せている時、マナーモードにしている携帯がブルルと震えた。
遥は相手の名前を確認すると携帯を開き、耳に当てた。
「もしもし……久しぶりです。お元気でしたか?」
『ええ。まあね。なんか他人行儀だわねえ』
「そりゃあそうですよ。もう、そっちの世界とはすっかり疎遠になってますから」
『堂野君。今夜会えない? あなたの就職のお祝いも兼ねて』
「でも、まだ内定の段階ですよ」
『そんなの決まったも同然じゃない。……ってのは口実。本当はあなたに会いたいの。どうしても……会いたいの。お願い……』
なつかしいその声の主は次第に言葉を詰まらせ、泣いているのがわかった。
「しぐれさん……。何があったんですか? もしもし、しぐれさん?」
遥の呼びかけにも応えることは無く、そのまま電話は切れてしまった。
しばらくして届いたしぐれのメールには本田邸に来て欲しいとそれだけが記されていた。
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